2010年9月23日木曜日

070 佐久間象山


【幕末から学ぶ現在(いま)】(70)東大教授・山内昌之 佐久間象山 (1/3ページ)

2010.7.15 08:06
幕末の「タレント」として存在感を発揮した佐久間象山(国立国会図書館蔵)幕末の「タレント」として存在感を発揮した佐久間象山(国立国会図書館蔵)

本物の「タレント」

 今回の参院選にはスポーツ選手や各種のタレントの立候補が目立った。その25人のうち、当選したのは、女子柔道の金メダリストや元野球選手など5人にとどまった。この候補者らの政治意識や関心のほどがよく分からない。
 そもそも立候補前に、かれらの口から政治外交や金融経済に関する抱負を聞いた人がいるだろうか。多数の落選で、テレビタレントやスポーツ選手として多少の名を売った人が比例で当選できるという思い込みや幻想が崩れたとすれば、今回の参院選は将来の日本政治のレベルアップにかなり貢献したことになる。
 まだしも本人がタレントなり才人であればともかく、有名スポーツ選手の父であるというだけの理由で議員に当選した人もいる。また、週刊誌で芳(かんば)しくない話題を提供する以外に、さしたる動向を聞かない人もいる。政党も問題であるが、こうした人物に投票する有権者の気構えも問題であろう。
 国や国民を舐(な)めきった政党や一部芸能人の態度に良質な有権者たちが、ようやく鉄槌(てっつい)を下したというのであれば、日本の未来も救われるというものだ。本来「タレント」とは才能や才幹を意味し、そこから「才能のある人たち」に転じ、さらに「芸能人」を指すことになった。芸能人がその芸で才能に恵まれたとしても、政策や構想力を鍛える才能を兼備した例をついぞ知らない。
 ◆兵学、種痘導入…万能
 ところで幕末最大の「タレント」といえば、何といっても佐久間象山しょうざん)であろう。信州(長野県松代藩士の象山は、若い時分に経学と数学をともに習得し、主君の真田幸貫(ゆきつら)(松平定信(さだのぶ)の実子)が老中となり海防掛に任ぜられて以降洋学を研究するようになった。
 彼の知識は、大砲の鋳造など実学としての兵学から、ガラスの製造、地震予知器の開発、牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)の導入などにも成功し、「タレント」である以上に「ユニバーサルマン」(万能人)ともいうべき存在になった。その分だけ彼は自分を恃(たの)むところが強く、韮山(静岡県)で反射炉をつくった江川太郎左衛門や、義兄となる勝海舟など幕府の洋学者とソリが合わなかった。
 開国論や西洋事情の摂取を説いた『省●録(せいけんろく)』とはあやまちを省みる記録の書という意味だが、とても謙虚に自らの不足を反省するといった段ではないのだ。象山は、「私は長いこと海防に意を用いてきた。思うに、私が発明したものは前人が及ばないものであった」と自分の「タレント」ぶりを自画自賛する。
 そのうえ象山は、言わずもがなの自信を堂々と披瀝(ひれき)する。現代語に訳するとこうだ。「およそ学問は必ず積み重ねを必要とするものだ。一朝一夕でたやすく詳細に知ることはできない。海防論も簡単に通暁(つうぎょう)できない一つの大きな学問なのだ」
 吉田松陰の密航事件に連座して捕らえられたとき、獄中で書いた『省●録』は、弁解の書というよりも気迫の書ともいうべき活気にあふれた記録である。黒船襲来という国難に対応できる才人は自分しかいないという口ぶりなのだ。むかしから洋学を修め提言や警告もしてきたのに、幕府がそれを無視してきた高いツケが今日の危機をもたらしたと言いたげなのである。
 ◆門下から多くの人材
 勝海舟の妹の順が嘉永5(1852)年に象山に嫁いだが、勝は傲岸(ごうがん)な象山を評価していない。『氷川清話』では、象山は「軽はずみ」にして「ちょこちょこした男」で「あれだけの男」だったと酷評している。しかし、象山門下からは、小林虎三郎勝海舟河井継之助坂本龍馬橋本左内加藤弘之らも出ており、彼の「タレント」ぶりを疑う人間はまずいない。
 比べるのも愚かにせよ、当節のタレントたちには、政治家に転身することで、自分の新たな職業的覚悟を永久に問われることがよく分かっていないのではないか。有権者の前で得意の技や芸を披露することをタレントの資質やアピール力と錯覚した芸能人やスポーツ選手らには、本物の「タレント」が命さえ犠牲にして自分の才能と理念を訴え続けた歴史の厳しさを改めて理解してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
●=侃の下に言
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【プロフィル】佐久間象山
 さくま・しょうざん 文化8(1811)年、信州(長野県)松代生まれ。幼少から経学や和算に秀で、江戸で儒学者佐藤一斎に師事した後、神田に塾を開く。老中となった松代藩主、真田幸貫から海外事情の研究を命じられ、「海防八策」を提出。江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、勝海舟らに教えた。安政元(1854)年、吉田松陰の密航事件に連座し松代に蟄居(ちっきょ)するが、のちに赦免。元治元(1864)年、幕府の命を受けて上洛し、公武合体や開国を主張したが、京都で尊攘派に暗殺された。享年54。

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