【幕末から学ぶ現在(いま)】(53)東大教授・山内昌之 世良修蔵 (1/3ページ)
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■成り上がりの末路
悪役や敵役のいない政治の歴史などはあるはずもない。勢いで国会議員に成り上がった男女でも人品骨柄の良くない人のなかには、これまで刑事罰すれすれの行為でマスコミをにぎわした人もいた。
◆全面戦争を引き起こす
それでも、いかなる嫌われ者であれ、幕末屈指のアンチヒーロー、長州藩の世良修蔵にはまずかなわないだろう。この人物を欠いて、戊辰戦争や幕末維新の歴史を語れないのは、東北諸藩をほぼ全部敵に回して、せずともよい全面戦争を引き起こした男だからである。ずっと前に読んだ子母沢寛の長編小説『からす組』にも出てきた記憶がある。最近、復刻された藤原相之助著『奥羽戊辰戦争と仙台藩』(マツノ書店)には、彼の事績がいろいろと出てくる。
世良は大島(屋代島)の漁師の出身ながら、第二奇兵隊の軍監にのし上がり、戊辰戦争では奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の下参謀を務めた。行く先々で酒色に耽(ふけ)った破廉恥な行状は、「官軍」ならぬ「官賊」に過ぎないという批判を受けるに十分であり、「勤王」の軍隊の低いモラルを満天下に知らしめた。
もともと武士でない世良には、そもそも名を惜しむという観念がない。同じ長州藩の品川弥二郎が、世良の参謀任命の話を京都で聞き、仙台藩の家老、但木土佐に「世良とはひどいのが行くな」と同情したのだから処置なしである。世良の仙台出発の前に米沢藩士が大坂にやってきて「どうかひとつ穏便に」と訴えると、芸妓(げいぎ)に膝(ひざ)枕をさせたまま応対し公文書を足で蹴(け)飛ばして威嚇したというのだから話にも何にもならない。
世良は奥羽諸藩に会津討伐の出兵を督促したが、出張の先々で、錦旗と官軍の勢威をよいことに伊達陸奥守など名門の藩主や重役に威張り散らしてやまなかった。
◆「軍務」と称し遊興の日々
世良は、「軍務」と偽り旅籠(はたご)の部屋に引きこもったきり、朝から酒を飲みながら遊興(ゆうきょう)の日々を送った。二本松城下から少し南の本宮宿では、お駒なる19歳の遊女に惑溺(わくでき)して流連(いつづけ)してしまい、上参謀の公卿(くぎょう)でまだ20歳の醍醐忠敬少将まで“甘い生活”に引き入れたというから呆(あき)れてしまう。
以上については中村彰彦氏の短編「上役は世良修蔵」(『禁じられた敵討(あだうち)』所収、文春文庫)が小説ながら詳しく、氏のご教示にも負うところが多い。会津藩救済を願う各藩使者の陳情を、ちっとも受けつけようとしない傲岸(ごうがん)な様子の描写は史実に近いだろう。もともと会津藩に同情的だった東北諸藩は怒って奥羽越列藩同盟を結成したのである。
仙台藩重役の手に入った世良の手紙には、「奥羽はみな敵だ。とくに朝廷を軽んじる米沢藩や仙台藩は片時も油断できない」という趣旨が書かれていたからたまらない。心ある侍たちは激昂(げきこう)した。
慶応4年閏(うるう)4月20日、福島城下の金沢屋で世良が遊女と同衾(どうきん)していたところに仙台藩士の姉歯武之進らが踏みこむと、世良は敵娼(あいかた)の名を叫びながら、慌ててピストルを撃つが、不発に終わった。
まことの武士でない見苦しさが土壇場で露呈してしまう。裏口に引きずり出された世良は、ぶるぶる震えながら命ごいをした。しかし、会津救済を一顧だにしない男が、自分の命を惜しむ見苦しさに刺客たちは呆れ果てた。斬首された胴体は、阿武隈川の河原に埋められるという悲惨さであるが、同情する者はいない。
◆勝者と敗者から爪弾き
後日談も後味が悪い。世良にも妻がいた。その千恵の末路は哀れで言葉にもならない。誰からも見放された世良の未亡人は掘っ立て小屋や野宿で命をつなぐのが精々であったが、78歳まで生きたのだから気の毒というほかない。毒キノコまで食べて精神に異常を来したという説もある。
ここでも、誰一人この寡婦に救いの手を差しのべなかった長州人の酷薄さが気になる。勝者と敗者の大きな落差は悲惨に違いない。
しかし、世良がもう少し情けのある士なら無事生きながらえ、千恵も維新功労者の夫人として綺羅(きら)を飾ったかもしれない。勝者と敗者から共に爪弾(つまはじ)きにされる悲惨さは、歴史の悲劇性の極致である。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】世良修蔵
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