【幕末から学ぶ現在(いま)】(51)東大教授・山内昌之 大久保一翁 (1/3ページ)
■卑屈さない「敗者の戦後」
「敗者の戦後」という言葉がある。政治も“いくさ”である以上、勝敗は時の運ということもある。問題は、敗北や挫折からいかなる教訓を引き出し、捲土(けんど)重来につなげていくかという点だろう。
先の衆院選挙でカタストロフともいうべき大敗を喫した自民党は精気が乏しすぎる。民主党ツートップの不祥事に加えて内閣支持率が落ちている現在、谷垣禎一総裁の自民党は長崎県知事選勝利に乗じて如何に反撃するのだろうか。負けるにも負け方というものがある。幕末の徳川幕府はきれいさっぱり瓦解しても、明治社会の各方面に多数の人材を送り出す力をもっていた。
◆典型的な出世官僚
一翁こと越中守忠寛(ただひろ)は、大名から旗本まで多くの根を張った三河以来の譜代・大久保家の一門に生まれた。大久保家に多い「忠」の一字を諱(いみな)に用い、11代将軍の家斉から15代慶喜まで仕えたのだから、同志として幕末の難局に共にあたった勝海舟と比較できないほど名流の高級旗本であった。
小姓や小納戸(こなんど)から始めて奉行職をあれこれ経験して、旗本として最高の役職の大目付までたどりついたのは、典型的な出世官僚のキャリア・パターンであった。そのうえ、大名しかなれない若年寄にも就任したのだから、平時であれば一門の誉れとしてめでたいというほかない。
しかし、一翁は誰よりも早く大政奉還論を打ち上げて、幕府内部から冷笑や憤怒を買った勇気ある人物である。朝廷から委任された幕府に尊王攘夷(じょうい)の不実行について天皇の信任が得られないなら、家康が受けた将軍職を返上して三河・遠江・駿河の旧領に戻り、諸大名の列に下ればよいという「御職御辞の論」を展開した。
◆解職の憂き目にも
しかも、尊攘派の議論には愛国の志があり、無為に惰眠をむさぼる幕臣と違う英気もあると冷静な評価も忘れない。彼らをいたずらに弾圧するのは為政者の道でない、と井伊直弼による安政の大獄を疑ったために解職の憂き目にもあった。
越前の松平春嶽にも、「内乱を涎(よだれ)を垂らして待っている英国やロシアの術策に陥る事態が眼前に迫っているのは残念」と述べているように、一翁には国際関係における日本の危うい位置が見えていたのだ。江戸城の無血開城を勝海舟とともに成功させた一翁が、せめてもう少し早く老中格くらいになって勝や小栗上野介らとチームを組み幕政を仕切っていたなら、長州征伐という無謀な戦争で幕府瓦解を早める悲劇もなかったかもしれない。
また、持論の大小公議会つまり議会制度をつくることに成功していたなら、幕末政治の様相も随分と異なっていただろう。
◆新政府も要職に登用
一翁の偉いのは、大幅な減封で駿河に移された幕臣と家族の面倒をよく見たことだ。新たな主君、徳川亀之助(家達(いえさと))を補佐して駿府藩の藩政を担当した一翁がいなければ、徳川三百年の閉幕は画竜点睛(がりょうてんせい)を欠いたことだろう。その力量と人柄を買った明治政府はまもなく、静岡県知事、東京府知事、元老院議官に登用し、明治政府の議会政治の樹立にも協力させた。
しかし、薩長閥の新政権との距離感のとり方は絶妙なのだ。敗者の戦後において、その政治姿勢には微塵(みじん)も卑屈なところがない。また、三河以来の徳川家臣という矜持(きょうじ)と“江戸っ子”の潔さがあいまって、振る舞いに出すぎたところもない。風格のある人物とは、一翁のような人士を指すのであろう。
一翁に経綸(けいりん)の腕を存分に振るわせたかったと思うのは決して贔屓(ひいき)目ではない。一翁のような気骨と矜持にあふれながら、求められるなら能力のほどを出し惜しみしない政治家出でよと願う日本人も多い。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】大久保一翁
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