【幕末から学ぶ現在(いま)】(63)東大教授・山内昌之 堀田正睦 (1/3ページ)
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■空気の変化読めない宰相
鳩山由紀夫首相は5月23日、沖縄県庁で仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事に対して普天間飛行場の移転先として辺野古周辺を明言し、協力を求めた。首相にしても、現地に2度出かけて、“誠意”を見せれば、反基地感情の強さを打開できると考えたわけでもなかろう。
それでも、沖縄の歴史と県民の独特な心性を学ばず、基地の県外移転の約束をほごにする首相に対する県民感情の厳しさを無視して、沖縄を再訪問する意図はどこにあったのだろうか。自分なりに主観的誠意をみせれば、相手も分かるといった幼稚な非歴史的発想なのか、説明責任を果たしたという政治的アリバイづくりなのか、そのいずれかなのだろう。
◆一身の責任で調印なら…
場の雰囲気や人の気分を理解せず、政治の大舞台に主役が出かけても成果どころか、失敗をもたらした例といえば、安政5(1858)年の老中首座、堀田正睦の入京が思い浮かぶ。
ここで堀田は、大政委任の慣行に従って自分一身の責任で調印すればよかったのである。積み重ねてきた議論に依拠しながら、自らの裁量権を行使して調印を断行したとしても、諸大名や諸藩の志士の力はまだ弱く、朝廷への遊説の影響力も限られていた。
堀田は丁重に伺いを立てるなら容易に勅許(ちょくきょ)を得られると考え、幕閣をリードする立場として、阿部正弘と違う手法で内政と外交を結合しようとしたのかもしれない。うるさ型の水戸斉昭(なりあき)の口を封じようという魂胆もあったのだろう。
しかし、堀田は、武家伝奏(てんそう)を通して関白や大臣を動かし、あとは「黄金の魔力」をばらまき朝廷工作をしてきた旧習にとらわれていた。公卿(くぎょう)の間で少しずつ「尊攘(そんじょう)の空気を呼吸する者」があり、京都の空気が変わってきた微妙な情勢変化に無頓着だったのである。
◆尊攘派に口実与える
それでも、もし堀田が自ら不意に入京して論弁したなら、勅許を得ていたかもしれない、と幕臣だった福地桜痴は『幕末政治家』で語っている。林大学頭(だいがくのかみ)(復斎)などの属官を出張させたために、「日本の安危にかかわる大事」なのに、朝廷を軽んじたと尊攘派公卿に理屈をこねさせる原因をつくってしまった。
そこで、自ら上京という段取りになったのだが、政治を動かすにはタイミングと決断が大事だということを堀田はつくづく悟ったに違いない。京で遊説した堀田は、訥弁(とつべん)に加え、煩瑣(はんさ)な宮中儀礼などで悪ずれした公卿にあしらわれ、むなしく失敗の歴史をのこして江戸に帰ったのである。ここが幕府と朝廷の力関係の変化の分岐点となった。
堀田はもう少し存分に、随行させた有能な幕府官僚の川路聖謨(としあきら)や岩瀬忠震(ただなり)を使いこなすべきだったのである。重大決定に際しては、懸案の経過と対処法を検討熟知する官僚を使わずに断を下すことができない。老中若年寄クラスの政治家と実務官僚の提携の失敗こそ、京都の雰囲気を理解しないリーダーがわざわざ乗り込んで失敗を重ねた原因である。
◆優秀な人材を多数育てる
ただし、堀田の名誉のためにいえば、彼は将軍家定のハリス接見など日米関係の好転に道をつけていた。そのうえ、外国事情通の賢侯であり、順天堂をつくった佐藤泰然、英語のパイオニア手塚律蔵を育てた人物である。堀田と佐藤の流れから、松本良順(りょうじゅん)、林董(ただす)など、堀田と手塚の流れから、西周(あまね)、神田孝平、津田仙、木戸孝允などの人材が出たことは特筆すべきである。
堀田については、棺を蓋(おお)いて事定まる、という見本であった。もし、現代に官僚を使いこなせないばかりか、人材を育てることもできず、国民の期待も失望に変わった指導者がいるとすれば、その人は何の面目があって政治家を続けているのであろうか。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】堀田正睦
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