2013年11月10日日曜日

Language ネタ帳

ごちそうさまでした。これは私たちの日本語であり日本以外の国にこれに相当する言葉はないらしい。「ラテン」という言葉に私が思い浮かべるのはブラジルやアルゼンチン、南アメリカの人々や音楽であるが、「ラテン語」といえばローマ帝国における公用語である。現在ラテン語を公用語としている国はない(バチカン市国は公用語)が、イタリア国、ルーマニア国、フランス国、スペイン国、ポルトガル語のルーツはラテン語であり、ドイツ語、オランダ語、英語の単語や文法に、多大な影響を与えたといわれている。

ちなみに、国連の公用語は、英語、ロシア語、中国語、フランス語、アラビア語、スペイン語の6つであるが、これは第二次世界大戦の戦勝国の言語に、国際的に重要なアラビア語とスペイン語を加えたものである。

ラテン人とは、古代ローマ帝国のローマ人のうち、属州出身者でない、ローマ市民権を持った人達です。
ただし、西ローマ帝国の崩壊により、ラテン人の概念が無くなってしまいます。
その結果、現在ラテン系人種として、ロマンス語系の言語を話す人達を、さすようになります。
ロマンス語系言語を話す人達として、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、ワロニー人(ベルギー南部)、イタリア人、ルーマニア人を指します。
その他ラテンアメリカ人を含む場合も有ります。


現在ラテン語を話す民族は有りません。(バチカン市国の公用語ではあります)








ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたた

キリストからさかのぼること3000年、







 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。






















もともとヘブライ語で書かれた聖書は西ローマ帝国、カトリック教会によりラテン語が採用され、後の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語にする。





初めに。英語とドイツ語の先祖はラテン語ではありません※。「ゲルマン祖語」と呼ばれる言語が先祖です。このゲルマン祖語とラテン語の先祖とが遠くさかのぼれば「インド・ヨーロッパ祖語」と呼ばれる共通の言語に行きつきます。

英語とドイツ語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「ゲルマン語派」と呼ばれるグループに属しており、その中でさらに細かく見てみますと「西ゲルマン語群」と呼ばれる小グループに属しています(「北ゲルマン語群」というのもあり、こちらはスウェーデン語など。「東ゲルマン語群」と呼ばれるのもあったが、全て死語)。


フランス語・イタリア語・スペイン語、この3つはラテン語が先祖です。正確に言いますと私たちが一般的に学ぶ「古典ラテン語」の口語である「俗ラテン語」と呼ばれる言語です。ラテン語の一種であるという点では同じですので、一般的に「ラテン語」と言ってしまって結構ですけどね。

さてラテン語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「イタリック語派」に属しており、さらに細かく見てみますと、「ラテン・ファリスク語群」に属しています。このラテン語の下位に「ロマンス諸語」と呼ばれるグループがあり、フランス語とイタリア語・スペイン語は「イタロ・西ロマンス語」と呼ばれるグループに属しています(東ロマンス語というグループもある。ルーマニア語など)。

イタロ・西ロマンス語はさらに「西ロマンス語」と「イタロ・ダルマチア語」に分けることができ、前者にはフランス語やイベリア半島のロマンス語(スペイン語やポルトガル語など)があり、後者にはイタリア語などがあります。

※「英語やドイツ語もラテン語を起源とする」というのはよくある間違いです。確かに両言語ともラテン語起源の単語をたくさん持っていますし、ラテン語に影響されたと思われる事柄もあります。文化的にもラテン語の影響はヨーロッパのほとんどの地域におよび、イギリスやドイツ語圏もその例外ではありません。

しかし例えば日本語には漢語がたくさんあり、日本語は漢語の影響を受け、漢字文化圏に属していますが、だからといって「日本語の起源は中国語だ」と言えるでしょうか。中国語と共通しているのはあくまでも漢語の範囲内においての話であって、文法や日本語本来の単語(大和言葉)にはほとんど何の共通点も見られませんので、それぞれは別の起源を有することがわかります。
英語・ドイツ語とラテン語の関係もこの日本語と中国語との関係と同じであり、系統的には英独両言語ともラテン語とは別グループの言語です。
もっとも英独両言語の先祖であるゲルマン祖語とラテン語の先祖とは共通の先祖までさかのぼれますので、この点において日本語と中国語との関係との大きな違いになりますけどね。





第5回 エジプト文明 
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「エジプトはナイルの賜物」
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  エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。前2700年頃には統一王朝が成立します。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているのでメソポタミアのようなめまぐるしい民族の侵入や王朝の興亡はあまりなく、独特の文化を築きます。
 エジプトが文明をもてたのは、なんといってもナイル川のおかげ。ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくる。だから何もしなくても地力が維持できるのです。あとは洪水が引いていく時に水の管理さえしっかりできればよい。

 前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です。「エジプトはナイルの賜物」。

 エジプトの空中写真を見るとナイル川の縁だけが緑になっているのがよく分かるでしょう。流域から少しはずれるとずっと砂漠が広がっています。
 エジプト文明をつくった人々はハム系という言語系統です。現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますがアラブ人と混じり合っていて、かれら自身もアラブ人だと自覚している。

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エジプトの文化
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エジプトの暦は太陽暦です。1年365日です。

 ナイル川はティグリス・ユーフラテスのように不定期な大洪水はおこりません。
 1000キロ以上上流のエチオピアの高原に降ったモンスーンの雨でナイル川は増水するので、毎年決まった時期に同じ様なペースで水かさが増していきます。エジプト人はいつナイル川が増水するか、それが最大の関心事。それにあわせて農耕の準備をするわけです。
 神官たちは、天体を観察しながら、ナイル増水の時を調べました。
 7月の半ば明け方の東の地平線ぎりぎりにシリウスがひときわ輝く時がある。ちょうどその時からナイルが増水することが解ってきた。翌年同じ場所にシリウスが輝くまでが365日。そして、またその時に増水がはじまるのです。

 こうしてできた暦が太陽暦です。だから、正確にいうと太陽暦じゃなくて洪水暦かシリウス暦なんだけどね。でも、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、今では世界的に使われている暦です。

 1日を24時間にしたのもエジプトです。エジプトは10進法で、はじめは昼と夜をそれぞれ10に分けて20だったのが、昼と夜の境界の時間をそれぞれに付け加えて24になったそうです。

 洪水の水が引いたあと、農民たちはその上で農耕をはじめるのですが、土地の境界線が、増水のあとは泥に埋もれて全然わからなくなってしまうでしょ。そこで、エジプトでは測地術も発展します。

 文字は独特の絵文字を発達させます。鳥とか獅子とか秤とか、絵の形が字になってるね。これは一番格式の高い字で神聖文字といいます。これ以外に神官文字、民衆文字という字体がありました。

 この神聖文字の解読にまつわる話をしておきます。

 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。

  文字が書かれたのがパピルスです。パピルスという植物の茎をつぶしてシート状にします。英語のペーパーの語源です。ナイルの湿原に自生している植物ですが、今は観光用につくっているだけらしい。これ、エジプト土産にもらった実物です。まわします、破かずに見てください。

 精神世界の話。エジプト人は死後の世界に対して独特の関心を持っていました。かれらの死後の世界を描いたのが「死者の書」。
 冥界つまり、あの世を書いてある。
 死者の魂はあの世に行って神々の検査をうけるんです。
 ここに秤があるでしょ。秤の左側に乗っているのが真実の羽、右側に乗っているのが死者の心臓を入れた壺。心臓が真実の羽より軽いと不合格だと資料集には書いてありますが、実はどうなったら合格なのかわかっていません。残された絵はみんな真実の羽と心臓の壺が釣り合っているのです。まあ、とにかく、この秤の検査に合格すると、この世に再生できる。
 再生するには体がないと困るね。そこで死後、肉体を保存するのに情熱を持つ。これがミイラですね。
 ミイラをつくるときも松竹梅とランクがある。ミイラの作り方。まず、特別な石器のナイフでお腹を切って内臓を取り出す。この内臓は壺に詰めてとっておくんです。
 内臓を取ったあとのお腹には詰め物をします。松コースは柔らかい香草で詰める。梅コースは固い枯れ草とか詰めるので死体が乾燥して縮んでくると、お腹の皮を突き破って枯れ草がプシュプシュでてくる。こんな体で再生してもねえ。
 ミイラが腐らないように脳味噌も取り出す。長ーいスプーンを鼻の穴からズンと突っ込んで、掻き出すんです。掻き出した脳味噌は、そのまま地面にぶちまけて捨てちゃう。内臓とは大分扱いが違うね。心は心臓にあると思ったのですね。
 このエジプトの死生観は、のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響をあたえたといわれています。

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古代エジプト史の流れ
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 さて、古代エジプト史の流れを見てみましょう。
 大きく三つの時代に分けられます。これをまず覚えてください。

 古王国(前2700~前2200年頃)
 中王国(前2100~前1700年頃)
 新王国(前1600~前1100年頃)

 簡単でしょ。
 それぞれのあいだの期間は中間期といって、エジプトが一つにまとまっていなかった時期です。

 古王国の都はメンフィス。エジプトの下流地域を下エジプトといいますが、ここに都が置かれた。
 古王国はピラミッドが造られた時代と覚えておきましょう。最大のクフ王のピラミッドをはじめ、すべてこの時代のものです。古王国で覚えるのはそれだけ。

 ピラミッドはみんな知ってると思いますが、案外なんなのかわかっていない。
 エジプトの王のことをファラオといいますが、そのファラオの墓だと一般には考えられているけれど、墓じゃないという学者もたくさんいる。
 墓室があるし、棺桶まである、なんで墓じゃないのか。
 実は今まであらゆるピラミッドから一つもミイラが発見されたことがないんです。
 墓泥棒は昔からいて、ピラミッドにも侵入しているんだけど、財宝は盗んでもミイラまで盗まないだろうから、墓だとするとやっぱり変なわけ。しかし、墓ではないのなら何故棺桶があるのかといわれると、これも説明できない。困りますね。
 一人のファラオが複数のピラミッドを建設した例もあるというから、われわれが考える墓ではなかったんだと思います。

 じゃあ、何かというと廟、神殿みたいなものらしい。日光の東照宮は家康を祀っているけど、墓ではない。そんなモノなんでしょう。

 クフ王のピラミッドの内部にはまだまだ発見されていない秘密の部屋があるらしい。世界に誇る文化遺産だからエジプト政府はピラミッドを傷つけるような調査は許さない。だから、早稲田大の吉村先生は音波の測定器使って調査してましたね。やっぱりなにかあるらしい。この辺は最後の歴史ロマンだからもやもやしている方が楽しいね。

 ピラミッドは多くの奴隷がむち打たれながら造ったと私の子どもの頃は書いてありましたが、これも違うらしい。ピラミッドを造った働き手は普通のエジプトの農民たちです。しかも、いやいや造らされたのでもないのです。
 1年の半分はナイルの増水で農地は水没していて農民は暇でしかたない。その時期にファラオが農民を集めて働かせた。重労働だったには違いありませんが、ちゃんと働けば小麦とビールが配られた。今でいう失業対策みたいなものだね。

 次の中王国はナイルの上流、上エジプトのテーベが都。それだけでおしまい。

 中王国はエジプト初の外来民族の侵入によって衰退しました。
 侵入したのが混成民族集団ヒクソス。これがアジア方面から侵入した。
 ヒクソスの侵入で馬と戦車がはじめてエジプトにもたらされました。それまでのエジプトには馬がいなかったわけだから、どれだけ孤立した世界だったかわかりますね。
 この時代はまだ馬に乗って戦えません。馬に乗って戦うためには、鞍とあぶみが必要ですがまだ発明されていないのです。
 馬は戦車を牽かせるために使います。戦車といってもただの馬車みたいなものです。御者が一人、そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を射ったのだと思います。エジプト兵はみな歩兵ですから、圧倒的に機動力で優れていたのです。

 その馬と戦車にエジプトは征服されますが、やがてエジプトはこの新戦法を自分のものにしてヒクソスを追い出した。できたのが新王国。

 新王国の都はテーベ。この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げました。シナイ半島をこえて、地中海西岸に進出します。シリア・パレスチナ方面です。
 新王国の成立の少し前に、ハンムラビ国王で有名な例の古バビロニア王国が滅びていて、この時期、メソポタミア地方中南部はカッシート王国、北部にミタンニ王国、小アジア地方にはヒッタイト王国という強国があった。新王国エジプトはこれらの国々と抗争をくりかえします。
 そしてトトメス3世(前1504ころ~前1450年ころ)の時にエジプトの領土は史上最大になる。このファラオは覚えておくこと。

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イクナートン
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 もう一人覚えておかないといけないファラオがアメンホテプ4世、別名イクナートン(前1379年ころ~前1362年ころ)です。エジプトは多神教の世界で、いろいろな地域にそれぞれの神様がいて、時代とともに流行の神様も変化するのですが、この新王国でもっとも信仰されていたのがアメン神です。そしてアメン神に仕える神官たちの勢力が非常に大きくなっていた。王権を左右するほどにね。
 アメンホテプのアメンはその神の名からきている。
 ところがアメンホテプ4世は神官たちが神の名をかりて政治に介入するのを嫌いました。しかし、かれらのバックには神がついているので、あからさまに対立することも難しかった。
イクナートン像
イクナートン像

そこで考えついたのが、新しい神をつくってそれを信仰することでした。
 アメン神を信仰しなければアメン神官団を無視してもいいわけだ。
 かれが新しく信仰した神がアトン神です。そして、イクナートンと改名。イクナ ートンとは「アトン神の役に立つ」という意味です。
 さらに、アメン神官団の勢力の強い首都テーベを捨てて、新しい都を建設します。これが、アマルナという都市です。
 だから、イクナートンは古代エジプトの宗教改革者と呼ばれる。
 かれの時代は、芸術もワンパターンから抜け出して非常に写実的な彫刻などがつくられます。イクナートンの像も残っていますが異様にリアルですね。この時代の芸術をアマルナ芸術といいます。


 しかし、ファラオとアメン神官団との対立は激しかったようでイクナートンが亡くなると、次のファラオによってアトン信仰は捨てられアメン信仰が復活しました。
 次のファラオというのがツタンカーメンです。

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ツタンカーメン
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 ツタンカーメンの正式名は、トゥット・アンク・アメン。アメン神の名が入っているでしょ。
 このファラオは墓に残された財宝で有名です。この黄金のマスクは見たことあると思います。

 この時期の王族の墓は王家の谷というところに集中しているのですが、ほとんどすべて長い歳月のあいだに盗掘されている。19世紀からヨーロッパ人による発掘が始まりますが完全な形の王墓が見つかったことはなかった。
 ところがツタンカーメンの墓だけは盗掘されていなかったのです。
 盗掘されなかった理由の一つはツタンカーメンがその名も知られていないほど無名の王だったこと。8歳から18歳くらいまで在位しただけの少年王で、格別な業績もなかった。だからその墓もすごく小さい。泥棒が見逃すほど小さいのです。
 もう一つは、ツタンカーメンのあとの時代にラムセス6世という偉大なファラオがいて、その大規模な墓がツタンカーメンの墓のすぐ横につくられるのですが、その工事の人夫小屋がツタンカーメンの墓の上に造られたのです。そのため、ツタンカーメンの墓は隠れてしまった。やがて、年月とともに存在も忘れられてしまった。

 発掘したのはカーターというイギリス人です。イギリス貴族のカーナボン卿という人が出資者になって王家の谷の発掘をした。発掘するためにはエジプト政府の許可がいるんだけれど、それまで発掘権を持っていたアメリカの学者がもう王家の谷には何もないと判断して、発掘権を返上したために許可がもらえたのです。

 カーター自身はツタンカーメンの墓があるはずだと確信して発掘を開始するんですが5年間全く成果なし。パトロンのカーナボン卿は大金持ちなんですが、さすがに資金がつづかなくなって発掘打ち切りを決意した最後の年、1922年ついに王墓へ通じる階段を発見しました。

 カーターが墓室をふさぐ扉を開けるのですがその時の情景は有名。
 カーターは早く墓の扉を開けたくて仕方がないんだけど、出資者の到着を待ちます。カーナボン卿の到着を待って扉の前まで進みます。有毒ガスが充満しているといけないので、まず扉の隅に小さな穴をあけてカーターはロウソクをかざして中をのぞき込みます。
 ところが、カーターは無言のまま。うしろにいたカーナボン卿がたまりかねて聞く。
「何か見えるかね?」
 やっとの事でカーターは答えます。
「はい、すばらしいものが…」
 ロウソクの明かりで光り輝く黄金の遺物が部屋いっぱいに詰まっていたのです。

 一番有名な黄金のマスクは、ツタンカーメンのミイラの上にかぶせてあったものです。ミイラは四重の厨子、石棺、三重の人形棺の中に入れられていた。一番内側の人形棺は黄金製。そのほかにもアマルナ芸術の影響もあるのか、芸術性の高い遺宝が2000点も発見された。
 これでも王墓の中では異例に小さいものだというから、普通の王墓にはどれだけの財宝があったか想像もできない。

 さて、ツタンカーメン自身のことですが、かれはイクナートンの息子(* 以前は腹違いの弟と書いていました)らしい。ミイラをレントゲンにかけたりして調べるんですよ。
 イクナートンが32歳で病死したあと王位につくのですが、エジプトの王位は、王の血統を継ぐ娘を妻にすることによって正統なものとされます。ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。アンケセナーメンはツタンカーメンより何歳か年上ですが、一緒に育てられた幼なじみで仲良しだったらしい。たぶん愛情があったんじゃないかな。遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが仲睦まじく描かれている玉座も残されています。

 この若妻アンケセナーメンですが実は2回目の結婚だった。一人目の夫は誰だったかというと実の父イクナートンです。ややこしい話でしょ。イクナートンはアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化するために、王の娘、自分の娘なんだけどね、を妻に加えたのでしょう。
 父であり夫であるイクナートンが死んで、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻になったんだ。

 ツタンカーメンは即位の時わずか8歳の少年ですから実際の政治はたぶんしていない。そこで、アメン神官団が力を盛り返して、イクナートンの宗教改革をすべてつぶして元に戻してしまいました。
 政治を取り仕切っていたのが三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。

 ここからはどんどん想像の世界に入っていくのですが、ツタンカーメンの死因です。かれのミイラをレントゲンにかけたところ頭蓋後方に穴が発見されました。
 調査した医者は「棍棒または剣のつかで頭部を打たれたことがもとでできたらしい」といっている。他殺の可能性があるということだね。宮廷の奥深くで権力闘争おこなわれていたとしたら、さあ、犯人は誰か。
 ツタンカーメンのミイラは太ももが異常に細い。3ミリしか大腿部の肉がない。ひょっとしたら歩行困難な障害があったのかもしれない。自由に歩けないツタンカーメンのうしろに近づいて頭を剣のつかでゴンと打った者がいるとしたら。

 少ない状況証拠の中で犯人を特定するとしたら、ツタンカーメンの死によって最も得をした者。それは大臣アイでしょう。
 ツタンカーメンの死後ファラオとなったのはかれだったのです。アンケセナーメンの3人目の夫として。

 ツタンカーメンの棺の部屋の隣の部屋からは6ヶ月と7ヶ月位の胎児のミイラ2体が見つかっています。かれの子どもだとしたら、母親は…アンケセナーメンでしょう。早産だったのか、中絶だったのか。ひょっとして次の王位をねらう実力者に中絶を強制されたのか。想像はふくらみます。
 夫ツタンカーメンを殺し、自分の子どもを中絶させた男と結婚をしなければならないとは。アイが犯人でないにしても何十歳も年上の老人の妻にならなければいけなかったアンケセナーメンはどんな気持ちだったでしょうね。

 実はカーターがツタンカーメンの石棺の蓋を開けたとき、金箔張りの人形棺の額の上に小さな花輪が置いてありました。すっかりドライフラワーになってるんだけどね。カーターは、ツタンカーメンの遺物のなかで、黄金や宝石でできた多くの副葬品よりもこの花輪が一番胸を打ったと言っています。
 愛する夫を失ったアンケセナーメンが最後の蓋を閉める前にそっと置いたのかも知れませんね。
(*付記 2005年におこなわれたツタンカーメンのミイラのCTスキャン調査では、死の直前に足にひどい骨折をしていることがわかりましたが、頭部には異常は発見されませんでした。結局、死因については不明です。上記のロマンチックな物語は今や妄想になってしまいました。)
 さて、その後も新王国は対外活動に積極的でシリア方面で外交活動を続けています。
 覚えておいて欲しいのが前1285年、カデシュの戦い。新王国とヒッタイトとの戦です。これがなぜ大事かというと、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国です。エジプトは青銅器です。だから、鉄器対青銅器の大合戦、というわけです。結果はヒッタイトの勝利に終わったらしい。
 この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトのあった小アジアでも出土しているという点でも有名です。

 これ以後、エジプトは「海の民」というよくわからん人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、前671年にはアッシリアという国に占領されます。

 その後、一時復活する時期もあるのですが、とりあえずここまでで一段落です。
 有名なクレオパトラが登場するのはもっとあとの話。

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