【幕末から学ぶ現在(いま)】(69)東大教授・山内昌之 栗本鋤雲 (1/3ページ)
■出廬を請われた政治家
「出廬(しゅつろ)」という言葉がある。引退して現実政治から離れていた有能の士が請われて再び表舞台に立つことである。『三国志』で劉備が諸葛孔明に三顧の礼を尽くしたところ、孔明も草廬(そうろ)(草葺(ぶ)きの粗末な家)を出て劉備に仕えた故事はあまりにも有名である。孔明とは言わずとも、あたら驥足(きそく)を展(の)ばせず野にいる人を放置しておくほど、日本の政界は人材に恵まれているわけでない。
政権交代に続いて菅直人政権が成立したとあれば、民主党にとって出廬を期待されるのは、田中秀征(しゅうせい)氏かもしれない。氏らが自民党を離脱して創(つく)った新党さきがけは、細川護煕政権発足の原動力となったが、氏はその時からそれなりに存在感のある政治家として菅氏とともに目立っていた。
幕末明治初期に権力から離れた幕臣のなかにも、しきりに出廬を請われた人物が多い。もともと奥医師の家に生まれた栗本鋤雲(じょうん)もその一人である。奥儒者あがりの成島柳北(なるしま・りゅうほく)のように、やがて行政官僚に転じフランス語を習得して外国奉行になったというのだから、幕府には異能の士がたくさんいたのだ。
鋤雲は先輩医師の不興を買って箱館に左遷されるなど辛酸も嘗(な)めた。任地にあっても南千島や樺太の探検に精を出すなど現場感覚を身につけている。外国奉行となった鋤雲は、勘定奉行小栗忠順(ただまさ)とも親交を結び、幕府開明派官僚の代表格として、横須賀製鉄所の建設や軍事顧問の招聘(しょうへい)にも尽くした。
◆パリ滞在記で健筆
彼は将軍慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)が慶応3(1867)年にパリ万国博覧会に参加したときに補佐を命じられた。この時のパリ滞在記が『暁窓追録』(井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』岩波文庫所収)である。そこには、ナポレオン3世さえ恐れる「ビスマルクの賢」、プロイセンとの戦争も辞さない「豪邁(ごうまい)の人」ドルアン・ド・リュイス(フランス外相)、イタリアの「狂妄」の「奇男子」ことガリバルディなど、欧州政治家の人物月旦も含まれており、面白い読み物になっている。
さて、史家の森銑三(せんぞう)は鋤雲を勝海舟と反りの合わぬ一人としている(『新編明治人物夜話』)。鋤雲は礼節を重んじ人に対して慇懃(いんぎん)だったが、ただ酒を嗜(たしな)み、酔えば人物が一変して放言もした。それでも人柄は陽性にできていたという。
森は、海舟が酒を好まず、酔わずして人を冷評罵倒(ばとう)した陰性の性格であると辛口の評価をする。海舟が痩(や)せて干からびていたのに、鋤雲は●幹(くかん)も偉大で容貌(ようぼう)も魁偉(かいい)だったというのだ。これは、額も広く鼻も厚く、耳や口も大きいことから「お化け栗本」と異名をとったと形容する島崎藤村の指摘とも符合する。
◆容貌魁偉、異能の人物
要は鋤雲こそ異能の人物というにふさわしい。自分を恃(たの)むところが大きい菅首相に田中氏のような独特の政治観の持ち主を起用する太っ腹なところがあるかどうか。2人と面識もなく、そのケミストリー(反り)の如何(いかん)を私はつまびらかにしない。
そういえば、鳩山由紀夫氏といい菅氏といい、バッジをもたない民間人を閣僚に起用することがない。田中氏くらいの才幹であれば、参院選後と囁(ささや)かれる政界再編成に出番を見据えているのかもしれない。田中氏に出廬を促す政治家が果たして現れるのだろうか。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】栗本鋤雲
くりもと・じょうん 文政5(1822)年、江戸生まれ。父は幕府医官。家業を継ぎ、奥医師となる。箱館移住を命じられ、山野の開拓や病院建設などに力を注ぎ、箱館奉行組頭に。文久3(1863)年に江戸に戻り、軍艦奉行、外国奉行などを歴任。親仏派として外交交渉に尽力。フランスに派遣され、対幕借款の促進などにあたった。維新後は新政府に仕えず、郵便報知新聞に入社し、主筆として随筆などを寄稿した。明治30(1897)年、76歳で死去。没後、著述は『匏庵(ほうあん)遺稿』としてまとめられた。
●=躯のメが品
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