【幕末から学ぶ現在(いま)】(73)辻元清美と「黒豆」の政策転換 (1/4ページ)
東大教授・山内昌之 姉小路公知
辻元清美氏が社民党離党を表明した。辻元氏といえば、政策通でも知られた社民党の顔だっただけに、離党劇は残された社民党議員らにとってショックであろう。米軍普天間飛行場の移設問題をめぐる福島瑞穂党首との確執もささやかれている。
社民党には、民主党や国民新党と連立政権を組んで政治のリアリズムに鍛えられた政治家ばかりいるわけではない。自己の信念を抱きながら柔軟に権力の責任に対応して成長を遂げた政治家、個人の信念だけで政治が動くと勘違いし政策を少しも動かせない(あるいは動かす気のない)政治家など、社会民主党の指導者群像には興味深いものがある。
少なくとも、辻元氏は国土交通副大臣として前原誠司大臣の信頼も厚く、現実政治で何事かを進めようとする心構えや気迫が見えた。かつて議員給与の流用問題などで失職した体験を「半生の一大厄難」(陸奥宗光(むつむねみつ))として活(い)かしているのかもしれない。政治を現実に動かす与党の立場になれば、野党気質の無責任なイデオロギーを封印するか、清算し転換するか、いずれかの立場を強いられるのは当然である。
幕末政治における最大の政策転換は、攘夷(じょうい)から開国への国是の変化である。そこには大きな犠牲も伴う。代表例は、姉小路公知であろう。
「白豆」と仇名(あだな)された三条実美(さねとみ)とともに、色黒のために「黒豆」と揶揄(やゆ)された姉小路は、文久2(1862)年9月、コンビを組んで江戸に向かい幕府に攘夷の早期決行を迫った。「皇国の武威」を奮い「攘夷の成功」を遂ぐべしという勇ましい勅旨(ちょくし)を伝えたのである。
正使の三条と一緒に、勝海舟の案内で江戸湾岸を視察した。帰洛後、「黒豆」は国事参政になっても「白豆」とともに幕府を困らせる攘夷派の先鋒(せんぽう)であった。しかし翌年5月に深夜の朝議を終え帰邸する途中、朔平(さくべい)門外の猿ケ辻で刺客に襲われ、まもなく自宅で卒去したのである。
◆勝海舟の説得で開国に?
姉小路公知は、4月23日から摂海巡視で初めて海に出たとき、勝海舟と論議を重ねて開国論を理解するようになったらしい。馬場文英の著した『元治夢物語』(岩波文庫)によれば、「公知朝臣(あそん)、天保山近海、御廻見有(あり)て、追日(ひをおって)御帰京」とある。姉小路の帰洛後すぐに、朝廷は幕府に「摂海防備三か条」の沙汰(さた)を下している。これは勝と姉小路との出会いの成果ではなかろうか。
勝自身は、自分の意見を吸収した姉小路が朝議を動かした結果だと語っており、姉小路の盟友だった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)も、摂海巡視の時に勝から「無謀の攘夷は出来ぬ」と説かれたことで帰洛後に「鋭鋒(えいほう)が挫(くじ)けた」と述べていた。姉小路の転向は武市半平太(たけちはんぺいた)などには癪(しゃく)の種であり、幕府にとっては心強い味方になる矢先の凶変である。孝明天皇の死とともに幕末政治の転回を決定づける事変だったことは間違いない。
◆強固な意志力と勇猛心
姉小路公知の偉いのは、襲われた時に、太刀をもった侍臣の1人が卑怯(ひきょう)にも逃げたのに、肩に深手を負っても笏(しゃく)などで凶漢に立ち向かい、自邸に戻って絶息したことである。武士も及ばぬほどの勇気と闘争心ではなかろうか。攘夷運動の先駆となった天誅(てんちゅう)組の中山忠光といい、姉小路公知といい、公家にも強固な意志力と勇猛心をもつ者もいたのである。
さて辻元氏には、姉小路のような決心をもって、日本政治を大転回させる機会として離党を活用してほしいものだ。だとすれば、有権者たちは「嘆くべきでない人々について嘆く」必要はないのだ。賢者は死者についても賢者についても嘆かぬ者だというインドの古典『バガヴァッド・ギーター』(上村勝彦訳)の一節は正しいのである。
辻元氏の前途は姉小路のように多難かもしれない。しかし、そもそも政治の中核に入っても何一つ変わらず変わろうともしなかった福島瑞穂氏については、嘆くべきなのか、嘆かざるべきなのか、『バガヴァッド・ギーター』さえ答えてくれない。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】姉小路公知
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