【幕末から学ぶ現在(いま)】(74)東大教授・山内昌之 志賀重昂 (1/4ページ)
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アラブの王様に会った武士
9日からアラビア半島の東南にあるオマーンに滞在中である。ホルムズ海峡を挟んでイランと向かい合っているアラブの国にほかならない。カーブース・イブン・サイードをスルターン(君侯(くんこう))とするイバード派(イスラームでいちばん早く成立した分派)の国であるが、人材開発を軸に近代化を短期のうちに達成したことで知られる。
また、香水と花を愛する治安のよい平和国家でもある。2010年の世界平和度指数では、149カ国中オマーンは23位であり、中東・アジアでは日本の3位、カタールの15位、マレーシアの22位に次ぐ。世界最高級の香水「アムアージュ」や乳香(にゅうこう)はもとより、山々に咲く多彩なバラでローズウオーターも作られていることは、旅行案内にも詳しい。
この国を最初に訪れた日本人は17世紀初頭、ローマで司祭になりながら日本に戻り殉教者となったペトロ岐部(きべ)との説もある。明治13(1880)年には伊東祐享(すけゆき)海軍中佐らも訪問したというが、一番有名なのは、志賀重昂である。徳川譜代の岡崎藩の出身だったために、官に志を得なかった志賀は札幌農学校を卒業後、英露関係の緊張激化を見て対馬の重要性を指摘、南太平洋への探検によって『南洋時事』を著し一躍地理学者として名をあげた。さらに、『日本風景論』で地理評論家、雑誌『日本人』で日本精神を鼓舞し経世家としての地位を確立した。
◆堂々とオマーン王宮へ
彼は大正12(1923)年12月にインド、イラン、イラク、アラビア半島、パレスチナ、欧米などに向かった際に、13年2月にオマーンに入った。わざわざ熱暑の中東各地に踏み入った彼の事績は『志賀重昂全集』に所収された「知られざる国々」から知ることができる。現オマーン大使の森元誠二氏が大使館ホームページに載せた好エッセーもこの記事に依拠しているようだ。
志賀によれば、当時の人口は50万人、首都マスカットは奇観(きかん)たる断崖(だんがい)を隔てた土地を合わせても2万人ほどで、輸出品はナツメヤシの実、干し魚、フカひれ、塩、ザクロ、レモンにすぎなかった。今なら日本で冬場のスーパーに並ぶオマーン産の「いんげんまめ」も逸してはならない。いずれにせよ、産油国として活況を呈する今日とは隔世の感がある。
1人当たりのGDPは2008年時に約1万9千ドルである。日本の約3万8千ドルや韓国の約1万9千ドルと比べると同国の豊かさがうかがえる。しかし志賀の時代には、銅貨以外に金銀貨はなく、英領インドの銀貨や白銅貨が流通していただけだ。インドの紙幣も割引せずに受け取ってくれたと志賀は語るが、ここにオマーンとインドとの経済的紐帯(ちゅうたい)が見られるという森元大使の指摘は正しいのである。
幕末維新から明治を生き抜いた志賀の豪胆さは、海岸沿いの王宮を不意に訪れスルターンへの拝謁(はいえつ)を申し入れたことだ。寸毫(すんごう)も卑屈な点がないのは、武士のリアリズムや誇りがあったからである。志賀が「セイード・チムル・ビン・ファイサル」と呼んでいるスルターンは、サイード・タイムール・イブン・ファイサルのことだろう。不惑がらみの絵画の諸葛孔明のような「好丈夫」であり、頭上より「純白雪の如(ごと)きカシゥミル絹」をまとい、素足のまま悠然と西洋輸入のソファに腰かけていたと描写する。この印象的光景は森元大使も引用しているところだ。
スルターンは志賀に向かって、日本がこの地で商売や産業を振興させ、相互の親睦(しんぼく)を図ればアラブの復興にもつながり、たがいに利益をあげられると懇篤(こんとく)に説いた。「何故に日本人は疾(と)くアラビスタンに来らざるや」と。
◆虚心坦懐に話し合う
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