【幕末から学ぶ現在(いま)】(65)東大教授・山内昌之 相楽総三 (1/4ページ)
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■政治家の使い捨て
最近だけでも、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫の4氏は、祖父や父が首相だった政治家の家系に生まれた。鳩山氏にいたっては、富裕な資産家でもあり、庶民感覚から隔絶したカネの問題を説明しきれていない。
これと比べると、菅氏は日常生活も慎ましやかであり、落選などの辛酸を嘗(な)めながら市民運動家から宰相の地位にたどりついたのだから、与野党問わず氏の志と使命感には拍手を送るべきかもしれない。しかし、党人や官僚から育った政治家はしたたかである。政治構造の暗黙知に挑戦する異分子に思いもよらぬ罠(わな)を仕掛けてくるかもしれないからだ。
◆薩摩の意受け江戸騒乱
菅氏とすぐ比べられないにせよ、幕末維新史で最大の「使い捨て」となったのは、相楽総三である。現在の取手(茨城県)あたりの地の郷士の子として生まれた相楽は、文久3(1863)年の上州赤城山の挙兵計画や、翌年3月の天狗(てんぐ)党による筑波山の蜂起に加わって頭角を現した。
相楽にとって運命の分かれ道となったのは、薩摩の西郷隆盛らと交誼(こうぎ)を結んだことである。相楽は慶応3(1867)年、西郷の意を受けて、江戸市中と近辺で倒幕運動を公然と始めた。ことに、江戸市中への放火や強盗や暴行を繰り返して徳川政権を挑発したのである。
相楽は、大政奉還によって徳川慶喜を武力討伐する大義名分を失った西郷によって、江戸の幕臣を挑発し戦端を開く口実を作る役回りを与えられたのだ。西郷の政治謀略の凄(すご)みは、関東在の一本気の相楽の及ぶところではない。
西郷の策はあたり、市中警固(けいご)の任にあたった庄内藩が激高して芝三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした。大事の前の小事といわんばかりに、薩摩藩士の一部も切り捨てたのだから、西郷の権力リアリズムははかりしれない。
◆「偽官軍」として処刑
しかし挑発は功を奏し、鳥羽・伏見の戦いが起きて幕府軍の敗走をもたらした。薩長から歴史を眺めれば、相楽は維新成功の功労者として顕彰されてしかるべきであった。しかし、事態はそうならない。
慶応4(1868)年1月、京都に逃れていた相楽は再び西郷の意を受けて官軍先鋒(せんぽう)となる赤報隊を結成し、東山道を進んだ。彼は、自らの建白で採用された年貢半減令を布告しながら颯爽(さっそう)と東山道を進軍したが、まもなく「偽官軍」として捕縛され、官軍参謀の進藤帯刀(たてわき)によって信濃国下諏訪にて処刑されたのである。
もちろん京都で認めさせた年貢半減の理想を高らかに掲げた相楽を、出先の参謀が一存で処刑できるはずもない。そこに大きな暗い意志が働いていたと見るのは自然であろう。出所はさすがに西郷でなく、岩倉具視(ともみ)だろうという説もある。もちろん年貢半減が実施不能と悟った新政府にとって、相楽の理想主義が邪魔になったことは否定できない。
菅氏を水魚の交わりで支えてきた同志たちは必ずしも氏の傍らで新政権の要職に起用されていない。菅氏は、かれらを使い捨てた冷たい政治家だと世論に思われないことも大事だろう。もっとも、菅氏も鳩山氏と同じく、政治の大きな流れのなかで、使い捨てにならないともかぎらない。
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【プロフィル】相楽総三
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