【幕末から学ぶ現在(いま)】(57)東大教授・山内昌之 来島又兵衛 (1/3ページ)
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■高齢政治家の情熱と使命
人は見かけによらぬもの、という言葉がある。与謝野馨元財務相が自民党を離党して新党をつくるという報に接したとき、多くの人びとは政策通の理知的政治家らしからぬ印象をもったことだろう。
しかし、内剛外柔と目された与謝野氏は見かけも剛直なところを見せるようになっている。先ごろの衆院予算委員会で鳩山由紀夫首相を「平成の脱税王」と追及した迫力は見事だった。氏の内面に潜む熱さを与謝野鉄幹・晶子の血に求める人もいるが、それは政治家与謝野氏を低く見すぎているだろう。今回の新党結成にも見せた思い切りの良さは、氏がいつもドブ板選挙を経験し、落選の修羅場をくぐった点と無縁ではない。
激戦区で3回も落選し、浪人の試練を味わい、比例での復活も経験した自民党総裁・首相候補者は他に例を見ない。新党結成については、与謝野氏が71歳の高齢であり、展望が見えないと批判する声も大きい。
しかし、自民党が頑迷固陋(ころう)で、変わる見込みもないというのは一つの判断である。ここが保守政治家として勝負時と大きな賭けに出たのだろう。
≪猛将と能吏の二面≫
幕末でいちばん情熱と使命感をあらわにした老境の武士といえば、まず来島又兵衛が屈指であろう。禁門の変で散った来島については、「豪胆にして武技に長じ、慨世(がいせい)憂国の念、最も熾烈(しれつ)」(『大人名事典』第2巻、平凡社)という評価が一般である。剣術は新陰流の免許皆伝、馬術も驚くほど巧みで、戦国武士を思わせる剛毅(ごうき)な男であった。
来島は藩の役職でも順調に昇進しながら、尊攘(そんじょう)運動が長州藩をおおう文久年間には40代半ばでも血気盛んな男であり、高杉晋作らから「来翁」と親しまれていた。当時の40代後半とは、すでに老境と目された年格好なのである。
来島の不思議さは、萩、京都、江戸の勤務を大過なく重ね、金銭の出納を手際よく管理した能吏の側面があることだ。来島といえば老将や猛将のイメージも強いが、算勘(さんかん)の道にもたけていたのだ。江戸では出費をまめにメモしながら、収支を国許(くにもと)の妻に知らせていたというから、ほほえましい。吉田松陰は、来島の特性を早くから見抜き、彼の胆力が人よりも優れていると同時に、計算に際して正確に数え、思慮深く考えると評価したこともあった。
≪目標実現へ命賭ける≫
しかし、能吏たる来島の運命は、文久3(1863)年5月、馬関の外国艦砲撃戦で総督国司信濃(くにししなの)の参謀となって奮戦して以来、大きく変わる。長州藩兵が御門警固を解かれた8月18日の政変、ついで池田屋事件で失墜した藩の名誉を回復し、尊攘運動に再び火をつけたのは来島であった。
京への進発に反対した高杉晋作を面罵(めんば)し、慎重だった久坂玄瑞をひきずるように武装上洛した先頭にはいつも来島の姿があった。京都でも御所を攻撃する不敬に恐れを抱いた久坂に、「臆病(おくびょう)者は東寺の塔か天王山で見物しておれ」と怒鳴ったというから迫力は凄(すご)い。
49歳の来島や53歳の真木和泉が20代の若者を叱咤(しった)して政治目標実現のために命を賭ける執念は、その精神において現代の政治家も見習うべきではないだろうか。
≪勝利目前で撃たれ自刃≫
もし、乾門から薩摩兵が加勢して横やりを入れなければ、来島らの勝利は目前であった。そのとき、葦毛(あしげ)の馬にまたがり颯爽(さっそう)と指揮していた来島は、薩摩の川路利良に胸部を狙撃され、落馬した。川路は後の警視庁大警視(警視総監)である。
来島で驚嘆するのは、年を経ても政治への情熱が少しも衰えず、しかも先頭で若者をぐんぐん引っ張ったことだ。さて、普通なら安定と自足を望むはずの高齢者が情熱を注ぐ新党の使命感とは何か。
高齢者問題は選挙の争点であり、有権者の相当な部分を高齢者が占める。さながら来島のように、算勘だけでなく、情熱もほとばしる与謝野氏が語る政治理念や抱負にまずは耳を傾けたいものである。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】来島又兵衛
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