【幕末から学ぶ現在】(77)東大教授・山内昌之 松平春嶽 (1/3ページ)
2010.9.2 08:00
国立国会図書館蔵
地位に追いつかぬ能力
民主党代表選をめぐる動きはすこぶる不可解だった。「政治とカネ」をめぐる問題で引責辞任した両首脳の1人が代表選出馬を表明したのも訝(いぶか)しいが、首相を辞めた政治家は次回総選挙に出るべきでないと高言した前首相が須臾(しゅゆ)のうちに変心し、調停者あるいは「正直な仲介者」を自負した姿を見ては唖然(あぜん)たらざるをえない。いかな民主党支持者であっても呆然(ぼうぜん)とすることだろう。
政治や外交の世界では主観的な善意は傍(はた)迷惑になるだけでなく、国益を大いに毀損(きそん)することを示したのが鳩山由紀夫氏ではなかったのか。この教訓を学ばない民主党の議員たちは、まさか政治的不感症(アパシー)に陥っているわけでもあるまい。民主党代表選をめぐる混沌(こんとん)のなかで、氏の感性や振る舞いにうんざりした市民有権者の間に、政治への不信感や絶望が瀰漫(びまん)しないように願うのみである。
◆欠点は世論に媚びる傾向
ピーターの法則というのがある。藩主や議員くらいであれば何とか務まる人物でも、分不相応に老中や大臣になると馬脚を現し挫折や破局に導かれるように、能力の限界を超える場合に使われる術語だ。幕末でいえば、ピーターの法則にあてはまる代表例は、松平春嶽(しゅんがく)であろう。
『幕末政治家』を書いた福地桜痴(ふくち・おうち)は春嶽を指して、藩主であれば「良主」か「英主」かもしれないが、一国を動かす政治家としては格別に称賛できる価値を見いだせないと言い切っている。春嶽の欠点は、あまりにも世論に媚(こ)びる傾向があったことだ。老中として外交上の功績の高かった安藤信正を罰して封を削減したのは、井伊直弼(なおすけ)の息がかかった者たちを処分して大向こうを唸(うな)らせたかったからだ。
また春嶽は、徳島藩主の蜂須賀斉裕(はちすか・なりひろ)を陸軍総裁、佐賀藩の鍋島閑叟(なべしま・かんそう)を将軍文武修業の相談役に当てるなど意外な人事を試みたが、いずれも人気取りで、実なく泡のように消えてしまった。「畢竟(ひっきょう)世間の風潮に漂えるまでの処置にて、一としてその実に適せるものを見ざるなり」という旧幕臣の桜痴の言は、テレビ受けばかりを狙ういまの政治家にも戒めとなるだろう。
春嶽のもう一つの欠点は、優柔不断であり政敵との正面対決を嫌ったことである。生麦事件が起きたとき、島津家に下手人を出させ武士の名誉をもって処分すればよかったのに、薩摩藩を恐れたせいか島津久光の行列を譴責(けんせき)もせずに出発させた。これは政事総裁職だった春嶽の責任である。この傍観こそ幕威を下げ、薩英戦争を引き起こす原因となり、賠償金支払いという重い負担を徳川幕府に強いたのである。
幕府にとって最悪だったのは、春嶽が参勤交代の制を緩め、大名妻子の帰国を許した点である。幕府の力が強い時ならいざしらず、その命脈が弱まっているのに、むざむざと反幕諸侯の機嫌をとる政策を英断とはいわない。この措置は、もともと外国の脅威に対する国防強化の見地から判断されたが、外様大名を中心にますます幕威を軽んじる風潮をつくった点で春嶽の責任は軽くない。
◆貴種ゆえの臆病さ
そのうえ春嶽にも、徳川慶喜(よしのぶ)のように、他人に大きな仕事を委ねながら不利と見るや一目散に逃げる貴種の臆病さもあった。会津藩主、松平容保(かたもり)に京都守護職の重責を負わせながら、最後には彼を見捨ててしまう。一越前藩主なら大目に見られる振る舞いでも、幕府の中心や朝廷の周辺で活躍する政治家として許されない所業もある。
桜痴も語るように、春嶽の改革は所詮(しょせん)、「幕府の実権実力なきを天下に示したるに終(おわ)りたり」という成果しかなかったのではないか。それにしても、幕末の徳川宗家はまことに不幸なことに、一門一族の力で滅亡への道を加速させられたといえなくもない。ことに徳川斉昭(なりあき)・慶喜父子とともに、松平春嶽もその責めの一端を負わなくてはならない。
それでも春嶽に幸いだったのは、橋本左内(さない)や横井小楠(しょうなん)といった謀臣がいた分、彼の改革や周旋に虚実取り混ぜ幻想も付加され、ピーターの法則も減殺されたことだ。他方、橋本や横井もおらずに“周旋”に熱を上げた鳩山氏の振る舞いは、永田町でなら格別に不思議でないのだろうか。このあたりも民主党の政治体質に興味の尽きない所以(ゆえん)なのである。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】松平春嶽
まつだいら・しゅんがく 文政11(1828)年生まれ。名は慶永(よしなが)。父は徳川三卿田安家3代、斉匡(なりまさ)。越前福井藩主、松平斉善(なりさわ)の養子となり、第16代藩主に。横井小楠、橋本左内らを登用し藩政改革を推進。安政の大獄での謹慎処分をへて政事総裁職に就任し、幕政改革にあたる。維新後、民部卿、大蔵卿などを歴任。明治23(1890)年、61歳で死去。
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