【幕末から学ぶ現在(いま)】(52)東大教授・山内昌之 桐野利秋 (1/3ページ)
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サブリーダーの役割
桐野利秋(きりの・としあき)という名を知らない人でも、中村半次郎という旧名を聞いたことはあるに違いない。西郷隆盛の無二の弟子あるいは弟分として陸軍少将まで昇りつめ、西郷をかついで西南戦争のデザインを描いた人物である。
◆つきまとう誤解
幕末には「人斬り半次郎」という異名で世に知られた。しかし実際には、暗殺は1件くらいだと言われている。仇名(あだな)とは裏腹に半次郎の本領は、西郷や大久保利通の代理として長州藩と折衝し水戸天狗(てんぐ)党と接触する役目など、周旋活動でもおおいに才能を発揮した点にある。このように、半次郎には各種の誤解がつきまとう。その豪快かつ貧困のイメージから郷士の出身と理解されがちだが、5石という微禄であっても歴とした城下士の出である。
また半次郎には、どういうわけか無学という印象も強い。しかし、父が徳之島に流されて貧窮の極みになったので、10代は小作や開墾に従事するあまり正規の武家教育を受けなかったというにすぎない。武骨であっても雄渾(ゆうこん)な書をしたため、素朴ながら和歌もたしなんだ事実はもっと知られてもよい。
西郷が「半次郎にもっと学問の造詣があれば」と述べたのは、おそらく武家方の教養の基礎たる漢語を学ぶ四書五経の教育を受けなかったという意味であろう。「頼山陽(らいさんよう)の日本外史を読めたら天下をとってみせる」と吹いたというから、真面目さと「チャリ」(薩摩でユーモアの意)の入り交じった人間なのである。勝海舟や大隈重信も相当の人物として認めているほどだ。
「人斬り半次郎」の虚像が先行しがちなイメージは、薩摩のサブリーダーとして桐野利秋に成長する人物にとって愉快でなかったかもしれないが、それをあまり意に介した形跡もないからやはり相当に剛腹だったのだろう。
◆花も実もある美徳
彼が薩摩人らしい情誼(じょうぎ)や豪放さを発揮したのは、戊辰戦争の激戦地、会津若松城(鶴ケ城)受け取りの役目を命じられ見事に大任を果たした時のことだ。有職(ゆうそく)故実にあまり詳しいとも思えぬ半次郎が無事に仕事を終えたのを訝(いぶか)しく思った者たちが尋ねると、“ナニ、小屋にかかっている講談の赤穂浪士の城明け渡しの場面を再現したのだ”と答えるあたりも半次郎人気の秘密なのだろう。
何よりも会津藩士に武士の名誉を許したあたりの花も実もある美徳が持ち味なのだ。藩主松平容保(かたもり)が感謝の印として刀剣を謹呈したのも頷(うなず)ける。いまでも長州人には含むところのある会津人も薩摩には格別に遺恨のこだわりを見せない一端は、中村半次郎の温情を徳としているからかもしれない。
◆成否度外視した一本気
桐野利秋として実家の本姓に戻った半次郎は、明治6(1873)年10月、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛が下野するとともに官を辞して帰郷した。これ以後2人の運命は大きく変わっていく。私学校の指導にあたった同僚とは別に、吉野開墾社を指導し率先して開墾事業に励むあたりにも桐野の現場主義感覚が表れている。
しかし、桐野でいちばん目立つのは、尊敬する西郷と終始行動を共にし城山で一緒に斃(たお)れるまで、成否を度外視して新たな政治の可能性にかけた一本気であろう。政党の離合集散や新党結成と理想を説くようでいて、その実は利害得失を忘れない現代の政治家とは異質な生一本さこそ、サブリーダーの花形たる桐野利秋こと中村半次郎の魅力なのであろう。
こうした人間的磁力に魅(ひ)かれて個人の篤志や法人の寄付で映画『半次郎』をつくろうとするさわやかな人びとも現れた。今年秋公開予定の映画で桐野こと半次郎を演じる榎木孝明氏たちである(東京事務局連絡先はTEL03・5770・1805)。現代の日本人に投げかける映画『半次郎』のメッセージが楽しみである。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】桐野利秋
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