2015年2月2日月曜日

國學院(書けるように練習しましょう)高校 志望理由草案

ずっと社会科がすきで、高校生になって世界史の勉強ができることを楽しみにしていました。しかし正しい日本史ありきということも中学を卒業する今さらですが痛感しています。歴史ある貴校なら本来やらなければならない勉強以外に、史学をライフワークとして深くすばらしい学びができると考えました。日本や諸外国の文化を深く学び、幅広い教養と視野を身につけ、社会に貢献できるようにがんばり、次の世代に伝えていきます。


山田 顕義(やまだ あきよし)
弘化元年(1844)に萩藩士・山田七兵衛の長男として生まれる。
藩校明倫館に学んだ後、安政5年15歳の時に松下村塾に入門、吉田松陰に師事する。松陰にとって最年少の門下生だった。

文久2年12月、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねる。その後、長州藩の内乱に参戦するなど倒幕の志士として数々の戦いに参加。

元治元年、蛤御門の変(禁門の変)に参陣。山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わり参戦。

同年8月、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の下関攻撃(馬関戦争)で奮戦する(長州藩敗北)。

同年12月、対幕恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の奇兵隊による決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、藩内の「俗論派(佐幕派)」を排除し藩論を倒幕に統一する。

慶応4年1月には「鳥羽・伏見の戦い」、「戊辰戦争」に加わり、「箱館戦争」時には陸軍参謀兼海陸軍参謀として、官軍を勝利に導いた。

維新後、明治7年に江藤進平らが起こした「佐賀の乱」、明治10年に西郷隆盛らが起こした「西南の役」に征討軍の将として参加し、いずれも鎮圧。その戦術は「用兵の妙、神の如し」と評された。

明治新政府では、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。明治18年、初代の司法大臣として入閣し、法典編纂に貢献し、法典伯と称される。

明治24年、病気のため辞職するまで、伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務める。

また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立、その後公私法律学校を育成した。

明治25年帰郷途中、生野銀山で急逝。享年49歳。

2015年2月1日日曜日

原田橋崩落、これは大変、でも日本がダメなわけではないようです。

http://konn.seesaa.net/article/17376121.html

 31日午後5時10分ごろ、浜松市天竜区佐久間町川合で国道脇の斜面が崩れ、天竜川に架かる原田橋(長さ140メートル、幅5メートル)が土砂で流された。橋の上にいた市天竜土木事務所の男性職員2人が巻き込まれ、搬送先の病院で死亡が確認された。
 同事務所などによると、死亡したのは技監の安野彰恭さん(57)=同区谷山=と主任の茶谷富士雄さん(45)=同市浜北区西美薗=。現場では29日ごろから小規模な土砂崩れが発生し、31日午後から通行止めを実施。2人は状況を確認するため、車で現場を訪れていた。