2014年7月31日木曜日

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語

http://thepage.jp/
7月6日(日)13時0分配信
 アルゼンチンの雲行きが怪しくなっています。といってもブラジルで行われているワールドカップ(W杯)サッカーのことではありません。アルゼンチンの国家財政のことです。2001年以来、13年ぶりの債務不履行(デフォルト)に陥る不安が高まっています。ここでいうデフォルトとはアルゼンチンが自国で発行した国債が返せない状態をいいます。一体どういうことなのでしょうか。

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
[図表]再びデフォルト危機に陥っているアルゼンチン
どうして再びデフォルト危機になった?
 国債とは国の借金です。いつまでにこれだけの利息をつけて返すから貸してくださいと内外の投資家に募ります。「借金」という点で企業のそれと似た点が多々あります。まず約束の日までに借金の元本と利息を払わないと誰も信用してくれなくなります。追加の借金は誰も信用しませんからもちろんできなくなります。

 返すアテがない限り、発行した国は投資家(債権者)に減額をお願いするなど頭を下げなければなりません。アルゼンチンの場合、そうした事態が2001年に発生しました。したがって、現在はデフォルト後に債権者と話し合って決めた金額を支払っている最中となります。その途中で「やはり返せなくなった」に陥ったかもしれない……というのが今回の出来事です。

 2001年のデフォルト後、債権者の9割は減額に応じました。まったく返ってこないよりは少しでも回収したいからです。デフォルトしたからといって、アルゼンチンという国が消えてなくなるわけではありません。いくらか有望な産業もあります。その点では企業が民事再生法や会社更生法を申請して倒産するのと似ています。主体は存続するので粘り強く待とうと考えるのです。

 ところが一部の債権者は減額そのものに応じませんでした。「貸したカネは約束通り払え」と主張したのです。2014年6月、アメリカの裁判所が訴えを認め、全額を返さなければ7割ともいわれる減額に応じた債権者への利払いも認めないと命じました。アルゼンチン政府は、もし判決通りの全額返済(約1兆5000億円)をしたら、中央銀行が保有する外貨準備の5割を超えるとの試算を公表しました。つまり返せるのです。

 ただそうしてしまうと、前述の9割にのぼる減額受け入れ組の面目が立ちません。「全額よこせと主張したら払われるならば、大金をどぶに捨てるような減額を飲んだ我々はどうなるのだ」と。そうした声が大勢となったら10年以上何とか行ってきた返済計画自体を見直さざるを得ず、それが全員全額という結論になれば払えません。といって全額組への支払いを拒否したら判決にしたがって減額受け入れ組への利払いもできません。

 アルゼンチン政府は裁判結果を「不正で不当」と反発、予定通り利払いを続けるとしました。払う力があっても技術的に払えない状態で、2001年の「対外債務(借金)の元本と利子の支払いを停止した」と発表した状態とは異なります。今後はアルゼンチン政府が全額要求組と話し合って(お互い顔も見たくないでしょうが)譲歩を引き出すか、裁判の決定と現実を足して二で割ったような抜け道を探るような動きになりそうです。

市場は「影響は限定的」との見方
 市場は今回のデフォルト危機をおおむね「影響は限定的」とみなしています。何しろ返せるわけですから。とはいえ理由が何であっても「アルゼンチンはお騒がせ国」というレッテルが再びバシッと貼られるのがいい話であるはずもなく、通貨ペソは下落傾向に転じています。お騒がせ国の通貨は信用できないので売られてしまうのです。すると輸入品が高くなって国民生活が脅かされかねません。

 今のアルゼンチンはインフレ(物価が継続して上がる)気味ながら比較的順調な経済成長を遂げています。不安材料のインフレが物価高で助長されると国内経済にかなりの打撃を与えます。通貨が下がってメリットのある輸出もアルゼンチンの主力はもともと価格の安い農産品中心なので追い風より向かい風の方が強く吹きます。堪りかねて輸入規制でもしようものなら自由貿易圏から一層白い目を向けられるでしょう。

2001年のデフォルトはなぜ起きた?
 そもそもの発端であった2001年のデフォルトはなぜ起きたのでしょうか。アルゼンチンはパンパと呼ばれる肥えた平原を持ち、小麦や牧畜が盛んに行われ、フリゴリフィコ(保冷船)の運行開始以降は欧州などの一大食料輸出国として1920年代までは有数の富裕国でした。しかし農業とくに特定の産品に偏った輸出中心経済は1929年から始まった世界恐慌で大きな挫折を味わいます。農産品は工業製品よりも生産が不安定になりがちな上に、単価が安いために恐慌(突発的大不景気)に弱かったのです。

 この反省から戦後は工業化にも取り組みます。代表的な方法が輸入代替工業化で工業先進国から輸入してきた製品を国内で生産して自給していこうとの試みでした。一種の産業保護政策で多国籍に展開する企業との競争に敗れ、他方で補助金などを通して特定の企業が国内市場を独占するなど競争原理が働かなくなったり汚職や腐敗の温床にもなりかねない状態が続いて経済が行き詰まります。

 打破するために一転して国際市場経済への参入へとかじを切り替えたものの、今度は外国資本の参入、国内産業の衰退、インフレによる途方もない物価高などを招き、91年に「1ペソ=1ドル」の固定相場に変え、米ドルを後ろ盾にするなど苦心に苦心を重ねました。それでインフレはいったん収まり、10年近く安定します。ここで以前からの借金問題を少しでも改善すればよかったのを当時の政権は逆にばらまきへ走り、悪化したまま「その時」を迎えます。

今回の危機は“最悪のタイミング”
 90年代後半のアメリカのクリントン政権はドル高政策に出て外資の呼び込みをはかりました。特効薬だったはずの固定相場もペソが実力以上の評価を受ける形となり、国際水準から考えて労働者の賃金が高くなり、アメリカとは逆に外資が逃げ出します。固定相場ではドル高=ペソ高なので輸出も減少し、当然少なくなる税収を補うため国債に依存し、それが嫌われてさらに投資が減っていきます。

 ここで実勢に見合った相場となる変動相場制に移るべきという意見も出たものの、固定相場の成功体験と、それを失うとペソで収入を得て国際的信用のあるドルを借りていた企業などにの反発を恐れて踏み切れずにいました。同じ固定相場制の競合国ブラジルが99年に変動相場制に移って国際競争力を回復させたのと対照的に、ペソは過大評価と市場の信認を失います。とともに積もり積もった借金が疑問視され資本がさらに大流出、政府もあわてて公務員給与カットなどの対応をするも暴動にまで発展した揚げ句、ついに2001年、デフォルト(お手上げ)宣言せざるを得なくなりました。

 その後、アルゼンチンは変動相場制に移行し最悪期は脱するも、未だ返済途上にあって新たな国債を発行できません。そうなると道路などインフラの充実や補修に回すカネがなく厳しい状態が続いていました。一刻も早く返し終えて、デフォルト以来、締め出しを食らっている国際資本市場に再参加したいところでの新たなデフォルト危機。アルゼンチンにとって最悪のタイミングです。




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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)

2014年7月30日水曜日

<中国>イチからわかるウイグル族独立問題





2013年11月1日(金)10時30分配信

 北京の天安門広場で、車が歩道に突入し5人が死亡した事件について、当局は新疆(しんきょう)ウイグル自治区の活動家によるテロと断定しているのですが、背景にはウイグルにおける中国からの独立問題があります。ウイグルとはどのような場所で、彼等はなぜ中国から独立しようとしているのでしょうか?

自治区の半数がイスラム教徒
 新疆ウイグル自治区は中国の西端に位置し、人口約2000万の半分がイスラム教徒のウイグル族で占められている特殊な地域です。中国が王朝だった時代には、中国やモンゴル遊牧民族の圧力を受けながら独立と従属を繰り返していました。この地域にある楼蘭という古都はシルクロードの舞台としても有名な場所です。しかし1949年に中国共産党が政権を握って以降は、完全に中国に併合され、1955年に新疆ウイグル自治区という名称になり今に至っています。

 中国当局は、新疆ウイグル自治区に大量の漢族を移住させ人口比を逆転させようとしており、政治や経済といった重要な分野では漢人が大きな影響力を持っています。また中国は建前上、宗教を否定する社会主義国家なので、イスラム教の活動について常に監視下に置いています。このため一部の住民は中国の統治に対して強く反発し、中国からの分離独立を主張しています。

2009年暴動では約200人死亡
 2009年には同自治区のウルムチで、漢族によるウイグル族への襲撃事件を発端とした激しい暴動が発生し、中国当局の発表によると約200人が死亡しました。当局は暴動を扇動したとしてウイグル族9人を処刑したほか数百人が拘束されたといわれています。

 今年に入っても、警官隊と活動家の衝突などが何度も起こっていますが、同自治区の内情は外国のマスコミが取材できないためあまり明らかになっていません。一部の報道によれば、日本が戦時中に導入していた隣組(住民を相互監視させ密告させる仕組み。現在の町内会や回覧板はその名残)によく似た制度を導入し、住民を監視下に置いているといわれています。

軍事的に重要な地域
 中国はチベットでも同様の問題を抱えており、10月には国連人権理事会が中国に対してチベットやウイグル自治区などにおける少数民族の権利保護を求めました。しかし、中国側は「国を分断するような行為を受け入れることはできない」と主張し、反体制活動を弾圧するのは正当な行為であるとの立場を崩していません。かつて西側諸国は、中国のこうした人権弾圧を強く批判していましたが、現在では大国となった中国との経済協力を優先し、これらの問題については黙認しています。

 中国人は歴史的に、北方と西方の備えを完璧にしないと中国本土を守ることはできないとの考えを強く持っており、新疆ウイグル自治区は軍事的に重要な地域と認識されています。また一部民族の独立を認めてしまうと、数十あるといわれる少数民族が、一斉に中国政府に反旗を翻す可能性があり、当局はこうした事態を強く危惧しています。中国はよほどのことがない限り、この地域の独立を認めることはないでしょう。


(The Capital Tribune Japan)

2014年7月23日水曜日

元ソニー開発者のヒット商品“扇風機付き作業服” 「一度着たら手放せない」

2014.7.12 18:04
 昨年の3倍、25万着がすでに完売

 「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。

 商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。

 試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。

 そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。

 その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。

 ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目

 当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。

 「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。

 しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。

 「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。

 1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。

 開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」

 ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。

 その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。

 すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。

 「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」

 最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)