【幕末から学ぶ現在(いま)】(72)東大教授・山内昌之 天璋院 (1/3ページ)
御台所の自己改革
幕末維新のような変革期は、古めかしくなった政治や経済だけでなく、人間と慣習のあり方まで抜本的に変えてしまう。ことに、「内室」とか「奥方」と呼ばれ、「奥」に閉居させられ「表」の社会や政治から隔離されていた武家方の女性は、身分が高いほど変革の荒波にもまれることになった。
それでも、彼女たちが自分なりの努力と才覚で新時代の生活に適応することを迫られたのは、まさに時の勢いというものであった。平成20年のNHK大河ドラマ「篤姫」で宮崎あおいさんの演じた天璋院も、時代の試練に立ち向かった健気(けなげ)な女性と言えなくもない。
◆下情に通じ鋭い観察力
天璋院は、薩摩藩島津家の一門に生まれた後に本家島津斉彬(なりあきら)の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所(みだいどころ)となった。篤姫が夫家定の死後落飾(らくしょく)して天璋院と名乗ったのである。
もともと島津の分家で育った分だけ下情(かじょう)に通じており、聡明(そうめい)でもあったから“女はとても何も分かりやしない”といって侮蔑(ぶべつ)する徳川慶喜(よしのぶ)を嫌ったらしい。勝海舟は、「天璋院は、仕舞迄(しまいまで)、慶喜が嫌いサ」と語り、「ウソ斗(ばか)り言つて、善いかげんに言つてあるから、少しも信じやしないのサ」と天璋院の鋭い観察力を褒めている(巌本善治編『増補海舟座談』岩波文庫)。
幕府が瓦解しても薩摩に戻らず、江戸改め東京の千駄ケ谷に邸宅を構え「徳川の女」として人生をまっとうした芯の強さは、万事につけて娘の溶姫とその嫁ぎ先加賀前田家に寄生した、第11代将軍家斉(いえなり)の愛妾(あいしょう)専行院(美代)とは違うところだ。勝海舟は、八百善(やおぜん)や向島(むこうじま)の柳屋といった料亭などに何度も連れ出しただけでなく、色町の吉原や芸者屋にも「私の姉」と称して案内したのだ。
◆助言や示唆に素直に従う
「女だから、立小便も出来ないから、所々に知つて知らぬふりをしてくれる家が無いと困るからノ」と下品な調子で勝は述べているが、天璋院の偉いのは「段々と自分で考へて、アーコーと直きに自分で改革さしたよ」という勝の助言や示唆に素直に従ったあたりであろう。
ある船宿で便所を借りて出ると、火鉢に鉄瓶が掛かって湯が沸いておりお茶を一つといって出されると、大層うまいと言って「之はいゝものだ」といって邸宅でも鉄瓶を使うようになった。さすがに勝は「之は下司(げす)のすることです」とたしなめ、銀瓶がたくさんあるのでお使いなさいといっても、「イヤ、之が善い」といってきかなかった。
また、柳屋で風呂に入って、浴衣の単物(ひとえもの)を出すと万事に気持ちがよいといって直にこの習慣になった。それまでは大奥の習慣を受け継いで、風呂の湯を別に沸かして羽二重(はぶたえ)で体を濾(こ)すので着物もべたべたするし、浴衣のほうがいいということになった。シャツも使うと便利で手放せない。勝の家に来たときも、蝙蝠傘(こうもりがさ)を杖(つえ)がわりにして「どうも、日傘よりも好い」と屈託がないのだ。
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