2016年1月20日水曜日

初公開! 首都圏鉄道「ノロノロ度」ランキング

東洋経済オンライン 1月19日(火)5時35分配信

 1月18日は大雪により首都圏の鉄道が大きく乱れた。いつもより会社に着くのが遅れたという人も多いだろう。ただ平常運転時でも、朝の通勤ラッシュ時は予定時刻よりも電車の到着が遅れることも少なくない。

初公開!首都圏ノロノロ運転ランキング

 国土交通省・交通政策審議会の「東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会」は、2016年度以降を対象とした首都圏の鉄道ネットワーク整備の基本方針となる新答申を検討している。JR東日本の羽田アクセス新線の行方をはじめ、さまざまな議論がこの委員会で行われている。

 16回目を迎えたこの小委員会が1月15日に開催され、鉄道輸送の現状に関する話し合いが行われた。今後の動向を決めるような方向性は打ち出されなかったものの、配布資料の中に興味深いデータがあった。

■ 最速達列車の評定速度で比較してみた

 「速達性の向上の現状と今後の取組のあり方について」と題された資料には、朝ピーク時における通勤列車の表定速度が路線ごとに記載されていた。表定速度とは、区間距離を所要時間で割って算出したもの。列車の実質的な運行速度を表す。

 平日昼間なら時速70~80キロメートルで走る通勤電車も、朝のラッシュアワー時は前に電車が詰まり、走っては止まりを繰り返す。乗客のイライラは募るばかり。表定速度を算出すれば、どの程度のノロノロ運転なのか、路線ごとの比較が可能になる。

 そこで、この資料に記載された首都圏の21路線について「最速達列車」の表定速度を比較してみた。最速達列車とは通勤快速、快速急行といった朝ピーク時において都心の終着駅に最も速く到達する列車を指す。

 ワーストは京王線(高幡不動⇒新宿)の時速32.6キロメートル。スクーター程度のスピードで走っていることになる。

 次いで、東急田園都市線(長津田⇒渋谷)の時速38.1キロメートル、東京メトロ東西線・東葉高速線(東葉勝田台⇒大手町)の時速39.2キロメートル、小田急小田原線(町田⇒新宿)の時速39.3キロメートル、東急東横線(横浜⇒渋谷)の時速40.3キロメートルと続く。

■ 北総線は昼間並みのスピード

 では、表定速度が速い路線はどこか。トップは北総線(千葉ニュータウン中央⇒京成高砂)の時速71.4キロメートル。ピーク時間帯の1時間当たりの運行本数が11本と少ないせいもあり、平日昼間並みのスピードで走ることが可能なのだ。

 次いで、JR京葉線(蘇我⇒東京)の時速66.7キロメートル、JR東海道線(戸塚⇒品川)の時速64.3キロメートル、JR横須賀線(戸塚⇒品川)の時速57.5キロメートル、JR東北線(大宮⇒上野)の時速57.3キロメートルと、JR東日本の路線がズラリと並ぶ。

 京葉線は通勤快速の途中停車駅が八丁堀と新木場の2駅しかないこと、東海道線や東北線は複々線のため運行本数に余裕があることが理由だ。

 各路線の表定速度が過去と比べて改善したのか、あるいは低下したのか。2015年と2000年を比較したデータも発表されている。

 最も低下したのはJR京葉線。2000年の時速80.6キロメートルから2015年には時速66.7キロメートルへ、13.9キロメートルも低下した。新木場駅に停車するようになったことや、直通運転を行う武蔵野線も含めた運行本数増などが理由として考えられる。

 つくばエクスプレスは10年間で時速63.6キロメートルから時速56.8キロメートルへ、6.8キロメートル遅くなった。快速が止まらない駅で利用者が増加したため、通勤快速を新設。その結果、途中停車駅が増えた。

 東西線・東葉高速線は表定速度が時速4.4キロメートル低下した。通過駅の利用客が増え、東葉快速を停車駅の多い通勤快速に変更したことが原因だ。京急本線は時速3.9キロメートル遅くなったが、こちらは運行本数の増加が理由となっている。

■ アクセス特急の新設が追い風

 反対に、表定速度が最も大きく向上した路線は北総線だ。時速59.5キロメートルから時速71.4キロメートルへ、11.9メートルもスピードアップした。成田スカイアクセス線の新設で停車駅数の少ない「アクセス特急」が新設されたことによる。

 西武池袋線は時速43.0キロメートルから時速53.5キロメートルへ、10.5キロメートルも速度が向上した。練馬―石神井公園間の高架複々線化が完了したことが理由である。同じく西武新宿線も時速6.5キロメートル、表定速度が向上した。こちらは停車駅数の少ない「通勤急行」が新設されたことによる。

 では、最もスピードの遅い京王線と最も速い北総線で、表定速度が倍以上も違うのがなぜか。最大の理由は運行本数の違いだ。京王線は朝ピーク時1時間に30本が走るのに対して、北総線は11本。大量の乗客を運ぶために運行本数を増やすと、速度を落とさざるをえない。

 京王、小田急、東急など東京西部を走る路線ほど、表定速度が遅い傾向がうかがえる。国土交通省は「東京圏西部方面については、他の方面と比較して、表定速度が低いことから、表定速度の向上に取り組むことが必要ではないか」と提案している。

■ どうすればスピードアップできる? 

 そのための対策としてまず考えられるのは、複々線化や退避線の設置だ。ただし、新たに線路を造るとなるとコストは莫大なものとなる。「国が鉄道会社に対して複々線化を迫ると『補助金を出せ』という話になりかねないので、国も強くは言えないのではないか」(関係者)との見方もある。

 JR東日本は近年、新型車両を導入し、車両の性能向上によるスピードアップを図っている。新たに線路を建設するよりは安上がりだろう。

 比較的コストがかからない対応策は、運行ダイヤの調整だ。西武新宿線のように、速達列車の停車駅を削減することでスピードアップした例もある。が、通過駅の大量の乗客をどうするか、という課題は残る。

 逆に、混雑を平準化するために速達列車の停車駅を増やした結果、表定速度が低下してしまった東急田園都市線のような例もある。混雑解消とスピードアップという矛盾した命題の解決に向けて、鉄道会社が知恵を絞る日々はまだまだ続きそうだ。

2016年1月10日日曜日

灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感

“灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
プレジデント 1月5日(火)8時45分配信

 “灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
都司嘉宣・深田地質研究所客員研究員、元東京大学地震研究所准教授。東京大学工学部土木工学科卒。 東京大学大学院理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)修了。
■「悔しいのですが、天才はほんとうにいる」

 「劣等感にずっとさいなまれてきたから、私しか持っていない力で勝負してやろうと生きてきました。私の力では、絶対に勝てない人たちはいます。悔しいのですが、天才はほんとうにいるのです」

 東京大学地震研究所の准教授だった都司嘉宣(つじ・よしのぶ)さん(68)が、自らのキャリアを振り返った。長年にわたり、津波や歴史地震学の権威として精力的な研究活動を続けてきた。2011年3月11日の大震災では、発生直後からNHKの番組などで津波についての解説をしたことでも知られる。

 12年3月に64歳で定年退官し、現在は、深田地質研究所(文京区)の客員研究員などを務める。東北大学の研究者らとともに調査をし、論文を精力的に書く。一方で、海外の研究者が来日すると、東北などの被災地を英語やロシア語を駆使して案内する。

 都司さんは甲子園球場の近くの小学校に通っている頃は、常に1番の成績だった。灘中(神戸市)に進学すると、1学年150人ほどのうち、130番前後になった。

 「はじめて強烈な劣等感を持ちました。私の学力ではかなわない生徒ばかりだったのです」

 中学2年から3年になるとき、父の仕事の関係で都内に転居し、麻布中(港区)に転校した。一学年270人で、成績は常時、50番以内になった。

 東大(理科一類)の受験では、得意の地学でほぼ満点だったという。

 「あの頃、東大の試験で地学を受ける人は少なかったのです。穴中の穴でした。数学の点数も高かったと思います。英語は、抜群にはよくなかったのかもしれませんね。英語には前々から、劣等感を抱いていたのです」

 1966年、現役で東京大学に入学する。3年からは、工学部の土木学科に進む。地球物理学科に進みたかったが、家庭の事情もあり、70年、土木学科を卒業した。その頃を「(土木学科は)自分が本来、いるところではないと思っていた」と振り返る。

 卒業後は念願だった、大学院の理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)に進む。就職することは考えなかったという。

 「土木学科の学生の中には、その後、大手建設会社の社長になった者もいますが、うらやましいと感じたことはありません。企業で出世したいと思ったことがないのです。同窓会で彼らと会っても、話はあまり合いませんね。そもそも、東大卒ということで優越感を抱いたこともありません」

■力ずくの研究姿勢が認められ、東大助教授に

 大学院在学中は親元を離れ、3畳一間のアパートに住む。家庭教師のアルバイトを掛け持ちし、学費や生活費をねん出した。親の支援を受けなかった。

 「自分で選んだ道に進んでいるのですから、迷いも焦りもありませんでした。この頃は研究のこと以外、考えませんでした」

 1972年、24歳で修士課程を修了する。博士課程2年の25歳から、国立防災科学技術センターに研究員として勤務する。29歳で結婚した。相手の女性は都司さんの学歴を籍を入れるまで知らなかったようだ。

 「私も人をみるとき、学歴は一切、無視します。研究者の力を判断するときも、論文や学会などでの活躍だけに興味がわきます」

 センターで一緒に研究をする人たちの学歴を気にかけたこともないという。

 「ほかの研究者がどのような研究をしていて、どのくらいの深さまで掘り下げているか、といったことは意識していました」

 1982年、35歳のとき、博士号(東京大学)を取得する。この頃、東大の地震研究所の梶浦欣二郎教授(故人)から、定年退官で退職するから研究室を引き継いでほしいと話を受ける。

 都司さんは、梶浦教授から研究指導は受けたことがない。

 「天才・梶浦と呼ばれていたほどの研究者から誘われ、恐れ多いと思い、当初はお断りをしたのです。梶浦先生の研究室の名を汚してはいけないと思いました」

 梶浦教授は、都司さんの論文に早くから注目をしていたようだった。

 「私は安政東海地震(1854)の津波による被害などを調べて、論文を書いたのです。まず、地震が発生した地域の2500ほどの寺院の住職に手紙を送りました。自寺の過去帳に、この地震で死亡した、寺の檀家の人数が書かれてあったら教えてくださいという内容です。6割ほどの寺から回答をいただきました。その被害記録から、地震の震度や被害について書き上げたのです」

 都司さんは、梶浦教授は論文から何かを感じてくれたのではないかと語る。

 「汚れまくって、力ずくで書き上げた論文に感心をしてくださったようです。あれはすごい論文だ、と誉めていただきました。あのごつさが、よかったのかもしれません。天才は試みないでしょうから……。

 私には、常に劣等感があります。優秀な人の中でいかに生きていくべきかと考え続けると、アイデアは浮かんでくるものなのです」

■劣等感が私を突き動かした

 1984年、37歳のとき、東大地震研究所に助教授として勤務することになった。ほかの教授や助教授に劣等感を抱くことがしばしばあったという。

 「天才肌で、光り輝くタイプの研究者が多いのです。英語の力ではかなわないから、ロシア語を勉強し始めました。ロシアは、津波の研究が進んでいます。ロシア語で書かれた論文を読むことができると、得るものが大きいのです。今では、専門分野の論文ならほとんど辞書なしで、なんとか読めるようになりました」

 都司さんが繰り返す言葉が、「劣等感が私を突き動かした」だ。劣等感があると、自分が進んでいく方向もみえてくると話す。

 「特徴のあるもので、まだ、ほかの人が試みていないこと、さらに試みることができないであろうことに挑むようにしてきました」

 東大地震研究所で、講師や准教授を雇うとき、その研究者の学歴について話し合われることはなかったと語る。

 「東大卒か否かは、まったく関係ありません。地震研究所に勤務する40人ほどの准教授や教授のほぼ全員が、その研究者の名前を知っているくらいでないと、採用されることはまずありえないと思います。20~30代で書いた論文が学会で相当に高い評価を受けていないと、名前が知られることはないでしょうね」

 前提として、一定水準以上の英語力と論文を書く力が必要にはなるという。最近5年間で書いた論文や学会での活動を記載した書類を地震研究所に提出することを求めると、1回の募集で全国から平均20人ほどがエントリーする。

 「みんなが輝かしい才能の持ち主で天才肌なのですが、採用されるのは1~2人。研究者として生きていくのは、過酷なのです。

 私は、修士課程で教えていた弟子たちには、院を修了した後の進路は、民間企業にも目を向けるようにといい続けきました。大学の研究者以外の道に進むことを促がしてきたくらいです。

 弟子13人全員が大学、研究所、会社や気象庁、病院、高校などで立派に働き、家族を養っています。これが、私の自慢です。変わり種では、医師になった者もいます」

 教え子たちからカラオケで歌うようにリクエストされていたのが、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」と氣志團の「まぶだち」。

 「(石原)裕次郎とか、(北島)さぶちゃんの歌を歌いたいのですが、学生たちが歌わせてくれないのです。大学で津波を教えるのも、何かと大変です(笑)。私の場合は、劣等感にさいなまれてきたことが、実はよかったのかもしれませんね」

 都司さんは、高校を卒業していない人が受ける「高認」(高卒認定試験)の試験対策の問題集を「しまりすの親方」というペンネームで執筆している。「高認理数系学習室」(学びリンク)などの問題集だ。今では、"高認界のカリスマ"といわれている。今後は、高校を辞めたり、不登校などの人たちに教えたいのだという。

ジャーナリスト 吉田典史=文