2010年9月23日木曜日

061 田宮如雲


【幕末から学ぶ現在(いま)】(61)東大教授・山内昌之 田宮如雲 (1/3ページ)

2010.5.13 08:06
尾州藩に忠誠を尽した田宮。写真は名古屋城尾州藩に忠誠を尽した田宮。写真は名古屋城
 ■捨て身の忠誠心
 多くの人びとは、鳩山由紀夫首相の沖縄県知事や首長との会談、徳之島3町長の官邸招請に素朴な疑問を感じたに違いない。せっかく、現地に出かけて県民と対話し、首長とも面談するというなら、なぜもっと早いタイミングを選ばなかったのだろうか、と。
 地元の首長や住民がこぞって普天間基地移設に厳しい反応を示しているのに、わざわざ言葉を冗長に重ねるだけの旅に、なぜ出たのだろうか。普天間第二小学校で首相に向かって「くとぅばじゅんぢけ」(言葉を大事に使いなさい)と諭した女性の毅然(きぜん)とした表情が印象的であった。
 首相にも同情すべき点がある。それは捨て身で首相を守ろうとする人が周りにいないことだ。今更ながらに首相は、母親からの寄付疑惑の責任を沈黙とともに背負った勝場啓二・元公設第一秘書や芳賀大輔・元政策秘書の“捨て身の忠誠心”を懐かしんでいるかもしれない。かれらの鳩山家への尊敬心や信頼感とまで言わずとも、いまの官邸に“慇懃(いんぎん)恭敬”の念が乏しいことも普天間問題の混迷を深めた一因にほかならない。
 ◆どこまでも慶勝とともに
 幕末維新の危機に、捨て身で主君と藩の利益を守った人間として尾張名古屋の田宮如雲が挙げられる。8代将軍吉宗との暗闘に敗れ、一度も将軍を出せなかった徳川御三家の尾州(尾張)藩は、11代家斉の子などを押し付ける幕府に複雑な感情を抱いていた。支藩の高須松平家から本藩に徳川慶勝を迎えるために「金鉄組(党)」という同志集団をつくった如雲は、幕府寄りの家老や重臣に嫌われ、生涯に転補21回、解職6回、幽閉3回ともいわれる辛苦をなめた。
 その間に慶勝を尾州藩主に迎えることに成功しながら、主君が大老井伊直弼に嫌われ、隠居を命じられると、自分も隠居処分を受けるなど、どこまでも慶勝と浮沈を共にした。井伊直弼が殺害されると、慶勝と一緒に政局にカムバックした如雲は、尾張徳川家の矛盾した立場を調整しながら、幕末の難局に対処する。
 慶勝は御三家筆頭にして将軍・慶喜のいとこであり、2人の実弟たる松平容保(かたもり)(会津藩主)が京都守護職、松平定敬(さだあき)(桑名藩主)が京都所司代として佐幕派のリーダーだったことを考えれば、流動する政局で薩長に対抗する徳川の有力藩屏(はんぺい)になることは必至と思われた。
 ◆佐幕派14人斬首の粛清
 しかし、藩内では、「金鉄」を溶かす比喩(ひゆ)で名付けられた「鞴(ふいご)党」と「金鉄組」との政争も激しく、藩論は容易にまとまらなかった。京都に出ていた如雲は鳥羽伏見の戦い以後の政治情勢を観望しながら、藩論を勤王に統一することを慶勝に説いた。尾州藩の帰趨(きすう)を猜疑(さいぎ)のまなこで見ていた薩長の批判をかわすために、慶勝は佐幕派の元凶と思われた重臣3人を含む14人を斬首、20人を処罰した。この粛清がいわゆる“青松葉事件”にほかならない。
 如雲は、東海道を東下して倒幕に向かう新政府軍に中立や傍観をきめこむ難しさを痛感したのだろう。そこで、藩祖・義直(家康の九男)が尊王思想を語った『軍書合鑑』に兵乱が起きれば「官軍に属すべし」とあり、徳川一門のよしみで「朝廷へ弓を引くべからず」と戒めていた故実を引いて、藩論統一をはかったのだろう。
 そして、何事も如雲は慶勝第一という方針を貫いたのだ。尾州藩の幕府に対する近さへの岩倉具視の猜疑心、慶勝が総督となった第一次幕長戦争で重臣3人を入れた14人が切腹・斬首になった長州藩の報復感情の強さを肌で感じたのは如雲である。坪内逍遥が、如雲を木戸孝允西郷隆盛にも憶(おぼ)えられた「傑物」だというのは、このあたりの機微も含んでいる。
 ◆認められなかった尾州藩
 これだけ新政府に忠誠を尽くしても、新政府は尾州藩を認めなかった。紀州藩ならまだ津田出(いずる)や陸奥宗光も出たが、尾州はまったく目立たない。時代を下げても大臣は田中不二麿加藤高明くらいのものだ。
 とはいえ、如雲は、1871年に死ぬまで、まかりまちがえば幕長戦争の恨みで長州に報復されかねない慶勝を守り抜いた。如雲のような側近はすぐつくれるものではない。政治とカネ、普天間問題。鳩山政権を揺さぶる2つの問題は、ヒトの面でも搦(から)め手で結びついているといえよう。(やまうち まさゆき)
                   ◇ 
【プロフィル】田宮如雲
 たみや・じょうん 文化5(1808)年、尾張生まれ。12代藩主徳川斉温(なりはる)の死後、尊攘派・金鉄組の中心として、支藩高須松平家の高須秀之助(のち徳川慶勝)の尾州藩主擁立を目指す。活動をとがめられ左遷されたが、慶勝が襲封すると、側近として勘定奉行などを務め、藩政改革を補佐。慶勝とともに浮き沈みをともにした。大政奉還後、朝廷に参与として出仕。版籍奉還後、名古屋藩大参事となった。明治4(1871)年、死去。享年64。

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