2010年9月23日木曜日

066 村田新八


【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八 (1/3ページ)

2010.6.17 08:03
維新ふるさと館の劇に登場する村田新八のロボット維新ふるさと館の劇に登場する村田新八のロボット

手風琴とシルクハット

 週末に鹿児島に出かけてきた。テレビ局の企画で、中学生との対話と授業を組み合わせた集いの教師を務めたのである。地元でも定評のある公立の中高一貫校の中学2年生は、聡明(そうめい)であるばかりでなく、明朗闊達(かったつ)な南国の若者たちであった。
 西郷隆盛と大久保利通を素材に日本の近代や政治家のリーダーシップを語り合った2日間は、私にとっても充実した時間であった。とにかく、全員が西郷の敬天愛人の意味を正しく理解し、何かの行事に参加した褒美として、現代語訳のついた『西郷南洲遺訓』を見せてくれた生徒もいるくらいだ。やはり歴史を動かした土地にふさわしいといえよう。
 2人の育った加治屋町にある市立維新ふるさと館を皆で一緒に訪ねた時も愉快であった。西郷や大久保らのロボットが登場し、わかりやすい工夫をこらした劇を通して、維新史や近代史を楽しく勉強したのも懐かしく思いだされてならない。西郷と大久保との対話に加え、薩摩第3のロボットがいきなり登場したのにも驚いた。
 しかし、考えてみれば人選は見事なくらい当然なのであった。それは村田新八だったからである。
 授業では「情の人」西郷、「理の人」大久保という組み合わせで、生徒と一緒に歴史を考えてみた。村田はさしずめこの2類型の中間に位置する人物なのかもしれない。幼少時から死ぬまで西郷を慕い続けながら、岩倉使節団に加わって欧米事情にも通じた村田は、幕末から西郷の懐刀として奔走した志士である。また、大久保がその人物見識を高く評価し、ゆくゆくは政府の中核に据えようとしたほどの人物であった。
 ◆戦火の中でも演奏忘れず
 美術や音楽を愛した村田は、滞在先のパリでオペラ座にしきりに通い、アメリカでは手風琴(てふうきん)(アコーディオン)に熟達したほどである。西南戦争でも時間があると演奏し、自決を覚悟した時にようやく楽器を壊したという逸話が残っている。
 西南戦争では薩軍二番大隊長になった村田は、シルクハットとフロックコートという妙な身なりで戦闘を指揮したのだから、手風琴との組み合わせといい、相当に異彩を放ったことだろう。
 桐野利秋中村半次郎)が香水や金時計を愛したハイカラぶりなどを思い起こすと、薩人にはイメージと裏腹に相当に洒落(しゃれ)た面があったのかもしれない。
 それにしても、大久保にとって村田を失ったのは、切歯扼腕(やくわん)するほどの口惜しさだったに違いない。
 かつて西郷に「智仁勇の三徳を兼備したる士」として皆の模範とすべしと言わしめた村田なら、外交でも内務でもこなせただけでなく、陸海軍に進んでも将帥の器になっていたはずだ。西洋風の彼のことだから、逓信や文部の世界で先端技術を生かしたかもしれない。秘めた新知識の数々を十分にいかす暇もなく、西南戦争に散った村田の犠牲こそ、まさに国家的損失というべきなのだろう。
 ◆大久保に惜しまれた死
 幕末から西南戦争まで村田を頼りにした西郷と同じく、大久保ほど新国家の設計に村田を必要とした人物もいなかった。まさに勝海舟は、「大久保利通に亜(つ)ぐの傑物」と呼び、「非命に斃(たお)れた」残念をしきりに回顧しているほどだ。
 熊本民謡『田原(たばる)坂』に出てくる「馬上ゆたかな美少年」とは、村田新八と一緒に死んだ2人の息子のうち長男の岩熊がモデルという説も強い。旧薩摩の地を踏んで、目鼻立ちがはっきりし溌剌(はつらつ)とした生徒たちの笑顔を見ていると、西郷や大久保の若き面影や村田の幼い時分の顔立ちはこうではなかったかとつい想像してしまう。
 岩熊は数えの19歳だったともいうから、私が接した生徒たちのすぐ上の兄貴分ともいうべきであろう。歴史を学ぶつらさを実感する時でもある。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】村田新八
 むらた・しんぱち 天保7(1836)年、薩摩生まれ。幼少より西郷隆盛に兄事し、西郷を助けて国事に奔走する。戊辰戦争では薩摩藩軍の軍監として東北地方を転戦。明治4年、宮内大丞(だいじょう)となり、岩倉遣外使節団に加わって欧米各国を巡回。征韓論政変後に帰国、鹿児島に帰り、桐野利秋らと私学校を作って砲隊学校を監督。西南戦争では薩軍二番大隊長として各地で奮戦し、明治10(1877)年、城山で戦死した。享年42。

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