2014年4月26日土曜日

村尾先生の作文 April 25th 2014

私の読書遍歴 一年国語科 村尾勉

 小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF  が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。

 一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。

 夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。

 中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。

 一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。

 高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。

 読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。

2014年4月25日金曜日

宮中晩餐会メニューApril24th2014

 「国賓」として来日したオバマ米大統領。国賓は政府が日本に招待する外国要人のうち、最上級の手厚いもてなしをする最高ランクの賓客だが、オバマ大統領が平成21年に来日した際には国賓ではなく、「実務訪問賓客」という形だった。

 来日する外国賓客の区分は「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」「実務訪問賓客」「外務省賓客」の順番で、それぞれ待遇が決まっており、国内の滞在経費は日本側が負担する。

 最もランクの高い国賓は国王や元首が対象で、天皇、皇后両陛下が参加される一連の行事に臨む。まず、三権の長、全閣僚も出席して皇居で「歓迎行事」が行われた後、両陛下との「ご会見」「宮中晩餐会」と続き、国賓が東京を出発するにあたっては、両陛下が「お見送り」に行かれる。この“4点セット”が国賓接遇の原則となっており、両陛下は事前に外務省の担当者らから相手国について説明を受け、入念に準備をされる。

 予算や陛下のスケジュールなどの都合から、国賓待遇は年間1、2件。今年3月にはベトナムのチュオン・タン・サン国家主席が国賓として来日している。

 国賓、公賓の場合、通常は東京・元赤坂の迎賓館が宿泊先として用意されるが、オバマ米大統領は今回、迎賓館ではなく、都内の老舗ホテルに宿泊。皇居訪問の際の車も、宮内庁が国賓に差し回す御料車ではなく、米国側が自前で用意した大統領専用車を使用するなど、他の国賓とは異なる点がうかがえる。

 改修工事のため使用できなかったケースなどを除くと、過去に来日した国賓で迎賓館を利用しなかったのは、米国のカーター大統領(昭和54年6月)とフランスのシラク大統領(平成8年11月)の2人だけ。駐日米大使公邸に泊まったカーター氏の場合は、迎賓館が東京サミットの会場として使われていたという事情があるが、今回は「特に米国側から説明はない」(宮内庁関係者)という。

 国賓が東京を離れる際には、両陛下がお別れのあいさつのため宿泊先を訪問されるのが慣例。宮内庁関係者は「今回も同様」というが、宿泊先が変われば警備の仕方は大きく変わる。

 通常、来日した国賓の移動に供されるのは、トヨタの「センチュリーロイヤル」。両陛下が国会開会式や東日本大震災追悼式、全国戦没者追悼式ご臨席の際などに使用され、差し回しの際も宮内庁の運転技官がハンドルを握るが、オバマ氏が平成21年に来日した際も、事前に米国から輸送機で運ばれた特殊装備の大統領専用車が使われた。宮内庁関係者は「米国の場合は非常に警備が厳しいのだろう」と話している。

昭和49年11月19日、フォード、田中角栄
昭和54年6月25日、カーター、大平正芳
昭和58年11月10日、レーガン、中曽根康弘
平成4年1月9日、ブッシュ、宮沢喜一
平成8年4月17日、クリントン、橋本龍太郎


料理
コンソメスープ
マダイの洋酒蒸し(付け合わせにグリーンアスパラガス、舌平目の細切りパン粉揚げ)
羊のもも肉の蒸し焼き(付け合わせに温野菜、アピオスの空揚げ、クレソン)
サラダ
アイスクリーム(富士山型)
果物(メロン、イチゴ)

飲み物
白ワイン(コルトン・シャルルマーニュ1999)
赤ワイン(シャトー・マルゴー1994)
シャンパン(モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨン1998)

オバマ米大統領を迎えての天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が24日、皇居・豊明殿(ほうめいでん)で行われた。

宮中晩さん会で出される料理は、明治時代以来の慣例でフランス料理。宗教上の制約を受けないことから羊肉がメイン料理となることが多く、今回の晩さん会も羊のもも肉の蒸し焼きがフルコースのメインとなった。

 また、メニューからは「旬の食材で国賓をもてなす」という宮内庁のこだわりも垣間見える。魚料理で使われているマダイは産卵を控えて脂が乗った今ごろがまさに旬だ。3月に来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席夫妻に出されたサワラも春が旬だった。

 農産物については御料(ごりょう)牧場(栃木県)で育てたものができるだけ使用される。今回はコンソメスープのだしとなる鶏肉、メイン料理の羊などが同牧場で育てたものだという。

 ワインは宮内庁が常時4000~5000本を保管しており、国賓にはその中で最高の1本をセレクトして提供する。10年ぐらい熟成させたワインを出すことが多く、晩さん会のたびに銘柄は異なるというが、日本酒の銘柄は常に「菊正宗」だという。



オバマ米大統領を歓迎する宮中晩さん会での天皇陛下のあいさつ全文は次の通り。

 この度、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマ閣下が、国賓として我(わ)が国を御訪問になりましたことを心から歓迎いたします。ここに今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。

 まず大統領閣下に、三年前に起こった東日本大震災に際し、米国政府及び多くの米国国民からお見舞いと支援を頂いたことに対する、私どもの深い感謝の気持ちをお伝えしたく思います。この地震と津波による災害では、死者、行方不明者が二万人以上となり、建物は壊され、美しい海や山に囲まれた町や田畑は、がれきに覆われました。二万人を超える貴国の軍人が参加した「トモダチ作戦」を始めとし、貴国の多くの人々が被災者のために行った支援活動は、物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました。

 歴史を振り返りますと、貴国と我が国との交流は、我が国に来航したマシュー・ペリー提督と徳川幕府の交渉により、一八五四年日米和親条約が調印されたことに始まります。我が国はそれまで二百年以上にわたり鎖国政策を行ってきましたが、開国を決意し、欧米の国々より、当時日本にとり未知であった領域分野の学問や技術については、これを鋭意学び、国を発展させることに努めました。貴国の人々に負うところ、また大なるものがあります。

 私が貴国を初めて訪れましたのは、一九五三年、エリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列した機会に、貴国を始めとする欧米諸国を訪れた時のことであります。一九六〇年、日米修好百年の年には、現在の皇太子を出産して間もない皇后と共に、初めて公式に貴国を訪問し、アイゼンハワー大統領御夫妻主催の晩餐(ばんさん)会にお招きいただき、また多くの米国国民と触れ合う機会に恵まれる中、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドの各地を約二週間をかけて訪問いたしました。私どもにとり今も忘れられないのは、ニューヨーク訪問の際、貴国政府及びニューヨーク市が大型船によるマンハッタン島巡りを計画し、船上に当時貴国で勉学にいそしむ大勢の日本人留学生を招いてくださったことです。当時学習意欲にあふれつつも、余裕のない戦後の生活の中でそれを十分に満たせなかった我が国の有為な若者に、更(さら)に学ぶ機会を与えてくれた貴国の奨学生制度は、実に有り難いものであったと思います。

 その後も国賓としての訪問も含め、貴国を何度か訪れておりますが、その都度貴国民から温かく迎えられたことが心に残っています。貴国が多様な人々を包容し、民主主義の理想を求め、より良い社会を築こうと常に努力する姿には深い感銘を覚えます。貴国と我が国の両国民は、先の戦争による痛ましい断絶を乗り越え、緊密な協力関係を築きました。両国民が来し方を振り返り、互いの理解を一層深め、相携えて進んでいくことを願ってやみません。

 両国の友好の象徴となっている桜とハナミズキの季節に行われる大統領閣下のこの度の御滞在が、実り多きなものとなりますよう願っております。

 ここに杯を挙げて、大統領閣下及び御家族の御健勝と、アメリカ合衆国国民の幸せを祈ります。


2014年4月11日金曜日

ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった?

2014年3月1日にロシア軍が展開し始め、世界の注目を集めたウクライナのクリミア半島。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。なかでもクリミア戦争はその代表で、今回のウクライナ危機をめぐっても、たびたび言及されています。クリミア戦争とは、果たしてどんな戦争だったのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA


クリミア戦争が発生した背景

 クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。

(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。

ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に

 これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。

これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、

・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。

それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。

 1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。

クリミア戦争が残したもの

 クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。

 後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。

 クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。

 しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。

(国際政治学者・六辻彰二)

2014年4月6日日曜日

windows7 setting

Windows7 enterprise
Installed at April 6th


use KMS activator

open administrator mode

1.paste in cmd
slmgr.vbs /skms 127.0.0.1:1688

2.launch KMS activator and push activation windows VL

3.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -skms 127.0.0.1

4.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -ato

5.for check, paste in cmd
slmgr /dlv



computer name is ... kanzo7-PC
log on name is ... kanzo7
log on passwords are ... kan
homenetwork passwords are ... kanzo1818

パスワードなしでログオンする方法
 すべてのプログラム→アクセサリ→ファイル名を指定して実行→control userpasswords2→パスワード入力必要のチェックを外す。

windows7 installed items are...
  • winrar3.92
  • pdf factory
  • adobe CS6
  • sibelius v7.5
  • office 2007
  • VLC media player
  • Leeye + plugins





windows k

windows8 クラック
http://yoheiaki.blogspot.jp/2013/11/windows-81-office-2013.html


2014年4月1日火曜日

為になる作文

第10回 アザラシのランプ(その1)

 ハンティング・キャンプに出ていたある日のこと、その日の食事はアザラシだった。イヌーキーがテント前の浜で若アザラシを一頭しとめ、それをチャーリー父さんが解体した。生肉で少し食べたあと、さらにスープで煮て食べた。
 アザラシがしとめられると、すぐに食料にしたいときにはその場で、たくさんとれたときなどはキャンプや村に戻ってから解体される。解体は、まず脂肪の層がついた皮をはぎ、つづいて内臓を取りのぞき、骨付きのまま肉をいくつかの部分に切り分ける、という手順ですすめられる。この解体作業の途中から、肉や肝臓や脳などの内臓はつまみ食いのように食べられる。チャーリー父さんのお気に入りは腎臓らしく、解体のときにはたいていいつでもその部分をサッと切り取っては口に運ぶ。食べきれなかった肉と、脂肪の層がとりのぞかれた毛皮は村へと持ち帰られる。
 そういうわけで、その日アザラシ肉の食事が終わるころには、脳を食べおえた頭の部分、胃腸などの内臓、それと皮から切り取られた脂肪の層が残されていた。ソリ犬のために持ち帰られることもあるが、現在これらはその場に置いていかれ、海鳥などのエサになることが多い。
 しかし極海に泳ぐアザラシのぶ厚い脂肪は、かつては人のくらしに利用されていた。それどころかこのアザラシの脂肪こそが、過酷な北極という環境において人のくらしを支える大切な役割をになっていた。木のないツンドラと氷の世界にあって、それはほぼ唯一の燃料として、ランプの燃料として使われていたのだ。
 ある日、村のビジターセンターの展示室の片隅にランプとしてつかわれていたという石皿が置かれていた。黒い頁岩のような、お盆大の平たい石をけずってつくった石皿だった。見てみたいと思っていた念願の実物だったが、それはすでにその役目を終えた展示物であり、かつてそこから立ち上がっていたであろう炎を想像することはなかなかむずかしかった。

 アザラシランプの炎がぼんやりとイメージできるようになったのは、一冊の絵本に出会ってからだった。絵本のタイトルは「氷の海とアザラシのランプ カールーク号北極探検記」。
 時代は20世紀はじめ、アラスカ・シベリアの北極海沿岸に起きた実際のできごとがもとになっている。1913年、アリューシャン地方のことばで魚を意味するカールークと名づけられた船が、カナダの探検隊をのせ北極地方にやってくる。ところがこの船、その年の冬には氷に閉じこめられ、ついには沈没してしまう。隊員たちは船を失うが、はげまし、助け合って、氷の上の過酷な生活を生き抜き、翌年の秋になって無事生還をはたす……。ただし、これは物語の半分にすぎない。
 この物語のもう半分は、この探険船に同船していた、この地方の先住民族イヌピアク族の一家族の物語だ。遭難した隊員たちの命を支えたのは、クーラルック父さんが毎日とってくるアザラシの肉であり、キールーク母さんがその手から毎日つくりだす毛皮服や手袋やブーツであり、つまりは過酷な北極で生きるすべを知る彼らの存在だったのだ。
 この物語の主人公は誰か、という問いには、それはバートレット船長をはじめとする探検隊だともいえるし、イヌピアク族の家族だともいえるだろう。しかし別の見方をするならば、それはアザラシのランプだ、といっていいようにも思う。
 クーラルック父さんとキールーク母さんの八才の娘、パグナスークは、船にのる前、おばあさんからアザラシ油のランプを手渡される。おじいさんが石を刻みつくったそのランプを、おばあさんはそれまでずっと肌身離さずにもちあるいてきた、そういうランプだ。おばあさんはパグナスークにランプをわたすときにこういう。
「船にのって、おまえは長い旅に出る。ランプと歌のあるところ、そこがおまえの家なんだ」
 ランプは、船の小さな部屋で、氷の上の旅で、いつも家族を照らしあたためつづける。そして家族が無事に村へと戻ってきたときから、またおばあさんのすむ家で火をともすことになるのだ。ずっと前からそうだったように。
 この絵本を開き、ところどころにおさめられた独特なタッチの絵をながめ、おばあさんの言葉を心にひびかせると、僕の胸のずっと奥の方、つまりはどこかで涙腺とつながっているような部分がモゾモゾする。かつてのイヌイットたちの世界であるにもかかわらず、なぜかとても懐かしい空気の中に入っていくようなのだ。その空気をかもしだす光景の片隅にはいつもアザラシランプの炎がゆらめいていた。
 その炎は、いったいどんな明るさや暖かさを持っていたのだろう。

 アザラシ解体のあとに残された白い脂肪の塊を見ていて、ふとそれをためしてみたくなった。それ、とは、アザラシの脂肪を燃やしてみることだった。
 脂肪の小さなカケラを切り取り、真ん中のへこんだ平らな石を見つけてきて、その上においた。芯はかつてツンドラのある種のコケを乾燥し使ったのだというが、とりあえずティッシュペーパーをよってつくった即席のコヨリを使うことにした。はたしてアザラシランプの炎はあらわれるだろうか。
 そっと火をつけてみる……つかない。芯は燃えるのだが、脂肪の塊まで行くと消えてしまう。何度かためすがつけることができない。単純なことを忘れていたことに気づく。液体は燃えるけど固体のままでは燃えないのだった。ロウソクだって芯のまわりは融けて液体になっている。そこで脂肪の小さな塊をつぶしてしぼり出し、液体の油だけを石のへこみにためることにする。再びティッシュの芯をつくってその油に浸した。
 再び火をつける。……燃えた。しっかりとしたオレンジがかった炎がともった。風にゆらめくが、その炎は想像以上に明るい。そして手をかざせば暖かささえ感じる。数センチ大の脂肪からしぼった油にすぎなかったが、それでも炎が10分間ほども燃えつづけたのには驚いた。石皿には何本かの芯を並べ、それによって火力を調節したといわれる。けっしてパワフルなものではないが、それでもせまい家の中でなら、灯りとしても暖房としてもかなりの力を発揮するだろうな、ということは想像できた。
 最初は僕のこの即席の実験を「何やってんだ?」という顔で見守っていたイヌーキーも、その炎を珍しがってながめている。きっと僕と同じように今日初めてアザラシ油の炎を見たのだろう。アザラシの脂肪ってホントに燃えるんだ、とでもいいたそうな顔だ。
 石の皿、アザラシの脂肪からしぼられた油、ツンドラのコケの芯……。まるで人が利用できる何ものもないかのような北極圏の自然の中から、この三つを見つけ、選び、組み合わせることによって、灯りと熱を生み出したイヌイットの先祖たち。テント前の浜でつくった即席アザラシランプの、それでもしっかりとしたオレンジ色の炎を見つめていると、そんなはるか遠い人たちのことを想像せずにいられなかった。