【幕末から学ぶ現在(いま)】(45)東大教授・山内昌之 伊庭八郎 (1/3ページ)
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■隻腕の剣士 滅びの美学
江戸の女騒がす麒麟児
幕府の直参だった八郎は、将軍の家茂(いえもち)に随行して西下しながら、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸に戻った。その後も、蝦夷(えぞ)地に転戦して幕府瓦解の悲劇に殉じたヒーローである。日本人好みの滅びの美学に加えて、颯爽(さっそう)とした男前ぶりも人気の源であろう。背丈は5尺2寸(158センチ)と小柄であったが、とにかく「白皙(はくせき)美好」とか「眉目(びもく)秀麗、俳優の如(ごと)き好男子」と評判が高かった。
剣も達人の八郎は、幕末江戸四大道場の一つ、御徒町の「練武館」を主宰した心形刀(しんぎょうとう)流宗家・伊庭家の御曹司という毛並みの良さだった。「伊庭の麒麟児(きりんじ)」は気風のよい江戸っ子の典型なのである。芝居や錦絵に登場する役者めいた男がそのまま当代随一の剣客だったのだから、江戸の女たちが騒がないはずはない。
しかも、この超弩級(ちょうどきゅう)のスターは剣術だけでなく、漢学や蘭学への関心も失わなかった。むしろ剣術修行には学業よりも遅く入ったほどである。
元治元(1864)年に任命された幕府の奥詰とは将軍の親衛隊士にほかならず、幕臣に武術を指導する講武所が開かれると、すぐに教授方を務めた。八郎のキャリアは武州三多摩の近藤勇や土方歳三とは異質であった。それでいて人を分け隔てせぬ、おおらかさは、奥詰が改編され遊撃隊となって、慶応3(1867)年に京都に入っても変わらなかった。
非番の日にはよく京都などの名所を見物し、よく食らい、よく飲み、余暇を満喫したというから爽(さわ)やかである。「朝涼(あさすず)や 人より先へ 渡り舟」とか「其(そ)の昔 都のあとや せみしぐれ」といった句はこの時の手すさびだったに違いない。
滴る血をものともせず
江戸に戻った八郎は、新政府軍への抵抗を決意し、遊撃隊の一部を率い、木更津に行き、請西(じょうざい)藩主の林忠崇(ただたか)らと合流、館山から出帆し、対岸の真鶴に上陸した。伊豆韮山から甲府や沼津を転戦しながら、江戸に向かう新政府軍を妨害するために箱根関所の占拠を企て、小田原藩と戦うはめになった。
この時、箱根の三枚橋で左手首の皮一枚を残して斬(き)られても、右手片手斬りの神業で敵を倒し、「百人斬り」と江戸で喧伝(けんでん)されたものだった。滴る血をものともせず、仁王立ちになったまま、傷口からほとばしる血を吸いながら戦ったというから、これは阿修羅のようなものだ。
しかも、左手の肘(ひじ)から下を麻酔をかけずに自分で切断しても、うめき声一つあげなかったのだから、気力や精神力の見事さには感心するほかない。
戦(いくさ)に敗れた八郎は、横浜から借り上げの英艦で箱館(はこだて)に向かったが、この路銀を用立てたのは吉原で馴染(なじ)みの花魁(おいらん)だったというのだから、よほどに八郎は女たちの胸をときめかせる天晴(あっぱ)れな男ぶりだったのだろう。
粋な風情を漂わせた八郎は、蝦夷地政府の入(い)れ札(ふだ)でも遊撃隊長にして歩兵頭並に選ばれた。新選組の土方も歩兵奉行並に推されたのだから、幕末の江戸と京都を駆け抜けたスター級の勇士が北辺の地で顔を合わせたことになる。絵になるシーンとはこういう光景を指すのであろう。
兄弟で政治変動の悲劇
隻腕のハンディキャップをものともせず徹底抗戦した八郎は、木古内の戦いで重傷を負って、箱館病院で治療を受けた。命、旦夕(たんせき)に迫り、見かねた蝦夷地政府総裁の榎本武揚(たけあき)はモルヒネをすすめて楽に死を迎えさせた。辞世は、「まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はし(しばし)をくるる 身こそ悲しき」と伝えられる。
明治34(1901)年に東京市会議長の星亨(とおる)を暗殺して無期徒刑となった伊庭想太郎は実弟である。兄は忠義一途(いちず)に徳川家のために命を捧(ささ)げ、弟は消え逝く江戸の良風美俗を侮蔑(ぶべつ)した町人出身の政治家を襲って獄中で病死したのだった。幕末明治でも兄弟で政治変動の悲劇をもろにかぶった例は少ない。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】伊庭八郎
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