【幕末から学ぶ現在(いま)】(59)東大教授・山内昌之 大隈重信 (1/3ページ)
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□威圧と大衆人気
鳩山内閣の特徴は、昔なら閣内不一致で総辞職しかねない局面でも、政治家の個性がぶつかる侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が外にも聞こえてくることだ。亀井静香金融相や前原誠司国土交通相だけでなく、最近では仙谷由人国家戦略担当相の発言も目立っている。
ようやく成立した予算を酷評し、財政規律論者めいた姿勢を見せたかと思えば、消費税率の見直しにも積極的な発言をするなど筋とメリハリが目立つのだ。なかでも、普天間問題と連動して鳩山首相が辞職する際には衆参同時選挙を、という発言には驚いた人も多いだろう。
仙谷氏のように、弁護士出身の大臣には、自前の論理を構築できる自信があるのかもしれない。自民党でも弁護士経験をもつ大臣には説得力に富む議論をする人が多かった。こうしたタイプの政治家は、どの時代であっても、群れずに一人で論を構えるほうが得意なのだろう。
一人で堂々と論陣張る
一人でも堂々と論陣を張った幕末明治の政治家といえば、すぐに大隈重信を思いだす。大隈は代言人や弁護士を生業にしなかったにせよ、独特の雄弁術と辺りを睥睨(へいげい)する押しの強さに、とうてい人の下に立つのを潔しとしない自信が満ちあふれていた。演説会場に行けば、口を「へ」の字に結んで、まず最初に聴衆を威圧するように睨(にら)みつけドギモを抜いてしまう。
それから、「したんである」「なんである」果ては「であるんであるのである」という弁舌を聞くと、これはファンにはたまらなく愉快な半面、政敵には鼻持ちならぬショーと映ったに違いない。
坪内逍遥は大隈の座談に晩年まで「威圧的な覇気」や「恫喝(どうかつ)的な衒気(げんき)」が抜けなかったと述べたことがある。
また、陸奥宗光も大隈が自分の「伎倆(ぎりょう)品格」を相手に認めさせようとするあまり「虚飾大言」に陥りがちだったと指摘する。
ウケた「場当たり主義」
大隈は佐賀藩300石取りの堂々たる上士身分の家に生まれながら、よく言えば融通無碍(むげ)、悪く言えば成金趣味めいた俗っぽい個性を生涯失わなかった。謡曲や能より浪花節や講談を好んだというから、相当に庶民受けもした。
民衆政治家を自任した大隈の個性は、生得の面もあったに違いないが、薩長閥から排除された佐賀人特有の一個の自分をたのむという覇気の強さや闘志の表れと無縁でなかった。
明治6(1873)年に参議兼大蔵卿となった大隈のあけっぴろげな性格は、長州の伊藤博文や井上馨も引き付けたが、近代国家の早期建設を図った大久保利通や木戸孝允の緻密(ちみつ)な術策に及ぶところでなかった。脇の甘さをつかれ、北海道開拓使官有物払下げ事件をめぐって、盟友だった伊藤はじめ薩長勢と対立し、明治14年の政変で参議を免官になってしまう。
薩長から最初の政権交代
伊藤に大隈の外交手腕を再認識させ、外相の地位に返り咲いただけでなく、明治31(1898)年には薩長藩閥以外から最初となる首相の地位を射止めた。
これこそまごうかたなく最初の政権交代というべきであろう。4カ月後、星亨に離反されて総辞職したのは不本意であった。しかし、彼の粘りは驚異的である。
15年余の時を経て、第1次護憲運動の波に乗じ、2度目の首相になったからだ。改造内閣を経て退任した時、彼は満78歳6カ月であった。これは日本の憲政史上最高齢の記録にほかならない。
現代の政治家に限らず、人はどうも群れに入らないと、安心できないところがある。鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉もある。時には党内や閣内に波風を立てても、必要な時には信念や主張を曲げないのも、宰相の座を射止める必要条件の一つであろう。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】大隈重信
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