2010年9月23日木曜日

045 伊庭八郎


【幕末から学ぶ現在(いま)】(45)東大教授・山内昌之 伊庭八郎 (1/3ページ)

2010.1.14 08:08
このニュースのトピックス10代
伊庭八郎の菩提寺「浄土宗貞源寺」(東京都中野区)が所蔵する八郎の肖像画伊庭八郎の菩提寺「浄土宗貞源寺」(東京都中野区)が所蔵する八郎の肖像画
■隻腕の剣士 滅びの美学
伊庭八郎には不思議な人気がある。「伊庭八郎の会」なる同好の士の集いもあるらしい。おそらく「歴女(レキジョ)」なる好学の女性たちの間にもファンが多いのではないか。

江戸の女騒がす麒麟児

幕府の直参だった八郎は、将軍の家茂(いえもち)に随行して西下しながら、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸に戻った。その後も、蝦夷(えぞ)地に転戦して幕府瓦解の悲劇に殉じたヒーローである。日本人好みの滅びの美学に加えて、颯爽(さっそう)とした男前ぶりも人気の源であろう。背丈は5尺2寸(158センチ)と小柄であったが、とにかく「白皙(はくせき)美好」とか「眉目(びもく)秀麗、俳優の如(ごと)き好男子」と評判が高かった。
剣も達人の八郎は、幕末江戸四大道場の一つ、御徒町の「練武館」を主宰した心形刀(しんぎょうとう)流宗家・伊庭家の御曹司という毛並みの良さだった。「伊庭の麒麟児(きりんじ)」は気風のよい江戸っ子の典型なのである。芝居や錦絵に登場する役者めいた男がそのまま当代随一の剣客だったのだから、江戸の女たちが騒がないはずはない。
しかも、この超弩級(ちょうどきゅう)のスターは剣術だけでなく、漢学や蘭学への関心も失わなかった。むしろ剣術修行には学業よりも遅く入ったほどである。
元治元(1864)年に任命された幕府の奥詰とは将軍の親衛隊士にほかならず、幕臣に武術を指導する講武所が開かれると、すぐに教授方を務めた。八郎のキャリアは武州三多摩の近藤勇土方歳三とは異質であった。それでいて人を分け隔てせぬ、おおらかさは、奥詰が改編され遊撃隊となって、慶応3(1867)年に京都に入っても変わらなかった。
非番の日にはよく京都などの名所を見物し、よく食らい、よく飲み、余暇を満喫したというから爽(さわ)やかである。「朝涼(あさすず)や 人より先へ 渡り舟」とか「其(そ)の昔 都のあとや せみしぐれ」といった句はこの時の手すさびだったに違いない。

滴る血をものともせず

江戸に戻った八郎は、新政府軍への抵抗を決意し、遊撃隊の一部を率い、木更津に行き、請西(じょうざい)藩主の林忠崇(ただたか)らと合流、館山から出帆し、対岸の真鶴に上陸した。伊豆韮山から甲府や沼津を転戦しながら、江戸に向かう新政府軍を妨害するために箱根関所の占拠を企て、小田原藩と戦うはめになった。
この時、箱根の三枚橋で左手首の皮一枚を残して斬(き)られても、右手片手斬りの神業で敵を倒し、「百人斬り」と江戸で喧伝(けんでん)されたものだった。滴る血をものともせず、仁王立ちになったまま、傷口からほとばしる血を吸いながら戦ったというから、これは阿修羅のようなものだ。
しかも、左手の肘(ひじ)から下を麻酔をかけずに自分で切断しても、うめき声一つあげなかったのだから、気力や精神力の見事さには感心するほかない。
戦(いくさ)に敗れた八郎は、横浜から借り上げの英艦で箱館(はこだて)に向かったが、この路銀を用立てたのは吉原で馴染(なじ)みの花魁(おいらん)だったというのだから、よほどに八郎は女たちの胸をときめかせる天晴(あっぱ)れな男ぶりだったのだろう。
粋な風情を漂わせた八郎は、蝦夷地政府の入(い)れ札(ふだ)でも遊撃隊長にして歩兵頭並に選ばれた。新選組の土方も歩兵奉行並に推されたのだから、幕末の江戸と京都を駆け抜けたスター級の勇士が北辺の地で顔を合わせたことになる。絵になるシーンとはこういう光景を指すのであろう。

兄弟で政治変動の悲劇

隻腕のハンディキャップをものともせず徹底抗戦した八郎は、木古内の戦いで重傷を負って、箱館病院で治療を受けた。命、旦夕(たんせき)に迫り、見かねた蝦夷地政府総裁の榎本武揚(たけあき)はモルヒネをすすめて楽に死を迎えさせた。辞世は、「まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はし(しばし)をくるる 身こそ悲しき」と伝えられる。
明治34(1901)年に東京市会議長の星亨(とおる)を暗殺して無期徒刑となった伊庭想太郎は実弟である。兄は忠義一途(いちず)に徳川家のために命を捧(ささ)げ、弟は消え逝く江戸の良風美俗を侮蔑(ぶべつ)した町人出身の政治家を襲って獄中で病死したのだった。幕末明治でも兄弟で政治変動の悲劇をもろにかぶった例は少ない。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】伊庭八郎
いば・はちろう 天保14(1843)年生まれ。本名・秀穎(ひでさと)。江戸に剣術道場を開いていた心形刀流8代・伊庭軍兵衛(ぐんべえ)=秀業(ひでなり)の長男。9代伊庭秀俊の養子となり、10代を継ぐ。旗本・御家人に武術を習得させる講武所から奥詰となったが、鳥羽・伏見の戦いで負傷。箱根戦争で左腕を失って敗退すると、江戸に戻り、彰義隊に入る。彰義隊滅亡後は陸奥で奥羽同盟に参加。明治2(1869)年、五稜郭の戦いで死去。享年27。

049 井伊直弼


【幕末から学ぶ現在(いま)】(48)東大教授・山内昌之 井伊直弼(上)

2010.2.4 07:26
井伊直弼 井伊直弼 
■国学者の開国政策
どの政治家においても、目的の理想性と手段の現実性がぴたっと調和するのは幸せなことである。
しかし、この幸運に恵まれた政治家は存外に少ない。現代でも政治改革といえば、誰もが否定できず、理想の甘い匂(にお)いがする一方、それを実現する手法や基盤ともなれば時に金権という腐臭あふれる利益誘導と結びつく例もある。
これはいま、政権交代に酔った有権者に、嫌悪感をもたせる政治とカネにまつわる現象を見ればよく分かることだろう。
◆正反対の見方が併存
幕末の危機において、真実の目的と皮相の目的が乖離(かいり)した例といえば、幕府の大老として難局に当たった井伊直弼をすぐに思いだす。なにしろ直弼は、溜間(たまりのま)に詰める徳川の譜代門閥大名の筆頭として本質的に保守固陋(ころう)の思想をもちながら、開国という最も尖端(せんたん)的な政治決断に踏み切り、反対派を一掃した人物なのだ。
まさに当世流の政治的表現を借りるなら、剛腕や辣腕(らつわん)の名にふさわしい。桜田門外の変で、水戸の攘夷(じょうい)浪士らに斬(き)られた直弼は、眺めるプリズムの角度が違えば幾重にも像が変容する政治家である。消え去った徳川幕府の立場からさえ正反対の見方が併存していた。
明治になって『東京日日新聞』の主筆となる旧幕臣の福地桜痴(おうち)は直弼について「おのれが信ずる所を行い、おのれが是とする所をなしたり」と指摘しながら、2つの異なる見方を示している。直弼は時勢に逆行して世論に背反し、安政の大獄などで「不測の禍害」を徳川政権に与えて衰亡の命脈を促したという結論を受けても仕方がないというのだ。
同時に桜痴は、幕権を維持して異論を抑え、開国といった強硬な政略を断固として実施した点で決して普通の政治家が及ばない才気をもっていたとも指摘する(『幕末政治家』)。
◆尊攘派ばりの信念
直弼は本質的にいえば、茶道や和歌に才を発揮した国学者であった以上、アメリカとの条約調印を世界情勢に照らして前向きに確信した革新進歩の徒だったはずがない。彼は条約調印を一時はやむをえないとの「権道」に立ち、兵備を充実して将来に攘夷を実現しようと考えたらしい。政権の要路として欧米列強の実力による撃退を難しいと考える点では現実感覚に立脚していたが、力がつけば外国とも戦えると尊攘派ばりの信念もあったようだ。
もし直弼にマキャヴェリズムよろしく、開国策をとった幕府が孝明天皇はじめ朝廷に攘夷政策があたかも可能だと欺く意図でもあれば、幕末の進路はまた違っていたかもしれない。
◆政治主導と官僚統治
桜痴のいうように、彼の心中に抱いた開国の国是を政策として実現しながら、尊攘の雰囲気を利用して人びとを籠絡(ろうらく)する権謀術策でもあれば、「天晴(あっぱ)れなる政治家と称せられるべきの価値」もあるが、そこまでの「識見智略を具せる宰相」というわけでもなかったと冷淡な評価をする。
もし井伊大老にまことの開国の「卓識」があり、自ら上京して開国と鎖国の得失を天皇の前で堂々と弁じていたなら「不世出の聡明(そうめい)」とうたわれていたかもしれないというのだ。
それは浮雲を披(ひら)いて天日を見るような壮快さであるが、叶(かな)わなかった。大老に開国の確固たる識見がなかったからだと手厳しい。しかし、この説はおそらく正しい。
それでは、何故に直弼は開国に舵(かじ)を切り、一橋慶喜(よしのぶ)を排して紀州慶福(よしとみ)(14代将軍、家茂)を将軍家定の継嗣(けいし)としたのだろうか。その答えは、直弼における政治主導と官僚統治にかかわる独特な理解に求められるだろう。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】井伊直弼
いい・なおすけ 文化12(1815)年、近江(滋賀県)彦根藩主、直中(なおなか)の14男として生まれる。藩主を継いだ後、老中をへて安政5年に大老となる。病弱だった13代将軍、徳川家定の継嗣問題や、開国・攘夷をめぐって前水戸藩主の徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許を得ずに調印し、将軍継嗣を紀州藩主、徳川慶福(家茂)に決める。一橋慶喜を推していた斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧したため、万延元(1860)年、桜田門外で暗殺された。享年46。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(49)東大教授・山内昌之 井伊直弼(下)

2010.2.11 08:39
■“政治家主導”の限界
井伊直弼の大老就任には、現代にも通じる政治の本質にかかわる問題が潜んでいる。まず第1に、政治と軍事の最高責任者たる徳川将軍は、血筋で選ばれるべきか、能力で推挙されるべきかという統治の正統性である。
黒船来航で風雲急を告げる時代の舵(かじ)取りは、13代将軍の家定という「菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる昏主(こんしゅ)」(形の違う豆と麦を区別できないほど暗愚な君主)では無理なので、英明の誉れが高い一橋慶喜(後の15代将軍)を推戴(すいたい)するべきだという考えもあった。
現代人の感覚では、もっともらしく聞こえるが、この意見は世襲による天皇や将軍の血統や筋目を尊重した時代には大きな論点を含んでいた。家定が事物の道理を分別できないほど痴愚だったか否かにも意見が分かれる。
もし年長賢明な将軍でなければダメというなら、年少不明な後継者を直系であっても廃立する「革命」や権力簒奪(さんだつ)の論理につながりかねない。
8代将軍、吉宗が英明な次男の田安宗武(むねたけ)を退けて、暗愚でも長男の家重を将軍にしたのは、筋目を重視して簒奪の論理を拒否したからである。ただし、この選択が成功するには、内閣や首相に当たる大老や老中などの幕閣が正常に機能し、国家が円滑に運営されることが前提となる。
◆「象徴将軍制」の原則
井伊家は、会津と高松の両松平家とともに溜間(たまりのま)の「常詰(じょうづめ)」(いわゆる「常溜(じょうだまり)」)として将軍に意見を上申し、老中たちと政務を議論できる高い家格を誇っていた。徳川幕府の統治システムは、制度化された官僚制に有力家門・譜代大名の家格序列を交えた「象徴将軍制」ともいうべき性格をもっていた。現代の象徴天皇制のように内閣が実際に統治機構を担っていた体制と共通する面もあった。
井伊直弼は主君の家定が慶喜を嫌いな以上、その人物を将軍継嗣(けいし)に推すのは「臣子(しんし)の分」として同意できないという象徴将軍制の原則に立ったのである。
また、直弼には、徳川幕府は天皇から委任された統治権限に基づいて外国と条約を調印したという自負と自信も強かった。外国と結んだ条約をほごにするのは不可能であり、世界情勢を観察し、日本の安全を図って実現した開国なのである。目先に迫った外交危機を解決するには、いちいち朝廷の指示を仰ぐ暇も必要もないという“政治家主導の国事行為”に満々たる自信をもっていた。
しかし、この姿勢は国学者として遺憾であり、天皇をないがしろにすると映り、尊攘(そんじょう)派を怒らせることにもなったのである。
◆優秀官僚粛清の失敗
“政治家主導”を高らかに掲げ、徳川の権威回復に乗り出した直弼は、もう一つ大きな失敗を犯した。それは、大胆な政策遂行の上で手足とすべき幕府の優秀な実務官僚層を粛清したことである。外国奉行となった旗本の官僚5人のうち、水野忠徳(ただのり)、永井尚志(なおのぶ)、岩瀬忠震(ただなり)の3人は一橋派だったのでまもなく罷免されてしまった。
また、京都に出張した川路聖謨(としあきら)も職を追われている。最大政治課題の対外関係を処理できる有能な人材を追放した結果、残った俗吏は悪辣(あくらつ)な外国公使の駆け引きに翻弄(ほんろう)され、幕府をますます衰退に追いこんだ。欧米の威嚇を恐れて要求をいれるとますます軽侮を招いた。幕府の威信低下は、まず外交から始まったといえるだろう。
◆称賛できないこだわり
直弼を「開国の卓識者」と手放しで称賛できないのは当然なのだ。もし直弼が果断に世の議論に耳を傾け、岩瀬などの開明官僚を活用する雅量があれば、外交にも大きな成果を発揮したはずだ。
 大老による“政治家主導”にこだわるあまり、幕府を一橋派の“官僚支配”下にあると見立てた幻影への思い込みを現代に見いだすのは深読みにすぎるだろうか。(やまうち まさゆき)

050 武市半平太


【幕末から学ぶ現在(いま)】(50)東大教授・山内昌之 武市半平太 (1/4ページ)

2010.2.18 06:42
高知県須崎市内にある武市半平太の像高知県須崎市内にある武市半平太の像
■手段選ばぬリアリスト
≪暗いマキャベリズム≫
「富と貴(たっと)きとは、是(こ)れ人の欲する所なり。其(そ)の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり」(『論語』里仁第四)。誰でも富と地位を欲しがるものだが、それ相応の方法(正しい勤勉さや高潔な人格)で得るのでなければ、そこに安住することはできない。
いま、自らの政治資金疑惑を招いている民主党政権のツートップは、孔子の言葉をどのような思いで聞くことだろうか。
なかでも、腑(ふ)に落ちないのは、長年政治生活を共にしてきた分身の秘書や、国会議員になった側近が訴追や拘置を終えて、ひとまず無事に日常生活へ復帰したのに鳩山首相や小沢幹事長が、彼らを案じる慰労もせず、健康の変調を気遣うわけでもないことだ。
少なくとも、自分の事務所や政治団体を通過した政治資金を、尊敬する先生のために良かれと処理した行為が法に触れたとすれば、自らの関与や承認の有無にかかわらず勝場啓二元公設秘書や石川知裕衆院議員に事情を聴きつつ、慰藉(いしゃ)するのは政治家の見識以前に人として自然の道ではないだろうか。
幕末では、理想をまず広く据えた上で、それを政治で実現するために手段を選ばぬ方策に徹したリアリストといえば、土佐の武市半平太こと瑞山であろう。私の子ども時分の東映時代劇映画の定番『月形半平太』のモデルとなった武市は、色白で身長180センチほどの偉躯(いく)を誇った男前でもあった。
しかし、そのさわやかな言説や高潔な人格の裏には、大久保利通木戸孝允にも負けないマキャベリズムが潜んでいた。政敵の打倒や異論の封殺のために暗殺テロを使った政治手法の暗さは、同じ土佐でも常に大同団結をめざす陽性の行動派の坂本龍馬と対照的である。
しかも、武市はテロに用いた者を手駒として使い捨てにできる非情さを持ち合わせていた。ついでにいえば、NHK大河ドラマ『龍馬伝』で武市に扮(ふん)する大森南朋(なお)はその暗い理知性をまずまず巧みに演じている。
≪抜群のカリスマ性≫
確かに、武市の組織者としての能力と、人を糾合するカリスマ性は抜群であった。もともと郷士身分の出身でありながら、剣術道場を舞台に土佐勤王党の土台をつくり、中岡慎太郎岡田以蔵らを育てた手腕は凡でない。
また、安政3(1856)年に江戸へ出て、鏡心明智流桃井春蔵道場で塾頭となる一方、桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作など尊攘派の長州藩士と交わる人脈をつくりあげた才も見事である。
文久元(1861)年に、「一藩勤皇」の理念によって、坂本龍馬や天誅(てんちゅう)組のリーダーになる吉村寅太郎なども集めて、江戸で土佐勤王党を結成したまではよい。
問題は、自分の進言を退けた土佐藩参政の吉田東洋を開国・公武合体派の首魁(しゅかい)として同志に暗殺させた陰湿さに始まる。一度、テロに手を染めた者は、血の臭いを消しきれない。京都でも無数の佐幕派暗殺に関与し、天誅や斬奸(ざんかん)と称して刺客を放ち、政敵を次々に暗殺させた。なかでも武市の命で動いた“究極のテロリスト”は人斬(き)り以蔵こと岡田以蔵である。
しかし、文久3年8月18日の政変で長州藩が中央政界から追われると、土佐藩でも前藩主の山内容堂が返り咲き、武市も捕縛され、やがて切腹を命じられた。彼は、容堂腹心の吉田東洋の暗殺を否定したが、岡田以蔵の自白により罪状が確定したらしい。
一説に武市は、性根の据わらぬ以蔵の捕縛を知って、牢(ろう)役人を使って以蔵に毒を盛ったとさえ言われる。以蔵は、毒飼いを憤ったあまりに自白供述に及んだという説も残っているから、陰惨なことおびただしい。
政治では、目的の高邁(こうまい)さと手段の卑俗さが乖離(かいり)する例は珍しくない。政治家らは、時に忠実な同志を切り捨てる非情さを発揮してきた。現代の政治家も、自分を慕い尊敬してきた側近を“使い捨ての駒”にするのは、私欲のためでなく、“大義親を滅す”ともいうべき公の覚悟に立ったからだ、とあくまで正当化するのだろうか。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】武市半平太
たけち・はんぺいた 文政12(1829)年、土佐藩(高知県)郷士の長男として生まれる。号は瑞山(ずいざん)。高知で剣術道場を開いた後、江戸に出て尊攘派と交わる。文久元年、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬中岡慎太郎ら同士を集めて土佐勤王党を結成。公武合体派の参政、吉田東洋を部下に暗殺させ、一時藩政をにぎり、京に出て朝廷工作や佐幕派暗殺に関与するが、8月18日の政変後、前藩主・山内容堂の勤王党弾圧を受けて投獄され、慶応元(1865)年、獄中で切腹する。享年37。

051 大久保一翁


【幕末から学ぶ現在(いま)】(51)東大教授・山内昌之 大久保一翁 (1/3ページ)

2010.2.25 07:34
■卑屈さない「敗者の戦後」
「敗者の戦後」という言葉がある。政治も“いくさ”である以上、勝敗は時の運ということもある。問題は、敗北や挫折からいかなる教訓を引き出し、捲土(けんど)重来につなげていくかという点だろう。
先の衆院選挙でカタストロフともいうべき大敗を喫した自民党は精気が乏しすぎる。民主党ツートップの不祥事に加えて内閣支持率が落ちている現在、谷垣禎一総裁の自民党は長崎県知事選勝利に乗じて如何に反撃するのだろうか。負けるにも負け方というものがある。幕末の徳川幕府はきれいさっぱり瓦解しても、明治社会の各方面に多数の人材を送り出す力をもっていた。
◆典型的な出世官僚
新社会でも幕府の人材に光る人が多かったのは、近代革命としての明治維新の余裕であり、器量であった。なかでも勝海舟と並んで大久保一翁の果たした平和革命への媒介的役割の意味は大きい。
一翁こと越中守忠寛(ただひろ)は、大名から旗本まで多くの根を張った三河以来の譜代・大久保家の一門に生まれた。大久保家に多い「忠」の一字を諱(いみな)に用い、11代将軍の家斉から15代慶喜まで仕えたのだから、同志として幕末の難局に共にあたった勝海舟と比較できないほど名流の高級旗本であった。
小姓や小納戸(こなんど)から始めて奉行職をあれこれ経験して、旗本として最高の役職の大目付までたどりついたのは、典型的な出世官僚のキャリア・パターンであった。そのうえ、大名しかなれない若年寄にも就任したのだから、平時であれば一門の誉れとしてめでたいというほかない。
しかし、一翁は誰よりも早く大政奉還論を打ち上げて、幕府内部から冷笑や憤怒を買った勇気ある人物である。朝廷から委任された幕府に尊王攘夷(じょうい)の不実行について天皇の信任が得られないなら、家康が受けた将軍職を返上して三河・遠江・駿河の旧領に戻り、諸大名の列に下ればよいという「御職御辞の論」を展開した。
◆解職の憂き目にも
しかも、尊攘派の議論には愛国の志があり、無為に惰眠をむさぼる幕臣と違う英気もあると冷静な評価も忘れない。彼らをいたずらに弾圧するのは為政者の道でない、と井伊直弼による安政の大獄を疑ったために解職の憂き目にもあった。
越前の松平春嶽にも、「内乱を涎(よだれ)を垂らして待っている英国やロシアの術策に陥る事態が眼前に迫っているのは残念」と述べているように、一翁には国際関係における日本の危うい位置が見えていたのだ。江戸城の無血開城勝海舟とともに成功させた一翁が、せめてもう少し早く老中格くらいになって勝や小栗上野介らとチームを組み幕政を仕切っていたなら、長州征伐という無謀な戦争で幕府瓦解を早める悲劇もなかったかもしれない。
また、持論の大小公議会つまり議会制度をつくることに成功していたなら、幕末政治の様相も随分と異なっていただろう。
◆新政府も要職に登用
一翁の偉いのは、大幅な減封で駿河に移された幕臣と家族の面倒をよく見たことだ。新たな主君、徳川亀之助(家達(いえさと))を補佐して駿府藩の藩政を担当した一翁がいなければ、徳川三百年の閉幕は画竜点睛(がりょうてんせい)を欠いたことだろう。その力量と人柄を買った明治政府はまもなく、静岡県知事、東京府知事元老院議官に登用し、明治政府の議会政治の樹立にも協力させた。
しかし、薩長閥の新政権との距離感のとり方は絶妙なのだ。敗者の戦後において、その政治姿勢には微塵(みじん)も卑屈なところがない。また、三河以来の徳川家臣という矜持(きょうじ)と“江戸っ子”の潔さがあいまって、振る舞いに出すぎたところもない。風格のある人物とは、一翁のような人士を指すのであろう。
一翁に経綸(けいりん)の腕を存分に振るわせたかったと思うのは決して贔屓(ひいき)目ではない。一翁のような気骨と矜持にあふれながら、求められるなら能力のほどを出し惜しみしない政治家出でよと願う日本人も多い。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】大久保一翁
おおくぼ・いちおう 文化14(1817)年、江戸生まれ。安政元(1854)年、老中阿部正弘に登用され、目付兼海防掛となる。駿府町奉行、京都町奉行などを務めた後、安政の大獄で志士捕縛に当たった配下の横暴を処罰したことをめぐって井伊直弼に罷免されるが、直弼の没後、復帰。外国奉行などをへて、明治元(1868)年、会計総裁、若年寄となる。勝海舟らとともに、江戸城を無血開城に導いた。維新後は静岡県知事、東京府知事元老院議官を歴任。明治21(1888)年、死去。享年72。

052 桐野利秋


【幕末から学ぶ現在(いま)】(52)東大教授・山内昌之 桐野利秋 (1/3ページ)

2010.3.4 07:57
このニュースのトピックス10代
成否を度外視して西郷隆盛を支えた桐野利秋(北海道大学附属図書館蔵)成否を度外視して西郷隆盛を支えた桐野利秋(北海道大学附属図書館蔵)

サブリーダーの役割

桐野利秋(きりの・としあき)という名を知らない人でも、中村半次郎という旧名を聞いたことはあるに違いない。西郷隆盛の無二の弟子あるいは弟分として陸軍少将まで昇りつめ、西郷をかついで西南戦争のデザインを描いた人物である。
◆つきまとう誤解
幕末には「人斬り半次郎」という異名で世に知られた。しかし実際には、暗殺は1件くらいだと言われている。仇名(あだな)とは裏腹に半次郎の本領は、西郷や大久保利通の代理として長州藩と折衝し水戸天狗(てんぐ)党と接触する役目など、周旋活動でもおおいに才能を発揮した点にある。このように、半次郎には各種の誤解がつきまとう。その豪快かつ貧困のイメージから郷士の出身と理解されがちだが、5石という微禄であっても歴とした城下士の出である。
また半次郎には、どういうわけか無学という印象も強い。しかし、父が徳之島に流されて貧窮の極みになったので、10代は小作や開墾に従事するあまり正規の武家教育を受けなかったというにすぎない。武骨であっても雄渾(ゆうこん)な書をしたため、素朴ながら和歌もたしなんだ事実はもっと知られてもよい。
西郷が「半次郎にもっと学問の造詣があれば」と述べたのは、おそらく武家方の教養の基礎たる漢語を学ぶ四書五経の教育を受けなかったという意味であろう。「頼山陽(らいさんよう)の日本外史を読めたら天下をとってみせる」と吹いたというから、真面目さと「チャリ」(薩摩でユーモアの意)の入り交じった人間なのである。勝海舟大隈重信も相当の人物として認めているほどだ。
人斬り半次郎」の虚像が先行しがちなイメージは、薩摩のサブリーダーとして桐野利秋に成長する人物にとって愉快でなかったかもしれないが、それをあまり意に介した形跡もないからやはり相当に剛腹だったのだろう。
◆花も実もある美徳
彼が薩摩人らしい情誼(じょうぎ)や豪放さを発揮したのは、戊辰戦争の激戦地、会津若松城(鶴ケ城)受け取りの役目を命じられ見事に大任を果たした時のことだ。有職(ゆうそく)故実にあまり詳しいとも思えぬ半次郎が無事に仕事を終えたのを訝(いぶか)しく思った者たちが尋ねると、“ナニ、小屋にかかっている講談の赤穂浪士の城明け渡しの場面を再現したのだ”と答えるあたりも半次郎人気の秘密なのだろう。
何よりも会津藩士に武士の名誉を許したあたりの花も実もある美徳が持ち味なのだ。藩主松平容保(かたもり)が感謝の印として刀剣を謹呈したのも頷(うなず)ける。いまでも長州人には含むところのある会津人も薩摩には格別に遺恨のこだわりを見せない一端は、中村半次郎の温情を徳としているからかもしれない。
◆成否度外視した一本気
桐野利秋として実家の本姓に戻った半次郎は、明治6(1873)年10月、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛が下野するとともに官を辞して帰郷した。これ以後2人の運命は大きく変わっていく。私学校の指導にあたった同僚とは別に、吉野開墾社を指導し率先して開墾事業に励むあたりにも桐野の現場主義感覚が表れている。
しかし、桐野でいちばん目立つのは、尊敬する西郷と終始行動を共にし城山で一緒に斃(たお)れるまで、成否を度外視して新たな政治の可能性にかけた一本気であろう。政党の離合集散や新党結成と理想を説くようでいて、その実は利害得失を忘れない現代の政治家とは異質な生一本さこそ、サブリーダーの花形たる桐野利秋こと中村半次郎の魅力なのであろう。
こうした人間的磁力に魅(ひ)かれて個人の篤志や法人の寄付で映画『半次郎』をつくろうとするさわやかな人びとも現れた。今年秋公開予定の映画で桐野こと半次郎を演じる榎木孝明氏たちである(東京事務局連絡先はTEL03・5770・1805)。現代の日本人に投げかける映画『半次郎』のメッセージが楽しみである。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】桐野利秋
きりの・としあき 天保9(1838)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。はじめ中村半次郎(なかむら・はんじろう)と名乗る。示現流剣術をおさめ、島津久光に従って京に入り、朝彦親王付の守衛となって諸藩志士と交流。西郷隆盛のもとで国事に奔走し、戊辰戦争では会津若松攻めの軍監となる。維新後は陸軍少将、陸軍裁判所長を務めるが、明治6年、政変で西郷が下野すると、それに従って辞職。西南戦争で西郷軍の総指揮を執り、明治10(1877)年、鹿児島城山で戦死した。享年40。

053 世良修蔵


【幕末から学ぶ現在(いま)】(53)東大教授・山内昌之 世良修蔵 (1/3ページ)

2010.3.11 07:27
このニュースのトピックス歴史・考古学
明治初期に建てられた世良修蔵の墓(宮城県白石市)明治初期に建てられた世良修蔵の墓(宮城県白石市)
 ■成り上がりの末路
 悪役や敵役のいない政治の歴史などはあるはずもない。勢いで国会議員に成り上がった男女でも人品骨柄の良くない人のなかには、これまで刑事罰すれすれの行為でマスコミをにぎわした人もいた。
 ◆全面戦争を引き起こす
 それでも、いかなる嫌われ者であれ、幕末屈指のアンチヒーロー、長州藩の世良修蔵にはまずかなわないだろう。この人物を欠いて、戊辰戦争や幕末維新の歴史を語れないのは、東北諸藩をほぼ全部敵に回して、せずともよい全面戦争を引き起こした男だからである。ずっと前に読んだ子母沢寛の長編小説『からす組』にも出てきた記憶がある。最近、復刻された藤原相之助著『奥羽戊辰戦争と仙台藩』(マツノ書店)には、彼の事績がいろいろと出てくる。
 世良は大島(屋代島)の漁師の出身ながら、第二奇兵隊の軍監にのし上がり、戊辰戦争では奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の下参謀を務めた。行く先々で酒色に耽(ふけ)った破廉恥な行状は、「官軍」ならぬ「官賊」に過ぎないという批判を受けるに十分であり、「勤王」の軍隊の低いモラルを満天下に知らしめた。
 もともと武士でない世良には、そもそも名を惜しむという観念がない。同じ長州藩の品川弥二郎が、世良の参謀任命の話を京都で聞き、仙台藩の家老、但木土佐に「世良とはひどいのが行くな」と同情したのだから処置なしである。世良の仙台出発の前に米沢藩士が大坂にやってきて「どうかひとつ穏便に」と訴えると、芸妓(げいぎ)に膝(ひざ)枕をさせたまま応対し公文書を足で蹴(け)飛ばして威嚇したというのだから話にも何にもならない。
 世良は奥羽諸藩に会津討伐の出兵を督促したが、出張の先々で、錦旗と官軍の勢威をよいことに伊達陸奥守など名門の藩主や重役に威張り散らしてやまなかった。
 ◆「軍務」と称し遊興の日々
 世良は、「軍務」と偽り旅籠(はたご)の部屋に引きこもったきり、朝から酒を飲みながら遊興(ゆうきょう)の日々を送った。二本松城下から少し南の本宮宿では、お駒なる19歳の遊女に惑溺(わくでき)して流連(いつづけ)してしまい、上参謀の公卿(くぎょう)でまだ20歳の醍醐忠敬少将まで“甘い生活”に引き入れたというから呆(あき)れてしまう。
 以上については中村彰彦氏の短編「上役は世良修蔵」(『禁じられた敵討(あだうち)』所収、文春文庫)が小説ながら詳しく、氏のご教示にも負うところが多い。会津藩救済を願う各藩使者の陳情を、ちっとも受けつけようとしない傲岸(ごうがん)な様子の描写は史実に近いだろう。もともと会津藩に同情的だった東北諸藩は怒って奥羽越列藩同盟を結成したのである。
 仙台藩重役の手に入った世良の手紙には、「奥羽はみな敵だ。とくに朝廷を軽んじる米沢藩や仙台藩は片時も油断できない」という趣旨が書かれていたからたまらない。心ある侍たちは激昂(げきこう)した。
 慶応4年閏(うるう)4月20日、福島城下の金沢屋で世良が遊女と同衾(どうきん)していたところに仙台藩士の姉歯武之進らが踏みこむと、世良は敵娼(あいかた)の名を叫びながら、慌ててピストルを撃つが、不発に終わった。
 まことの武士でない見苦しさが土壇場で露呈してしまう。裏口に引きずり出された世良は、ぶるぶる震えながら命ごいをした。しかし、会津救済を一顧だにしない男が、自分の命を惜しむ見苦しさに刺客たちは呆れ果てた。斬首された胴体は、阿武隈川の河原に埋められるという悲惨さであるが、同情する者はいない。
 ◆勝者と敗者から爪弾き
 後日談も後味が悪い。世良にも妻がいた。その千恵の末路は哀れで言葉にもならない。誰からも見放された世良の未亡人は掘っ立て小屋や野宿で命をつなぐのが精々であったが、78歳まで生きたのだから気の毒というほかない。毒キノコまで食べて精神に異常を来したという説もある。
 ここでも、誰一人この寡婦に救いの手を差しのべなかった長州人の酷薄さが気になる。勝者と敗者の大きな落差は悲惨に違いない。
 しかし、世良がもう少し情けのある士なら無事生きながらえ、千恵も維新功労者の夫人として綺羅(きら)を飾ったかもしれない。勝者と敗者から共に爪弾(つまはじ)きにされる悲惨さは、歴史の悲劇性の極致である。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】世良修蔵
 せら・しゅうぞう 天保6(1835)年、周防(山口県)生まれ。長門藩重臣、浦靫負(ゆきえ)の養子となり、世良氏を継ぐ。江戸遊学後、奇兵隊に入って書記となり、第二奇兵隊の編成に当たって軍監となる。長州征討で大島口に戦い、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府下参謀となって仙台藩に会津藩攻撃を命ずる強硬論を主張した。会津藩への寛容な処置を求める仙台藩からの使者が送られたが、拒否。慶応4(1868)年、福島で仙台藩士らに殺害された。享年34。