2010年9月23日木曜日

067 陸奥宗光


【幕末から学ぶ現在(いま)】(67)東大教授・山内昌之 陸奥宗光 (1/3ページ)

2010.6.24 07:09
下獄体験から荻生徂徠とベンサムの思想をつないだ陸奥宗光(国立国会図書館蔵)下獄体験から荻生徂徠とベンサムの思想をつないだ陸奥宗光(国立国会図書館蔵)
 ■幕末維新の「最小不幸社会」
 菅直人首相によれば、「政治の目標は人々の不幸を最小化すること」にあるようだ。何故に「最大多数の最大幸福」でなく、「最小不幸社会」を唱えるのだろうか。
 おそらく菅首相は、イギリスの功利主義哲学者、ジェレミー・ベンサムによる「最大多数の最大幸福」を少数派つまり弱者の利益無視の考えと理解しているのだろう。恵まれない人々の利益を最大化する「正義」として、最小不幸社会を構想したいのかもしれない。確かに、功利主義にはベンサムの「貧民管理」や刑務所民営化の論のように、個人の権利を尊重しない面があるのも事実である。
  

ベンサム学んだ侍

 ところで、幕末維新期に活躍した政治家にもベンサムを学んだ人物がいた。それは坂本龍馬の弟子だった陸奥宗光である。紀州藩出身の陸奥は、明治10(1877)年に西南戦争が起きると、土佐立志社の一部と政府転覆計画にかかわって逮捕された。
 そして、その下獄経験を「此一事は余が半生の一大厄難にして、自家の歴史上磨滅(まめつ)すべからざるの汚点なり」と記した。しかし陸奥は、無為に獄中生活を送ったわけではない。むしろ獄中での猛烈な勉強で知ったベンサムの仕事こそ、後代の陸奥を大きく成長させる基盤となったのだ。
 陸奥がベンサムの思想を理解できたのは、すでに荻生徂徠(おぎゅうそらい)を学んでいたからである。山路愛山(やまじ・あいざん)は、徂徠学とイギリス功利主義に共通する実利性に言及した。徂徠において日本は初めて「実利派的」な頭脳を見いだし、アングロサクソンのように事実を尊び、常識を重んじる人を発見したというのだ。愛山が徂徠を自由な世界に生き、自由に行動した人物と評価したとすれば、陸奥は徂徠のどこに惹(ひ)かれたのだろうか。
 陸奥は、しかるべき能力の人材登用の必要を唱えた徂徠が「賢者は何(いつ)も上に有て、愚者はいつも下に有る」(『政談』巻之三)と強調したことを評価していた。徂徠の思考になじんだ陸奥にとって、ベンサム思想の吸収は容易であった。
  

藩閥批判も再び出仕

 獄中でベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)を訳了した陸奥は、先験的な規範や命題を斥(しりぞ)け、「人之常情」(普通の人情)という経験を優先させることで、徂徠学の教養とベンサムの功利主義をつないだのであった。陸奥は、自由なくして人智の進歩がありえず、人智の進歩なくして人間の幸福がありえないというベンサムの主張に共感したのである。
 幸福と知識との間に密接な関係があるという自由論の要に立って、陸奥は人智の進歩を妨げる存在として、「頑陋(がんろう)なる宗教家」「僻古(へきこ)の道学者」に加えて「偏見なる政治家」も挙げていた。彼が意識したのは、反動的な藩閥政治家たちにほかならない。
 同時に陸奥は、現実に歴史や政治を動かす「権力」から遠ざかるなら、決して自らの経綸(けいりん)や抱負を実現する術は与えられず、政治関与の機会も逸することを下獄体験から学んだ。陸奥は、ベンサムに依拠して「自由民権」という普遍的な「理念」のもつ力と意義を評価し、欧米の大勢が目指すデモクラシーの意義を認めながらも、日本では少数の「真個の貴族」「才力ある平民」が運動を適切に指導せねば堕落すると考えた。陸奥は、挫折経験から「藩閥は外より攻むべからず、内より改むべきのみ」と信じるようになり、再び藩閥政府に出仕したのである。
 このあたりの現実感覚は、政権交代のためなら小沢一郎氏とも手を組んだ菅首相の徹底した実利主義とも似ている。政党政治や官僚統治の主流から離れていた菅氏が、権力の内懐(うちぶところ)に接近していく手法や迫力も、陸奥に似たところがあるのではないか。
 「最小不幸社会論」を唱える菅首相は、消費税値上げのタブーに挑戦しながらベンサムの提起を前向きに生かすのか。あるいは参院選挙だけを意識して陸奥のいう「偏見なる政治家」の仲間入りをするのか。その真価がまもなく問われようとしている。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】陸奥宗光
 むつ・むねみつ 弘化元(1844)年、紀州(和歌山県)生まれ。脱藩し坂本龍馬海援隊に参加。新政府に入るが、挙兵を企てた土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄する。出獄後、欧米を歴訪。帰国後外務省に入省、駐米公使となる。第1回衆院選で当選し、第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。明治27年、日英条約改正を成功させ、領事裁判権の回復に尽力。対清強硬路線をとって日清戦争開戦へと導き、講和や三国干渉に対処した。明治30(1897)年、死去。享年54。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。