2013年11月25日月曜日

かんべえさんの日記からあまりにスバラシかったので勝手に拝借しました、スミマセン。

<11月17日>(日)

○『軍師の門』(火坂雅志・角川文庫・上下巻)を読了。黒田官兵衛ものであって、来年のNHK大河ドラマのネタ本である。

○が、これがつまらない。まーったく下手な小説だと思う。義理だ、仕事だと自分に言い聞かせながら最後まで読み通した。人物描写は浅いし、ストーリーには山谷がないし、とにかく史実をなぞってみました、という体裁である。荒木村重に投獄される部分も、本能寺の変から中国大返しに至る部分も、ほとんどドラマになっていない。唯一、フィクションでくわえた女性が登場するが、これが全く魅力に欠けると来ている。何が書きたかったのだろう。笑ってしまうのは、最後についている「解説」もひどい。お暇な方は、書店でこの解説だけを立ち読みされたらよい。ワシは「やっぱり買うの止めようか」と思いましたぞ。

○と、いきなり全否定してしまったが、ここ20年くらいで戦国時代研究はずいぶんと進化を遂げているようで、本書にはたとえば官兵衛が九州に行ってからの官兵衛の足跡や、城造りの名手であったことなどが丁寧に描かれている。歴史小説としてはいかんが、官兵衛ファンにとっては読んでおくべき一冊ということになるのかもしれない。でもねえ、これに比べると時代は古くなってしまうし、古い材料を元にして書かれているけど、司馬遼太郎の『播磨灘物語』や吉川英治の『黒田如水』の方が、よっぽど小説としてのレベルは高いし、そっちの方がお勧めだと思う。まあ、比べる相手が悪いという気もするが。

○ワシ自身の官兵衛像は、この辺この辺で書いた通りである。何と10年以上前に書いたものなので、いい加減自分でも忘れているのだが、とにかく官兵衛が「軍師」であったというのが信じがたいと思う。黒田官兵衛孝高は、何はさておいて戦国武将ですよ。自分の家や家来をほったらかして、秀吉の腹心になって満足していたとは思えないんですよねえ。現代人は、軍師とか参謀役とかが妙に好きなわけですが、戦国時代はまだラインとスタッフが未分化な組織で戦争をやっているわけですから、「軍師」の地位はあんまり高くはなかったと思うんです。

○それから、「高松城水攻め」が官兵衛の発案だったという話も嘘くさいと思う。あんな風にカネのかかる作戦は、思いついても口に出せないでしょ、普通。あれは土木事業が大好きだった秀吉が、三木城→鳥取城の城攻め思想を発展させて、トップダウンで決めたと考えるのが自然であろう。官兵衛をスーパースターにしようとすると、ついついそういう設定にしたくなるけど、そういう人ではなかったと思うんだな。

○と、腹ふくるる思いをした不肖かんべえなのであった。ね、官兵衛さん、違うよねえ。





歴史漫談『官兵衛とかんべえ』
①戦国時代編(掲載:2000.4.2--4.5)

<4月2日>(日)
○『播磨灘物語』を読み返してみました。「かんべえ」というハンドルネームの元となった黒田官兵衛の生涯なんですが、あらためて気がつくと、彼は20代にはほとんど何もしていないんですね。官兵衛が世の中に飛び出すのは、30を過ぎて羽柴秀吉に出会ってから。その後の活躍はわりと有名ですが、若き日の官兵衛が何をしていたのかはほとんど伝わっていない。ことによると鬱々とした日々だったような気もする。 

○『播磨灘物語』の中では、官兵衛がキリシタン仲間との交流したり、将軍足利義昭擁立に協力したことが書かれているけど、このあたりは司馬遼太郎さんの想像力の産物と考えたほうがいいでしょう。のちの天才軍師は、どんな青春時代を送っていたのか。ということで、架空インタビューを実施してみました。 

かんべえ 「官兵衛さんは20代の頃は何をしていたんですか?」
官兵衛 「いやもう、正直なところ暇で暇で・・・・。こんな田舎でくすぶっていていいのかと、何度も思いましたよ」
かんべえ 「やめちゃいたいとは思いませんでしたか」
官兵衛 「そんなこといっても、僕は長男だし、筆頭家老だし、無責任なことはできませんよ」
かんべえ 「長男だなんて、そんなこと気にする人だったんですか」
官兵衛 「親父が40代で隠居して、僕に家督を譲ってくれたでしょう。それでいきなり小寺家の筆頭家老でしょう。最初のうちは重荷だったですよ。弟もいるし、家臣はみんな真面目だし、周囲の期待は大きかったし・・・・。それに小寺氏の家老って、ほかに頼りになるひとはあんまりいないし、退屈なわりには結構きつかったですよ」

かんべえ 「小寺家を乗っ取って独立、なんて思いませんでしたか」
官兵衛 「全然。僕はそんなガラじゃないって・・・・」
かんべえ 「そういうところが後世では人気があるんですけど、その気になれば20代のうちに播磨一国くらいは取れてたでしょ」
官兵衛 「(笑い)・・・・かもしれないけど、その場合は人生そこで終わったでしょうね。後になってから良かったなと思ったんだけど、僕は20代では何もしなかったけど、無茶や無理もしなかったの。それで信用されたと思うんだな。田舎で信用されるには、“昔から知ってる”ってのがいちばんですからね。とくに黒田家内部が僕を信用してくれた。その後、僕はいろんなギャンブルをしたけど、みんな最後までついてきてくれましたからね」
かんべえ 「それじゃやっぱり、無駄にしてたわけじゃないんだ」
官兵衛 「やっぱり二代目ですからね。親の代からの家臣に信用されるのって、難しいですよ」

かんべえ 「20代で楽しかったことって何がありますか」
官兵衛 「やっぱりキリシタンになったことでしょうね。正直に言いますけど、僕はそれほど信仰心が厚かったわけじゃないんです。ただね、キリシタンになると情報が入ってきた。それが面白かった」
かんべえ 「なぜキリシタンは情報が入るんですか」
官兵衛 「キリシタンになるって連中は、当時としてはインテリなんですよ。それも若くて面白い奴が多かった。そいつら全員と友人になれたんです。しかも神の前にはみな平等だから、大名でも商人でも対等に付き合うんです。今でいうネットワーキングですか。田舎に住んでいたけど、あれで世界が広がったと思う」
かんべえ 「なんだか勉強会みたいなことをしてたんですね」
官兵衛 「情報を集めるとか、形勢を分析する技術なんてのは、あの頃に覚えたんです」

かんべえ 「官兵衛さんの20代には、播磨の国はまだ空白地帯ですね」
官兵衛 「東から織田家、西から毛利家が伸びてきていた。でも播磨に到達するまでには、5年以上かかると思っていたから、あわてることはなかった。そうそう、それでお金を貯めてましたね」
かんべえ 「官兵衛さんは晩年になってもケチだったという評判が残っています」
官兵衛 「若いときからの癖なんだな、きっと。いずれ勝負のときが来る、と思ってたから」
かんべえ 「そういうお金は何に使ったんですか」
官兵衛 「主に情報を集めるためかな。そうそう、僕は初めて秀吉に会ったときは袖の下を渡してるんですよ。あの人はお金のかかる人だって知ってたから」

かんべえ 「官兵衛さんは、意外と生臭いこともしてるんですね」
官兵衛 「その辺が竹中半兵衛さんとの違いかな。僕はね、秀吉の若い頃からの悪事をいっぱい知ってるの。とても書けないようなことも含めて」
かんべえ 「歴史に残ってないことも含めて、ですね」
官兵衛 「歴史に残っていることなんて、ほんの一部ですからね。年取ってから、僕は秀吉から干されるわけだけど、それって無理のない話なの。弱みをいっぱい握っているわけだから」
かんべえ 「歴史に残ってない話を少し教えてくださいよ。本能寺の変は実は秀吉が仕組んだとか」
官兵衛 「そりゃあちょっと無理があるけど、司馬さんが書き残したことはたくさんありますよ。いい本だけどね」 



<4月3日>(月)
○かんべえと官兵衛の会話は思ったよりはずんで、どんどん先へと進みます。 

かんべえ 本当は、官兵衛さんの20代についてだけ聞くつもりだったんですけど、ご機嫌が良いようなので、もう少し話を伺ってみましょう。で、司馬さんがあの時代について書き残したことって、どんなことがあるんでしょう。
官兵衛 たとえばね、織田軍団の内部事情なんかは、あんなに生易しいものではなかったね。
かんべえ と、いいますと?
官兵衛 当時の織田軍団というと、今でいうとオーナー社長の下で急成長している企業なわけですよ。もうソフトバンクか光通信かってくらいで。組織の内部はもうむちゃくちゃね。朝令暮改に下克上で、落ち着きがない上にピリピリしているの。仲間内の足の引っ張り合いもすごくえげつない。
かんべえ たとえば、秀吉と柴田勝家は仲が悪かったそうですね。
官兵衛 あの二人はまだいいの。お互いに認め合っているところがあったから。でも、汚いことするやつもいるわけ。たとえば信長の晩年に、重臣の林、佐久間が放逐されるでしょ?あれだって仕掛けるやつがいるの、内部に。もう油断も隙もない。前線に立ってても、いつ後ろから弾が飛んでくるか分からない。正直なところ四分六で内部の方を向いてないと、仕事ができないって感じ。 

かんべえ でも、織田軍団の中で秀吉は出世しますよね。あれはやっぱり他人の足を引っ張ってのし上がるんですか。
官兵衛 そういう面がなかったとはいえないよね。たとえば、ある時期の織田家は、誰が中国方面担当司令官になるかがすごく注目されるんです。誰が見たって打倒毛利家が最重要課題だし、その担当者が織田家ナンバーワンの評価になるから。信長はそういうとき、部下にコンペをさせるんです。もっとも早く、確実に、安上がりに勝てそうな部下を選んで指名する。実はある時期までは、この競争は光秀が一番札だった。
かんべえ 秀吉はそれを大逆転するわけですね。
官兵衛 そう、そのやり方がおかしいの。秀吉はいきなり僕を岐阜城に連れていって、「すごい男を見つけました。この男ひとりで播州は取れます。ついでに中国方面も全部取れます」って宣伝するわけ。そこで僕は初めて信長の前に出て、「こうすれば毛利は倒せます」と一席ぶたされるんです。これが受けちゃって、「よし、だったら秀吉、毛利攻めはお前がやれ」。これで決まり。
かんべえ いきなり自分の出世に利用されちゃったわけですね。
官兵衛 そう、だから秀吉は僕には恩義があるんです。

かんべえ じゃあ、毛利攻めの最中にも、同僚によるいじめがあったんですか。
官兵衛 端的にいうと、荒木村重が造反するでしょ。あれで僕はエライ目にあうわけだけど、僕の前に、最後に説得に行ったのは明智光秀なの。でも説得に行ったのか、寝返りをけしかけたのかは分からないよ。
かんべえ ひえー、そりゃひどい。
官兵衛 だって、彼は秀吉にポストを取られて、気の進まない丹波攻略なんかをさせられてるんだもの。邪推かもしれないけど、「おぬしの気持ちはよく分かる」なんて言ってたんじゃないの?摂津の村重が寝返ると、播磨の羽柴軍は困るけど、丹波の明智軍は関係ないしね。
かんべえ 光秀はけしからんやつですね。
官兵衛 でもね、こっちも彼に対してはいろいろやったから。 

かんべえ 具体的にどんなことをしてたんですか。
官兵衛 スパイを送ってたんだよね。明智軍だけじゃないよ、秀吉軍てのは自民党田中派みたいなもので、そこらじゅうに「隠れ秀吉派」を作ってあるわけ。光秀はとくに危ないってんで、優秀なのを送り込んどいたの。そしたらある日、様子がおかしいことに気づいたんだな。
かんべえ ひょっとして・・・・
官兵衛 そう、明智軍が亀山城を出て、老の坂まで来たら、「わが敵は備中にあらず、本能寺にあり」って言うんだもん、そのままスパイは逐電して秀吉陣営まで飛んできた。
かんべえ 本能寺の変を知らせたのはスパイだったんですか。
官兵衛 もちろん、信長が死んだかどうかはわからなかったけど、結果は察しがついたよね。堺の商人が飛脚をよこしたとか、明智の使者が報告先を間違えたってのは、僕らが後で作った話。これが「中国大返し」の実態ですよ。 

○かんべえさんのインタビューに対し、官兵衛さんは快調に何でもしゃべってくれる。明日はいよいよ本能寺の変の真相が明らかになる。乞うご期待。 



<4月4日>(火)
○光秀の謀反は秀吉陣営にはつつぬけだった、という。そうなると気になってくるのは、日本史最大の謎のひとつである本能寺の変の真相だ。 

かんべえ そこまで話したら、本能寺の変の真相についても教えてくださいよ。
官兵衛 うーん、本当のところはね、僕らもわかんないよ。光秀がなんであんなことをしたのかはね。でも、彼の気持ちは分かるんだ。
かんべえ 後世では怨恨説、野望説などが有力とされています。
官兵衛 野望ってことはないよ。奴はそんなタマじゃなかった。怨恨も当たらないね。浪人してたところを拾ってもらったんだから、信長への恨みよりは恩義の方が圧倒的に大きい。強いていえば、正当防衛に近いのかな。あのままいけば、彼は確実に殺されていた。だから殺られる前に殺った。それと、最後の頃の光秀は、心身症に近かったからね。
かんべえ 光秀をそんな風に追い込んだのは信長自身だった、と。
官兵衛 うーん、これを説明するのは難しいんだけど・・・・・

かんべえ いろいろわけがありそうですね。
官兵衛 そうだな、ある時期から信長は明らかにおかしくなっちゃうわけ。もう、全然、感情の抑制が効かなくなってしまうの。やたらと人を殺させたり、かと思うとボロボロ泣いたり、冷静な指導者ではなくなってしまう。元亀年間の頃は、織田家がいつ滅ぼされるかわからないという緊張感があったけど、長篠の合戦あたりからはそれもなくなって、完全に自分を止められなくなった。天正9年には「伊賀のもの、一人も生かすな」なんて無茶苦茶な命令を出してしまう。でも、なにしろ織田家はワンマンカンパニーだから、そうなっちゃうと誰も止められない。組織としての抑止力もゼロだったし。
かんべえ オーナーが変になって、バブル企業が崩壊する感じですか。
官兵衛 もちろん、止めようとはしたんですよ。秘書役の森蘭丸なんかが、「ちょっと御館様が変なんです。秀吉さん、あんたがいちばん呼吸が合うんだから、なんとか言ってやってください」って頼んでくるわけ。でもさ、秀吉はイエスマンだから、結局何も言えないの。
かんべえ 信長がそんなふうになった理由はなんだったんでしょう。
官兵衛 僕ははね、殺し過ぎたんだと思うんだな。あの人は叡山焼き討ち、伊勢一向一揆虐殺とかやるでしょ。でも彼だって人間だから、良心の呵責は感じていると思うんだ。そうすると苦しむよね。苦しいのを忘れるために、もういっぺん虐殺をやっちゃうの。それで、「こんなことはたいしたことじゃないんだ、こいつらが悪いんだ」って思うんだろうね。そうやって自己正当化を図っているうちに、暴力が拡大再生産されていく。最後の時期には恐くて、誰も面と向かってものが言えなくなっていた。

かんべえ それでも、織田家の快進撃は続いていた。
官兵衛 ある時期からの織田家は事業部制になって、羽柴、明智、柴田、丹羽、滝川といった子会社が競争しながらどんどん成長するのね。でも、親会社の社長は狂っていて、自分がいつクビになるか分からない。そういうとき、子会社の社長はどうすると思う?
かんべえ ・・・・分かりませんね。
官兵衛 自分だけはやられたくないから、やられ役を作っちゃうの。つまりイジメだね。信長の怒りが爆発しそうになると、「悪いのは全部こいつです」とみんなで口裏を合わせてしまう。そうしておけば自分自身は無事だからね。
かんべえ 犠牲になったのが光秀であったと。
官兵衛 そう、彼は典型的ないじめられ役だったの。信長がひとりで怒り狂っているときに、なーんとなく光秀がスケープゴートになってしまう。そういう雰囲気作りは、秀吉がいちばん上手だったよ。小さな頃にいじめられた子供は、大人になってからそういう勘が働くのね。
かんべえ それじゃ光秀はたまりませんね。
官兵衛 そう、最後の頃には、「俺はこのままじゃ殺される」と思ってただろうね。

かんべえ それじゃ、官兵衛さんなんかは、光秀の裏切りはうすうす感じていたんじゃないですか?
官兵衛 感じてなかったといったら嘘になるね。というより、信長が死んだと聞いて、織田家の部将はみんなほっとしたと思うよ。正直なところ、最後の頃はみんなが戦々恐々で、「誰かなんとかしてくれ!」って感じだったもの。光秀の謀反に内心、拍手を送った部将は少なくないと思う。
かんべえ 言葉は悪いですけど、彼は家臣団を右代表して手を下しちゃったというか。
官兵衛 そう。光秀の気持ちになるとね、信長を殺せばみんなが拍手してくれると思ってたんじゃないかな。でもそれって甘いよね。自分の主君を殺した人間は誰にも信用されない。そういうことって、実際に手を下してみると気がつくんだよね。本能寺の後の彼の行動は明らかに変でしょ。非常に中途半端な行動を続けて、まるで自滅するように死んでしまう。
かんべえ なんだか光秀が可哀相になってきたな。

官兵衛 そういう罪悪感は、当時の織田家の部将はみんな感じていたと思うよ。「あいつ馬鹿だなー」なんていいつつ、まあ、でも取りあえず自分が助かって良かったな、って。
かんべえ そういう計算をしていた官兵衛さんも結構ずるいというか。
官兵衛 たしかに、ついに光秀が動いた、という情報を得たときは、立ち込めていた雲が消え去ったような気がしたな。高松城で毛利軍と対峙していたけど、彼らは最初から戦う気なんかなくって、お互い八百長試合もいいところだったからね。吉川、小早川とはツーカーの意思疎通ができていたし、僕らはいつでも好きなときに席を立つことができた。僕らはついてたんだ。
かんべえ 聞いててだんだん腹が立ってきたな。やっぱり本能寺の変は秀吉が仕組んだんじゃないの。
官兵衛 そういうなって。その後の「中国大返し」から山崎の戦いのプロセスは、やっぱりギャンブルだったからね。もちろん、負ける気は少しもなかったけど。
かんべえ 秀吉と官兵衛さんは、相当に腹黒いことを相談していたんですね。
官兵衛 あははー、でもね、秀吉と僕のコンビは、当時の日本では掛け値なしに最強だったと思うよ。二人で知恵を絞って強敵に打ち勝っていくという体験は、強烈な快感だった。・・・・それに、君だってこういう話は、まんざら嫌いでもないんだろう? 



<4月5日>(水)
○かんべえさんと官兵衛さんの戦国時代問答は、3日間にわたって続けられました。二人の間には、若干の余熱が残っているらしく、昨今の状勢に関しての雑談が続いています。 

官兵衛 ときに今度はこっちから聞くけど、僕が戦国時代の話をしている間に、この時代では総理大臣の交代があったんだね。本能寺ほどではないが、最高権力者の無力化という一種の異常事態が発生した。ところが乱世になるという感じでもない。これはどういうことだい。
かんべえ 小渕前首相が倒れたのは4月1日の夜。それが4月5日には新内閣発足。「中3日」で処理したわけですが、うち1日は事実を隠していたから本当は「中2日」でした。危機管理としては上出来の部類で、個人的には久々に「自民党という知恵」を感じましたね。現にこの間の株価は、ほとんど政局とは無関係でした。

官兵衛 それで次の政権はちゃんと機能するのかな。どうも簡単すぎるように感じるけど。
かんべえ 今回の事態を本能寺の変に置き換えれば、せいぜい清洲会議が行われたあたりでしょう。やっぱり戦争をやらなければ政治は安定しません。現代日本では戦争をしませんから、代わりに選挙をやって決着をつけます。選挙で勝てば森政権は認知を得ますし、負ければ他の人に取って代わられるでしょう。
官兵衛 だったら早くやったほうがいいな。
かんべえ 新聞紙上では、解散・総選挙は近いという見方がもっぱらです。
官兵衛 戦争でも選挙でもいいが、天下を取るときはちゃんとライバルを倒して、自分の正統性を立証しなければならないね。リスクを回避してちゃ、権力は安定しないよ。

かんべえ ところがホンネの話、政治家は選挙が恐いんです。森さんも「ノミの心臓」で解散を先送りするという説もある。
官兵衛 政治家のことは知らんが、戦国大名が戦争を逃げちゃいかんね。この世界は、いつも戦い続ける、ということが大事なんだな。織田信長が戦国時代の勝利者になった理由が分かるかね? 勝っても負けても、しじゅう戦争をしていたからさ。武田や毛利なんて、勝てるいくさだけ選んでやっていたから、織田家の脅威にはならなかった。
かんべえ ほほう、武田、毛利はいくさが足らなかった、と。
官兵衛 だいたい彼らは、ロジスティクスの概念を知らなかったから、大規模な遠征軍を組織できなかった。しかし織田軍団はいつも各地を転戦して、細かな無数のノウハウを蓄えていた。そこの違いが大きい。

かんべえ 今の話を現代に置き換えてみると、いつも選挙を戦うことが政党を強くするということですね。思い当たることが多いなあ。自民党の中でも、これまで武闘派といわれる集団が権力を握り、リーダーを生み出してきた歴史がありますしね。あ、そういえば企業だって競争がなければ駄目になりますわな。
官兵衛 戦うということは、人材を育てる上でも大切なことなんだ。勝ちぐせをつけてのしあがるか、敗北から教訓を得るか、いずれにせよ戦わないことにはリーダーは育たない。
かんべえ 現代はリーダー不在の時代などといわれますが、それは政治家が「君子の争い」をしたり、「相乗り選挙」をやっているからかもしれませんね。
官兵衛 そういうところは戦国時代を見習ってください。
かんべえ 最後は『プレジデント』の対談みたいな落ちになりましたな。
官兵衛 あははー、ところで誰がこんなもん読んでるんだ? 



編集者敬白



歴史漫談『官兵衛とかんべえ』 ②参謀論編(掲載:2000.5.3--5.7)



<5月3日>(水)
○世間は5連休に突入。HPを見る人も減るだろうけど、休日にネットサーフィンくらいしか楽しみのない人(ワシもそうだが)のために、特別企画のインタビューをお送りします。ゲストはあの人です。

ホスト:溜池通信編集長*かんべえ
ゲスト:戦国時代の知将*官兵衛

●第1回「僕は参謀じゃない」

かんべえ 当HPへようこそ。1ヶ月ぶりのご無沙汰でした。
官兵衛 やあしばらく。その後、僕へのファンレターの類はあったかね。
かんべえ いえ、もう全然。常連さんの方が一人、面白かったといってくれたくらいで。この企画、あんまり受けてないんですよ。
官兵衛 なーんだ、前回は相当に画期的な話をしたつもりだったのに、意外とレベル低いんだなここの読者は。
かんべえ 止めましょうよ、そうやって煽るの。メールを催促しているのがモロばれですから。みんなその程度には賢いんです。
官兵衛 あははは・・・・ま、お互い受けなくてもいいから好きなことしゃべろうか。

かんべえ それで今回は「参謀とは何か」についてお聞きしたいのですが。
官兵衛 んー、ということは、僕は参謀ということにされてるわけ?
かんべえ 如水・黒田官兵衛は、今日では筑前黒田家52万石の開祖というよりは、秀吉に天下を取らせた名参謀という評価の方が有名なんですが。
官兵衛 それは不本意だなー。たしかに僕は秀吉へのコンサルティングはしたけど、本業は黒田家の当主だからね。親の代からの部下もいっぱいいたし、ちゃんとした武将のつもりだったんだけど。
かんべえ 後世から見ると、戦国時代の武将なんて掃いて捨てるほどいるけど、名参謀はあんまりいないでしょ。だから今の時代から見るとそっちの方が値打ちあるんですよ。
官兵衛 同時代の感覚からいうとね、参謀って一人の武将の信頼だけがあればそれでいい立場でしょ。でも武将は部下全員の信頼がないと務まらないわけですよ。この人駄目だなー、見込みないなーと思われたら、みんな離れていってしまう。そりゃ厳しさが全然違うよ。
かんべえ ほー、官兵衛さんの自己認識では、自分はあくまでも武将であると。
官兵衛 純粋な参謀というと、武田信玄に仕えた山本勘助なんかいい例だと思うんだけど、自前の部下を持たないから、無責任な評論家みたいな存在なわけ。あとは君主に取り入っていればいいだけだから、あんまり尊敬された人はいなかったね。

かんべえ いまのご指摘は非常に興味深いところなんですが、組織をラインとスタッフに分けると、戦国時代のルールはライン重視であったと。
官兵衛 当然だよ。ラインというのは、たとえ5人の部下を持つ足軽頭でも、ちゃんとリスクを負ってるんだから。リスク持たずに仕事してるやつと比較しちゃ気の毒だ。
かんべえ 官兵衛さん自身が黒田家のトップとして、ラインやスタッフを使っておられたのでしょうが、やはりラインを重視されたわけですか。
官兵衛 そうだね。特に若い人を育てるときは、ラインに置かなければいけないと思うね。
かんべえ 官兵衛さん自身が助言を求めた相手は誰になりますか。
官兵衛 父でしょうかね。でもね、助言を求める相手は、何も家臣に雇わなくてもいいんですよ。たとえば自分の領内の政治がうまくいっているかどうかなどは、家臣に聞くよりも町民や百姓に直接聞いたほうがいい。僕はそういう定点観測をよくやりましたよ。

かんべえ しかし官兵衛さんは、秀吉軍においてはトップへのアドバイザーというか、スタッフ的な仕事をされてますよね。
官兵衛 そこんとこに織田軍団の人使いの妙があるんだな。僕の主筋である小寺家が織田方と組んだことで、僕は信長の指示を受ける立場になったの。で、僕は中国方面司令官である秀吉の与力として働くように命じられるわけ。それで秀吉軍で仕事をして、アドバイザー的なこともしたんだけど、単純に秀吉に仕えていたわけではない。
かんべえ なるほど、秀吉と官兵衛は単なる主従ではないわけですね。
官兵衛 そう、クライアントとコンサルタントというか、投資家とストラテジストみたいな関係。しかも僕のパフォーマンスが悪かったら、どんなに秀吉の受けが良くても、他の与力たちが黙っちゃいない。ちゃんと信長に報告が行くという形で、チェック機能が働いていた。そういう意味では緊張関係があった。
かんべえ 織田軍団というのは近代的な組織だったんですね。
官兵衛 というか、部下がサボったり裏切らないように、信長がきっちり監視していたんですよ。秀吉と僕が相談するときも、なるべく一対一にならないように気をつけました。毛利との外交交渉なんかは当然そうするけど、城攻めの作戦なんかはわざと大勢の前で進言するの。なぜこの作戦がいいかという理由を、全員に説明しなければならない。そういう状況はちゃんと安土に報告されている。

かんべえ うーん、これは気が抜けない。
官兵衛 安土は忍者も寄越すし。
かんべえ え、忍者ってよその国に派遣するもんじゃないんですか。
官兵衛 あのねえ、どんな世界でもそうだけど、一流の人間てのは数が少ないの。敵国に派遣して情報が取れるほどの忍者は、希少価値だし、雇おうとするとすごく高いわけ。でも二流の忍者は大勢いるし、安く使えるの。そういう忍者には、戦国武将は自分の部下を監視する役目を与えるんだな。だって僕らも、安土から来たと分かってる忍者は斬れないじゃない。
かんべえ 忍者のマイナーリーグみたいなものですね。
官兵衛 本能寺の変のあとは、そういう配慮がまったく不要になった。僕が本当の意味で秀吉の参謀の仕事をしたのは、それから後のごくわずかな時間に過ぎません。でも、その間に天下の大勢が決まった。
かんべえ 官兵衛さんがいわゆる「参謀」に対し、かならずしも好感を持ってない、というのが、この話を進めるにあたって面白い前提になると思います。明日もお楽しみに。



<5月4日>(木)


●第2回「孔明は戦略家失格」

かんべえ なんで参謀にこだわっているかというと、歴史好きといわれる日本人の中には知将タイプの人気が高いんですよ。『信長の野望』みたいな歴史ものシミュレーションゲームでも、武力より知力の高いキャラクターが好かれる。
官兵衛 帷幕にあって千里の外に勝利を我がものとする、というやつだな。そんなこと滅多にないんだけど。
かんべえ 黒田官兵衛ファンもかなりの部分はそういう見方をしていると思いますよ。
官兵衛 そういうところはずっと変わらないんだね。僕自身、「官兵衛殿はわが国の諸葛孔明ですな」みたいなことを生きてるうちに何度も言われましたよ。僕はあんまり孔明という人を評価してないんだけど。

かんべえ 当代有数の戦略家の一人に、岡崎久彦さんという元外交官がいるんですけど、この人のオフィスに行くと、応接室にご自分で書かれた「出師の表」が飾ってあるんです。
官兵衛 あれはいい文章だね。僕らの時代でも、これ読んで泣かないやつは男じゃない、みたいな言い方をしてました。ところが、ああいうマニュフェストにはマイナス面もある。
かんべえ 岡崎さんの言によると、「出師の表」は魏へ進撃するたびに何度も書かれていて、後へ行けば行くほど苦しい内容になるんだそうです。
官兵衛 そうなんだ。「出師の表」には、蜀が魏を攻めなきゃいけない大義名分が明らかにしてある。あれを読めば兵士の士気も高まったと思う。でも、あんなふうに宣言してしまうと、蜀としては後に引けなくなる。つまり自分のオプションを非常に少なくしてしまった。「出師の表」によって忠臣・孔明の名は歴史に刻まれたけど、戦略家・孔明は自分を窮地に追い込んでしまった。

かんべえ 当時、孔明が置かれていた条件は相当に不利なもので、それも人気の理由になっていると思いますが。
官兵衛 たしかに当時の蜀は魏に対して圧倒的に不利だった。そういうときは、弱者の戦略を取らなければならない。できれば先方がこちらに攻めてきてくれるのがベストで、次善の策はゲリラ戦と内部工作。地の利を活かしたベトナム戦争スタイルを目指さなければならない。遠征軍を組織してこちらから攻めていくなんて、非常にもったいない話なんだ。
かんべえ 官兵衛さんが孔明の立場だったらどうしてますか。
官兵衛 そうだね、あの程度の不利な条件を逆転した例は、歴史を探せばいくらでもある。そういうときは、敵失が出るのを辛抱強く待っていたことが多い。曹操が死んだ後の魏は混乱続きだったから、僕なら我慢だね。でも、孔明は魏を討たなきゃならないという使命感が強かったし、病弱だったから待ってられなかった。

かんべえ ではじっと時間を稼ぐとして、その間はどうしますか。
官兵衛 人材の発掘と育成に決まっているじゃないか。
かんべえ うーむ、たしかに孔明の下では人材が育たなかった。唯一の馬稷も泣きながら斬ってしまったし。
官兵衛 斬っちゃ駄目なんだよ。あれじゃ、部下は動揺するよ。「孔明殿はあれだけ手塩にかけた部下も斬ってしまった。能のないわれわれはどうなるんだ」って話になる。
かんべえ 官兵衛さんが考える人材育成の決め手は何ですか。
官兵衛 織田信長や魏の曹操がいいお手本だよ。大盤振る舞いをして人を集めて、どんどん仕事を任せて、失敗してももう一度チャンスを与える。トップというもんはね、期待している部下が失敗したときは内心「しめた」と思うくらいでなきゃ。そういうリスクをとらないと、人は集まらないし部下は成長しない。
かんべえ この前、マレーシアに行ったときに感じたんですが、あそこはマハティールが20年近く政権を握って、後継者が育っていないんですね。トップが独りで何でもできちゃうと、部下が甘えてしまって指示待ち型になってしまうんですね。
官兵衛 権限委譲をしないと、結局は自分が苦しむことになる。三国志の中に、捕虜が「孔明殿は鞭20以上の罰はご自分で決裁されます」と言うので、司馬仲達がほくそえんだ、という記述があるよね。本当かどうか知らないけど、おそらく仲達は「なーんだ、あいつはその程度か」と思ったんじゃないかな。これじゃ俺は負けんわ、と。

かんべえ 結論として、官兵衛さんは諸葛孔明に対して点が辛い。
官兵衛 戦略家としては一流ではない。だって結果を残せなかったんだもの。でも彼は忠臣で、男の美学を貫いたわけだ。
かんべえ それではトップを補佐する人材としてはどんな形が望ましいと考えますか。
官兵衛 その辺の話はまた明日。



<5月5日>(金)


●第3回「トップは参謀より賢い」

かんべえ たとえば中国の歴史書などを読むと、皇帝とその補佐役の話がしょっちゅう出てきますよね。
官兵衛 『資治通鑑』なんかは全編そればっかりだな。どの時代を読んでも、ナントカという家臣がこういう進言をして、君主の怒りを買って殺された、あるいは意見が採用されてうまくいって誉められた、てな話が延々と続く。ま、あれは司馬光が皇帝に読ませるために書いたんだから、それはいいんだけど。
かんべえ 日本の歴史では、徳川綱吉と柳沢吉保とか、吉宗と大岡越前なんて例はありますけど、「強力なリーダーと名補佐役」の実例は、話として好まれるわりには少ないような気がします。
官兵衛 リーダーシップの性質に問題があるんじゃないのかな。トップが全組織を掌握している場合は、アドバイザーは必要だし、なり手もどんどん出てくる。中国の皇帝は絶対専制君主でしょ?だから家臣が必死で知恵を出そうする。でも、「トップは君臨すれども統治せず」の日本型の組織においては、補佐役なんて本当は必要ない。みんな官僚機構がやってくれるから。

かんべえ なるほど、日本の組織でもトップがちゃんと権限を持っていれば、名補佐役は出てくるわけですね。そういえば本田技研の本田宗一郎と藤沢武夫、なんて例もある。
官兵衛 一方、信長なんかはカリスマ型が行き過ぎて、補佐役を持とうとしなかったリーダーだけどね。秀吉や家康なんかは、まだしも普通の人だったから他人の意見をよく聞いたと思う。

かんべえ 話が飛びますけど、企業のコンサルティングをする場合でも、クライアントが会社のCEOであるか、経営企画部であるかは大きな分かれ道になるようです。
官兵衛 前者は分かるんだけど、後者はどういうケースなんだい。
かんべえ 企業がコンサルティングを求めるときは、かなりの困難を抱えていることが多いわけです。で、実はその解決策も、経営企画部は分かっていることがあるんです。でも、実行できない。そこでどうするかというと、高いお金を払ってコンサルティング会社に仕事をお願いするんです。すると「御社はこうすべきである」とアドバイスしてもらえる。すると、できないはずの改革ができるようになる。

官兵衛 情けない話だなあ。そんな改革、うまくいかないんじゃないのか?
かんべえ ええ、コンサルティング会社を使ってうまくいった、なんて話は聞いたことがありません。これ、アメリカでもそうみたいですね。
官兵衛 今の話は、経営企画部が自分の責任を回避しているわけだろう。自分が補佐役になるべきところを、他人にやらせて自分はいい子でいたいと。
かんべえ まあ、「組織の責任は無責任」の典型といいますか。
官兵衛 助言をする相手は個人じゃなきゃ駄目だよ。

かんべえ 助言を求めるのも、与えるのも個人、というところが大事なわけですね。
官兵衛 そう、とくに助言を求める方の器量が大事なの。はっきり言っちゃうとね、トップは自分の実力を超える補佐役を使うことはできないんだ。
かんべえ おお、これは異なことを。本当ですか。
官兵衛 当たり前だよ。補佐役が担当する仕事というのは、ほとんどの場合ひとつの分野に限られている。ところが、トップは全体を見なきゃいけないだろ。たとえば僕は、秀吉軍の作戦と外交を担当した。でも、軍の財務や人事システムやロジスティクスなんかは、他の人が担当している。秀吉はそういう全体を見ている上に、織田家内部の政治問題でも悩まなきゃならない。どっちが偉いかは明らかでしょう。
かんべえ しかし自分の実力以下の人間を使うのでは、補佐役にならないのでは?
官兵衛 そうじゃないんだな。極端なケースをいえば、いつも不適切な進言をしてくれる部下というのがいたら、こんなに有益なことはないんだ。だって2つ策があって迷っているときは、そいつの意見の逆を採用すればいいんだから。
かんべえ シャーロック・ホームズに出てくるレストレード警部みたいなものですな。
官兵衛 脇で名論卓説を唱えるばかりが補佐役じゃないんだ。トップをヨイショして、いつもいい機嫌にしておく、なんてのも考えようによっては非常に重要な補佐役だぜ。

かんべえ どんどん幻想が壊れていく感じなんですが、「参謀タイプ」とか「補佐役」という存在には不思議な人気があるんです。それこそ、日本人に多い諸葛孔明や黒田官兵衛の人気につながるようなもので。
官兵衛 就職先としてコンサルティング企業に人気があるとか。
かんべえ まことに遺憾ながら、今の日本でトップといわれている人たちが、総じて年を取り過ぎていたり、賢そうに見えなかったりする、というのも背景にあるのではないかと。
官兵衛 トップの地位にある人というのを甘く見てはいけませんね。どんな組織でもそうなんだけど、ナンバーワンとナンバーツーの間にはものすごい差があるんですよ。山の頂上にいる人は360度の景色を見ているけど、山登りをしている途中の人は頂上しか眼に入らない。
かんべえ どんな山であっても、頂上に立てる人は一人しかいないと。
官兵衛 そう、だからあんまり馬鹿にするもんじゃありません。




<5月6日>(土)


●第4回「米国大統領とブレーンたち」

かんべえ 参謀論が好まれるのは、若くて頭が良くてちょっと野心もあるような人が、「俺もいつの日かトップの信頼を得て、参謀として腕をふるいたい」みたいなことを、出世の近道と考えるからかもしれません。
官兵衛 そういう人は、じかにトップを目指せばいいのにね。
かんべえ まぁ、最近は自分で起業するなんて人も増えてきましたけど、大組織の中にいるとそれが現実的に思えるんでしょうね。しかし実際の補佐役なんてのは、お説通りそれほどカッコイイもんじゃない。私も昔、トップの秘書役を2年ほどやりましたけど、ご挨拶案とスケジュールとロジスティクスの心配だけしてたら終わってしまいました。
官兵衛 戦略面でトップに貢献する補佐役なんて、滅多にあるもんじゃないからな。しかも周囲から評価されるのは、ブレーンよりはむしろぞうきんがけやるタイプだ。最近も、愚直に滅私奉公してたら、首相の座が転がり込んできた人がいたな。

かんべえ これはアメリカであった話なんですが、とある大統領が当選するのに功績のあった人物が2人いたんだそうです。そこで大統領は、二人に対して「大統領に重要事項で進言する役目」と「大統領のスケジュールを管理する役目」という仕事をオファーした。すると前者を選んだ人はすぐに忘れられて、後者を選んだ人が政権内で重要な地位を占めるようになった。
官兵衛 それは面白い話だな。つまり前者のポストを選ぶと、いつ大統領に会うかは後者のポストの人に決められてしまう。大統領の日常を押さえるというのは、究極の補佐役になることを意味するわけだ。
かんべえ でしょ? ネタを明かすと大統領はレーガンで、首席補佐官になったのはベーカーなんです。ベーカーは「大統領はこう言ってるんだけど、君はどっちを取る?」と言って、見栄えのする方の仕事をライバルに選ばせたんだそうです。策士ですよね。

官兵衛 アメリカはその手の話が豊富そうだね。
かんべえ よくぞ聞いてくださいました。アメリカ政治というのは中国に似ていて、行政上の権限はすべて大統領に集中するんです。たとえば国務長官というと偉そうに聞こえるけど、英語ではSecretary of State、つまり秘書に過ぎない。つまり、大統領が自分の外交上の権限を委任する人が、国務長官なんです。こういう制度においては、大統領への距離の近さに比例して権限の重さが決まる。
官兵衛 大統領の信頼をいかに勝ち得るかが鍵になるわけだ。こういう組織の中では、補佐役を目指す値打ちがある。

かんべえ そうそう、前の財務長官だったルービンさんに面白いエピソードがあるんです。彼は経済担当補佐官だった時代に、毎週予定されている大統領へのブリーフィングの時間を、「今日は特段、ご説明するテーマはありません」と言って他人に譲ることがあったんだそうです。
官兵衛 うーん、それを聞いただけでも相当なタマだね、ルービンて男は。話すテーマがないなんてことはあり得ないから、むしろそういう評判を立てようとしたんだろうな。
かんべえ 大統領と二人きりで話せるチャンスをパスするわけだから、ホワイトハウスではむちゃくちゃ目立ちますよ。あるいは、大統領の日程を調整する担当者に恩を売る狙いがあったのかもしれません。
官兵衛 いずれにせよ、補佐役としての自分を売り込む、非常に重要なテクニックを身につけていると見たね。

かんべえ クリントンにはいろんなブレーンがいて、なかでもディック・モリスという選挙参謀が、96年の再選を可能にした男として知られています。モリスの回顧録を読んで興味深く感じたのは、彼があくまで友人としてクリントンに接しているんですね。モリスは最後は売春婦スキャンダルで解雇されるわけですが、精神的にどん底に落ち込んだ状態でホワイトハウスに電話するんです。そしてクリントンに謝罪する。クリントンは「君を信じているよ」と答える。なんというか、トップと補佐役の関係じゃないんです。
官兵衛 要するに、「恐れながら申し上げます」てな感じではないわけだ。
かんべえ たとえばモリスはこんなふうに助言するんです。過去41人の大統領のうち、Aクラスはだれとだれ、Bクラスはだれ、それ以外はCクラス、と分類してみせる。「で、君はこのままだとBとCの中間くらいだ」って。しかもこの内容、彼は電話で伝えている。
官兵衛 うーん、そこまで言えるのも偉いが、言わせているクリントンもあっぱれだな。

かんべえ アメリカの大統領制度というのは、200年以上の歴史があるだけあって、これを補完するシステムがたくさんあるんです。そのひとつとして、大統領のブレーン予備軍がワシントンに集まってくるような仕組みがある。
官兵衛 日本でも首相補佐官なんて制度を作ったが、果たして上手に使えるのかな。ブレーンを多用すると、とかく日本では「側近政治」と呼ばれてかえって評判が悪い。
かんべえ やっぱり日本の組織はライン重視なんでしょうかね。首相が自分の友人を勝手に連れてきて意見を聞くくらいなら、公務員試験に合格した官僚たちの指図に従う方がまだましだ、という感情があるのかもしれない。
官兵衛 まあ、首相を間接選挙で選んでいるという違いはあるけどね。
かんべえ 根源的な疑問が残るんですが、トップの補佐役というか、いわゆるスタッフ組織というのはなんのために必要なんでしょうか。ラインがしっかりしていればそもそもスタッフなんぞ不要だという見方もできるような気がしますが。
官兵衛 いや、スタッフというのはそもそも戦争が生み出したものなんだ。この話は長くなるのでまた明日。





<5月7日>(日)


●第5回「軍師から参謀へ」

かんべえ 連休も対談もいよいよ今宵限り。では、官兵衛さん、思う存分どうぞ。
官兵衛 トップというのは孤独な仕事で、部下に指令を下すときには相談相手がほしいと思う。とくに戦争の場合、将軍はいったん部下に命令を下したら最後、彼らは死ぬかもしれないわけ。そういう状態で部下にアドバイスを求めたところで、冷静な意見が聞けるはずがない。
かんべえ 部下だって命が惜しいから、アドバイスにはバイアスがかかりますよね。
官兵衛 そう、だから将軍は、大局的な視点でものを見られる人を近くに置いておいた方がいい。そこでラインから離れて、専門のスタッフ、補佐役が必要になるわけだ。そういう仕事は昔は劉備玄徳に諸葛孔明、みたいに一人で十分だった。こういう状態は参謀以前の段階で、たとえば「軍師」と呼ぶのが適当だろう。
かんべえ 君主が賢臣を求めるという、中国の古典によくある世界ですね。

官兵衛 ところが軍師にはいろいろ限界があるんだな。なにしろ将軍の個人的な信頼を得てアドバイスをしているわけだから、将軍の耳の痛いことまではなかなか言えない。それからラインの兵卒たちとしては、将軍の命令ならともかく、軍師の言うことなんか聞きたくはないわけだ。何より困るのは、軍隊や国全体の利益と君主個人の利益が一致しないことがある。そういうとき、軍師は君主の側についてしまう。それでは部下はたまったもんじゃない。
かんべえ 軍師にはいわゆる「政治的正統性」が欠けているんですね。
官兵衛 そう、そこに気がついた補佐役は、軍師からちょっと進歩して参謀になる。つまり将軍個人の利益を代表するのではなく、国全体や軍の利益を代表するようになる。
かんべえ たとえば官兵衛さんは秀吉個人に雇われたわけではなくて、どうやったら織田軍全体が良くなるかを考えていた。ということは、軍師ではなくて参謀だったと。
官兵衛 そのへんは微妙かもしれないけど、戦国時代というのは、ちょうど軍師が参謀になる端境期だったんじゃないかな。日本では江戸時代以後になると、たとえば商家の場合、大旦那個人よりも家全体の繁栄が大切だということがコンセンサスになる。だから道楽息子を廃嫡して、出来のいい番頭に店を継がせるなんて話がわんさか出てくる。
かんべえ はいはい、社長が大事か会社が大事かという話ですね。それって資本主義の発達にとっては非常に重要なステップなんじゃないでしょうか。
官兵衛 おそらく日本の場合、あの頃に「今の社長より会社の未来が大事」という学習が行われたんだろうな。

かんべえ 時代が下ると、参謀というのは個人ではできなくなって、組織の仕事になってしまいます。私も会社ではいわゆるスタッフ部門で働いていますが。
官兵衛 レーダーや原子爆弾が戦争から生まれたように、スタッフという組織上の発明も軍隊から生まれた。英語でいうGeneral Staff、日本語でいう参謀本部が誕生したのは19世紀の欧州でのこと。新興国家プロイセンが、1812年に皇帝直属の「参謀本部」を作ったところ、オーストリアもフランスも打倒してしまった。そこで各国が競って参謀本部の真似をするようになった。
かんべえ 参謀自体はその前からあったんじゃないですか。
官兵衛 それはそう。でも、プロイセンは参謀本部を常設の組織にした点が新しかった。つまり平時から戦争計画を作成して、地図を作るなどの情報収集をやったんだな。
かんべえ 軍隊が自分で地図を作るという発想が新しいですね。
官兵衛 それから、「将来はこの辺で戦争をやるだろう」と思われる地域に、将校を旅行させるといったシミュレーションもやった。それからロジスティクスに関する情報やノウハウを蓄積した点も鋭かった。要するに近代の戦争とは、個人の勇気や将軍の指揮だけで勝てるようなものではなく、総合力の闘いになっていたから、そういう戦争のプロを育てる必要があったんだな。

かんべえ そこで参謀本部を作って、戦争のプロを常時、組織化したわけですね。
官兵衛 プロイセンが倒さなければならなかった相手は、軍事の天才ナポレオンだった。彼は自分一人に情報を集めて、誰にも相談せずにすべての命令を下すことができた。ところが、モスクワ遠征みたいに50万の兵士を派遣するとなると、自分一人ですべての作戦活動を仕切ることはできなくなる。スタッフがいないことの限界が出てきたんだね。
かんべえ なんだか、成長途上にあるベンチャー企業がぶつかる「壁」みたいな話ですね。
官兵衛 プロイセンはナポレオンのいる戦場では撤退を繰り返して、いない戦場で細かく得点を稼ぐという勝ちパターンを覚えた。その結果、ナポレオンは局地戦ではいつも勝っているのに、終わってみればフランス軍は負けているということになってしまった。
かんべえ それって最近はやりの「ナレッジ経営」のお手本みたいな話ですね。
官兵衛 そう、勝つために重要な知識を、トップ一人に集中させるか、参謀本部という組織で共有するかの違いだね。

かんべえ いまではどこの国の軍隊にも参謀本部があり、そこのトップは制服組の頂点ということになっていますね。米国では統合参謀本部長、日本では統合幕僚会議議長。それから組織をラインとスタッフに分けて、相互にローテーションを実施するという原理は、ほとんどの企業が導入しています。
官兵衛 それは過去の経験が生かされているということだろうね。
かんべえ おかしいなぁ、組織の原理はこれだけ進化しているのに、今のわれわれの周囲には組織をめぐるおかしな話はいくらでもありますよ。リーダーシップの昏迷も言われ続けて久しいし。
官兵衛 あははー、それは2通りの解釈ができると思うよ。ひとつは組織なんてもともとそんなもんで、君らの受け止め方が贅沢になっているだけだということ。もうひとつは、そろそろ組織に関する新しい原理が誕生する頃なのかもしれないという見方。僕はどっちだか知らんけどね。
かんべえ うーん、それはまた大問題になるので、別の機会に考えることにいたしましょう。官兵衛さん、5日間にわたってお付き合いいただき、ありがとうございました。
官兵衛 全部通して読んでくれた奇特なアナタ、感想のメールを待ってるよ。



○長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。連休中はほかにも話題はいろいろあったのに、全部放り出して歴史漫談を続けてしまいました。明日からは平常モードに戻る予定です。




編集者敬白 

2013年11月23日土曜日

android改造


参考リンク

遊馬2の備忘録
http://form20120307.blogspot.jp/2013/03/docomo-f-03d-girls.html

『F-03D』のroot取得、SuperUSERのインストール
http://tabkul.com/?p=26803

手探りAndroid
http://mrgigioandroid.blogspot.jp/2012/12/f-03dlink2sd_12.html

windowsとandroidのメモ
https://sites.google.com/site/windroidmemo/f-03d-girls/f03d-girls-root

windowsとandroidのメモ blog
http://win-droid.blogspot.jp/2013/03/f-03d-girlsv24r33ccroot_8.html

F-03Dまとめ
http://vyv00411.wordpress.com/2012/12/11/f-03d/

windowsとandroidのメモ blog
http://win-droid.blogspot.jp/2012/11/f-03d-girls.html?m=1

Android SDKのダウンロードとインストール
http://www.javadrive.jp/android/install/index1.html

Approid大好き 、SDKインストール 、バックアップ
http://app-roid.com/blog-entry-906.html



準備、PC
  1. Windows PC に、Javaをダウンロードしてインストールします。
    1. Javaの有無チェックのページを開きます。
    2. 「Javaのバージョンの確認」ボタンをクリックして、インストールされていればそのまま、インストールされていなければ、ダウンロードのページに自動的に移ります。
    3. Javaをダウンロードしてインストールします。
  2. WindowsPC に、Android SDKをダウンロードしてインス トールします。
    【初心者向け】Android SDKインストール手順 2011年1月版!(windows版)通りに素直 に作業しました。
    1. Download the Android SDK からインストーラー付きのファイルをダウンロードします。
    2. ダウンロードしたファイルを実行して、インストールします。
  3. Windows PC で、Android SDK を起動して、SDK managerで必要なものをダウンロードします。
    1. 「Android SDK Tools」、「Android SDK Platform-tools」、「Google USB Driver package」の3つにチェックを入れてダウンロードしました。
      ダウンロードとインストールに30分ほどかかったような気がします。
  4. WindowsPC で、ユーザー環境変数にパスを追加します。
    1. [マイコンピュータ]を右クリック > [プロパティ] > [詳細設定]タブ >  [環境変数]ボタンを選択します。
    2. ユーザー環境変数の「新規」を選び、「変数名」に「PATH」と入力、「変数値」に「C:\Program Files\Android\android-sdk\tools;C:\Program Files\Android\android-sdk\platform-tools;」と入力し「OK」を選択します。

F-03D用ADB USBドライバ インストール手順(usb_driver_F-03D_1.0.zipのreadme.txtより)

  1. ドライバをここからダウンロードします。
    F-03D ADB用USBドライバ/usb_driver_F-03D_1.0.zip/8,678,808byte/2011年11月25日
  2. 「ADB USBドライバ」用の圧縮ファイル(zipファイル)を解凍します。
  3. 「F-03D」「USBデバッグ設定」にチェックを入れ、ADB機能を有効にします。
    ※Android Ver2.3の場合、「設定 > アプリケーション > 開発 >USBデバッグ」にて設定ができます。
  4. 「F-03D」とパソコンをUSBケーブルで接続します。
  5. インストールウィザードに従い、インストールしてください。
    ※OSによりインストールウィザードの起動方法が違います。
    【Windows XP, Vistaの場合】
    「F-03D」をパソコンとUSBケーブルで接続した際に、ドライバのインストールウィザードが起動します。
    【Windows 7の場合】
    「F-03D」をパソコンとUSBケーブルで接続した際には、ドライバのインストールウィザードは起動されません。
    そのため、デバイスマネージャを起動して、「ほかのデバイス」に表示されているデバイスを選択し、右クリックメニューより、ドライバの更新を実行します。
  6. ウィザード起動後、「いいえ、今回は接続しません」を選択し、「次へ」を押してください。
  7. 「一覧または特定の場所からインストールする」を選択して、「次へ」を押してください。
  8. 「参照」ボタンを押して、1)項で解凍したADBドライバを格納したフォルダを指定し「次へ」を押してください。
  9. 自動的にドライバのインストールが行われ、完了画面が表示されたら、「完了」ボタンを押して、インストールを完了してくださ い。

2013年11月18日月曜日

用言 表

音楽、2年2学期テストポイント

交響曲第5番 ハ短調 第一楽章-第四楽章

作曲 :
国名 :
時代 :
演奏形態 :

作曲者について
 ベートーヴェンは、____の____に生まれた。____であった父親から音楽の手ほどきを受け、14歳になるころには自らもその職に任命されるほどの才能を示した。

 21歳で____に出て、ピアノ奏者(即興演奏の名手 : ____)として活躍しながら作曲を勉強した。30歳のころには、作曲家としても高い評価を得るようになった。

 20代後半ごろより持病の____が徐々に悪化し、ついには____をほとんど失ってしまった。音楽家として____を失うという死にも等しい絶望感から遺書まで書いたほどだった____。しかし、強じんな精神力を持ってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意志を得てさらなる芸術の道へと進んでいくことになった。

 56歳で亡くなるまで多くの作品を書き続けた。音楽史上極めて偉大な作曲家の一人と称され、「 ____ 」とも呼ばれる。

 「 交響曲第5番 ハ短調 」は、ベートーヴェンが38歳の時に作曲された。この曲は、____においても____においても非常に高い評価を得ている作品で、ベートーヴェンの最高傑作の一つと考えられている。もっとも緻密に設計されていて、その____の技法や「 ____ 」というドラマチックな楽曲構成は後世の作曲家の模範となっている。

 全曲は____の楽章からなり、第____楽章と第____楽章が切れ目なく演奏されること、第____楽章の途中に第____楽章の一部が現れること、他の楽章にも第____楽章の最初の動機と似た____が現れることなどの特徴がある。

この曲が「 ____ 」と呼ばれるのは、ベートーヴェンが弟子に対し、第1楽章の最初の動機のことを________と語ったためである。




 ベートーヴェンは全部で____曲の交響曲を作曲している。「 運命 」のように副題がついているものが3つある。

・交響曲第3番「 ____ 」・・・最初ナポレオンに捧げられる曲として書かれたが、民衆を裏切ってViennaに侵攻してきたナポレオンに対し、「ある英雄の思い出のために」と献辞を書き換えた。

・交響曲第6番「 ____ 」・・・自然の中を散歩するのが大好きだったベートーヴェン。Vienna郊外の豊かな自然の中で喜びに浸る雰囲気が伝わってくる曲。

交響曲第9番「 ____ 」・・・合唱付きのオーケストラ作品という大胆な発想、長大な構成にもかかわらず飽きさせることのない魅力。聴力のない状態での創作とは信じられない作品である。



ソナタ形式・・・第___楽章と第___楽章とはソナタ形式で構成されています。

___・・・第一主題と第二主題が現れる。(対照的な主題が現れることが多い)

___・・・主題が変化、展開していく。(調の変化や組み合わせ)

___・・・提示部が再度現れる。

___・・・終結部(最後のクライマックス)


超有名な頭のフレーズ、「 ジャジャジャジャーン 」というリズム、譜面上のドアタマは8分休符デス。

2013年11月13日水曜日

言語 作文下書きその2



 私と私の家族は常に日本語と共にあります。褒められるとき、怒られるとき、激しく言い合うとき、日常のあいさつも、疲れた時やお風呂に入るときの「よっこらはぁーー」という溜息も、理由などありません、日本語という言語を使っています。

 しかし世界にはたくさんの種類の言語が存在し、影響されあいながら文化を残し、現代に引き継がれてきました。たとえばバチカン市国の公用語であるラテン語は、現在それを日常使う民族は有りませんが、フランス語、イタリア語、スペイン語の原形と言われています。キリスト教の色濃い地中海周辺において、カトリック教会により聖書はラテン語(元はヘブライ語)に訳され、西ローマ帝国の公用語でした。分裂した東ローマ帝国はラテン語からギリシャ語に公用語を変更しビザンティン文化に発展、その後のヨーロッパにおけるルネサンスに影響をもたらしました。言語は意思を、伝え受け取る手段、生活、文化そのものであり、それらすべてを後世に継承する文明そのものであると私は考えています。

 十八世紀末、フランスのナポレオンによるエジプト遠征の時、その石碑は発掘されました。世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この岩盤には三つの碑文が、古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で同一の文章が三度繰り返し記述されていました。違う言語をしゃべる人でも分かるようにしたかったと考えられているそうです。プトレマイオス、クレオパトラ、王の名などが書いてあり、古代エジプトの歴史が一気に明らかになっていきます。クフ王、ツタンカーメンの財宝発掘へとつながる大きな一歩となったのでした。

 現在の自由民主主義と、その礎ともいうべきフランス革命、ナポレオン、溯って紀元前三千年のエジプト文明が、言語によって一気につながった出来事というには私の勝手壮大な「こじつけ」でしょうか。

 「ピラミッド5000年の嘘」という映画を見たことがあります。科学的な切り口でヒエログリフ、ピラミッド、エジプト文明までをも否定していきます。少し前の映画ですがおすすめです。



2013年11月12日火曜日

言語 下書きその1

 私と私の家族は常に日本語と共にあります。褒められるとき、怒られるとき、激しく言い合うとき、日常のあいさつも、疲れた時やお風呂に入るときの「よっこらはぁーー」という溜息も、理由などありません、日本語という言語を使っています。
 
 しかし世界にはたくさんの種類の言語が存在し、影響されあいながら文化を残し、現代に引き継がれてきました。たとえばバチカン市国の公用語であるラテン語は、現在それを日常使う民族は有りませんが、フランス語、イタリア語、スペイン語の原形と言われています。キリスト教の色濃い地中海周辺において、カトリック教会により聖書はラテン語(元はヘブライ語)に訳され、西ローマ帝国の公用語でした。分裂した東ローマ帝国はラテン語からギリシャ語に公用語を変更しビザンティン文化に発展、その後のヨーロッパにおけるルネサンスに影響をもたらしました。言語は意思を、伝え受け取る手段、生活、文化そのものであり、それらすべてを後世に継承する文明そのものであると私は考えています。

 18世紀末、フランスのナポレオンによるエジプト遠征のとき、その石碑は発掘されました。世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この岩盤には三つの碑文が、古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で同一の文章が三度繰り返し記述されていました。違う言語をしゃべる人でも分かるようにしたかったと考えられているそうです。プトレマイオス、クレオパトラ、王の名などが書いてあり、古代エジプトの歴史が一気に明らかになっていきます。クフ王、ツタンカーメンの財宝発掘へとつながる大きな一歩となったのでした。

 現在の自由民主主義の礎ともいうべきフランス革命、ナポレオン、溯ってBC3000年のエジプト文明が、言語によって一気につながった出来事というには私の勝手壮大な「こじつけ」でしょうか。

 少し前になりますが「ピラミッド5000年の嘘」という映画は私のこの話と、真逆な筋書きで、大変おもしろかったです。おすすめです。



2013年11月10日日曜日

技術、2年2学期、テストまとめ

エネルギー学習、エネルギーの作り方、エネルギー変換の利用、電力量の計算、定格値の計算、テーブルタップ作成、テスト終了後、ファイルと振り返りカードを提出する。

あるエネルギーから別のエネルギーへ変換したとき、有効利用できるエネルギーの割合 =
エネルギー変換効率(%) = 出力エネルギー / 入力エネルギー X 100


発電別エネルギー変換効率の例

水力(80)、
LNG複合(55)、火力(43)、ガスタービン(35)、原子力(33)、
風力(25)、太陽光(10)、地熱(8)、海洋温度差(3)、バイオマス(1)


CO2排出量の例

発電所内CO2排出あり ・・・ 石炭火力(887)、石油火力(704)、LNG火力(478)
発電所内CO2排出なし ・・・ 太陽光(53)、風力(29)、原子力(22)、地熱(15)、水力(11)




抵抗器(電気を消費する部品、部分)の消費電力を求めるため、下式内にはΩは使われない。

消費電力(W) = 電圧(V) X 電流(A)

消費電力の大きいものは 「効率が良い」 とされる。


    教科書P128-P133 まとめること!
エコカー、エアコンについて書いてみますた。

 化石燃料を燃やした「熱エネルギー」を、電気、動力に変換して利用してきた。エンジンをガソリンの燃焼によって回転させ車輪にエネルギーを伝える。そのついでに少し分けてもらった動力は磁石とコイルによってバッテリーに蓄電され、ヘッドライトや車内灯などに電力として消費される。その効率を見直し、大容量のバッテリーを搭載することによりハイブリッド車が実現化。一般販売価格は近年のリチウム電池、ニッケルカドミウム電池の量産化により蓄電池の価格安定により従来のガソリン車と近づいてきた。

 「物を大切に使おう」 と小学校の先生や親に教わったこと、また自分でもそうかなと思ったこと。
古いエアコンを大事に使い続けた場合の電気代について考える。

(古エアコン + その電気代) x 年数 > (新エアコン + その電気代) x 年数 + 本体価格

となってしまい、エコではなくなるのだそうです。近年の技術の進歩によって製品のライフサイクルが変化してゆくのです。車やエアコンの目安は「 10年 」ではありませんね

2年2学期末テスト範囲


Language ネタ帳

ごちそうさまでした。これは私たちの日本語であり日本以外の国にこれに相当する言葉はないらしい。「ラテン」という言葉に私が思い浮かべるのはブラジルやアルゼンチン、南アメリカの人々や音楽であるが、「ラテン語」といえばローマ帝国における公用語である。現在ラテン語を公用語としている国はない(バチカン市国は公用語)が、イタリア国、ルーマニア国、フランス国、スペイン国、ポルトガル語のルーツはラテン語であり、ドイツ語、オランダ語、英語の単語や文法に、多大な影響を与えたといわれている。

ちなみに、国連の公用語は、英語、ロシア語、中国語、フランス語、アラビア語、スペイン語の6つであるが、これは第二次世界大戦の戦勝国の言語に、国際的に重要なアラビア語とスペイン語を加えたものである。

ラテン人とは、古代ローマ帝国のローマ人のうち、属州出身者でない、ローマ市民権を持った人達です。
ただし、西ローマ帝国の崩壊により、ラテン人の概念が無くなってしまいます。
その結果、現在ラテン系人種として、ロマンス語系の言語を話す人達を、さすようになります。
ロマンス語系言語を話す人達として、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、ワロニー人(ベルギー南部)、イタリア人、ルーマニア人を指します。
その他ラテンアメリカ人を含む場合も有ります。


現在ラテン語を話す民族は有りません。(バチカン市国の公用語ではあります)








ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたた

キリストからさかのぼること3000年、







 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。






















もともとヘブライ語で書かれた聖書は西ローマ帝国、カトリック教会によりラテン語が採用され、後の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語にする。





初めに。英語とドイツ語の先祖はラテン語ではありません※。「ゲルマン祖語」と呼ばれる言語が先祖です。このゲルマン祖語とラテン語の先祖とが遠くさかのぼれば「インド・ヨーロッパ祖語」と呼ばれる共通の言語に行きつきます。

英語とドイツ語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「ゲルマン語派」と呼ばれるグループに属しており、その中でさらに細かく見てみますと「西ゲルマン語群」と呼ばれる小グループに属しています(「北ゲルマン語群」というのもあり、こちらはスウェーデン語など。「東ゲルマン語群」と呼ばれるのもあったが、全て死語)。


フランス語・イタリア語・スペイン語、この3つはラテン語が先祖です。正確に言いますと私たちが一般的に学ぶ「古典ラテン語」の口語である「俗ラテン語」と呼ばれる言語です。ラテン語の一種であるという点では同じですので、一般的に「ラテン語」と言ってしまって結構ですけどね。

さてラテン語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「イタリック語派」に属しており、さらに細かく見てみますと、「ラテン・ファリスク語群」に属しています。このラテン語の下位に「ロマンス諸語」と呼ばれるグループがあり、フランス語とイタリア語・スペイン語は「イタロ・西ロマンス語」と呼ばれるグループに属しています(東ロマンス語というグループもある。ルーマニア語など)。

イタロ・西ロマンス語はさらに「西ロマンス語」と「イタロ・ダルマチア語」に分けることができ、前者にはフランス語やイベリア半島のロマンス語(スペイン語やポルトガル語など)があり、後者にはイタリア語などがあります。

※「英語やドイツ語もラテン語を起源とする」というのはよくある間違いです。確かに両言語ともラテン語起源の単語をたくさん持っていますし、ラテン語に影響されたと思われる事柄もあります。文化的にもラテン語の影響はヨーロッパのほとんどの地域におよび、イギリスやドイツ語圏もその例外ではありません。

しかし例えば日本語には漢語がたくさんあり、日本語は漢語の影響を受け、漢字文化圏に属していますが、だからといって「日本語の起源は中国語だ」と言えるでしょうか。中国語と共通しているのはあくまでも漢語の範囲内においての話であって、文法や日本語本来の単語(大和言葉)にはほとんど何の共通点も見られませんので、それぞれは別の起源を有することがわかります。
英語・ドイツ語とラテン語の関係もこの日本語と中国語との関係と同じであり、系統的には英独両言語ともラテン語とは別グループの言語です。
もっとも英独両言語の先祖であるゲルマン祖語とラテン語の先祖とは共通の先祖までさかのぼれますので、この点において日本語と中国語との関係との大きな違いになりますけどね。





第5回 エジプト文明 
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「エジプトはナイルの賜物」
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  エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。前2700年頃には統一王朝が成立します。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているのでメソポタミアのようなめまぐるしい民族の侵入や王朝の興亡はあまりなく、独特の文化を築きます。
 エジプトが文明をもてたのは、なんといってもナイル川のおかげ。ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくる。だから何もしなくても地力が維持できるのです。あとは洪水が引いていく時に水の管理さえしっかりできればよい。

 前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です。「エジプトはナイルの賜物」。

 エジプトの空中写真を見るとナイル川の縁だけが緑になっているのがよく分かるでしょう。流域から少しはずれるとずっと砂漠が広がっています。
 エジプト文明をつくった人々はハム系という言語系統です。現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますがアラブ人と混じり合っていて、かれら自身もアラブ人だと自覚している。

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エジプトの文化
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エジプトの暦は太陽暦です。1年365日です。

 ナイル川はティグリス・ユーフラテスのように不定期な大洪水はおこりません。
 1000キロ以上上流のエチオピアの高原に降ったモンスーンの雨でナイル川は増水するので、毎年決まった時期に同じ様なペースで水かさが増していきます。エジプト人はいつナイル川が増水するか、それが最大の関心事。それにあわせて農耕の準備をするわけです。
 神官たちは、天体を観察しながら、ナイル増水の時を調べました。
 7月の半ば明け方の東の地平線ぎりぎりにシリウスがひときわ輝く時がある。ちょうどその時からナイルが増水することが解ってきた。翌年同じ場所にシリウスが輝くまでが365日。そして、またその時に増水がはじまるのです。

 こうしてできた暦が太陽暦です。だから、正確にいうと太陽暦じゃなくて洪水暦かシリウス暦なんだけどね。でも、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、今では世界的に使われている暦です。

 1日を24時間にしたのもエジプトです。エジプトは10進法で、はじめは昼と夜をそれぞれ10に分けて20だったのが、昼と夜の境界の時間をそれぞれに付け加えて24になったそうです。

 洪水の水が引いたあと、農民たちはその上で農耕をはじめるのですが、土地の境界線が、増水のあとは泥に埋もれて全然わからなくなってしまうでしょ。そこで、エジプトでは測地術も発展します。

 文字は独特の絵文字を発達させます。鳥とか獅子とか秤とか、絵の形が字になってるね。これは一番格式の高い字で神聖文字といいます。これ以外に神官文字、民衆文字という字体がありました。

 この神聖文字の解読にまつわる話をしておきます。

 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。

  文字が書かれたのがパピルスです。パピルスという植物の茎をつぶしてシート状にします。英語のペーパーの語源です。ナイルの湿原に自生している植物ですが、今は観光用につくっているだけらしい。これ、エジプト土産にもらった実物です。まわします、破かずに見てください。

 精神世界の話。エジプト人は死後の世界に対して独特の関心を持っていました。かれらの死後の世界を描いたのが「死者の書」。
 冥界つまり、あの世を書いてある。
 死者の魂はあの世に行って神々の検査をうけるんです。
 ここに秤があるでしょ。秤の左側に乗っているのが真実の羽、右側に乗っているのが死者の心臓を入れた壺。心臓が真実の羽より軽いと不合格だと資料集には書いてありますが、実はどうなったら合格なのかわかっていません。残された絵はみんな真実の羽と心臓の壺が釣り合っているのです。まあ、とにかく、この秤の検査に合格すると、この世に再生できる。
 再生するには体がないと困るね。そこで死後、肉体を保存するのに情熱を持つ。これがミイラですね。
 ミイラをつくるときも松竹梅とランクがある。ミイラの作り方。まず、特別な石器のナイフでお腹を切って内臓を取り出す。この内臓は壺に詰めてとっておくんです。
 内臓を取ったあとのお腹には詰め物をします。松コースは柔らかい香草で詰める。梅コースは固い枯れ草とか詰めるので死体が乾燥して縮んでくると、お腹の皮を突き破って枯れ草がプシュプシュでてくる。こんな体で再生してもねえ。
 ミイラが腐らないように脳味噌も取り出す。長ーいスプーンを鼻の穴からズンと突っ込んで、掻き出すんです。掻き出した脳味噌は、そのまま地面にぶちまけて捨てちゃう。内臓とは大分扱いが違うね。心は心臓にあると思ったのですね。
 このエジプトの死生観は、のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響をあたえたといわれています。

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古代エジプト史の流れ
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 さて、古代エジプト史の流れを見てみましょう。
 大きく三つの時代に分けられます。これをまず覚えてください。

 古王国(前2700~前2200年頃)
 中王国(前2100~前1700年頃)
 新王国(前1600~前1100年頃)

 簡単でしょ。
 それぞれのあいだの期間は中間期といって、エジプトが一つにまとまっていなかった時期です。

 古王国の都はメンフィス。エジプトの下流地域を下エジプトといいますが、ここに都が置かれた。
 古王国はピラミッドが造られた時代と覚えておきましょう。最大のクフ王のピラミッドをはじめ、すべてこの時代のものです。古王国で覚えるのはそれだけ。

 ピラミッドはみんな知ってると思いますが、案外なんなのかわかっていない。
 エジプトの王のことをファラオといいますが、そのファラオの墓だと一般には考えられているけれど、墓じゃないという学者もたくさんいる。
 墓室があるし、棺桶まである、なんで墓じゃないのか。
 実は今まであらゆるピラミッドから一つもミイラが発見されたことがないんです。
 墓泥棒は昔からいて、ピラミッドにも侵入しているんだけど、財宝は盗んでもミイラまで盗まないだろうから、墓だとするとやっぱり変なわけ。しかし、墓ではないのなら何故棺桶があるのかといわれると、これも説明できない。困りますね。
 一人のファラオが複数のピラミッドを建設した例もあるというから、われわれが考える墓ではなかったんだと思います。

 じゃあ、何かというと廟、神殿みたいなものらしい。日光の東照宮は家康を祀っているけど、墓ではない。そんなモノなんでしょう。

 クフ王のピラミッドの内部にはまだまだ発見されていない秘密の部屋があるらしい。世界に誇る文化遺産だからエジプト政府はピラミッドを傷つけるような調査は許さない。だから、早稲田大の吉村先生は音波の測定器使って調査してましたね。やっぱりなにかあるらしい。この辺は最後の歴史ロマンだからもやもやしている方が楽しいね。

 ピラミッドは多くの奴隷がむち打たれながら造ったと私の子どもの頃は書いてありましたが、これも違うらしい。ピラミッドを造った働き手は普通のエジプトの農民たちです。しかも、いやいや造らされたのでもないのです。
 1年の半分はナイルの増水で農地は水没していて農民は暇でしかたない。その時期にファラオが農民を集めて働かせた。重労働だったには違いありませんが、ちゃんと働けば小麦とビールが配られた。今でいう失業対策みたいなものだね。

 次の中王国はナイルの上流、上エジプトのテーベが都。それだけでおしまい。

 中王国はエジプト初の外来民族の侵入によって衰退しました。
 侵入したのが混成民族集団ヒクソス。これがアジア方面から侵入した。
 ヒクソスの侵入で馬と戦車がはじめてエジプトにもたらされました。それまでのエジプトには馬がいなかったわけだから、どれだけ孤立した世界だったかわかりますね。
 この時代はまだ馬に乗って戦えません。馬に乗って戦うためには、鞍とあぶみが必要ですがまだ発明されていないのです。
 馬は戦車を牽かせるために使います。戦車といってもただの馬車みたいなものです。御者が一人、そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を射ったのだと思います。エジプト兵はみな歩兵ですから、圧倒的に機動力で優れていたのです。

 その馬と戦車にエジプトは征服されますが、やがてエジプトはこの新戦法を自分のものにしてヒクソスを追い出した。できたのが新王国。

 新王国の都はテーベ。この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げました。シナイ半島をこえて、地中海西岸に進出します。シリア・パレスチナ方面です。
 新王国の成立の少し前に、ハンムラビ国王で有名な例の古バビロニア王国が滅びていて、この時期、メソポタミア地方中南部はカッシート王国、北部にミタンニ王国、小アジア地方にはヒッタイト王国という強国があった。新王国エジプトはこれらの国々と抗争をくりかえします。
 そしてトトメス3世(前1504ころ~前1450年ころ)の時にエジプトの領土は史上最大になる。このファラオは覚えておくこと。

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イクナートン
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 もう一人覚えておかないといけないファラオがアメンホテプ4世、別名イクナートン(前1379年ころ~前1362年ころ)です。エジプトは多神教の世界で、いろいろな地域にそれぞれの神様がいて、時代とともに流行の神様も変化するのですが、この新王国でもっとも信仰されていたのがアメン神です。そしてアメン神に仕える神官たちの勢力が非常に大きくなっていた。王権を左右するほどにね。
 アメンホテプのアメンはその神の名からきている。
 ところがアメンホテプ4世は神官たちが神の名をかりて政治に介入するのを嫌いました。しかし、かれらのバックには神がついているので、あからさまに対立することも難しかった。
イクナートン像
イクナートン像

そこで考えついたのが、新しい神をつくってそれを信仰することでした。
 アメン神を信仰しなければアメン神官団を無視してもいいわけだ。
 かれが新しく信仰した神がアトン神です。そして、イクナートンと改名。イクナ ートンとは「アトン神の役に立つ」という意味です。
 さらに、アメン神官団の勢力の強い首都テーベを捨てて、新しい都を建設します。これが、アマルナという都市です。
 だから、イクナートンは古代エジプトの宗教改革者と呼ばれる。
 かれの時代は、芸術もワンパターンから抜け出して非常に写実的な彫刻などがつくられます。イクナートンの像も残っていますが異様にリアルですね。この時代の芸術をアマルナ芸術といいます。


 しかし、ファラオとアメン神官団との対立は激しかったようでイクナートンが亡くなると、次のファラオによってアトン信仰は捨てられアメン信仰が復活しました。
 次のファラオというのがツタンカーメンです。

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ツタンカーメン
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 ツタンカーメンの正式名は、トゥット・アンク・アメン。アメン神の名が入っているでしょ。
 このファラオは墓に残された財宝で有名です。この黄金のマスクは見たことあると思います。

 この時期の王族の墓は王家の谷というところに集中しているのですが、ほとんどすべて長い歳月のあいだに盗掘されている。19世紀からヨーロッパ人による発掘が始まりますが完全な形の王墓が見つかったことはなかった。
 ところがツタンカーメンの墓だけは盗掘されていなかったのです。
 盗掘されなかった理由の一つはツタンカーメンがその名も知られていないほど無名の王だったこと。8歳から18歳くらいまで在位しただけの少年王で、格別な業績もなかった。だからその墓もすごく小さい。泥棒が見逃すほど小さいのです。
 もう一つは、ツタンカーメンのあとの時代にラムセス6世という偉大なファラオがいて、その大規模な墓がツタンカーメンの墓のすぐ横につくられるのですが、その工事の人夫小屋がツタンカーメンの墓の上に造られたのです。そのため、ツタンカーメンの墓は隠れてしまった。やがて、年月とともに存在も忘れられてしまった。

 発掘したのはカーターというイギリス人です。イギリス貴族のカーナボン卿という人が出資者になって王家の谷の発掘をした。発掘するためにはエジプト政府の許可がいるんだけれど、それまで発掘権を持っていたアメリカの学者がもう王家の谷には何もないと判断して、発掘権を返上したために許可がもらえたのです。

 カーター自身はツタンカーメンの墓があるはずだと確信して発掘を開始するんですが5年間全く成果なし。パトロンのカーナボン卿は大金持ちなんですが、さすがに資金がつづかなくなって発掘打ち切りを決意した最後の年、1922年ついに王墓へ通じる階段を発見しました。

 カーターが墓室をふさぐ扉を開けるのですがその時の情景は有名。
 カーターは早く墓の扉を開けたくて仕方がないんだけど、出資者の到着を待ちます。カーナボン卿の到着を待って扉の前まで進みます。有毒ガスが充満しているといけないので、まず扉の隅に小さな穴をあけてカーターはロウソクをかざして中をのぞき込みます。
 ところが、カーターは無言のまま。うしろにいたカーナボン卿がたまりかねて聞く。
「何か見えるかね?」
 やっとの事でカーターは答えます。
「はい、すばらしいものが…」
 ロウソクの明かりで光り輝く黄金の遺物が部屋いっぱいに詰まっていたのです。

 一番有名な黄金のマスクは、ツタンカーメンのミイラの上にかぶせてあったものです。ミイラは四重の厨子、石棺、三重の人形棺の中に入れられていた。一番内側の人形棺は黄金製。そのほかにもアマルナ芸術の影響もあるのか、芸術性の高い遺宝が2000点も発見された。
 これでも王墓の中では異例に小さいものだというから、普通の王墓にはどれだけの財宝があったか想像もできない。

 さて、ツタンカーメン自身のことですが、かれはイクナートンの息子(* 以前は腹違いの弟と書いていました)らしい。ミイラをレントゲンにかけたりして調べるんですよ。
 イクナートンが32歳で病死したあと王位につくのですが、エジプトの王位は、王の血統を継ぐ娘を妻にすることによって正統なものとされます。ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。アンケセナーメンはツタンカーメンより何歳か年上ですが、一緒に育てられた幼なじみで仲良しだったらしい。たぶん愛情があったんじゃないかな。遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが仲睦まじく描かれている玉座も残されています。

 この若妻アンケセナーメンですが実は2回目の結婚だった。一人目の夫は誰だったかというと実の父イクナートンです。ややこしい話でしょ。イクナートンはアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化するために、王の娘、自分の娘なんだけどね、を妻に加えたのでしょう。
 父であり夫であるイクナートンが死んで、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻になったんだ。

 ツタンカーメンは即位の時わずか8歳の少年ですから実際の政治はたぶんしていない。そこで、アメン神官団が力を盛り返して、イクナートンの宗教改革をすべてつぶして元に戻してしまいました。
 政治を取り仕切っていたのが三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。

 ここからはどんどん想像の世界に入っていくのですが、ツタンカーメンの死因です。かれのミイラをレントゲンにかけたところ頭蓋後方に穴が発見されました。
 調査した医者は「棍棒または剣のつかで頭部を打たれたことがもとでできたらしい」といっている。他殺の可能性があるということだね。宮廷の奥深くで権力闘争おこなわれていたとしたら、さあ、犯人は誰か。
 ツタンカーメンのミイラは太ももが異常に細い。3ミリしか大腿部の肉がない。ひょっとしたら歩行困難な障害があったのかもしれない。自由に歩けないツタンカーメンのうしろに近づいて頭を剣のつかでゴンと打った者がいるとしたら。

 少ない状況証拠の中で犯人を特定するとしたら、ツタンカーメンの死によって最も得をした者。それは大臣アイでしょう。
 ツタンカーメンの死後ファラオとなったのはかれだったのです。アンケセナーメンの3人目の夫として。

 ツタンカーメンの棺の部屋の隣の部屋からは6ヶ月と7ヶ月位の胎児のミイラ2体が見つかっています。かれの子どもだとしたら、母親は…アンケセナーメンでしょう。早産だったのか、中絶だったのか。ひょっとして次の王位をねらう実力者に中絶を強制されたのか。想像はふくらみます。
 夫ツタンカーメンを殺し、自分の子どもを中絶させた男と結婚をしなければならないとは。アイが犯人でないにしても何十歳も年上の老人の妻にならなければいけなかったアンケセナーメンはどんな気持ちだったでしょうね。

 実はカーターがツタンカーメンの石棺の蓋を開けたとき、金箔張りの人形棺の額の上に小さな花輪が置いてありました。すっかりドライフラワーになってるんだけどね。カーターは、ツタンカーメンの遺物のなかで、黄金や宝石でできた多くの副葬品よりもこの花輪が一番胸を打ったと言っています。
 愛する夫を失ったアンケセナーメンが最後の蓋を閉める前にそっと置いたのかも知れませんね。
(*付記 2005年におこなわれたツタンカーメンのミイラのCTスキャン調査では、死の直前に足にひどい骨折をしていることがわかりましたが、頭部には異常は発見されませんでした。結局、死因については不明です。上記のロマンチックな物語は今や妄想になってしまいました。)
 さて、その後も新王国は対外活動に積極的でシリア方面で外交活動を続けています。
 覚えておいて欲しいのが前1285年、カデシュの戦い。新王国とヒッタイトとの戦です。これがなぜ大事かというと、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国です。エジプトは青銅器です。だから、鉄器対青銅器の大合戦、というわけです。結果はヒッタイトの勝利に終わったらしい。
 この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトのあった小アジアでも出土しているという点でも有名です。

 これ以後、エジプトは「海の民」というよくわからん人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、前671年にはアッシリアという国に占領されます。

 その後、一時復活する時期もあるのですが、とりあえずここまでで一段落です。
 有名なクレオパトラが登場するのはもっとあとの話。

2013年11月6日水曜日

ソビエト連邦構成国

加盟年国名ソ連解体後誕生
1922年ウクライナ社会主義ソビエト共和国ウクライナ
白ロシア・ソビエト社会主義共和国ベラルーシ
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国1936年連邦解散
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ロシア
1924年ウズベク・ソビエト社会主義共和国ウズベキスタン
トルクメン・ソビエト社会主義共和国トルクメニスタン
1929年タジク・ソビエト社会主義共和国タジキスタンウズベクから分割
1936年アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国アゼルバイジャンザカフカースを解散
アルメニア・ソビエト社会主義共和国アルメニア
グルジア・ソビエト社会主義共和国グルジア
カザフ・ソビエト社会主義共和国カザフスタンロシアから分割
キルギス・ソビエト社会主義共和国キルギスタン
1940年カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国1956年ロシアの自治共和国に降格ロシアの一部とフィンランドの一部を合併
エストニア・ソビエト社会主義共和国エストニア
モルダビア・ソビエト社会主義共和国モルドバ
ラトビア・ソビエト社会主義共和国ラトビア
リトアニア・ソビエト社会主義共和国リトアニア

2013年11月3日日曜日

英検3級2次

http://www.youtube.com/watch?v=twiubnxk63Y

http://www.youtube.com/watch?v=ujV2LqYr_CA

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012069395

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432946839




May I come in ? →  Here is my card.→Please have a seat.→my name is・・→Are you in the third / pre second grade of STEP, ok? →OK.→How are you?
Here is your card → Thank you → Read silently→ O.K.
Read aloud,please→O.K.
I ask some question,O.K.?→O.K.
「Pardon, please?」 「I’m sorry, I don’t know.」
Return your card → Here you are → Thank you Good bye.
Please look at the passage,
Please look at the picture
Where, What, What time,How many~?
Please look at the picture
What is he going to do?
Please tell  me more
According to the passage
Tell me as much as you can about what they are doing
A girl is playing the guitar
「That’s all」
Please describe the  situation
The boy can’t run because  he is tired.
Please, turn your card over
Do you think~?
Yes/No
Why/Why not?
What is (are)~doing            (The girl/She is)reading a book
What is ~going to do 
What will~do
how many
Where
What
who