【幕末から学ぶ現在】(75)東大教授・山内昌之 武田耕雲斎 (1/3ページ)
■派閥抗争の悲劇とは
9月の代表選挙を控えて民主党の内訌(ないこう)(内輪もめ)がはなはだしい。ひたすら権力を目指した派閥間の古典的な争いだった自民党の事例とも異なり、イデオロギーや路線をめぐる理論闘争の感もあった旧社会党の派閥争いとも違う独特な対立構造が民主党にはあるようだ。
それは、自民党や社会党の議員だったベテラン政治家から市民運動や新左翼運動の活動家にいたる雑多な分子から成っているために、民主党には政治の筋や主義主張だけで結合しない“人間臭さ”や“いい加減さ”があることだ。分かりやすくいうと、あれこれの人間の好き嫌いで動く単純な面も民主党にあるのではないか。
政治には人の好き嫌いがつきものである。しかし、他人への好悪の感情が強烈なイデオロギーと結びつくと、そこには政治のリアリズムが要求する妥協の芸術を排除する結果にもなりかねない。この面での幕末最大の悲劇は、水戸藩の内訌であり天狗(てんぐ)党をめぐる人間ドラマであろう。
理想主義とテロリズム
水戸藩は貧しかったために、300石の食禄の耕雲斎でも若党(武士の従者)1人、下男1人、下女1人しか雇えず、来客があれば座卓の脚が1本折れて危ないために碁盤を入れて支えにしたという。人間は貧しいとどうしても観念的になりがちである。観念だけの世界から脱出するには、藩や志士も物心両面で豊かでないとダメなのだ。
幕末の長州や薩摩にあって水戸に無かったのは、この豊かさなのである。水戸人も俗に認めるという「水戸の3ぽい」なる特性も貧しさと無縁でないだろう。「怒りっぽい、理屈っぽい、ひがみっぽい」という個性は、どちらかといえば余裕のある金持ちには遠い個性である。
こういう“難治(なんじ)の地”で武田耕雲斎は精いっぱい努力したのではないか。主君の徳川斉昭(なりあき)が死ぬと派閥抗争の混乱の調整に当たった耕雲斎は、こと志に反して元治元(1864)年に藤田小四郎(儒学者、藤田東湖(とうこ)の四男)が起こした天狗党の乱を戒めながら、領袖に推されると断りきれなかった。
作家、島崎藤村が『夜明け前』に馬籠(まごめ)の宿(岐阜県)を通る天狗党一行を描いたように、耕雲斎は800人の士を率いて中山道を進軍した。ついに敦賀(越前国新保)で力が尽き、幕府の追討軍に屈した。その悲劇は何重にもむごいものだ。天狗党は京都の徳川慶喜を頼って進んだのに、当の慶喜は反逆者として耕雲斎らの追討の先頭に立ったのである。
徳川幕府の扱いは武士の情けと無縁の苛酷(かこく)きわまるものであり、鰊(にしん)倉に押し込められた天狗党の悲惨さは慶喜の卑劣さとともに永久に記憶されるだろう。斬首された耕雲斎は、妻と2人の子と3人の孫の斬殺とともに、処刑された天狗党352人の悲劇の象徴となった。
首級を水戸にさらされた天狗党の怨念(おんねん)は、耕雲斎の孫、金次郎に受け継がれる。維新の結果、晴れて故郷に戻った金次郎は、仇敵(きゅうてき)の諸生党(水戸の保守派)に白昼堂々と天誅(てんちゅう)や朝敵と称し復讐(ふくしゅう)を繰り返す。尊攘運動の穏健派さえ容赦せずに暗殺しまくり、藩内を恐怖状態に陥れた。もはやそこにあるのは政治の信念ではなく、一途(いちず)な復讐の精神といったテロリストの本性でしかない。
大官からの零落
天誅テロは明治2、3年になって一段落するが、血に汚れた金次郎らに新時代を担う資格があるはずもない。版籍奉還後に水戸藩の権大参事を務めながら、廃藩置県後に経済的に窮迫し、一説には伊香保温泉で晩年風呂番をしたと伝えられる零落ぶりであった。明治28(1895)年に48歳で病死したとき、その瞼(まぶた)には祖父、耕雲斎の雄姿が浮かんでいたのだろうか。それとも内訌で自壊した水戸人への愛惜と反省の念も湧(わ)いてもいたのだろうか。
いずれにせよ、深刻な対立や分裂の危機を克服してこそ、大きな政治目的が達せられる点は現代でも変わりがない。水戸藩のように分裂で人材を枯渇させた事例がすぐに当てはまらないにせよ、政権を奪取した民主党の政治家に必要なのは、大局観に立ち大同団結する懐の深さを共有することであろう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】武田耕雲斎
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。