【幕末から学ぶ現在(いま)】(64)東大教授・山内昌之 辻将曹 (1/4ページ)
地方政治家の現実感覚
仲井真弘多(なかいま・ひろかず)沖縄県知事は、米軍普天間基地の辺野古近辺への移転を定めた日米共同声明(5月28日)に寄せて、県や地元の了解を得ずに決めたことを遺憾とした。受け入れを「極めて厳しい」と語ったのである。現在の日本政治でいちばん難しいポジションにあり、苦しい胸の内を十分に明かせない政治家といえば、まず仲井真知事であろう。
鳩山由紀夫首相は2日、辞任を表明したが、もともとギリギリの決断から、辺野古近辺への移転を受け入れたのは仲井真知事である。知事からすれば、満足に問題の経緯や本質を精査した形跡もなく、沖縄県民と何度も向かい合ったわけでもない首相が普天間基地を「最低でも県外」に移すと見えを切ったときから、その政治姿勢に困惑していたにちがいない。言葉を軽く翻してきた首相と違って、現実の埋め立てにゴーサインを出せるのは知事だからである。
民主党政権は、政治リアリズムと民意との緊張関係に苦吟してきた知事に最大限の支援をすべきだが、いったん県民の信頼感を失った政策の実現はますます険しい道のりになる。しかし、期待したいのは、地方自治の担い手として慎重かつ筋を重んじる知事の一貫した政治姿勢であろう。今では辺野古移転に賛否を言わない苦渋の重みに、首相にはなかった強い現実感覚を感じるのは私だけではあるまい。
長州に味方する正論
幕末にも陪臣(ばいしん)でありながら、政治の転回に大きな役割を果たした地方の藩重役がいた。その一例として辻将曹の名を逸することはできない。芸州(広島)藩上士の家に生まれた辻は改革派として執政に抜擢(ばってき)された。
彼は、第2次幕長戦争を「無名の師」と非難し、外国との攘夷(じょうい)戦争に踏み切った長州藩に日本国内あげて制裁する挙に反対する正論を展開した。隣国の政治指導者として、長州藩への寛典(かんてん)を主張したために、幕府に睨(にら)まれ、謹慎を命じられる気骨もあった。
彼は第1次戦争でも、幕府軍の出陣拠点となった広島の重役として、長州藩の利益代弁者たる岩国藩の吉川経幹(つねまさ)らをパートナーに、ほぼ無血で紛争を処理する手際の良さを見せた。陪臣ながら中央政治をリードした辻の得意の絶頂は、慶応3(1867)年に薩長芸三藩の同盟を結び、徳川慶喜に圧力をかけて大政奉還を実現させたあたりであった。
勝海舟も高い識見評価
将軍慶喜が二条城で大政奉還を議した際、辻は薩摩の小松帯刀(たてわき)や土佐の後藤象二郎と一緒に陪臣の身ながら堂々と弁舌をふるった。慶喜は辻らの意見をいれて、大政奉還を決意したのである。大政奉還は坂本龍馬や横井小楠(しょうなん)だけの専売特許でない。
とはいえ、辻の鋭さや芸州藩の幕府への共感は、倒幕に傾斜する薩長両藩の疑心暗鬼を刺激することになり、芸州藩は倒幕勢力の中心から外された。芸州よりも後から旗幟(きし)を鮮明にした肥前佐賀藩のほうが新政府で優遇されたのだから、辻には割り切れない思いも残ったかもしれない。実際に、新政府では参与や知事としてわずかの期間、出仕した後すぐ辞任した。
政治を動かした自負
辻は政治の中枢から去って戻らず、困窮する旧芸州藩士族の授産事業を進めた後、明治23(1890)年に漸(ようや)く元老院議官に任じられたくらいで官途には恵まれなかった。しかし、失意の晩年を送った辻にしても、幕末政治を大きく動かした自負はもっていたに違いない。
ますます硬化する県民世論と民主党政権との間に立つ仲井真知事の仕事ははかりしれぬほど難しい。幕府と長州と薩摩といった複雑な3変数を処理した辻の調停能力こそ、寡黙な仲井真知事が政治家として真骨頂を発揮する上で参考になることを願っておきたい。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】辻将曹
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