【幕末から学ぶ現在(いま)】(56)東大教授・山内昌之 阿部正弘 (1/3ページ)
■瓢箪鯰と宇宙人
鳩山由紀夫首相の日本語表現は格別に晦渋(かいじゅう)というわけではない。それでいて、聞いていると時々何を言いたいのか分からないことが多い。過剰な丁寧語や謙譲語の対象が時として人間だけでないことにも辟易(へきえき)する。いちばん厄介なのは、一つの流れのなかで前段と後段で語る内容が間々違うことだ。
また、日がたつと全然違うことを平気で言い出すこともある。かつては普天間飛行場の県外国外移転を強く主張し、前政権の辺野古(へのこ)沖移転案を拒否したのに、3月23日には普天間飛行場の全面返還について「ゼロベース」で考えているとまで言い出した。
住民の危険除去を根本の出発点にする肝心の移転作業をなおざりにして、「危険性除去と騒音対策」を条件に普天間飛行場の一部存続さえ示唆するのだ。危険な普天間の継続使用を何とかして止めようというのが超党派の基本的立脚点だったのに、いつのまにか「ゼロベース」という便利な言葉で問題の本質をそらしている。
3月29日夕になると、普天間移設の政府案を一つにまとめる時期について「今月中と決まっているわけではない」と妙なことを言い始めた。首相は26日の会見で普天間移設案を「3月いっぱいをめどにまとめる」と強調していたのではなかったか。
優柔不断の八方美人
鳩山首相には「言語の浮遊」ともいうべき特徴が見られて仕方がない。良く言えば関係者全員を満足させたい善意、悪く言えば近衛文麿あたりにも共通する責任を無意識に回避する性向。この2つを考えると、どうしても「八方美人」という言葉がすぐ浮かぶ。
幕末維新の歴史を語った徳富蘇峰は、『近世日本国民史』のなかで、嘉永6(1853)年のペリー来航時の老中、阿部正弘を優柔不断や八方美人と批判した。また、幕臣だった福地桜痴(おうち)も著作『幕末政治家』において阿部を「始終巧(たくみ)に八方美人の策」を施すのに得意であり、「果敢の断行をなすの人」でないと揶揄(やゆ)する。
阿部は徳川譜代(ふだい)の閣老として祖法の鎖国にこだわる立場でありながら、列強の力と世界情勢を判断して開国に舵(かじ)を切らざるをえないジレンマに置かれた。それでいて、前水戸藩主の徳川斉昭のように極論を繰り返す攘夷(じょうい)派と妥協を図るために、八方美人になった面には幾分かの同情を禁じ得ない。
阿部はペリー来航を機に、「国家の一大事」を挙国一致体制で乗り切ろうとした。外様と譜代を問わず大名や、身分の尊貴を超えて幕臣らに良策を諮問したのである。しかし、徳川斉昭を海防参与(最高顧問)に任命して攘夷の不可なることを悟らしめようとする逆転の発想は失敗に帰した。これが高等な政治戦術なのか、水戸の老公への阿諛追従(あゆついしょう)なのかは議論の分かれるところだ。
確実なのは、斉昭が政策の現実性を無視し、攘夷の理念性を振りかざしながら、幕府の機密情報や政策議論の内容を平気で外に漏らし、いたずらに阿部を困らせ混乱を引き起こしたことである。海防や軍艦製造や大砲鋳造を斉昭にまかせれば、不平不満を「慰謝」できるという見込みは、幕府の基本政策と反対の斉昭を増長させる機会をつくったにすぎない。
したたかな交渉術
現に斉昭の圧力で開国派の老中たちを罷免すると門閥の井伊直弼らは激高し、「八方美人」の限界をあえなく露呈する始末となった。孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦(まさよし)を老中首座に起用し、攘夷派と開国派との融和を図ろうとしたが、これも責任を巧みに避けて禍を堀田に転嫁する術だとして福地桜痴は厳しく批評する。
それでも、阿部正弘は急死しなければ、幕府中心の雄藩連合体に近い国家として幕末日本を再編していたかもしれない。しかし、開明派の外様雄藩や非門閥官僚を幕政に参加させたあたりは、八方美人ぶりと並んで弱気な政治姿勢とみられがちであり、政敵から「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」と仇名(あだな)された。
しかし、この瓢箪鯰にはしたたかな所も多々あり、交渉術に冴(さ)えを発揮し、人心収攬(しゅうらん)にもたけていたことは否定できない。
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【プロフィル】阿部正弘
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