【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八 (1/3ページ)
手風琴とシルクハット
週末に鹿児島に出かけてきた。テレビ局の企画で、中学生との対話と授業を組み合わせた集いの教師を務めたのである。地元でも定評のある公立の中高一貫校の中学2年生は、聡明(そうめい)であるばかりでなく、明朗闊達(かったつ)な南国の若者たちであった。
西郷隆盛と大久保利通を素材に日本の近代や政治家のリーダーシップを語り合った2日間は、私にとっても充実した時間であった。とにかく、全員が西郷の敬天愛人の意味を正しく理解し、何かの行事に参加した褒美として、現代語訳のついた『西郷南洲遺訓』を見せてくれた生徒もいるくらいだ。やはり歴史を動かした土地にふさわしいといえよう。
2人の育った加治屋町にある市立維新ふるさと館を皆で一緒に訪ねた時も愉快であった。西郷や大久保らのロボットが登場し、わかりやすい工夫をこらした劇を通して、維新史や近代史を楽しく勉強したのも懐かしく思いだされてならない。西郷と大久保との対話に加え、薩摩第3のロボットがいきなり登場したのにも驚いた。
しかし、考えてみれば人選は見事なくらい当然なのであった。それは村田新八だったからである。
授業では「情の人」西郷、「理の人」大久保という組み合わせで、生徒と一緒に歴史を考えてみた。村田はさしずめこの2類型の中間に位置する人物なのかもしれない。幼少時から死ぬまで西郷を慕い続けながら、岩倉使節団に加わって欧米事情にも通じた村田は、幕末から西郷の懐刀として奔走した志士である。また、大久保がその人物見識を高く評価し、ゆくゆくは政府の中核に据えようとしたほどの人物であった。
◆戦火の中でも演奏忘れず
美術や音楽を愛した村田は、滞在先のパリでオペラ座にしきりに通い、アメリカでは手風琴(てふうきん)(アコーディオン)に熟達したほどである。西南戦争でも時間があると演奏し、自決を覚悟した時にようやく楽器を壊したという逸話が残っている。
それにしても、大久保にとって村田を失ったのは、切歯扼腕(やくわん)するほどの口惜しさだったに違いない。
かつて西郷に「智仁勇の三徳を兼備したる士」として皆の模範とすべしと言わしめた村田なら、外交でも内務でもこなせただけでなく、陸海軍に進んでも将帥の器になっていたはずだ。西洋風の彼のことだから、逓信や文部の世界で先端技術を生かしたかもしれない。秘めた新知識の数々を十分にいかす暇もなく、西南戦争に散った村田の犠牲こそ、まさに国家的損失というべきなのだろう。
◆大久保に惜しまれた死
幕末から西南戦争まで村田を頼りにした西郷と同じく、大久保ほど新国家の設計に村田を必要とした人物もいなかった。まさに勝海舟は、「大久保利通に亜(つ)ぐの傑物」と呼び、「非命に斃(たお)れた」残念をしきりに回顧しているほどだ。
熊本民謡『田原(たばる)坂』に出てくる「馬上ゆたかな美少年」とは、村田新八と一緒に死んだ2人の息子のうち長男の岩熊がモデルという説も強い。旧薩摩の地を踏んで、目鼻立ちがはっきりし溌剌(はつらつ)とした生徒たちの笑顔を見ていると、西郷や大久保の若き面影や村田の幼い時分の顔立ちはこうではなかったかとつい想像してしまう。
岩熊は数えの19歳だったともいうから、私が接した生徒たちのすぐ上の兄貴分ともいうべきであろう。歴史を学ぶつらさを実感する時でもある。(やまうち まさゆき)
◇
本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
◇
【プロフィル】村田新八
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。