2010年9月23日木曜日

062 前田慶寧


【幕末から学ぶ現在(いま)】(62)東大教授・山内昌之 前田慶寧 (1/4ページ)

2010.5.20 08:09
このニュースのトピックス歴史・考古学
 ■運も実力のうち
 イギリスの政治思想家アイザイア・バーリンは、政治家と歴史家には現実感覚が必要な点で共通した側面もあると述べた。また、政治家には庭師や料理人と同じく即興の才能も欠かせない。こうした点から見れば、気勢が上がらない自民党でも気を吐く議員の一人として、小泉進次郎氏の名を挙げても大方の異議はあるまい。
 彼の魅力は、政治を“家業”として世襲する血筋に生まれながら、ひ弱さや尊大さのいずれも感じられず、真っ直ぐな“叩(たた)き上げ”の雰囲気を醸し出している点にある。甘い容貌(ようぼう)はともかく、今ではすっかり死語となった党人派のような雰囲気さえどこか漂わせているのだ。
 昨今では、育ちが良くても、たくましさを身につけた政治家はめったにいない。幕末でも毛並みはよくても、ここ一番でふんばりがきかず、判断ミスを重ねた“ジュニア”もいた。
 金沢103万石の前田慶寧は、最大の雄藩リーダーとして改革への抱負をもちながら、失意のうちに世を去った大名である。恐竜化して身動きのとれない大藩に生まれたのも運というものであった。
 母は11代将軍・家斉の寵愛(ちょうあい)を受けた美代(専行院)が生んだ溶姫(やすひめ)であり、徳川将軍の外孫という抜群の血筋に恵まれていた。それでいながら、世子のころから勤王派の側近に囲まれ、長州びいきだったらしい。育ちようでは随分と面白い大名になったはずである。
 ◆絶好機に京を離れる愚
 絶好のタイミングは、元治元(1864)年に藩主・斉泰(なりやす)の名代として御所警固のために上洛したときに訪れた。彼は長州藩宥免(ゆうめん)のために斡旋(あっせん)する豪胆さをもっていたが、禁門の変が起こると、長州藩と干戈(かんか)を交えるのを潔しとせず、京を離れてしまった。
 この判断こそ加賀藩の行方を暗くする誤った判断となった。薩摩や会津とは同盟ならずとも、不即不離の関係を維持しながら、103万石大藩の存在感を誇示しておけばよかったのだ。そうすれば、いかようにも道を後につなげることができたのである。京に近い加賀の地理的優位性は、薩長に勝っており、強力な武備を再編して、佐賀藩レベルの脅威を薩長に与えられたのにもったいなかった。
 ともかく実父の斉泰は、不戦の慶寧を謹慎・幽居させ、取り巻きの臣を一掃した。徳川の親藩同然の藩でありながら、敵前逃亡も同然に戦を避けたとあれば、幕府の忌諱(きい)に触れると考えたからだろう。こうして加賀藩から主だった尊攘(そんじょう)派の士は粛清されてしまう。
 慶応2(1866)年に斉泰が隠居すると、新藩主の慶寧は改革を試みたが、勤王派が一掃されたために手足となる側近を欠くことになった。積極的に新時代を開けなかったのはまだよい。
 慶寧が政治の本流を誤って読んだことは致命的であった。襲封(しゅうほう)から2年後に鳥羽伏見の戦が起こると、親しい徳川慶喜との交わりを重んじて、徳川軍を支援しようと、出兵の動きを見せた。さすがに、このちぐはぐな動きは途中でさたやみになっている。
 辛うじて新政府軍に加わり、北越戦争に出兵したものの、大藩なるが故の動きの鈍さは尾州徳川や仙台伊達とも共通していた。家斉の娘を正室に迎え、親幕派だった父の斉泰と、新たな政治を心がけた慶寧の変革への反応の温度差はいかんともしがたかった。
 ◆新政府に人材出せず
 隠居した父が実権をもち藩政を総攬(そうらん)したことは、子の成長を妨げただけでなく、若い優秀な家臣を育てる機会を逸した原因となる。
 世代交代に失敗した加賀藩は、新政府に人材を出せず、前田家は公爵でなく、侯爵に甘んじなければならなかった。わずかに、大久保利通暗殺者6人のうち島田一郎ら5人が加賀藩士だったというあたりの逸話が物悲しい。自分の手足と言葉をもたない慶寧は、つくづく運に恵まれていなかった。
 ところで、小泉進次郎氏の簡明な言い回しは父親譲りという声も聞くが、進次郎氏はそれだけでない判断力を持っているようだ。しかも、バーリン風に言えば、優れた判断力をもつ人は他人より「純粋な運」に恵まれているのだ(上森亮『アイザイア・バーリン--多元主義政治哲学』春秋社)。
 「運も実力のうち」とは、日本の政治家にもあてはまる何がしかの真実なのである。慶寧になかった運を進次郎氏が生かせるか否か、恐竜化した“現代の大藩”自民党の運命とともに興味は尽きない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】前田慶寧
 まえだ・よしやす 天保元(1830)年、加賀(金沢)藩主前田斉泰の長男として生まれる。慶応2年、家督を継ぎ14代となる。世子のときから側近に尊攘派が多く、元治元年、京都警固にあたったときも長州のため斡旋に努めた。禁門の変の際に病気と称して京を離れたため、斉泰に謹慎を命じられ、側近の勤王派は処刑された。戊辰戦争では一時、幕府に援軍を出そうとしたが、中止し、新政府について北越に出兵。維新後、金沢藩知事に任ぜられた。明治7(1874)年、死去。享年45。

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