2010年9月23日木曜日

060 勝海舟


【幕末から学ぶ現在(いま)】(60)東大教授・山内昌之 勝海舟 (1/4ページ)

2010.4.29 08:18
勝海舟(国立国会図書館蔵)勝海舟(国立国会図書館蔵)
 ■政治家を感化する人格力
 舛添要一氏が自民党を離党し、「新党改革」を立ち上げた。正確にいえば、自民党を離れた舛添氏が改革クラブに入党し、その名称を新党改革と改めて成立した政党である。参院選比例代表で略称「ますぞえ新党」を使うことも検討したほど、舛添氏頼みの政党なのである。改選を迎える参院議員が選挙目当てで大スターの舛添氏を迎えたのではないか。
 こういう憶測も飛び交うほど舛添氏への期待度は有権者の間でも高い。国民の間で首相にしたい人物ではいつも1位になるらしい。その半面、自民党内の人望は必ずしも高くないと取り沙汰(ざた)された。誰でもすぐ感じる谷垣禎一総裁の誠実さや理知性とも異なり、時に愚直に夢と理想を語る鳩山由紀夫首相の楽観性とも違う、独特な野性味と行動力が舛添氏の持ち味にちがいない。
 舛添氏はもともと国際政治専門の学者であるが、これほど野心と才気あふれたタイプは日本の学界には珍しい。政治家は氏の天職だったのかもしれず、やはり転職してよかったのだと思う。
 ◆罷免と補任を繰り返す
 舛添氏のように、組織の内では評判が芳しくないのに、外では断然の人気を誇る政治家は過去にもいた。幕末でいえば、まず勝海舟がその筆頭であろう。
 海舟は、軍艦奉行並に補せられて以降、ことごとに守旧派の上役たちと衝突して罷免と補任を繰り返した。この点では終生の好敵手たる小栗忠順(ただまさ)とよく似ていた。有能な2人の幕府官僚は、立場は違っても、退嬰(たいえい)的な政治を変えるという使命感で共通する面も多かった。上司の受けが悪くても、2人には志をもつ人たちをひきつける魅力があり、その周りには人の輪ができた。
 下級の御家人から成り上がった海舟には圭角(けいかく)もあったが、人を分け隔てしないおおらかさは余人にないものだった。海舟の魅力は、坂本龍馬をすぐ虜(とりこ)にしたほどだ。
 龍馬が海舟と最初に出会ったのは、赤坂の本氷川坂下の勝屋敷であった。物騒なことに龍馬は、千葉重太郎と一緒に開国論者の海舟を斬(き)るために訪れたのだ。千葉は、NHKドラマ『龍馬伝』では貫地谷しほりさんの演じる清潔な佐那の兄として登場する。渡辺いっけい氏の妹思いの演技には味もあるが、子母澤寛の小説『勝海舟』では千葉十と書かれる剛の者である。
 ◆弟子入り志願した龍馬
 しかし、2人とも殺気と間合いをはずす海舟絶妙の技巧にひねられ、龍馬は海軍の必要性を国際情勢とともに諄々(じゅんじゅん)と説く海舟に惚(ほ)れこみ、その場で弟子入りを志願した。龍馬は姉の乙女に海舟を「日本第一の人物」と絶賛するほど入れこんだのである。
 もっとも、龍馬が殺しに来た話は、どうやら海舟自身がおおげさに広めた形跡もある。幕府瓦解後の海舟は、座談でしきりに法螺(ほら)めいた自慢話をしたからだ。しかし、海舟はスターになる大器を発見し、育てた誇りを披露し、その早世を惜しんだのである。
 堂々たるスターの海舟が一歩も二歩も引いて龍馬や他の人材を褒める芸当はたいしたものだ。これが政治家なのである。人斬り以蔵こと岡田以蔵も信服させたほどだから、海舟の人格的感化力は並大抵ではなかった。
 ◆旧幕臣たちの面倒見る
 海舟の一番偉いのは、明治になっても落魄(らくはく)した旧幕臣たちの面倒をよく見たことだ。福沢諭吉にからかわれても謗(そし)られても、海舟は柳に風と受け流し、請われると明治政府の高官に就くのも辞さなかった。幕臣のたずきを見つけてやり、就職斡旋(あっせん)のために少しでも役に立ちたいという思いもあったからだ。江戸っ子の海舟にはきっぷの良さがあり、あれほど悪口を言われた徳川慶喜のためにも身命を賭して命を救ったほどである。
 大衆的人気を誇る舛添新代表には、本格派政治家として多数の議員を感化する人格力も磨き上げてほしいと願う人びとも多いはずだ。そういえば、ずっと前に舛添氏は、テレビの時代劇で勝海舟に扮(ふん)したことがあるように記憶している。
 海舟は泥舟の幕府を最後まで見捨てなかったが、舛添氏は未練なく自民党を捨てた。その思い切りの良さがどう出るか。いずれ参院選挙で審判が下る。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】勝海舟
 かつ・かいしゅう 文政6(1823)年、江戸の旗本の家に生まれる。名は義邦、安芳(やすよし)。通称麟太郎(りんたろう)。蘭学を学び、ペリー来航時は幕府に海防意見書を提出。海軍伝習のため長崎に派遣された後、遣米使節随行艦の咸臨(かんりん)丸を指揮して渡米。帰国後、海軍操練所を設立し、軍艦奉行並となる。幕府側代表として江戸城明け渡しを実現。維新後、海軍卿兼参議となるがまもなく下野し、徳川家の後見や旧幕臣の生活を救済する一方、旧幕府資料を編集し「開国起原」を著した。明治32(1899)年、死去。享年77。

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