2010年9月23日木曜日

076 椋梨藤太

【幕末から学ぶ現在】(76)東大教授・山内昌之 椋梨藤太
2010.8.26 08:05
 ■政治の正義派と俗論派
 政治とは面白いものだ。小沢一郎氏と鳩山由紀夫氏は「政治とカネ」にまつわる疑惑でひとまず辞職したが、参院選挙後いくばくもなくして軽井沢に集まり気勢を上げた。民主党内では小沢氏を代表選挙に担ぎ出そうとする動きが高まる一方だというのだ。検察審査会に審議が付託された政治家を首相にする構図に、疑問を感じない一部民主党議員も相当に神経がずぶといのではないか。
 他方、国民世論は圧倒的に小沢氏の再登場に反対している。もし小沢氏が選挙に出るなら、菅直人首相や仙谷由人官房長官らの現体制執行部は、世論をバックに徹底抗戦を辞さないだろう。権力を握る側がむざむざと敵に城を明け渡す法は滅多(めった)にない。民主党内の権力闘争は相当に熾烈(しれつ)になるはずだ。さしずめ仙谷氏や閣僚の多数派らは、高杉晋作の命名法を借りて、自らを「正義派」、小沢氏支持者らを「俗論派」とでも定義したい気分であろう。
 ◆処分後に復帰、政敵粛清
 幕府との戦争という長州藩存亡の危機に際して、実際に政務座(藩庁)の権力を握ったのは高杉に俗論派と名付けられた椋梨藤太である。藤太は、鎌倉時代に家系が遡(さかのぼ)り小早川隆景(たかかげ)にも仕えた名家の出身であり、長井雅楽(うた)や中川宇右衛門(うえもん)らの流れを汲(く)む保守派の逸材として右筆(ゆうひつ)(政務役)を務めた。文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われた長州藩の失地回復を目指し俗論派を糾合したが、正義派の反発に遭(あ)って隠居処分を受けた。しかし幕府軍が長州国境に迫ると、政務役に復帰して禁門の変に関与した政敵を粛清したのである。
 もともと長州藩には村田清風(せいふう)に始まる改革急進派のラインと長井雅楽につながる保守穏健派の流れの対立抗争があった。藤太も周布政之助(すふ・まさのすけ)を終生のライバルとして争い、しまいには彼を自刃に追い込んだ。右筆となった藤太は、黒船来航の嘉永6(1853)年に罷免され、周布が政務役筆頭となる。翌年に吉田松陰の密航が未遂に終わり野山獄に収監されると、安政2(1855)年に周布は政務役を免ぜられ、代わって藤太が右筆に再任された。安政5(1858)年には周布が再び政務役に就くなど、長州藩の政権交代はめまぐるしい。それでも血の粛清はなかった。藤太に言わせるなら、粛清をもちこんだ責任は正義派にあるのだ。実際に、「航海遠略策」を唱えた長井雅楽や佐幕派の坪井九右衛門(くえもん)らは文久3年の馬関(ばかん)戦争の前後に処刑され、藤太も失脚の憂き目を見るからだ。
 しかし藤太らのカムバックを機に、長州藩では君命の形をとった処刑が相次いだ。禁門の変から幕長戦争の責任をとって3家老が切腹、4参謀が斬首されたのは陰惨であるが、これをすべて藤太の責任に帰するのは「正義派史観」の偏向というべきだろう。もし藤太らの俗論派が指導する藩政府軍が高杉晋作の率いる諸隊に長州最大の内戦、太田絵堂の戦いで勝利していたなら、歴史は「俗論派史観」で書き換えられていた可能性も高いのである。すると、奇兵隊などは浮浪の反秩序集団にすぎず、高杉や桂小五郎なども君命に背いた不義の士として青史から抹殺されていたのは確実なのだ。
 ◆すべての責めを負い斬首
 正義派との戦いに敗れた藤太は、桂小五郎の帰国によって藩論が再び倒幕に統一された結果、政治生命を失った。領外に脱走した彼は、津和野藩領内で捕まり萩にて斬首された。救いは、処刑された俗論派が藤太だけだったことだ。桂たちは血の粛清を繰り返せば水戸藩のようなアナーキーに陥ることを直感したのかもしれない。それにもまして、藤太がすべての責めを自分が負うと潔く罪をかぶったことも大きい。いずれにせよ、勝者の歴史観は、過去の事実を作り替え、史実を伝説や神話に化けさせる歪(ゆが)みをもつ。この危険性は幕末史の幕府や会津藩の役割を不当に否定する薩長史観に限るものではない。
 民主党の未来を大きく左右する今回の代表選に、起訴の可能性もある小沢氏が出るとすれば、それは日本の政党史で記憶される事象になるかもしれない。政治集団は自ら必ず正義と大義名分があると自讃(じさん)するものだ。しかし現代政治で「正義派」と「俗論派」を決めるのは世論である。その判定がいかに不条理に思えても、小沢氏ほどの政治家なら仮に「俗論派」のレッテルを貼(は)られても、藤太のようにすべてを肚(はら)に収めて責任だけをとる大道を歩んでほしいと願う有権者も多いのではないか。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】椋梨藤太
 むくなし・とうた 文化2(1805)年、長門(ながと)国(山口県)の萩生まれ。長州藩で、要職ともいうべき政務役の右筆を務めた。失脚、復権…を繰り返し、藩の内戦に敗れて脱走。慶応元(1865)年、萩の野山獄で処刑された。

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