【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎 (1/3ページ)
■「奇兵隊内閣」の矛盾
菅直人首相は自らの大臣たちを「奇兵隊内閣」と呼んでいる。市民運動出身の総理はじめ各種の職業的背景や庶民感覚をもつ多彩な人材がいるという自負なのだろう。しかし、このネーミングにしっくりこない人もいるはずだ。
なぜなら、藩の公式兵力たる「正兵」への異端としての「奇兵」であり、権力を掌握すれば「奇兵」であることはできないからだ。「奇道」で勝を制するゲリラ兵力の意味をもつ部隊は、幕末から維新へという激動の変革期にはふさわしくても、治国の支えには不似合いなのである。
権力掌握すれば無用
正兵隊(藩の正規軍)を残し、奇兵隊などの解散が命じられたのも当然だろう。
戦争が終われば、兵士は除隊して復員するか、部隊を縮小し平時体制に戻るかのいずれかしかないのに、防長2州では武装した奇兵隊はじめ諸隊はこの解散命令を受け入れなかった。数千名の武装集団が山口を脱走して三田尻(山口県防府市)へ集結、やがて藩庁を取り囲む「脱隊暴動」あるいは「脱隊騒動」に発展したのだ。
諸隊反乱は、戦後の明治維新史研究でも活発に論争が交わされたテーマであった。菅首相の「奇兵隊内閣」なる自己定義から思い立って、直木賞作家の中村彰彦氏から借用した『奇兵隊反乱史料・脱隊暴動一件紀事材料』(石川卓美・田中彰編、マツノ書店)を読むと懐かしい名前に再会したのである。
学生時代に「大楽源太郎一派の不平士族」「攘夷(じょうい)反動士族」が奇兵隊暴動を利用し煽動(せんどう)したという説を聞いて以来、このやや変わった姓の人物が気になって仕方なかった。大楽源太郎は、もとはといえば毛利家の陪臣にすぎなかったとはいえ、友垣の久坂玄瑞(げんずい)とともに禁門の変に敗れて帰郷後、高杉晋作による下関・功山寺での挙兵に呼応決起するなど、俗論派を倒して幕長戦争に勝利する道筋に地味ながら貢献した人物である。
長州を倒幕に導いた大村は、新政府の兵部大輔(ひょうぶだゆう)に任命され西洋式の軍制改革に着手したために守旧派武士の反感を買い、明治2年に神代らの刺客に襲われたのである。大楽こそテロの首謀者だという嫌疑をかけられたのも当然かもしれない。神代は師が嫌疑をかけられたことを知って自害した。
大村襲撃事件と同年に起きた奇兵隊脱隊騒動で藩庁を包囲した不穏分子にも大楽の弟子が多数含まれていた。大楽も日頃(ひごろ)から諸隊解散に反対していたので、脱隊暴動の首謀者だと睨(にら)まれたのは当然であろう。そこで、藩の追及を逃れて九州に難を避け、鶴崎経由で久留米までやってきた。まさに奇兵隊に似た応変隊に頼って再起を期そうとしたのだ。
最期は仲間に斬殺され
いまだに尊皇攘夷を奉じる応変隊は源太郎を受け入れるが、新政府の開国と欧化の強い方針は揺るがず、大楽の庇護(ひご)を続ければ藩の存続も危ぶまれるほどだった。大義と忠義との間で板挟みになった応変隊の有志らは、「回天軍」を起こす用意が整ったと大楽を誘い出して斬殺し、藩が大事に至らないように処置したというから無残極まりない。
また、奇兵隊など諸隊の掃討は無慈悲を極めた。その死者は空堀の中に放りこまれ上から土をかけられたという酷(むご)いものである(『観樹将軍回顧録』)。大楽源太郎らは時勢の変化を読みきれなかっただけでない。レーニンや毛沢東のように、反体制や批判勢力が権力の側に回った時の無慈悲さを知らなかったのである。
新政府の権力を握った長州藩のエリートは奇兵隊を無造作に切り捨てられるリアリストばかりであった。してみれば、「奇兵隊内閣」とはかなり矛盾をはらんだ表現だと分かるだろう。
もっとも山口県出身の菅首相がいずれ政府民主党から大楽のような人間、即(すなわ)ち離党や脱党の徒が出ることを予知しながら、「奇兵隊内閣」を凝(こ)った暗喩(あんゆ)として用いたとすれば、相当なマキャベリストということになる。そうした資質や知識が菅首相の内面にあるなら、脆弱(ぜいじゃく)な政治家が多い日本では国際的にもライバルと切り結べる異能の人材として面白いのだが…。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】大楽源太郎
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