【幕末から学ぶ現在(いま)】(58)東大教授・山内昌之 岡田以蔵 (1/3ページ)
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■暗殺と政治の間
フランス革命でマラーを殺害したシャルロット・コルデー、ロシア皇帝アレクサンドル2世を暗殺したポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキなど、革命の歴史とテロリズムの活動は不可分である。幕末にも要人を暗殺した「人斬り」は多い。
≪暗殺繰り返す日々≫
革命期には、政治目的を実現する手段として限定されたテロと、やみくもに政敵とおぼしき人物を暗殺する行為との間に確たる違いを見いだすことはむずかしい。前者はやむにやまれず歴史を動かすために仕掛ける行動であり、後者はときに自分も理由を分からぬままに人の教唆で殺害する陰鬱(いんうつ)な仕業である。
前者の例が薩摩の中村半次郎だとすれば、後者の典型は土佐の岡田以蔵ではなかろうか。陽性の南国人気質を十分にもつ以蔵が世界史でも屈指のテロリストに変貌(へんぼう)する様は、維新史を見ていてもやりきれない思いがする。
足軽身分の以蔵を引き立てたのは、武市(たけち)半平太(瑞山)にほかならない。武市は万延元(1860)年に以蔵を連れて中国と九州を回るが、やがて武市の結成した土佐勤王党に加盟した。私は直接に確認していないが、その後連判から以蔵の名が削られたという指摘もある。
だとすれば、以蔵がしばしば武市の指示で暗殺を繰り返した点を考えると、勤王党の連帯責任を避けるための方便だったのかもしれない。以蔵は武市を尊敬していたにせよ、武市のほうは無教養のテロリスト以蔵に利用価値を見いだしていたのだろう。
NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、以蔵に扮する佐藤健君のすがるような眼差(まなざ)しが印象的である。実際の以蔵の心中でも、恩師への信頼と懐疑がいつも交差していたことだろう。
≪地獄から救われる機会≫
政治には多少の犠牲者が出ることは避けられない。それにしても、武市の暗いニヒリズムは以蔵をますます狷介(けんかい)な性格に育てたのではなかろうか。以蔵に殺人の無間地獄から救われる機会があったとすれば、坂本龍馬の紹介で勝海舟の家に住みこみ、京都でも身辺警固に当たった時期であろう。
しかし、以蔵は武市と土佐のしがらみから逃れられず京都で捕縛され、政変の起きた土佐へ送られた。これを知った武市は、ある手紙に「あのような安方(あほう)」は早々と死ねばよいと書いたように、自分が指図した暗殺の真相が露顕することを恐れた。
武市は、以蔵の自供で勤王党による暗殺テロの真相が漏れるのを恐れ、自分に信服した牢(ろう)役人を使って以蔵に毒飼いをさせたという説も根強い。毒を盛られた以蔵は師の冷酷さに憤って万事を自白し、武市をも死出の道連れにしたという暗い説もあながち否定できない。
武市は吉田東洋暗殺で火ぶたを切った土佐テロリズムの元凶であるから、その政治責任は免れなかった。巨大な変革期にはどの国でも、政治とテロ、陰謀と暗殺、交渉と衝突などは入り組んで進行する。それでも、以蔵のように暗殺テロの専門家としてだけ、政治運動に関与した例は少ない。
≪偶然に翻弄された人生≫
薩摩の中村半次郎などは確かに政敵を暗殺した事実も一回ほど確認されるが、全体としては各藩にも知られた談判や周旋の士としても成長していった。2人の差は、西郷吉之助(隆盛)と武市半平太の個性の違いでもあろうか。
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【プロフィル】岡田以蔵
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