2010年9月23日木曜日

055 中山中左衛門


【幕末から学ぶ現在(いま)】(55)東大教授・山内昌之 中山中左衛門 (1/3ページ)

2010.3.25 07:30
幕末の寺田屋幕末の寺田屋
 ■主君の意を忖度する
 民主党の生方(うぶかた)幸夫副幹事長の更迭問題が話題になっている。小沢一郎幹事長の辞任要求の責任をとらされそうになったのは、幹事長周辺が小沢氏の心情を「忖度(そんたく)」したからだという説も根強い。立場が違えば、善意の配慮とも評価されるし、反対にゆきすぎた追従(ついしょう)と批判することも簡単だ。
 歴史には古来、「君側(くんそく)の奸(かん)」とか「佞臣(ねいしん)」とか「姦佞(かんねい)」といった人びとが出没する。対立する当人同士はさほどでなくても、別の人物が悪意をもてば、2人の関係はますますこじれるだけでなく、決別にまで至ることも珍しくない。
 ◆久光と西郷関係悪化誘因
 幕末でいえば、島津久光西郷隆盛との関係に複雑なねじれをもちこんだ中山中左衛門こと尚之介の例が思いだされる。中山は、小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵(利通)や堀次郎と並んで「久光四天王」ともいうべき側近中の側近である。島津斉彬(なりあきら)の死後、藩主となった茂久(忠義)の実父として国権を掌握した久光は、下級藩士中心の勤王派の志士集団たる誠忠組から忠誠を取り付けた。
 これにも中山は功労があり、小納戸頭取に就いた中山は、側役の小松と並んで藩政に参与できる身分となった。中山は、小納戸に抜擢(ばってき)された大久保の願いをいれて奄美大島から西郷を呼び戻すことを久光に説いた。
 しかし、人間にはウマの合う関係とそうでない関係がある。釈放された西郷は、文久2(1862)年2月に中山と会うなり、久光の率兵入京策に異論を唱えた。策を説明した中山に、大綱が杜撰(ずさん)かつ疎漏(そろう)にすぎるとにべもなく斥(しりぞ)けたのだ。
 久光は、朝廷から勅を受け、薩摩藩の兵力を背景にし、幕府に改革を迫るという斉彬の計画を継承しようとしたのだ。西郷によれは、この壮大な計画は英邁(えいまい)な斉彬だからこそ成就できるのであり、久光には到底無理だと断定したのである。
 この時に西郷から発せられた有名な言葉こそ、「地五郎」という表現なのである。殿は田舎者だから雄大な戦略は実行できないというのだ。これは事前に中山らと西郷が会ったときに述べたという説もある。いずれにしても、自分の周旋で流刑地から帰れたのに感謝もせず、恩人を「地五郎」と断じたのでは、中山の面目も丸つぶれだったに違いない。心中に憎悪さえ宿ったはずだ。
 中山は爾来(じらい)ことあるごとに、久光に西郷の挙動をそしるようになったらしい。この時期の中山は小松さえ凌(しの)ぐ藩の実力者に成長していたので、傲慢(ごうまん)さが外に滲(にじ)み出る有様に反感を抱く者も少なくなかった。西郷もある手紙で、「中山と申すもの我意強く、只無暗(むやみ)のものに御座候」と述べているから、本当に嫌い抜いたのだろう。
 西郷は、久光の上洛に先行して下関で待つように沙汰(さた)を受けたのに、命を無視して上方に先発した。これが久光の逆鱗に触れ、中山の意見を徴した結果、再び遠島処分とされた。
 これを機に久光と西郷の関係は決定的に悪化するが、その誘因となったのは主君の西郷嫌いを知りぬいた中山の謗(そし)りである。薩摩藩士が斬り合う寺田屋事件は西郷失脚直後に起きた。志士たちは中山を「姦物(かんぶつ)」呼ばわりしたが、これは久光を直接に非難できないからである。
 ◆維新後の晩年は悲惨
 それでも中山は久光に忠義一途(いちず)であり、琉球通宝の鋳造など経済政策にも貢献し、薩英戦争の戦略指導にあたった。しかし、西郷の遠島処分は中山が久光に讒言(ざんげん)したからだという声が高まり、免職にされた。維新後に久光の側近に返り咲いた中山の晩年は悲惨である。彼は、明治9(1876)年に大久保利通らの暗殺を企てた激徒に連座し、懲役10年の刑を科された。その2年後に獄中で国事犯として死ぬとは思いもよらなかっただろう。小松を凌(しの)ぐ実権を誇り大久保の盟友だった重臣がここまで没落するとは言葉を失う。
 小松のさわやかさ、大久保の冷静緻密(ちみつ)さ、いずれも欠いた中山を讒言や姦佞の資質だけで語るのは酷であろう。中山には、維新後、不遇で寂しい久光への忠誠心では際立っていたからだ。現代でも権勢を極めている政治家に近づく者は多い。
 しかし、その人が栄職から離れても同志や側近として寄り添うなら、それは姦佞やおべっかということにはならない。まさに棺を蓋(おお)いて事定まるというのは、現代の政治家にもあてはまるのかもしれない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】中山中左衛門
 なかやま・ちゅうざえもん 天保4(1833)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。島津久光の信任を得て、薩摩藩有志派のリーダーシップを握った。久光が国事周旋の決意をして以後、大久保利通とともに手足となる。首席家老、喜入(きいれ)摂津のもと、小松帯刀とともに島津家近衛家の間を奔走した。文久2年、久光の上京に随行し、諸卿の間を周旋。その後、側役を務めたが、久光勢力の退潮とともにその存在も薄れた。明治11(1878)年、46歳で死去。

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