2010年9月23日木曜日

049 井伊直弼


【幕末から学ぶ現在(いま)】(48)東大教授・山内昌之 井伊直弼(上)

2010.2.4 07:26
井伊直弼 井伊直弼 
■国学者の開国政策
どの政治家においても、目的の理想性と手段の現実性がぴたっと調和するのは幸せなことである。
しかし、この幸運に恵まれた政治家は存外に少ない。現代でも政治改革といえば、誰もが否定できず、理想の甘い匂(にお)いがする一方、それを実現する手法や基盤ともなれば時に金権という腐臭あふれる利益誘導と結びつく例もある。
これはいま、政権交代に酔った有権者に、嫌悪感をもたせる政治とカネにまつわる現象を見ればよく分かることだろう。
◆正反対の見方が併存
幕末の危機において、真実の目的と皮相の目的が乖離(かいり)した例といえば、幕府の大老として難局に当たった井伊直弼をすぐに思いだす。なにしろ直弼は、溜間(たまりのま)に詰める徳川の譜代門閥大名の筆頭として本質的に保守固陋(ころう)の思想をもちながら、開国という最も尖端(せんたん)的な政治決断に踏み切り、反対派を一掃した人物なのだ。
まさに当世流の政治的表現を借りるなら、剛腕や辣腕(らつわん)の名にふさわしい。桜田門外の変で、水戸の攘夷(じょうい)浪士らに斬(き)られた直弼は、眺めるプリズムの角度が違えば幾重にも像が変容する政治家である。消え去った徳川幕府の立場からさえ正反対の見方が併存していた。
明治になって『東京日日新聞』の主筆となる旧幕臣の福地桜痴(おうち)は直弼について「おのれが信ずる所を行い、おのれが是とする所をなしたり」と指摘しながら、2つの異なる見方を示している。直弼は時勢に逆行して世論に背反し、安政の大獄などで「不測の禍害」を徳川政権に与えて衰亡の命脈を促したという結論を受けても仕方がないというのだ。
同時に桜痴は、幕権を維持して異論を抑え、開国といった強硬な政略を断固として実施した点で決して普通の政治家が及ばない才気をもっていたとも指摘する(『幕末政治家』)。
◆尊攘派ばりの信念
直弼は本質的にいえば、茶道や和歌に才を発揮した国学者であった以上、アメリカとの条約調印を世界情勢に照らして前向きに確信した革新進歩の徒だったはずがない。彼は条約調印を一時はやむをえないとの「権道」に立ち、兵備を充実して将来に攘夷を実現しようと考えたらしい。政権の要路として欧米列強の実力による撃退を難しいと考える点では現実感覚に立脚していたが、力がつけば外国とも戦えると尊攘派ばりの信念もあったようだ。
もし直弼にマキャヴェリズムよろしく、開国策をとった幕府が孝明天皇はじめ朝廷に攘夷政策があたかも可能だと欺く意図でもあれば、幕末の進路はまた違っていたかもしれない。
◆政治主導と官僚統治
桜痴のいうように、彼の心中に抱いた開国の国是を政策として実現しながら、尊攘の雰囲気を利用して人びとを籠絡(ろうらく)する権謀術策でもあれば、「天晴(あっぱ)れなる政治家と称せられるべきの価値」もあるが、そこまでの「識見智略を具せる宰相」というわけでもなかったと冷淡な評価をする。
もし井伊大老にまことの開国の「卓識」があり、自ら上京して開国と鎖国の得失を天皇の前で堂々と弁じていたなら「不世出の聡明(そうめい)」とうたわれていたかもしれないというのだ。
それは浮雲を披(ひら)いて天日を見るような壮快さであるが、叶(かな)わなかった。大老に開国の確固たる識見がなかったからだと手厳しい。しかし、この説はおそらく正しい。
それでは、何故に直弼は開国に舵(かじ)を切り、一橋慶喜(よしのぶ)を排して紀州慶福(よしとみ)(14代将軍、家茂)を将軍家定の継嗣(けいし)としたのだろうか。その答えは、直弼における政治主導と官僚統治にかかわる独特な理解に求められるだろう。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】井伊直弼
いい・なおすけ 文化12(1815)年、近江(滋賀県)彦根藩主、直中(なおなか)の14男として生まれる。藩主を継いだ後、老中をへて安政5年に大老となる。病弱だった13代将軍、徳川家定の継嗣問題や、開国・攘夷をめぐって前水戸藩主の徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許を得ずに調印し、将軍継嗣を紀州藩主、徳川慶福(家茂)に決める。一橋慶喜を推していた斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧したため、万延元(1860)年、桜田門外で暗殺された。享年46。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(49)東大教授・山内昌之 井伊直弼(下)

2010.2.11 08:39
■“政治家主導”の限界
井伊直弼の大老就任には、現代にも通じる政治の本質にかかわる問題が潜んでいる。まず第1に、政治と軍事の最高責任者たる徳川将軍は、血筋で選ばれるべきか、能力で推挙されるべきかという統治の正統性である。
黒船来航で風雲急を告げる時代の舵(かじ)取りは、13代将軍の家定という「菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる昏主(こんしゅ)」(形の違う豆と麦を区別できないほど暗愚な君主)では無理なので、英明の誉れが高い一橋慶喜(後の15代将軍)を推戴(すいたい)するべきだという考えもあった。
現代人の感覚では、もっともらしく聞こえるが、この意見は世襲による天皇や将軍の血統や筋目を尊重した時代には大きな論点を含んでいた。家定が事物の道理を分別できないほど痴愚だったか否かにも意見が分かれる。
もし年長賢明な将軍でなければダメというなら、年少不明な後継者を直系であっても廃立する「革命」や権力簒奪(さんだつ)の論理につながりかねない。
8代将軍、吉宗が英明な次男の田安宗武(むねたけ)を退けて、暗愚でも長男の家重を将軍にしたのは、筋目を重視して簒奪の論理を拒否したからである。ただし、この選択が成功するには、内閣や首相に当たる大老や老中などの幕閣が正常に機能し、国家が円滑に運営されることが前提となる。
◆「象徴将軍制」の原則
井伊家は、会津と高松の両松平家とともに溜間(たまりのま)の「常詰(じょうづめ)」(いわゆる「常溜(じょうだまり)」)として将軍に意見を上申し、老中たちと政務を議論できる高い家格を誇っていた。徳川幕府の統治システムは、制度化された官僚制に有力家門・譜代大名の家格序列を交えた「象徴将軍制」ともいうべき性格をもっていた。現代の象徴天皇制のように内閣が実際に統治機構を担っていた体制と共通する面もあった。
井伊直弼は主君の家定が慶喜を嫌いな以上、その人物を将軍継嗣(けいし)に推すのは「臣子(しんし)の分」として同意できないという象徴将軍制の原則に立ったのである。
また、直弼には、徳川幕府は天皇から委任された統治権限に基づいて外国と条約を調印したという自負と自信も強かった。外国と結んだ条約をほごにするのは不可能であり、世界情勢を観察し、日本の安全を図って実現した開国なのである。目先に迫った外交危機を解決するには、いちいち朝廷の指示を仰ぐ暇も必要もないという“政治家主導の国事行為”に満々たる自信をもっていた。
しかし、この姿勢は国学者として遺憾であり、天皇をないがしろにすると映り、尊攘(そんじょう)派を怒らせることにもなったのである。
◆優秀官僚粛清の失敗
“政治家主導”を高らかに掲げ、徳川の権威回復に乗り出した直弼は、もう一つ大きな失敗を犯した。それは、大胆な政策遂行の上で手足とすべき幕府の優秀な実務官僚層を粛清したことである。外国奉行となった旗本の官僚5人のうち、水野忠徳(ただのり)、永井尚志(なおのぶ)、岩瀬忠震(ただなり)の3人は一橋派だったのでまもなく罷免されてしまった。
また、京都に出張した川路聖謨(としあきら)も職を追われている。最大政治課題の対外関係を処理できる有能な人材を追放した結果、残った俗吏は悪辣(あくらつ)な外国公使の駆け引きに翻弄(ほんろう)され、幕府をますます衰退に追いこんだ。欧米の威嚇を恐れて要求をいれるとますます軽侮を招いた。幕府の威信低下は、まず外交から始まったといえるだろう。
◆称賛できないこだわり
直弼を「開国の卓識者」と手放しで称賛できないのは当然なのだ。もし直弼が果断に世の議論に耳を傾け、岩瀬などの開明官僚を活用する雅量があれば、外交にも大きな成果を発揮したはずだ。
 大老による“政治家主導”にこだわるあまり、幕府を一橋派の“官僚支配”下にあると見立てた幻影への思い込みを現代に見いだすのは深読みにすぎるだろうか。(やまうち まさゆき)

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