【幕末から学ぶ現在(いま)】(54)東大教授・山内昌之 河井継之助 (1/3ページ)
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政治家の器、組織の器
しかし、政治の難しいところは、いかに個人として精彩を放ったとしても、同志や部下がいないと政治意志を実現できない点にある。政治は集団の営みであることが多いからだ。この意味で舛添氏にとって自民党という枠は、驥足(きそく)を展(の)ばす上でしがらみになっているのかもしれない。
≪藩と河井の双方に不幸≫
しかし、小さな組織なら才能を発揮できるわけでもない。幕末でいえば、表高7万4千石の長岡藩の政治を河井継之助が仕切ったことは、藩と河井の双方にとって不幸な面もあった。河井は小藩を仕切るには気宇広大にすぎ、傑物を受け入れるには藩の器が小さすぎたからである。
内戦の勃発(ぼっぱつ)を見切っていた河井は、藩士の俸禄(ほうろく)や藩の出費を整理して新鋭銃2千挺はじめ近代兵器の購入をはかり、奥羽越随一の近代軍事力を完備した。
たとえば、手回し式の機関銃のガトリング砲2挺はいざ戦の火蓋(ひぶた)が切られるとすぐに威力を発揮した。7年前の南北戦争(1861~65年)に登場したばかりの最新兵器を自ら横浜へ買い付けにいき、3挺しかない現物のうち2挺を購入する手際の良さであった。軍と政の事実上の最高指導者の河井みずから、前線でハンドルを握って撃ちまくるわけだから凄(すご)い。しかし、防御板がなかった欠陥のせいで敵に狙撃されて死にいたる。
≪小藩の水準越えた発想≫
政治外交でも河井の発想は、小藩重役の水準を越えていた。彼は、藩論を武装中立に統一して新政府軍との談判を図り、旧幕府軍と新政府軍との調停によって紛争の平和解決をめざそうとした。あわよくば両者の間で漁夫の利を得ようとするか、戦後処理で長岡藩を実力以上に高く売りつけようとしたか、このいずれかであろう。
しかし、壮大な意図を隠して無血の解決を策した相手が若輩の土佐藩士、岩村高俊だったのは河井にとって不幸であった。せめて長州の山県有朋か、薩摩の黒田清隆であれば、河井とうまく折り合いをつけた可能性もあり、そもそも厄介な衝突を起こす危険のある河井を黙って帰す愚は犯さなかったであろう。実際、山県はじきに始まる北越戦争で盟友の時山直八(なおはち)を失う打撃を受ける。
戦略家、河井の冴(さ)えは、新政府軍の占拠した長岡城を裏手の沼地・八丁沖から深夜に奇襲した作戦にも発揮された。源義経の鵯越(ひよどりごえ)のように常識的にはあり得ない戦術を敢行したわけである。大参謀だった若き日の西園寺公望は寝巻きのまま逃げ出したらしい。
≪指揮官の重傷で士気低下≫
長岡城奪還作戦は日本戦史に残る快挙ではあったが、指揮官の河井がやがて重傷を負い、長岡藩兵の指揮能力や士気は低下してしまった。この小さな藩は河井がいなければ政治外交も軍事も思うにまかせない組織になっていたのだ。
スケールの大きな外交戦略が破綻(はたん)しても、もし長岡藩に西洋の最新鋭兵器で武装された兵力がなかったなら、他の中小藩と同じくひたすら恭順の低姿勢に徹して新政府の鋭鋒(えいほう)が過ぎるのを待てたかもしれない。器に不釣合いのリーダーをもったことが、長岡の士民を不幸にしたと言えなくもない。
さて、舛添氏にとって依然として大政党の自民党は格好の器であり、新党は小さすぎるのだろうか。あるいは、舛添氏の器にとり、自民党は大きすぎて手にあまり、小ぶりの新党で間に合うくらいなのだろうか。政党と政治家の器の比較較量(こうりょう)で見逃せない政治決断の時期が近づいている。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】河井継之助
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