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2014年12月20日土曜日
2014年12月10日水曜日
2014年8月16日土曜日
2014年7月31日木曜日
アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
http://thepage.jp/
7月6日(日)13時0分配信
アルゼンチンの雲行きが怪しくなっています。といってもブラジルで行われているワールドカップ(W杯)サッカーのことではありません。アルゼンチンの国家財政のことです。2001年以来、13年ぶりの債務不履行(デフォルト)に陥る不安が高まっています。ここでいうデフォルトとはアルゼンチンが自国で発行した国債が返せない状態をいいます。一体どういうことなのでしょうか。
アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
[図表]再びデフォルト危機に陥っているアルゼンチン
どうして再びデフォルト危機になった?
国債とは国の借金です。いつまでにこれだけの利息をつけて返すから貸してくださいと内外の投資家に募ります。「借金」という点で企業のそれと似た点が多々あります。まず約束の日までに借金の元本と利息を払わないと誰も信用してくれなくなります。追加の借金は誰も信用しませんからもちろんできなくなります。
返すアテがない限り、発行した国は投資家(債権者)に減額をお願いするなど頭を下げなければなりません。アルゼンチンの場合、そうした事態が2001年に発生しました。したがって、現在はデフォルト後に債権者と話し合って決めた金額を支払っている最中となります。その途中で「やはり返せなくなった」に陥ったかもしれない……というのが今回の出来事です。
2001年のデフォルト後、債権者の9割は減額に応じました。まったく返ってこないよりは少しでも回収したいからです。デフォルトしたからといって、アルゼンチンという国が消えてなくなるわけではありません。いくらか有望な産業もあります。その点では企業が民事再生法や会社更生法を申請して倒産するのと似ています。主体は存続するので粘り強く待とうと考えるのです。
ところが一部の債権者は減額そのものに応じませんでした。「貸したカネは約束通り払え」と主張したのです。2014年6月、アメリカの裁判所が訴えを認め、全額を返さなければ7割ともいわれる減額に応じた債権者への利払いも認めないと命じました。アルゼンチン政府は、もし判決通りの全額返済(約1兆5000億円)をしたら、中央銀行が保有する外貨準備の5割を超えるとの試算を公表しました。つまり返せるのです。
ただそうしてしまうと、前述の9割にのぼる減額受け入れ組の面目が立ちません。「全額よこせと主張したら払われるならば、大金をどぶに捨てるような減額を飲んだ我々はどうなるのだ」と。そうした声が大勢となったら10年以上何とか行ってきた返済計画自体を見直さざるを得ず、それが全員全額という結論になれば払えません。といって全額組への支払いを拒否したら判決にしたがって減額受け入れ組への利払いもできません。
アルゼンチン政府は裁判結果を「不正で不当」と反発、予定通り利払いを続けるとしました。払う力があっても技術的に払えない状態で、2001年の「対外債務(借金)の元本と利子の支払いを停止した」と発表した状態とは異なります。今後はアルゼンチン政府が全額要求組と話し合って(お互い顔も見たくないでしょうが)譲歩を引き出すか、裁判の決定と現実を足して二で割ったような抜け道を探るような動きになりそうです。
市場は「影響は限定的」との見方
市場は今回のデフォルト危機をおおむね「影響は限定的」とみなしています。何しろ返せるわけですから。とはいえ理由が何であっても「アルゼンチンはお騒がせ国」というレッテルが再びバシッと貼られるのがいい話であるはずもなく、通貨ペソは下落傾向に転じています。お騒がせ国の通貨は信用できないので売られてしまうのです。すると輸入品が高くなって国民生活が脅かされかねません。
今のアルゼンチンはインフレ(物価が継続して上がる)気味ながら比較的順調な経済成長を遂げています。不安材料のインフレが物価高で助長されると国内経済にかなりの打撃を与えます。通貨が下がってメリットのある輸出もアルゼンチンの主力はもともと価格の安い農産品中心なので追い風より向かい風の方が強く吹きます。堪りかねて輸入規制でもしようものなら自由貿易圏から一層白い目を向けられるでしょう。
2001年のデフォルトはなぜ起きた?
そもそもの発端であった2001年のデフォルトはなぜ起きたのでしょうか。アルゼンチンはパンパと呼ばれる肥えた平原を持ち、小麦や牧畜が盛んに行われ、フリゴリフィコ(保冷船)の運行開始以降は欧州などの一大食料輸出国として1920年代までは有数の富裕国でした。しかし農業とくに特定の産品に偏った輸出中心経済は1929年から始まった世界恐慌で大きな挫折を味わいます。農産品は工業製品よりも生産が不安定になりがちな上に、単価が安いために恐慌(突発的大不景気)に弱かったのです。
この反省から戦後は工業化にも取り組みます。代表的な方法が輸入代替工業化で工業先進国から輸入してきた製品を国内で生産して自給していこうとの試みでした。一種の産業保護政策で多国籍に展開する企業との競争に敗れ、他方で補助金などを通して特定の企業が国内市場を独占するなど競争原理が働かなくなったり汚職や腐敗の温床にもなりかねない状態が続いて経済が行き詰まります。
打破するために一転して国際市場経済への参入へとかじを切り替えたものの、今度は外国資本の参入、国内産業の衰退、インフレによる途方もない物価高などを招き、91年に「1ペソ=1ドル」の固定相場に変え、米ドルを後ろ盾にするなど苦心に苦心を重ねました。それでインフレはいったん収まり、10年近く安定します。ここで以前からの借金問題を少しでも改善すればよかったのを当時の政権は逆にばらまきへ走り、悪化したまま「その時」を迎えます。
今回の危機は“最悪のタイミング”
90年代後半のアメリカのクリントン政権はドル高政策に出て外資の呼び込みをはかりました。特効薬だったはずの固定相場もペソが実力以上の評価を受ける形となり、国際水準から考えて労働者の賃金が高くなり、アメリカとは逆に外資が逃げ出します。固定相場ではドル高=ペソ高なので輸出も減少し、当然少なくなる税収を補うため国債に依存し、それが嫌われてさらに投資が減っていきます。
ここで実勢に見合った相場となる変動相場制に移るべきという意見も出たものの、固定相場の成功体験と、それを失うとペソで収入を得て国際的信用のあるドルを借りていた企業などにの反発を恐れて踏み切れずにいました。同じ固定相場制の競合国ブラジルが99年に変動相場制に移って国際競争力を回復させたのと対照的に、ペソは過大評価と市場の信認を失います。とともに積もり積もった借金が疑問視され資本がさらに大流出、政府もあわてて公務員給与カットなどの対応をするも暴動にまで発展した揚げ句、ついに2001年、デフォルト(お手上げ)宣言せざるを得なくなりました。
その後、アルゼンチンは変動相場制に移行し最悪期は脱するも、未だ返済途上にあって新たな国債を発行できません。そうなると道路などインフラの充実や補修に回すカネがなく厳しい状態が続いていました。一刻も早く返し終えて、デフォルト以来、締め出しを食らっている国際資本市場に再参加したいところでの新たなデフォルト危機。アルゼンチンにとって最悪のタイミングです。
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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)
7月6日(日)13時0分配信
アルゼンチンの雲行きが怪しくなっています。といってもブラジルで行われているワールドカップ(W杯)サッカーのことではありません。アルゼンチンの国家財政のことです。2001年以来、13年ぶりの債務不履行(デフォルト)に陥る不安が高まっています。ここでいうデフォルトとはアルゼンチンが自国で発行した国債が返せない状態をいいます。一体どういうことなのでしょうか。
アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
[図表]再びデフォルト危機に陥っているアルゼンチン
どうして再びデフォルト危機になった?
国債とは国の借金です。いつまでにこれだけの利息をつけて返すから貸してくださいと内外の投資家に募ります。「借金」という点で企業のそれと似た点が多々あります。まず約束の日までに借金の元本と利息を払わないと誰も信用してくれなくなります。追加の借金は誰も信用しませんからもちろんできなくなります。
返すアテがない限り、発行した国は投資家(債権者)に減額をお願いするなど頭を下げなければなりません。アルゼンチンの場合、そうした事態が2001年に発生しました。したがって、現在はデフォルト後に債権者と話し合って決めた金額を支払っている最中となります。その途中で「やはり返せなくなった」に陥ったかもしれない……というのが今回の出来事です。
2001年のデフォルト後、債権者の9割は減額に応じました。まったく返ってこないよりは少しでも回収したいからです。デフォルトしたからといって、アルゼンチンという国が消えてなくなるわけではありません。いくらか有望な産業もあります。その点では企業が民事再生法や会社更生法を申請して倒産するのと似ています。主体は存続するので粘り強く待とうと考えるのです。
ところが一部の債権者は減額そのものに応じませんでした。「貸したカネは約束通り払え」と主張したのです。2014年6月、アメリカの裁判所が訴えを認め、全額を返さなければ7割ともいわれる減額に応じた債権者への利払いも認めないと命じました。アルゼンチン政府は、もし判決通りの全額返済(約1兆5000億円)をしたら、中央銀行が保有する外貨準備の5割を超えるとの試算を公表しました。つまり返せるのです。
ただそうしてしまうと、前述の9割にのぼる減額受け入れ組の面目が立ちません。「全額よこせと主張したら払われるならば、大金をどぶに捨てるような減額を飲んだ我々はどうなるのだ」と。そうした声が大勢となったら10年以上何とか行ってきた返済計画自体を見直さざるを得ず、それが全員全額という結論になれば払えません。といって全額組への支払いを拒否したら判決にしたがって減額受け入れ組への利払いもできません。
アルゼンチン政府は裁判結果を「不正で不当」と反発、予定通り利払いを続けるとしました。払う力があっても技術的に払えない状態で、2001年の「対外債務(借金)の元本と利子の支払いを停止した」と発表した状態とは異なります。今後はアルゼンチン政府が全額要求組と話し合って(お互い顔も見たくないでしょうが)譲歩を引き出すか、裁判の決定と現実を足して二で割ったような抜け道を探るような動きになりそうです。
市場は「影響は限定的」との見方
市場は今回のデフォルト危機をおおむね「影響は限定的」とみなしています。何しろ返せるわけですから。とはいえ理由が何であっても「アルゼンチンはお騒がせ国」というレッテルが再びバシッと貼られるのがいい話であるはずもなく、通貨ペソは下落傾向に転じています。お騒がせ国の通貨は信用できないので売られてしまうのです。すると輸入品が高くなって国民生活が脅かされかねません。
今のアルゼンチンはインフレ(物価が継続して上がる)気味ながら比較的順調な経済成長を遂げています。不安材料のインフレが物価高で助長されると国内経済にかなりの打撃を与えます。通貨が下がってメリットのある輸出もアルゼンチンの主力はもともと価格の安い農産品中心なので追い風より向かい風の方が強く吹きます。堪りかねて輸入規制でもしようものなら自由貿易圏から一層白い目を向けられるでしょう。
2001年のデフォルトはなぜ起きた?
そもそもの発端であった2001年のデフォルトはなぜ起きたのでしょうか。アルゼンチンはパンパと呼ばれる肥えた平原を持ち、小麦や牧畜が盛んに行われ、フリゴリフィコ(保冷船)の運行開始以降は欧州などの一大食料輸出国として1920年代までは有数の富裕国でした。しかし農業とくに特定の産品に偏った輸出中心経済は1929年から始まった世界恐慌で大きな挫折を味わいます。農産品は工業製品よりも生産が不安定になりがちな上に、単価が安いために恐慌(突発的大不景気)に弱かったのです。
この反省から戦後は工業化にも取り組みます。代表的な方法が輸入代替工業化で工業先進国から輸入してきた製品を国内で生産して自給していこうとの試みでした。一種の産業保護政策で多国籍に展開する企業との競争に敗れ、他方で補助金などを通して特定の企業が国内市場を独占するなど競争原理が働かなくなったり汚職や腐敗の温床にもなりかねない状態が続いて経済が行き詰まります。
打破するために一転して国際市場経済への参入へとかじを切り替えたものの、今度は外国資本の参入、国内産業の衰退、インフレによる途方もない物価高などを招き、91年に「1ペソ=1ドル」の固定相場に変え、米ドルを後ろ盾にするなど苦心に苦心を重ねました。それでインフレはいったん収まり、10年近く安定します。ここで以前からの借金問題を少しでも改善すればよかったのを当時の政権は逆にばらまきへ走り、悪化したまま「その時」を迎えます。
今回の危機は“最悪のタイミング”
90年代後半のアメリカのクリントン政権はドル高政策に出て外資の呼び込みをはかりました。特効薬だったはずの固定相場もペソが実力以上の評価を受ける形となり、国際水準から考えて労働者の賃金が高くなり、アメリカとは逆に外資が逃げ出します。固定相場ではドル高=ペソ高なので輸出も減少し、当然少なくなる税収を補うため国債に依存し、それが嫌われてさらに投資が減っていきます。
ここで実勢に見合った相場となる変動相場制に移るべきという意見も出たものの、固定相場の成功体験と、それを失うとペソで収入を得て国際的信用のあるドルを借りていた企業などにの反発を恐れて踏み切れずにいました。同じ固定相場制の競合国ブラジルが99年に変動相場制に移って国際競争力を回復させたのと対照的に、ペソは過大評価と市場の信認を失います。とともに積もり積もった借金が疑問視され資本がさらに大流出、政府もあわてて公務員給与カットなどの対応をするも暴動にまで発展した揚げ句、ついに2001年、デフォルト(お手上げ)宣言せざるを得なくなりました。
その後、アルゼンチンは変動相場制に移行し最悪期は脱するも、未だ返済途上にあって新たな国債を発行できません。そうなると道路などインフラの充実や補修に回すカネがなく厳しい状態が続いていました。一刻も早く返し終えて、デフォルト以来、締め出しを食らっている国際資本市場に再参加したいところでの新たなデフォルト危機。アルゼンチンにとって最悪のタイミングです。
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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)
2014年7月30日水曜日
<中国>イチからわかるウイグル族独立問題
2013年11月1日(金)10時30分配信
北京の天安門広場で、車が歩道に突入し5人が死亡した事件について、当局は新疆(しんきょう)ウイグル自治区の活動家によるテロと断定しているのですが、背景にはウイグルにおける中国からの独立問題があります。ウイグルとはどのような場所で、彼等はなぜ中国から独立しようとしているのでしょうか?
自治区の半数がイスラム教徒
新疆ウイグル自治区は中国の西端に位置し、人口約2000万の半分がイスラム教徒のウイグル族で占められている特殊な地域です。中国が王朝だった時代には、中国やモンゴル遊牧民族の圧力を受けながら独立と従属を繰り返していました。この地域にある楼蘭という古都はシルクロードの舞台としても有名な場所です。しかし1949年に中国共産党が政権を握って以降は、完全に中国に併合され、1955年に新疆ウイグル自治区という名称になり今に至っています。
中国当局は、新疆ウイグル自治区に大量の漢族を移住させ人口比を逆転させようとしており、政治や経済といった重要な分野では漢人が大きな影響力を持っています。また中国は建前上、宗教を否定する社会主義国家なので、イスラム教の活動について常に監視下に置いています。このため一部の住民は中国の統治に対して強く反発し、中国からの分離独立を主張しています。
2009年暴動では約200人死亡
2009年には同自治区のウルムチで、漢族によるウイグル族への襲撃事件を発端とした激しい暴動が発生し、中国当局の発表によると約200人が死亡しました。当局は暴動を扇動したとしてウイグル族9人を処刑したほか数百人が拘束されたといわれています。
今年に入っても、警官隊と活動家の衝突などが何度も起こっていますが、同自治区の内情は外国のマスコミが取材できないためあまり明らかになっていません。一部の報道によれば、日本が戦時中に導入していた隣組(住民を相互監視させ密告させる仕組み。現在の町内会や回覧板はその名残)によく似た制度を導入し、住民を監視下に置いているといわれています。
軍事的に重要な地域
中国はチベットでも同様の問題を抱えており、10月には国連人権理事会が中国に対してチベットやウイグル自治区などにおける少数民族の権利保護を求めました。しかし、中国側は「国を分断するような行為を受け入れることはできない」と主張し、反体制活動を弾圧するのは正当な行為であるとの立場を崩していません。かつて西側諸国は、中国のこうした人権弾圧を強く批判していましたが、現在では大国となった中国との経済協力を優先し、これらの問題については黙認しています。
中国人は歴史的に、北方と西方の備えを完璧にしないと中国本土を守ることはできないとの考えを強く持っており、新疆ウイグル自治区は軍事的に重要な地域と認識されています。また一部民族の独立を認めてしまうと、数十あるといわれる少数民族が、一斉に中国政府に反旗を翻す可能性があり、当局はこうした事態を強く危惧しています。中国はよほどのことがない限り、この地域の独立を認めることはないでしょう。
(The Capital Tribune Japan)
2014年7月23日水曜日
元ソニー開発者のヒット商品“扇風機付き作業服” 「一度着たら手放せない」
2014.7.12 18:04
昨年の3倍、25万着がすでに完売
「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。
商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。
試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。
そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。
その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。
ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目
当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。
「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。
しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。
「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。
1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。
開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」
ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。
その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。
すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。
「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」
最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)
昨年の3倍、25万着がすでに完売
「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。
商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。
試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。
そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。
その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。
ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目
当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。
「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。
しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。
「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。
1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。
開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」
ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。
その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。
すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。
「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」
最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)
2014年4月26日土曜日
村尾先生の作文 April 25th 2014
私の読書遍歴 一年国語科 村尾勉
小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。
一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。
夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。
中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。
一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。
高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。
読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。
小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。
一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。
夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。
中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。
一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。
高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。
読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。
2014年4月25日金曜日
宮中晩餐会メニューApril24th2014
「国賓」として来日したオバマ米大統領。国賓は政府が日本に招待する外国要人のうち、最上級の手厚いもてなしをする最高ランクの賓客だが、オバマ大統領が平成21年に来日した際には国賓ではなく、「実務訪問賓客」という形だった。
来日する外国賓客の区分は「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」「実務訪問賓客」「外務省賓客」の順番で、それぞれ待遇が決まっており、国内の滞在経費は日本側が負担する。
最もランクの高い国賓は国王や元首が対象で、天皇、皇后両陛下が参加される一連の行事に臨む。まず、三権の長、全閣僚も出席して皇居で「歓迎行事」が行われた後、両陛下との「ご会見」「宮中晩餐会」と続き、国賓が東京を出発するにあたっては、両陛下が「お見送り」に行かれる。この“4点セット”が国賓接遇の原則となっており、両陛下は事前に外務省の担当者らから相手国について説明を受け、入念に準備をされる。
予算や陛下のスケジュールなどの都合から、国賓待遇は年間1、2件。今年3月にはベトナムのチュオン・タン・サン国家主席が国賓として来日している。
国賓、公賓の場合、通常は東京・元赤坂の迎賓館が宿泊先として用意されるが、オバマ米大統領は今回、迎賓館ではなく、都内の老舗ホテルに宿泊。皇居訪問の際の車も、宮内庁が国賓に差し回す御料車ではなく、米国側が自前で用意した大統領専用車を使用するなど、他の国賓とは異なる点がうかがえる。
改修工事のため使用できなかったケースなどを除くと、過去に来日した国賓で迎賓館を利用しなかったのは、米国のカーター大統領(昭和54年6月)とフランスのシラク大統領(平成8年11月)の2人だけ。駐日米大使公邸に泊まったカーター氏の場合は、迎賓館が東京サミットの会場として使われていたという事情があるが、今回は「特に米国側から説明はない」(宮内庁関係者)という。
国賓が東京を離れる際には、両陛下がお別れのあいさつのため宿泊先を訪問されるのが慣例。宮内庁関係者は「今回も同様」というが、宿泊先が変われば警備の仕方は大きく変わる。
通常、来日した国賓の移動に供されるのは、トヨタの「センチュリーロイヤル」。両陛下が国会開会式や東日本大震災追悼式、全国戦没者追悼式ご臨席の際などに使用され、差し回しの際も宮内庁の運転技官がハンドルを握るが、オバマ氏が平成21年に来日した際も、事前に米国から輸送機で運ばれた特殊装備の大統領専用車が使われた。宮内庁関係者は「米国の場合は非常に警備が厳しいのだろう」と話している。
昭和49年11月19日、フォード、田中角栄
昭和54年6月25日、カーター、大平正芳
料理
コンソメスープ
マダイの洋酒蒸し(付け合わせにグリーンアスパラガス、舌平目の細切りパン粉揚げ)
羊のもも肉の蒸し焼き(付け合わせに温野菜、アピオスの空揚げ、クレソン)
サラダ
アイスクリーム(富士山型)
果物(メロン、イチゴ)
飲み物
白ワイン(コルトン・シャルルマーニュ1999)
赤ワイン(シャトー・マルゴー1994)
シャンパン(モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨン1998)
オバマ米大統領を迎えての天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が24日、皇居・豊明殿(ほうめいでん)で行われた。
宮中晩さん会で出される料理は、明治時代以来の慣例でフランス料理。宗教上の制約を受けないことから羊肉がメイン料理となることが多く、今回の晩さん会も羊のもも肉の蒸し焼きがフルコースのメインとなった。
また、メニューからは「旬の食材で国賓をもてなす」という宮内庁のこだわりも垣間見える。魚料理で使われているマダイは産卵を控えて脂が乗った今ごろがまさに旬だ。3月に来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席夫妻に出されたサワラも春が旬だった。
農産物については御料(ごりょう)牧場(栃木県)で育てたものができるだけ使用される。今回はコンソメスープのだしとなる鶏肉、メイン料理の羊などが同牧場で育てたものだという。
ワインは宮内庁が常時4000~5000本を保管しており、国賓にはその中で最高の1本をセレクトして提供する。10年ぐらい熟成させたワインを出すことが多く、晩さん会のたびに銘柄は異なるというが、日本酒の銘柄は常に「菊正宗」だという。
オバマ米大統領を歓迎する宮中晩さん会での天皇陛下のあいさつ全文は次の通り。
この度、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマ閣下が、国賓として我(わ)が国を御訪問になりましたことを心から歓迎いたします。ここに今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。
まず大統領閣下に、三年前に起こった東日本大震災に際し、米国政府及び多くの米国国民からお見舞いと支援を頂いたことに対する、私どもの深い感謝の気持ちをお伝えしたく思います。この地震と津波による災害では、死者、行方不明者が二万人以上となり、建物は壊され、美しい海や山に囲まれた町や田畑は、がれきに覆われました。二万人を超える貴国の軍人が参加した「トモダチ作戦」を始めとし、貴国の多くの人々が被災者のために行った支援活動は、物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました。
歴史を振り返りますと、貴国と我が国との交流は、我が国に来航したマシュー・ペリー提督と徳川幕府の交渉により、一八五四年日米和親条約が調印されたことに始まります。我が国はそれまで二百年以上にわたり鎖国政策を行ってきましたが、開国を決意し、欧米の国々より、当時日本にとり未知であった領域分野の学問や技術については、これを鋭意学び、国を発展させることに努めました。貴国の人々に負うところ、また大なるものがあります。
私が貴国を初めて訪れましたのは、一九五三年、エリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列した機会に、貴国を始めとする欧米諸国を訪れた時のことであります。一九六〇年、日米修好百年の年には、現在の皇太子を出産して間もない皇后と共に、初めて公式に貴国を訪問し、アイゼンハワー大統領御夫妻主催の晩餐(ばんさん)会にお招きいただき、また多くの米国国民と触れ合う機会に恵まれる中、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドの各地を約二週間をかけて訪問いたしました。私どもにとり今も忘れられないのは、ニューヨーク訪問の際、貴国政府及びニューヨーク市が大型船によるマンハッタン島巡りを計画し、船上に当時貴国で勉学にいそしむ大勢の日本人留学生を招いてくださったことです。当時学習意欲にあふれつつも、余裕のない戦後の生活の中でそれを十分に満たせなかった我が国の有為な若者に、更(さら)に学ぶ機会を与えてくれた貴国の奨学生制度は、実に有り難いものであったと思います。
その後も国賓としての訪問も含め、貴国を何度か訪れておりますが、その都度貴国民から温かく迎えられたことが心に残っています。貴国が多様な人々を包容し、民主主義の理想を求め、より良い社会を築こうと常に努力する姿には深い感銘を覚えます。貴国と我が国の両国民は、先の戦争による痛ましい断絶を乗り越え、緊密な協力関係を築きました。両国民が来し方を振り返り、互いの理解を一層深め、相携えて進んでいくことを願ってやみません。
両国の友好の象徴となっている桜とハナミズキの季節に行われる大統領閣下のこの度の御滞在が、実り多きなものとなりますよう願っております。
ここに杯を挙げて、大統領閣下及び御家族の御健勝と、アメリカ合衆国国民の幸せを祈ります。
来日する外国賓客の区分は「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」「実務訪問賓客」「外務省賓客」の順番で、それぞれ待遇が決まっており、国内の滞在経費は日本側が負担する。
最もランクの高い国賓は国王や元首が対象で、天皇、皇后両陛下が参加される一連の行事に臨む。まず、三権の長、全閣僚も出席して皇居で「歓迎行事」が行われた後、両陛下との「ご会見」「宮中晩餐会」と続き、国賓が東京を出発するにあたっては、両陛下が「お見送り」に行かれる。この“4点セット”が国賓接遇の原則となっており、両陛下は事前に外務省の担当者らから相手国について説明を受け、入念に準備をされる。
予算や陛下のスケジュールなどの都合から、国賓待遇は年間1、2件。今年3月にはベトナムのチュオン・タン・サン国家主席が国賓として来日している。
国賓、公賓の場合、通常は東京・元赤坂の迎賓館が宿泊先として用意されるが、オバマ米大統領は今回、迎賓館ではなく、都内の老舗ホテルに宿泊。皇居訪問の際の車も、宮内庁が国賓に差し回す御料車ではなく、米国側が自前で用意した大統領専用車を使用するなど、他の国賓とは異なる点がうかがえる。
改修工事のため使用できなかったケースなどを除くと、過去に来日した国賓で迎賓館を利用しなかったのは、米国のカーター大統領(昭和54年6月)とフランスのシラク大統領(平成8年11月)の2人だけ。駐日米大使公邸に泊まったカーター氏の場合は、迎賓館が東京サミットの会場として使われていたという事情があるが、今回は「特に米国側から説明はない」(宮内庁関係者)という。
国賓が東京を離れる際には、両陛下がお別れのあいさつのため宿泊先を訪問されるのが慣例。宮内庁関係者は「今回も同様」というが、宿泊先が変われば警備の仕方は大きく変わる。
通常、来日した国賓の移動に供されるのは、トヨタの「センチュリーロイヤル」。両陛下が国会開会式や東日本大震災追悼式、全国戦没者追悼式ご臨席の際などに使用され、差し回しの際も宮内庁の運転技官がハンドルを握るが、オバマ氏が平成21年に来日した際も、事前に米国から輸送機で運ばれた特殊装備の大統領専用車が使われた。宮内庁関係者は「米国の場合は非常に警備が厳しいのだろう」と話している。
昭和49年11月19日、フォード、田中角栄
昭和54年6月25日、カーター、大平正芳
昭和58年11月10日、レーガン、中曽根康弘
平成4年1月9日、ブッシュ、宮沢喜一
平成8年4月17日、クリントン、橋本龍太郎
料理
コンソメスープ
マダイの洋酒蒸し(付け合わせにグリーンアスパラガス、舌平目の細切りパン粉揚げ)
羊のもも肉の蒸し焼き(付け合わせに温野菜、アピオスの空揚げ、クレソン)
サラダ
アイスクリーム(富士山型)
果物(メロン、イチゴ)
飲み物
白ワイン(コルトン・シャルルマーニュ1999)
赤ワイン(シャトー・マルゴー1994)
シャンパン(モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨン1998)
オバマ米大統領を迎えての天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が24日、皇居・豊明殿(ほうめいでん)で行われた。
宮中晩さん会で出される料理は、明治時代以来の慣例でフランス料理。宗教上の制約を受けないことから羊肉がメイン料理となることが多く、今回の晩さん会も羊のもも肉の蒸し焼きがフルコースのメインとなった。
また、メニューからは「旬の食材で国賓をもてなす」という宮内庁のこだわりも垣間見える。魚料理で使われているマダイは産卵を控えて脂が乗った今ごろがまさに旬だ。3月に来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席夫妻に出されたサワラも春が旬だった。
農産物については御料(ごりょう)牧場(栃木県)で育てたものができるだけ使用される。今回はコンソメスープのだしとなる鶏肉、メイン料理の羊などが同牧場で育てたものだという。
ワインは宮内庁が常時4000~5000本を保管しており、国賓にはその中で最高の1本をセレクトして提供する。10年ぐらい熟成させたワインを出すことが多く、晩さん会のたびに銘柄は異なるというが、日本酒の銘柄は常に「菊正宗」だという。
オバマ米大統領を歓迎する宮中晩さん会での天皇陛下のあいさつ全文は次の通り。
この度、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマ閣下が、国賓として我(わ)が国を御訪問になりましたことを心から歓迎いたします。ここに今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。
まず大統領閣下に、三年前に起こった東日本大震災に際し、米国政府及び多くの米国国民からお見舞いと支援を頂いたことに対する、私どもの深い感謝の気持ちをお伝えしたく思います。この地震と津波による災害では、死者、行方不明者が二万人以上となり、建物は壊され、美しい海や山に囲まれた町や田畑は、がれきに覆われました。二万人を超える貴国の軍人が参加した「トモダチ作戦」を始めとし、貴国の多くの人々が被災者のために行った支援活動は、物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました。
歴史を振り返りますと、貴国と我が国との交流は、我が国に来航したマシュー・ペリー提督と徳川幕府の交渉により、一八五四年日米和親条約が調印されたことに始まります。我が国はそれまで二百年以上にわたり鎖国政策を行ってきましたが、開国を決意し、欧米の国々より、当時日本にとり未知であった領域分野の学問や技術については、これを鋭意学び、国を発展させることに努めました。貴国の人々に負うところ、また大なるものがあります。
私が貴国を初めて訪れましたのは、一九五三年、エリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列した機会に、貴国を始めとする欧米諸国を訪れた時のことであります。一九六〇年、日米修好百年の年には、現在の皇太子を出産して間もない皇后と共に、初めて公式に貴国を訪問し、アイゼンハワー大統領御夫妻主催の晩餐(ばんさん)会にお招きいただき、また多くの米国国民と触れ合う機会に恵まれる中、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドの各地を約二週間をかけて訪問いたしました。私どもにとり今も忘れられないのは、ニューヨーク訪問の際、貴国政府及びニューヨーク市が大型船によるマンハッタン島巡りを計画し、船上に当時貴国で勉学にいそしむ大勢の日本人留学生を招いてくださったことです。当時学習意欲にあふれつつも、余裕のない戦後の生活の中でそれを十分に満たせなかった我が国の有為な若者に、更(さら)に学ぶ機会を与えてくれた貴国の奨学生制度は、実に有り難いものであったと思います。
その後も国賓としての訪問も含め、貴国を何度か訪れておりますが、その都度貴国民から温かく迎えられたことが心に残っています。貴国が多様な人々を包容し、民主主義の理想を求め、より良い社会を築こうと常に努力する姿には深い感銘を覚えます。貴国と我が国の両国民は、先の戦争による痛ましい断絶を乗り越え、緊密な協力関係を築きました。両国民が来し方を振り返り、互いの理解を一層深め、相携えて進んでいくことを願ってやみません。
両国の友好の象徴となっている桜とハナミズキの季節に行われる大統領閣下のこの度の御滞在が、実り多きなものとなりますよう願っております。
ここに杯を挙げて、大統領閣下及び御家族の御健勝と、アメリカ合衆国国民の幸せを祈ります。
2014年4月11日金曜日
ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった?
2014年3月1日にロシア軍が展開し始め、世界の注目を集めたウクライナのクリミア半島。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。なかでもクリミア戦争はその代表で、今回のウクライナ危機をめぐっても、たびたび言及されています。クリミア戦争とは、果たしてどんな戦争だったのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA
クリミア戦争が発生した背景
クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。
(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。
ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に
これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。
これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、
・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。
それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。
1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。
クリミア戦争が残したもの
クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。
後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。
クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。
しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。
(国際政治学者・六辻彰二)
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA
クリミア戦争が発生した背景
クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。
(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。
ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に
これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。
これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、
・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。
それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。
1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。
クリミア戦争が残したもの
クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。
後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。
クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。
しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。
(国際政治学者・六辻彰二)
2014年4月6日日曜日
windows7 setting
Windows7 enterprise
Installed at April 6th
use KMS activator
open administrator mode
1.paste in cmd
slmgr.vbs /skms 127.0.0.1:1688
2.launch KMS activator and push activation windows VL
3.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -skms 127.0.0.1
4.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -ato
5.for check, paste in cmd
slmgr /dlv
computer name is ... kanzo7-PC
log on name is ... kanzo7
log on passwords are ... kan
homenetwork passwords are ... kanzo1818
windows7 installed items are...
Installed at April 6th
use KMS activator
open administrator mode
1.paste in cmd
slmgr.vbs /skms 127.0.0.1:1688
2.launch KMS activator and push activation windows VL
3.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -skms 127.0.0.1
4.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -ato
5.for check, paste in cmd
slmgr /dlv
computer name is ... kanzo7-PC
log on name is ... kanzo7
log on passwords are ... kan
homenetwork passwords are ... kanzo1818
パスワードなしでログオンする方法
すべてのプログラム→アクセサリ→ファイル名を指定して実行→control userpasswords2→パスワード入力必要のチェックを外す。
すべてのプログラム→アクセサリ→ファイル名を指定して実行→control userpasswords2→パスワード入力必要のチェックを外す。
windows7 installed items are...
- winrar3.92
- pdf factory
- adobe CS6
- sibelius v7.5
- office 2007
- VLC media player
- Leeye + plugins
2014年4月1日火曜日
為になる作文
第10回 アザラシのランプ(その1)
ハンティング・キャンプに出ていたある日のこと、その日の食事はアザラシだった。イヌーキーがテント前の浜で若アザラシを一頭しとめ、それをチャーリー父さんが解体した。生肉で少し食べたあと、さらにスープで煮て食べた。
アザラシがしとめられると、すぐに食料にしたいときにはその場で、たくさんとれたときなどはキャンプや村に戻ってから解体される。解体は、まず脂肪の層がついた皮をはぎ、つづいて内臓を取りのぞき、骨付きのまま肉をいくつかの部分に切り分ける、という手順ですすめられる。この解体作業の途中から、肉や肝臓や脳などの内臓はつまみ食いのように食べられる。チャーリー父さんのお気に入りは腎臓らしく、解体のときにはたいていいつでもその部分をサッと切り取っては口に運ぶ。食べきれなかった肉と、脂肪の層がとりのぞかれた毛皮は村へと持ち帰られる。
そういうわけで、その日アザラシ肉の食事が終わるころには、脳を食べおえた頭の部分、胃腸などの内臓、それと皮から切り取られた脂肪の層が残されていた。ソリ犬のために持ち帰られることもあるが、現在これらはその場に置いていかれ、海鳥などのエサになることが多い。
しかし極海に泳ぐアザラシのぶ厚い脂肪は、かつては人のくらしに利用されていた。それどころかこのアザラシの脂肪こそが、過酷な北極という環境において人のくらしを支える大切な役割をになっていた。木のないツンドラと氷の世界にあって、それはほぼ唯一の燃料として、ランプの燃料として使われていたのだ。
ある日、村のビジターセンターの展示室の片隅にランプとしてつかわれていたという石皿が置かれていた。黒い頁岩のような、お盆大の平たい石をけずってつくった石皿だった。見てみたいと思っていた念願の実物だったが、それはすでにその役目を終えた展示物であり、かつてそこから立ち上がっていたであろう炎を想像することはなかなかむずかしかった。
アザラシランプの炎がぼんやりとイメージできるようになったのは、一冊の絵本に出会ってからだった。絵本のタイトルは「氷の海とアザラシのランプ カールーク号北極探検記」。
時代は20世紀はじめ、アラスカ・シベリアの北極海沿岸に起きた実際のできごとがもとになっている。1913年、アリューシャン地方のことばで魚を意味するカールークと名づけられた船が、カナダの探検隊をのせ北極地方にやってくる。ところがこの船、その年の冬には氷に閉じこめられ、ついには沈没してしまう。隊員たちは船を失うが、はげまし、助け合って、氷の上の過酷な生活を生き抜き、翌年の秋になって無事生還をはたす……。ただし、これは物語の半分にすぎない。
この物語のもう半分は、この探険船に同船していた、この地方の先住民族イヌピアク族の一家族の物語だ。遭難した隊員たちの命を支えたのは、クーラルック父さんが毎日とってくるアザラシの肉であり、キールーク母さんがその手から毎日つくりだす毛皮服や手袋やブーツであり、つまりは過酷な北極で生きるすべを知る彼らの存在だったのだ。
この物語の主人公は誰か、という問いには、それはバートレット船長をはじめとする探検隊だともいえるし、イヌピアク族の家族だともいえるだろう。しかし別の見方をするならば、それはアザラシのランプだ、といっていいようにも思う。
クーラルック父さんとキールーク母さんの八才の娘、パグナスークは、船にのる前、おばあさんからアザラシ油のランプを手渡される。おじいさんが石を刻みつくったそのランプを、おばあさんはそれまでずっと肌身離さずにもちあるいてきた、そういうランプだ。おばあさんはパグナスークにランプをわたすときにこういう。
「船にのって、おまえは長い旅に出る。ランプと歌のあるところ、そこがおまえの家なんだ」
ランプは、船の小さな部屋で、氷の上の旅で、いつも家族を照らしあたためつづける。そして家族が無事に村へと戻ってきたときから、またおばあさんのすむ家で火をともすことになるのだ。ずっと前からそうだったように。
この絵本を開き、ところどころにおさめられた独特なタッチの絵をながめ、おばあさんの言葉を心にひびかせると、僕の胸のずっと奥の方、つまりはどこかで涙腺とつながっているような部分がモゾモゾする。かつてのイヌイットたちの世界であるにもかかわらず、なぜかとても懐かしい空気の中に入っていくようなのだ。その空気をかもしだす光景の片隅にはいつもアザラシランプの炎がゆらめいていた。
その炎は、いったいどんな明るさや暖かさを持っていたのだろう。
アザラシ解体のあとに残された白い脂肪の塊を見ていて、ふとそれをためしてみたくなった。それ、とは、アザラシの脂肪を燃やしてみることだった。
脂肪の小さなカケラを切り取り、真ん中のへこんだ平らな石を見つけてきて、その上においた。芯はかつてツンドラのある種のコケを乾燥し使ったのだというが、とりあえずティッシュペーパーをよってつくった即席のコヨリを使うことにした。はたしてアザラシランプの炎はあらわれるだろうか。
そっと火をつけてみる……つかない。芯は燃えるのだが、脂肪の塊まで行くと消えてしまう。何度かためすがつけることができない。単純なことを忘れていたことに気づく。液体は燃えるけど固体のままでは燃えないのだった。ロウソクだって芯のまわりは融けて液体になっている。そこで脂肪の小さな塊をつぶしてしぼり出し、液体の油だけを石のへこみにためることにする。再びティッシュの芯をつくってその油に浸した。
再び火をつける。……燃えた。しっかりとしたオレンジがかった炎がともった。風にゆらめくが、その炎は想像以上に明るい。そして手をかざせば暖かささえ感じる。数センチ大の脂肪からしぼった油にすぎなかったが、それでも炎が10分間ほども燃えつづけたのには驚いた。石皿には何本かの芯を並べ、それによって火力を調節したといわれる。けっしてパワフルなものではないが、それでもせまい家の中でなら、灯りとしても暖房としてもかなりの力を発揮するだろうな、ということは想像できた。
最初は僕のこの即席の実験を「何やってんだ?」という顔で見守っていたイヌーキーも、その炎を珍しがってながめている。きっと僕と同じように今日初めてアザラシ油の炎を見たのだろう。アザラシの脂肪ってホントに燃えるんだ、とでもいいたそうな顔だ。
石の皿、アザラシの脂肪からしぼられた油、ツンドラのコケの芯……。まるで人が利用できる何ものもないかのような北極圏の自然の中から、この三つを見つけ、選び、組み合わせることによって、灯りと熱を生み出したイヌイットの先祖たち。テント前の浜でつくった即席アザラシランプの、それでもしっかりとしたオレンジ色の炎を見つめていると、そんなはるか遠い人たちのことを想像せずにいられなかった。
ハンティング・キャンプに出ていたある日のこと、その日の食事はアザラシだった。イヌーキーがテント前の浜で若アザラシを一頭しとめ、それをチャーリー父さんが解体した。生肉で少し食べたあと、さらにスープで煮て食べた。
アザラシがしとめられると、すぐに食料にしたいときにはその場で、たくさんとれたときなどはキャンプや村に戻ってから解体される。解体は、まず脂肪の層がついた皮をはぎ、つづいて内臓を取りのぞき、骨付きのまま肉をいくつかの部分に切り分ける、という手順ですすめられる。この解体作業の途中から、肉や肝臓や脳などの内臓はつまみ食いのように食べられる。チャーリー父さんのお気に入りは腎臓らしく、解体のときにはたいていいつでもその部分をサッと切り取っては口に運ぶ。食べきれなかった肉と、脂肪の層がとりのぞかれた毛皮は村へと持ち帰られる。
そういうわけで、その日アザラシ肉の食事が終わるころには、脳を食べおえた頭の部分、胃腸などの内臓、それと皮から切り取られた脂肪の層が残されていた。ソリ犬のために持ち帰られることもあるが、現在これらはその場に置いていかれ、海鳥などのエサになることが多い。
しかし極海に泳ぐアザラシのぶ厚い脂肪は、かつては人のくらしに利用されていた。それどころかこのアザラシの脂肪こそが、過酷な北極という環境において人のくらしを支える大切な役割をになっていた。木のないツンドラと氷の世界にあって、それはほぼ唯一の燃料として、ランプの燃料として使われていたのだ。
ある日、村のビジターセンターの展示室の片隅にランプとしてつかわれていたという石皿が置かれていた。黒い頁岩のような、お盆大の平たい石をけずってつくった石皿だった。見てみたいと思っていた念願の実物だったが、それはすでにその役目を終えた展示物であり、かつてそこから立ち上がっていたであろう炎を想像することはなかなかむずかしかった。
アザラシランプの炎がぼんやりとイメージできるようになったのは、一冊の絵本に出会ってからだった。絵本のタイトルは「氷の海とアザラシのランプ カールーク号北極探検記」。
時代は20世紀はじめ、アラスカ・シベリアの北極海沿岸に起きた実際のできごとがもとになっている。1913年、アリューシャン地方のことばで魚を意味するカールークと名づけられた船が、カナダの探検隊をのせ北極地方にやってくる。ところがこの船、その年の冬には氷に閉じこめられ、ついには沈没してしまう。隊員たちは船を失うが、はげまし、助け合って、氷の上の過酷な生活を生き抜き、翌年の秋になって無事生還をはたす……。ただし、これは物語の半分にすぎない。
この物語のもう半分は、この探険船に同船していた、この地方の先住民族イヌピアク族の一家族の物語だ。遭難した隊員たちの命を支えたのは、クーラルック父さんが毎日とってくるアザラシの肉であり、キールーク母さんがその手から毎日つくりだす毛皮服や手袋やブーツであり、つまりは過酷な北極で生きるすべを知る彼らの存在だったのだ。
この物語の主人公は誰か、という問いには、それはバートレット船長をはじめとする探検隊だともいえるし、イヌピアク族の家族だともいえるだろう。しかし別の見方をするならば、それはアザラシのランプだ、といっていいようにも思う。
クーラルック父さんとキールーク母さんの八才の娘、パグナスークは、船にのる前、おばあさんからアザラシ油のランプを手渡される。おじいさんが石を刻みつくったそのランプを、おばあさんはそれまでずっと肌身離さずにもちあるいてきた、そういうランプだ。おばあさんはパグナスークにランプをわたすときにこういう。
「船にのって、おまえは長い旅に出る。ランプと歌のあるところ、そこがおまえの家なんだ」
ランプは、船の小さな部屋で、氷の上の旅で、いつも家族を照らしあたためつづける。そして家族が無事に村へと戻ってきたときから、またおばあさんのすむ家で火をともすことになるのだ。ずっと前からそうだったように。
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2014年3月25日火曜日
Jazz おすすめページ
http://jazzpiano-hikouyo.com/study/a-title.html
枯葉
マイルスデイビス、ウェインショーター、ハービーハンコック、ロンカーター
https://www.youtube.com/watch?v=zjYM76FPS3w
ハービーハンコック
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コルトレーン、マッコイタイナー
https://www.youtube.com/watch?v=YKANToc0SeM&list=RDYKANToc0SeM
in Cm (Bb)
Dorian 2(C) / Mixolydian 4(F) / Ionian 1(Bb) / Lydian 3(Eb)
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元祖
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チックコリア & 上原ひろみ
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ウェインショーター、ハンコック、スタンリークラーク、オマーハキム
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2014年3月22日土曜日
2014年3月17日月曜日
ウクライナ危機の原点―プーチン氏は武力でソ連崩壊の歴史書き換え
今月12日、ロシアのプーチン大統領はクリミアのイスラム系少数民族タタールの指導者、ムスタファ・ジェミレフ氏との電話会談で恐ろしい可能性に言及した。ウクライナの報道によると、プーチン氏は1991年のウクライナのソ連離脱の合法性を疑問視したという。
当時も世界はロシアとウクライナの戦争や対立の長期化を恐れていた。ロシアの大統領がウクライナからクリミア地方の奪取に成功すれば、ロシアはウクライナの他の地域まで手に入れようとするかもしれない。さらには、多数のロシア系住民やロシア語を話す少数派の住民を抱えるモルドバやバルト諸国の一部まで食指を伸ばす可能性がある。
現在の危機の原点はソ連末期にある。プーチン大統領はソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」だと言って嘆き悲しんだ。ロシア政府は長い間、ウクライナ――今や2番目に大きいスラブ系国家で、かつてはソ連の広大な土地を占め、隣国として常にロシアを不安にさせる存在である――に物欲しそうな目を向けていた。現在のウクライナ危機とロシアのクリミア占領は旧ソ連地域を経済、政治、軍事を網羅するユーラシア連合に再統合しようとするロシア政府の計画に直結している。
ソ連はかつて、ロシアと呼ばれることも多かったが、実際は複数の国家の集合体だった。これらの国家は不承不承、15の共和国としてひとまとめにされ、ソ連時代のほとんどの期間を通じて、モスクワの圧制の下に置かれた。ロシア人の人口は当時、約1億5000万人で、ソ連の人口の51%を占めるにすぎなかった。ウクライナ人の人口は5000万人で2番目に多く、ソ連全体の20%近くを占めていた。
1991年12月1日、ウクライナが投票で独立を決めると、ソ連の運命が決まった。ウクライナ市民の90%以上が独立を支持した。現在と同様にロシア系住民が多数派を占めていたクリミアでも、54%が独立に賛成票を投じた。ソ連の海軍基地があったセバストポリでは57%が独立に賛成した。要するに、ウクライナのロシア人の多くがウクライナの独立に賛成したということだ。
ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ氏は緩やかな連合体の枠組みを策定していたが、ロシア共和国のボリス・エリツィン氏とウクライナのレオニード・クラフチュク氏は参加を拒否した。1991年12月8日、ベラルーシの森の狩猟小屋でエリツィン氏とクラフチュク氏はソ連を解体し、旧ソ連共和国を結びつける独立国家共同体(CIS)を創設した。ゴルバチョフ氏もエリツィン氏もウクライナ抜きの連合体の成功は想像できなかった。ロシア指導部はCISのコストを負担することに違和感があったものの、ウクライナが参加するならと納得した。エリツィン氏がジョージ・H・W・ブッシュ大統領に繰り返し伝えたとおり、CIS内部にウクライナのスラブ系住民が参加しなければ、ロシアは中央アジアの共和国に数でも投票でも負けてしまうだろう。
その結果起きたのは連鎖反応だった。ウクライナはゴルバチョフ氏が構想した連合体への参加は望まず、ロシアはウクライナ抜きの連合体を想像できなかった。それでもCISに参加したいと考えていた共和国はロシアのいない連合体を思い描くことはできなかった。
エリツィン氏の補佐官たちはロシアを箱舟――ソ連が崩壊して生まれたばかりの民主主義や、1991年8月のクーデター未遂でゴルバチョフ氏を失脚させようとした不器用な策士たちに抵抗して勝ち取った権力を救うための乗り物――のように考えていた。こうした姿勢は経済的にも十分に納得がいくものだった。ロシア革命時、レーニンは新たなソビエト国家がウクライナの石炭なしでは繁栄できないと主張した。しかし、1991年になると、ソ連最大の富、特に莫大な鉱物資源は共和国にではなく、ロシアの地にあった。
ソ連は他の帝国とは異なっていた。ソ連という帝国の中心にあり、豊かな資源を持つロシアは共和国を資源から切り離すことができた。つまり、ロシアは過去のどの帝国と比較しても、植民地の喪失によって多くを手にすることになっていた。エリツィン氏と彼の補佐官たちはそれをよくわかっていた。
ソ連解体を遅らせたいと思っていたゴルバチョフ氏はウクライナの独立心を鈍らせようと、クリミアのロシア系住民の支持を利用したいと考えていた。エリツィン氏の名誉のために言うと、エリツィン氏はそれを拒んだ。エリツィン氏は冷酷なセルビアの指導者スロボダン・ミロシェビッチ氏のように、ロシア連邦から取り残された少数派のロシア系住民が住む飛び地を武力で併合することもなかった。
しかし、エリツィン氏はソ連がロシアの役に立つ別の形で復活できるとの期待を捨ててはいなかった。エリツィン氏の補佐官はロシアが経済的、軍事的に回復すれば、ロシアの元に再び戻ってくると考えていた。1991年9月、エリツィン氏の腹心のゲンナジー・ブルブリス氏はゴルバチョフ氏の主要補佐官にこう言った。「われわれは自らを他と切り離してロシアを救い、独立性を強化しなければならない。その後、ロシアが立ち直ったときに、みんながロシアの元に集まるだろう。(連合の)問題は再び解決できる」。
エリツィン氏の補佐官は旧ソ連の共和国がロシアの元に自主的に戻ってくることを期待していた。エリツィン氏は独立を主張するチェチェン共和国などロシア連邦内で戦う用意はあったが、ロシア国境を超えるつもりはなかった。エリツィン氏のおかげで旧ソ連は核を持つユーゴスラビアにならずに済んだ。
エリツィン氏は旧ソ連地域を平和的に再統合しようとしていたが、その方針は後任のプーチン氏によって破棄された。プーチン氏は2008年にグルジアに、14年にはウクライナに侵攻した。プーチン氏のロシアはエリツィン氏のロシアとは異なり、新たに手に入れた経済力と以前からの軍事力の両方を利用してソ連崩壊の歴史を書き換えようとしている。
西側はロシアがこれまでの外交政策からこのように大きく逸脱することに対して、つまり、プーチン氏が武力で新帝国主義的な目標を達成しようとしていることに対してどのように反応すべきだろうか。1991年当時、西側は冷戦時代のライバルの崩壊がおおむね平和的に進むように支援し、大成功を収めた。ブッシュ大統領は欧州の同盟国と合意を形成し、西側は旧ソ連の共和国に外交上の承認と経済協力を与えることができた。同時に、ソ連崩壊後の新たな国境を不可侵とすることを求めた。
今のロシアは当時とは違う。米国や拡大した欧州連合もそうだ。だが、1991年に軍事衝突を阻止した方法がまた成功するかもしれない。武力による政治的主権の侵害に反対して米国とその西側の同盟国が共同戦線を形成することはロシアよるクリミア併合とソ連崩壊後の国境の修正を阻止する上で欠かせない。世界は今、ソ連帝国の夢への後戻りを許すことはできない。
(プロキー博士は歴史学教授でハーバード大学ウクライナ研究所所長。新著「The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union(最後の帝国:ソ連の最後の日々)」は5月にベーシック・ブックスから刊行される)
当時も世界はロシアとウクライナの戦争や対立の長期化を恐れていた。ロシアの大統領がウクライナからクリミア地方の奪取に成功すれば、ロシアはウクライナの他の地域まで手に入れようとするかもしれない。さらには、多数のロシア系住民やロシア語を話す少数派の住民を抱えるモルドバやバルト諸国の一部まで食指を伸ばす可能性がある。
現在の危機の原点はソ連末期にある。プーチン大統領はソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」だと言って嘆き悲しんだ。ロシア政府は長い間、ウクライナ――今や2番目に大きいスラブ系国家で、かつてはソ連の広大な土地を占め、隣国として常にロシアを不安にさせる存在である――に物欲しそうな目を向けていた。現在のウクライナ危機とロシアのクリミア占領は旧ソ連地域を経済、政治、軍事を網羅するユーラシア連合に再統合しようとするロシア政府の計画に直結している。
ソ連はかつて、ロシアと呼ばれることも多かったが、実際は複数の国家の集合体だった。これらの国家は不承不承、15の共和国としてひとまとめにされ、ソ連時代のほとんどの期間を通じて、モスクワの圧制の下に置かれた。ロシア人の人口は当時、約1億5000万人で、ソ連の人口の51%を占めるにすぎなかった。ウクライナ人の人口は5000万人で2番目に多く、ソ連全体の20%近くを占めていた。
1991年12月1日、ウクライナが投票で独立を決めると、ソ連の運命が決まった。ウクライナ市民の90%以上が独立を支持した。現在と同様にロシア系住民が多数派を占めていたクリミアでも、54%が独立に賛成票を投じた。ソ連の海軍基地があったセバストポリでは57%が独立に賛成した。要するに、ウクライナのロシア人の多くがウクライナの独立に賛成したということだ。
ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ氏は緩やかな連合体の枠組みを策定していたが、ロシア共和国のボリス・エリツィン氏とウクライナのレオニード・クラフチュク氏は参加を拒否した。1991年12月8日、ベラルーシの森の狩猟小屋でエリツィン氏とクラフチュク氏はソ連を解体し、旧ソ連共和国を結びつける独立国家共同体(CIS)を創設した。ゴルバチョフ氏もエリツィン氏もウクライナ抜きの連合体の成功は想像できなかった。ロシア指導部はCISのコストを負担することに違和感があったものの、ウクライナが参加するならと納得した。エリツィン氏がジョージ・H・W・ブッシュ大統領に繰り返し伝えたとおり、CIS内部にウクライナのスラブ系住民が参加しなければ、ロシアは中央アジアの共和国に数でも投票でも負けてしまうだろう。
その結果起きたのは連鎖反応だった。ウクライナはゴルバチョフ氏が構想した連合体への参加は望まず、ロシアはウクライナ抜きの連合体を想像できなかった。それでもCISに参加したいと考えていた共和国はロシアのいない連合体を思い描くことはできなかった。
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(プロキー博士は歴史学教授でハーバード大学ウクライナ研究所所長。新著「The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union(最後の帝国:ソ連の最後の日々)」は5月にベーシック・ブックスから刊行される)
質問なるほドリ:クリミア、どんな所?=回答・真野森作
毎日新聞 2014年03月03日 東京朝刊
◇多民族が行き交う要衝 ソ連時代に入植、ロシア系6割
なるほドリ ロシア軍が乗り込んだクリミア半島ってどんなところ?
記者 黒海(こっかい)の北側に突き出た半島で、全域がウクライナ領です。半島の大部分はクリミア自治共和国と呼ばれる行政区域で、南西側にはセバストポリという別の特別市があります。クリミア自治共和国は独自の内閣を持つなど、特別の権限が与えられています。セバストポリにはロシアが黒海艦隊基地を構えています。ウクライナが旧ソ連から独立した後、ロシアが租借(そしゃく)契約を結んだためです。南東側の保養地ヤルタは第二次大戦末期の1945年2月に米英ソ3国首脳が戦後体制を協議した場所として知られています。
Q 半島にはどんな歴史があるの?
A 古代にギリシャ人が入植し、ローマ帝国、ゲルマン民族、モンゴル系やオスマン・トルコの支配を受けました。18世紀後半からロシアが統治してきましたが、54年にソ連の指導者、フルシチョフがウクライナ共和国へ帰属(きぞく)を移しました。
Q なぜ頻繁(ひんぱん)に支配者が代わったの?
A 欧州とアジアをつなぐ黒海に面し古くから多様な民族が行き交う要衝(ようしょう)だったからです。ロシアは冬でも凍らない港を求めて南へ領土を拡大する志向が強く、セバストポリという良港を持つクリミアで他国と勢力を争って来ました。
Q どんな人たちが住んでいるの?
A かつてはトルコ系のクリミア・タタール人が多数派でしたが、ソ連時代に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、今ではロシア系が人口の6割を占めます。このため親露(しんろ)感情が根強く、今回の危機の原因の一つとなっているのです。(モスクワ支局)
◇多民族が行き交う要衝 ソ連時代に入植、ロシア系6割
なるほドリ ロシア軍が乗り込んだクリミア半島ってどんなところ?
記者 黒海(こっかい)の北側に突き出た半島で、全域がウクライナ領です。半島の大部分はクリミア自治共和国と呼ばれる行政区域で、南西側にはセバストポリという別の特別市があります。クリミア自治共和国は独自の内閣を持つなど、特別の権限が与えられています。セバストポリにはロシアが黒海艦隊基地を構えています。ウクライナが旧ソ連から独立した後、ロシアが租借(そしゃく)契約を結んだためです。南東側の保養地ヤルタは第二次大戦末期の1945年2月に米英ソ3国首脳が戦後体制を協議した場所として知られています。
Q 半島にはどんな歴史があるの?
A 古代にギリシャ人が入植し、ローマ帝国、ゲルマン民族、モンゴル系やオスマン・トルコの支配を受けました。18世紀後半からロシアが統治してきましたが、54年にソ連の指導者、フルシチョフがウクライナ共和国へ帰属(きぞく)を移しました。
Q なぜ頻繁(ひんぱん)に支配者が代わったの?
A 欧州とアジアをつなぐ黒海に面し古くから多様な民族が行き交う要衝(ようしょう)だったからです。ロシアは冬でも凍らない港を求めて南へ領土を拡大する志向が強く、セバストポリという良港を持つクリミアで他国と勢力を争って来ました。
Q どんな人たちが住んでいるの?
A かつてはトルコ系のクリミア・タタール人が多数派でしたが、ソ連時代に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、今ではロシア系が人口の6割を占めます。このため親露(しんろ)感情が根強く、今回の危機の原因の一つとなっているのです。(モスクワ支局)
高校受験ウィークポイントその1
地図縮尺、理解できていません
- https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=BQYTU966NuzM8gelqoGQAQ#q=%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%20%E7%B8%AE%E5%B0%BA
- 現地の長さ=図上の長さ×縮尺の分母 です。
- 図上の長さ=現地の長さ÷縮尺の分母 です。
- 地図記号、怪しいです。
12/11/2014 追記 やっぱし図形が危ないデス
三角関数
http://otsuiti2.web.fc2.com/menu/sn/sankaku.htm
http://manapedia.jp//list/index?subject_subcategory_id=190
http://www.geisya.or.jp/~mwm48961/koukou/sct000.htm
http://blog.livedoor.jp/aritouch/archives/3723068.html
http://blog.livedoor.jp/aritouch/archives/3723068.html
http://www24.atpages.jp/venvenkazuya/mathA/Agraphic4.php
12/14/2014追記
somethingとanythingの使い方
主に肯定文のときはsomethingを、疑問文、否定文のときはanythingを使う
例外としては相手に依頼する、誘うと言った場合のみ疑問文でsomethingを使います。
Would you ~/Will you ~/Could you ~などの疑問詞
(例外)
Will you have anything to eat?
だと純粋な疑問文で相手に yes か no の返事を期待することになります。 これ
が使われる状況は病人に食欲があるかどうか尋ねるような場合でしょう。
Will you have something to eat?
は「何か食べ物はいかがですか」という意味で,相手に yes か no の返事を期待し
ていません。 ふつう物を進めたり頼んだりする場合, yes しか返事を期待しない
はずです。
だから anything は使いません。
12/14/2014追記
somethingとanythingの使い方
主に肯定文のときはsomethingを、疑問文、否定文のときはanythingを使う
例外としては相手に依頼する、誘うと言った場合のみ疑問文でsomethingを使います。
Would you ~/Will you ~/Could you ~などの疑問詞
(例外)
Will you have anything to eat?
だと純粋な疑問文で相手に yes か no の返事を期待することになります。 これ
が使われる状況は病人に食欲があるかどうか尋ねるような場合でしょう。
Will you have something to eat?
は「何か食べ物はいかがですか」という意味で,相手に yes か no の返事を期待し
ていません。 ふつう物を進めたり頼んだりする場合, yes しか返事を期待しない
はずです。
だから anything は使いません。
お金の正体 池上彰×岩井克人
2011年、欧州ではユーロ危機が起き、米国ではウォール街で経済格差の是正を訴えるデモが起きました。
どちらも騒動の主役は「お金」です。2002年に誕生したヨーロッパの統合通貨ユーロ。そのユーロがつくりあげた経済圏が、参加国の財政破たんなどを機に崩壊の危機に瀕しています。一方、市場経済の極みともいうべきアメリカの金融市場は、ユーロ危機より前の2008年に起きたいわゆるリーマンショックでその土台がぐらつきました。さらに2011年には、相変わらず高給を食む金融関係者や企業経営者に対し、はっきりと反旗を翻す動きがウォール街をはじめアメリカの各所で起きています。
この危機と騒動の本質は何か? 私たちが「正しい経済」を手に入れるにはどうすればいいのか? そのためにはどうやら「お金の正体」を改めて知る必要がありそうです。そこで今回は、『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるか』などの著作で、「お金と資本主義と会社の関係」を考え抜いてきた岩井克人東大名誉教授にご登場いただきます。「お金の正体」、迫ってみましょう。
ユーロ危機はなぜ起きたか?――知性の失敗
池上:昨年2011年は、経済の側面で見ると岩井先生のご専門である『お金』そのもの価値が揺らいだ年でした。そのひとつの象徴がユーロ危機です。「ユーロ」が参加国の従来の通貨を統合して法定通貨となったのは2002年1月ですから、今から10年前ですね。誕生から10年という節目に、ユーロという枠組み自体が破綻の危機にあります。複数の国に共通の通貨を使わせるという仕組みはなぜうまくいかないのでしょうか?
岩井:たしかに統一通貨ユーロの試みは、今のところうまくいっていません。でも、複数の国の通貨を共通化する政策がうまくいったケースもあるのです。例えば、明治維新の日本がそれです。江戸時代には、江戸は金、大阪は銀と、事実上一国に2種類の貨幣単位が存在していました。
江戸の日本はかつての欧州 統一通貨「円」はなぜ成功した?
池上:そのうえ、江戸時代には、藩札もありましたね。今でいう地域通貨です。明治維新前の日本はユーロ統一前のヨーロッパのような通貨体制だったわけですね。藩札はどんな役割を担っていたのでしょうか?
池上:国をあげて輸出を増やし、安い輸入品が入ってこないようにする現在の政策と変わらなかったんですね。藩ごとの藩札、共通通貨の江戸の金、大阪の銀が混在していたのが江戸時代までの日本の通貨事情だった。
岩井:だから、こうした複数の通貨の両替を生業とする人たちもいました。いわゆる両替商、為替商です。それが明治維新を経て、「円」という通貨に全国統一されました。いろいろな失敗もありましたが、ひとまず通貨を統一して、そしてその統一がある程度うまくいったがゆえに、日本は近代国家として、経済的そして産業的に発達できましたわけです。
池上:なぜ明治維新の日本では、通貨統一がうまくいったのでしょうか?
「労働力の移動」が統一通貨が成立する絶対条件
岩井:それは、通貨の統一と同時に「労働力の移動」が頻繁に起きたからです。ご存知の通り、江戸時代まで、人々は自分の住んでいる藩に縛りつけられていました。明治政府は、通貨統一と相前後して、人々の移動の自由を認めるようになったのです。日本人はどこに住んでもどこで働いてもよくなりました。
経済学用語に「最適通貨圏」という考え方があります。ある地域で共通通貨を維持するためには、その地域内では、資本や労働力が自由に動くことが前提となるんです。
明治期の日本では、通貨の統一と同時に、人々と資本とが移動し、経済活動が活発なところに労働力と資本とが投下されるようになりました。それが成功の大きな要因といっていいでしょう。最適通貨圏の模範でした。
池上:岩井さんのご先祖さまの例で言えば、江戸時代だったら松江藩の経済状況が悪化して失業しても国を出ることが叶わなかったのが、明治維新以降は、いざとなったら出雲地方を出てほかの土地で働くことが可能になった。それが日本全国で起きた。だから共通通貨「円」への移行が成功した、というわけですね。
岩井:その通りです。実際、私の両親は戦前に島根を出て東京へやってきました。同じような人たちは周りにたくさんいました。島根から東京へ。地方から都会へ。
こうした労働力のダイナミックな移動が、経済の地域間調整を行ってきたのです。資本が動き、人々がそれに合わせるように動く。資本が投下された場所に労働力は集約され、経済が活性化する。その繰り返しで、江戸時代には経済的には必ずしも統一していなかった日本は、ひとつの通貨で経済活動を行う国に変身し、先進国になりました。
もちろんその成長と引き換えに、たとえば島根県は過疎化し、東京や大阪には過剰といわれるほど人口が集中しました。それがいいか悪いかはまた別問題としてあります。が、経済の側面から眺めると必然的な流れだったといえます。
ケンタッキーフライドチキン・スクールに象徴されるアメリカの成長
池上:アメリカはどうだったんでしょう? ドルの誕生と国の成長も、明治維新以降の日本と同じような経緯をたどっているのでしょうか?
岩井:はい。アメリカは日本よりもはるかに国土が広いですが、もともとが「移動の自由」を掲げてできた国のようなものですよね。西部劇の世界さながらに、人々は馬車に乗って移動し、新しい街を瞬く間に作り上げ、栄える街は人口が増大し、寂れる街はゴーストタウンになる、というのを繰り返しました。
馬車から自動車の時代になっても、この構造は基本的には踏襲され、その証左として、現在でも基幹道路の要所要所の街には、ケンタッキーフライドチキン・スクールといわれる学校があります。
池上:ケンタッキーフライドチキン・スクール?
岩井:ケンタッキーフライドチキンのようなフランチャイズチェーンのように、教える内容を規格化し、どこから来た誰でも面倒な手続きなしで転入でき、すぐに転出もできる学校です。それだけ人々の移動が激しい。
池上彰氏
池上:明治維新以降の日本とアメリカの国内成長の過程を眺めると、共通通貨が成功するか否かは、お金の統一と同時に「人=労働力の移動」がカギというわけですね。
さて、そこでヨーロッパでユーロがうまくいっていない原因に話を戻しましょう。岩井さん、日本とアメリカの例を踏まえて、もう一度「ユーロがうまくいかない」わけを教えてください
岩井:ユーロの失敗。それは、ヨーロッパ経済を通貨で統合しようと考えたヨーロッパのインテリ層の理想と、通貨は統合されても国どころか地元からさえ離れないヨーロッパの普通の人々との現実との差が生んだ、まさに「知性の失敗」が大きな原因でしょう。
池上:知性の失敗? 詳しく教えてください。
岩井:そもそも、ユーロを推進したのは、ヨーロッパのインテリ層、指導者層です。彼らにとってみれば、ヨーロッパ域内はもちろん、世界中を自由に移動するのが当たり前です。イタリアで生まれ育ち、イギリスのケンブリッジで博士号を取り、ベルギーの大学で教え、ドイツ人と結婚して、研究のため2、3年アメリカへ渡るというような人が、珍しくありません。そんなヨーロッパのインテリ層がそもそもユーロを構想したのです。
失業しても移動しないヨーロッパの「普通の人々」
池上:ヨーロッパのインテリ層は、域内を自在に移動し、仕事も得ているわけですね。つまり、仕事の需要に合わせて自分が動く。
岩井:逆に言うと、ヨーロッパ域内を自在に移動し、雇用の場所を見つけられる、あるいは、そもそもそうやって「場所に縛られずに移動してもいい」と考えるのはインテリ層やエリート層に限られる、ともいえます。「万国の労働者よ,団結せよ」といったマルクスには申し訳ないですが、異なった国の労働者ほど団結しにくい存在はありません。
池上:ということは、そうでない大半のヨーロッパの人たちは違う、と。
岩井:ええ。ユーロ危機の中心のひとつであるイタリアの例を紹介いたしましょう。私はかつてイタリアのシエナという美しい街に半年間暮らし、そこで目の当たりにしましたが、イタリア人の大半はイタリアの外へ出ようとはしません。それどころか、地元からイタリア国内の他の地域にすら出ようとしない人のほうが多いのです。地元地域への帰属意識が強く、またそれぞれの地域文化に誇りを持っています。
一番の楽しみが何百年続いたパリオという地区対抗の競馬です。たとえ勉強や仕事のために平日は地元を離れても、週末には洗濯物を抱えて実家に帰る。シエナの若者の9割は地元へ帰ってくるという統計があったはずです。おそらくイタリアのどの地域も同じようなものでしょう。
池上:地元を離れない上に、イタリアをはじめ、南欧の人々は基本的に楽天的ですね。先日、ローマに取材に行って驚いたのですが、ユーロ危機のど真ん中にいる、という意識をイタリアの一般市民がほとんど持っていない。失業率も上がって苦しいはずなのに、緊迫感がない。現地で退職した学校の先生に話を聞くと、現職時代の給料は安かったけれど、年金は退職時の給与と同額が保証されているから心配ないよ、と余裕でした。
岩井:ユーロ危機のもうひとつの当事国ギリシアも同じような状況です。
池上:国が保障しているから、子供が成人して大学を卒業して働き場所がなく実家にいついていても、とりあえずの生活には不自由しないのです。もちろん、その人は、結構な年齢になった子どもに職がないことは嘆いていました。しかし、それでは国がもたないのではと尋ねると「大切なヨーロッパ文明発祥の地を、他の地域が早く助けなかったからだ」と言ってのける。ローマ文明を興した我々が一番の文明人なんだという過剰な自負と、楽天的な気質とが同居している。岩井先生がおっしゃるように、ギリシアにも、同じことが言えるでしょう。たしかギリシアの自殺率は、世界で一番低いレベルのはずです。
岩井:そのうえイタリアもギリシアも観光国家の側面があります。ますますもって自分の地元を出て外で稼ぎに出かけるという発想が起きにくい。
池上:一方、自国が不景気になっても、ユーロに加盟して独自通貨がないから、為替対策による産業振興や雇用の確保もできませんね。
ユーロ圏では、個別の財政政策がただの赤字垂れ流しになる
岩井:そうです。かつては、国内が不景気になると、出雲藩が藩札を発行したように、ギリシア中央銀行がギリシア通貨であるドラクマを発行し、切り下げを行い、輸出を増やし、輸入を減らし、雇用を確保していました。しかし今はそれができません。となると、同じユーロで経済活動を行っているドイツなどと同じ土俵で戦えるか。それは難しい。ギリシア人やイタリア人が移動をいとわなければ、フランクフルトや、あるいはブリュッセルやパリへ働きに出ることで、ある程度地域の経済状況に合わせた雇用調整ができたはずですが、そうした動きは現実には起きていない。かつて1950-60年代には出稼ぎが盛んで、その時の国辱的なイメージが残っており、今では政府は食い止めようとする。ただし、東欧や中欧は違いますが。
池上:かつての日本は通貨の統一と同時に国そのものも統一しましたけれど、ユーロの場合は通貨を統一しても、国それぞれは未だに独立した存在ですからね。島根から東京に移動するのと、ギリシアからドイツへ移動するのは、心理的にも実質的にも難しい側面はあるかもしれない。
うーん、となると、頭が痛いですね。ユーロ通貨統一に合わせた域内の労働力移動が見込まれにくい今、ユーロ危機に打つ手はないのでしょうか?
岩井:難しい。短期的には、欧州中央銀行がユーロ債を大量発行して、第二のリーマン・ショックを避けることしかありませんが、現在は、これもいやがっています。何しろ財政政策は使えない。そもそもの危機の原因が放漫財政にあったのですから。
共通通貨になる前は、財政支出を増すと、利子率が上がってしまう。国内投資は減るし、高い利子率に惹かれて外国資本がやってきて、ドラクマ高になり、輸出も減る。財政に自然に規律がかかったのです。
ところが、ギリシアのGDPがユーロに占める割合は3%ほど。共通通貨になったら、寄らば大樹、いやドイツの陰で、いくら財政投資を増やしても、EUがひとまとまりの金融市場になっていますから、利子率は上がらないし、ユーロ高にもならない。密かにですが国債をばんばん発行して、政府が社会保障や公共投資に使って、国内の雇用や公務員の年金財源を確保するという、悪魔の誘惑が生まれてしまう。民主主義国家は、本当に、ポピュリズムに弱い。その誘惑に負けて、財政赤字を大きく膨らまし、それを隠蔽してきた。
それが明るみに出て、ギリシアには投資価値がないことに人々が気づきます。自国通貨ドラクマがあった時代ならば、まずドラクマが暴落するはずですが、それがない。結果すぐにギリシア国債が下がり、それが火種となって、ユーロ危機につながったわけです。
池上:ギリシアの財政赤字のひどさが明るみに出たのは、2009年10月政権交代が起きたのが直接のきっかけでしたね。
国々をまたいで通貨を統一しても、国々をまたいで労働力は移動しない。通貨が統一されているために、不景気になっても各国単位の財政政策は有効な景気対策にはならない――。こうして見ていくと、ユーロ危機は、起こるべくして起きたようにも感じられます。
そこで根本的な疑問がわき上がってきます。そもそも先ほどお話に出たヨーロッパのインテリ層は、なぜ通貨を共通化しようとしたのでしょうか?
アメリカの影におびえて急ぎすぎたユーロ成立
岩井:それはヨーロッパ域内の政治の意志が大きかったのです。第二次世界大戦のように、その後の東西冷戦のように、ヨーロッパ域内で隣国同士が戦い合うような事態を避けなければいけない。より具体的には、ドイツとフランスとのパワーをバランスしよう、というわけですね。つまり、経済大国となったドイツの力を抑え、ユーロという枠組みに押し込めて、ドイツとフランスとの確執を埋没させよう、さらに統一ヨーロッパという強い経済圏を創出しようと考えたのです。それが共通通貨ユーロという形に結実しました。
しかし、インテリの政治的な夢と、現実との間にはギャップがあった、というわけです。
池上:なるほど、それで「知性の失敗」というわけですね。ヨーロッパ知性主義が理想のユーロ大経済圏を求めたけれど、各国の人々は実際には踊らなかった。日本国内やかつてのアメリカ国内で起きたような、労働力の頻繁な移動が、ユーロ圏内では起きなかった――。では、どうすればうまくいったのでしょうか?
岩井:ヨーロッパは文明が早くから発達した地域ですから、文化的にものすごく多様性がある。そんなヨーロッパ域内で、人間が自由に動くようになるには、時間がかかります。まず、労働力の移動をもっとゆっくりじっくりと促してから、ユーロを導入する、という順番であれば、もっとユーロはうまくいったかもしれません。たとえば、導入が20年後だったら、という思いはあります。
池上:急ぎすぎたということですね。第二次世界大戦後、ヨーロッパではゆっくり時間をかけて、統一ヨーロッパのかたちを整えようとしてきました。1957年にヨーロッパ経済共同体(EEC)ができて、1993年にヨーロッパ共同体(EC)ができて、その後、勢いに乗って、ヨーロッパ圏の大統領と国旗と国歌を定めようとしたらさすがに否決されたりもしました。そのスピードからすると、ユーロ導入はまだまだ時期尚早だったのかもしれません。
岩井:時間さえかければ、ひょっとすると第2のアメリカ合衆国になったかもしれません。しかしそうなるためにはやはり一世代くらいの時間はかかります。
池上:なぜ、ヨーロッパはユーロ導入を急ぎすぎてしまったのですか?
岩井:アメリカの影響が大きいですね。ドイツやフランスなどヨーロッパの経営者の多くがアメリカで経済学や経営学を学ぶようになり、経済に関するヨーロッパのインテリの思考がきわめてアメリカ的になった。
その結果、例えばドイツですら、グローバル化したい大手銀行を中心に、従来からの社会民主主義的性格を持った市場経済、という概念を否定し、より新自由主義経済的な経済運営を求める動きが強くなったのです。
池上:アメリカ流市場主義の影響下にヨーロッパもあった、ということですね。
岩井:はい。なにより90年代、世界経済が「アメリカの時代」になったことで、ヨーロッパの指導者層は焦りました。その焦りが、ドルに対する対抗意識を生み、基軸通貨ユーロを立ち上げてドルと競合する、あるいはユーロ圏をつくって、アメリカ=ドル経済圏と対抗しよう、という野心を抱いたのですね。ユーロ合衆国です。
そのため、通貨統一という本来ならば時間をかけなければいけない事業を、今にしてみれば拙速に進めてしまいました。ただ、そんな野心を抱いていたヨーロッパのインテリたちも、アメリカ的な資本主義のほうがこんなに早く凋落するとは思ってはいなかったでしょう。
フリードマン流「新自由主義」が正しいのか?
池上:ちなみにギリシアの国家経営破綻がすぐに明るみに出ず、ヨーロッパの人々が雇用を求めて移動を厭わないようになれば、ユーロはなんとか維持できていたんでしょうか?
岩井:分からないですね。というのも、ユーロ危機の勃発は、ギリシアなどの国家経営破綻だけが原因ではなく、アメリカ発のサブプライムローン問題、そしてリーマンショックも大きく影響しているからです。いま起こらなかったとしても、いつか起こったと思います。
池上:統一通貨圏はうまくいくわけはないんじゃないか?という議論は、ユーロの導入時にも専門家の間でなされていているのですよね?
岩井:ええ。さきほど最適通貨圏のお話しをしましたが、これを唱えたのはカナダ人の経済学者、ロバート・マンデルです。
池上:1999年のノーベル経済学賞受賞者ですね。
岩井:マンデルなどは最初からユーロはダメだろうと明言していました。それから、シカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンらも懐疑的でした。
池上:自由放任主義を唱えた、いわゆる新自由主義派の代表ともいえる経済学者ですね。1976年にやはりノーベル経済学賞を受賞しています。
岩井:はい。徹底した市場主義者フリードマンの理論からすると、統一通貨ユーロの発想は相いれませんからね。ただし、フリードマンは、以前に一度、大きな間違いを犯しているんです。実は、1971年のアメリカのニクソンショックを後押ししていたんです。
池上:ニクソンショックとは、それまで固定相場制をとっていて金の兌換紙幣だったドルを変動相場制に切り替え、金との交換停止を断行した一連の政策で起きた「ショック」のことでしたね。時の大統領リチャード・ニクソンがアメリカ議会にも知らせずに、1971年8月15日、突然発表したことから「ニクソンショック」と呼ばれています。
岩井:71年当時ドルは世界の基軸通貨という役割を担っていました。一国の通貨に過ぎないのに同時に世界の共通通貨になっている。フリードマンは、これをアメリカにとっては不利なことだと考えました。ドルが世界の基軸通貨であるということは、金に直接的にリンクした固定相場制であり、そのため、アメリカは国内の経済政策が自由に取れない。当時はベトナム戦争下で財政赤字が深刻化していました。その状況を打開するためにも、ドルと金との繋がりを断って、当時のマルクや円のように一国の通貨となって、ドルの価格は為替市場で自由に変動するのが望ましいと考えたのです。
池上:ところが、アメリカの不景気は解消されなかった……。
岩井:固定相場から変動相場に移行したにも関わらず、ドルは基軸通貨であり続けた。ドルを基軸通貨にしたのは、金との固定相場ではなかったことがわかってしまった。
けれども、フリードマンは、その後もすべての通貨価値は市場で自由に決まるのが望ましいと考えています。ユーロのような統一通貨は人間が上から貨幣経済をコントロールするものであり、絶対にうまくいかない、と反対していました。ユーロがスタートした当初、フリードマンらのこうした意見は表にあまり出てきませんでした。
池上:当初、ユーロは好スタートを切ったかに見えましたしね。
お金と経済に「知性」はいらない?
岩井:はい。でもユーロ危機が表面化した時、フリードマンはすでに亡くなっていましたが、「あのとき、ああ言っていた」とフリードマンらの意見が急にクローズアップされるようになったわけです。
池上:今の時点で「通貨や経済を人間がコントロールできるわけがない。市場に任せろ」というフリードマンの意見を聞くとたしかに説得力がありますが、一方でユーロのような統一通貨へ憧れを抱く人々の気持ちもわかります。
人間には、お金に振り回されてきたという長い歴史がありますから、知性の力でお金をコントロールできるようにしよう、多国間で通過を統一しよう、とヨーロッパの知性主義がユーロに行きついた、というのは、ある意味で理解できます。
岩井:明治維新の日本、そしてアメリカのように、条件さえそろえば、通貨統一は成功します。私もユーロの構想は悪くない、と思っていました。ユーロ、というのはたしかに、人間の知性で考えた概念です。知性を集約し、政治的な意思で統一通貨をつくり、その成功に向けて加盟国の経済を統合させて、強く安定的な経済圏を実現する――。
このシナリオそのものは、悪くない、と思います。ただ、繰り返しになりますが、各国、そしてヨーロッパの人々の足並みがそろう前にあまりに拙速にユーロを成功させようと急ぎすぎた。ユーロの加盟国も急速に増やしすぎた。残念だな、という感は否めないですね。
池上:やはり人間の知性では、お金を、経済をコントロールするのは無理なんでしょうか?
岩井:東欧やソ連の社会主義体制が終焉したとき、計画経済への幻想は打ち砕かれました。今回のユーロ危機では、市場経済にある種の計画性を持ち込もうというやり方が挫折したのも事実です。ですからこの結果を受けて、新自由主義を標榜するフリードマン一派は自分たちが正しかったと快哉を叫んでいます。けれども、人間の知性がお金や経済にまったくかなわないか、というとそれも正しくありません。というのも、ユーロ圏とまったく反対に位置づけられそうな自由主義的なアメリカの資本主義とグローバルな金融市場が、ユーロ危機と相前後して、いやむしろユーロ危機に先だって、危機を迎えているのですから。
池上:たしかに! では次回は、アメリカの市場経済の危機について「お金の正体」に焦点を当てながら、岩井先生に解明いただきましょう。
どちらも騒動の主役は「お金」です。2002年に誕生したヨーロッパの統合通貨ユーロ。そのユーロがつくりあげた経済圏が、参加国の財政破たんなどを機に崩壊の危機に瀕しています。一方、市場経済の極みともいうべきアメリカの金融市場は、ユーロ危機より前の2008年に起きたいわゆるリーマンショックでその土台がぐらつきました。さらに2011年には、相変わらず高給を食む金融関係者や企業経営者に対し、はっきりと反旗を翻す動きがウォール街をはじめアメリカの各所で起きています。
この危機と騒動の本質は何か? 私たちが「正しい経済」を手に入れるにはどうすればいいのか? そのためにはどうやら「お金の正体」を改めて知る必要がありそうです。そこで今回は、『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるか』などの著作で、「お金と資本主義と会社の関係」を考え抜いてきた岩井克人東大名誉教授にご登場いただきます。「お金の正体」、迫ってみましょう。
ユーロ危機はなぜ起きたか?――知性の失敗
池上:昨年2011年は、経済の側面で見ると岩井先生のご専門である『お金』そのもの価値が揺らいだ年でした。そのひとつの象徴がユーロ危機です。「ユーロ」が参加国の従来の通貨を統合して法定通貨となったのは2002年1月ですから、今から10年前ですね。誕生から10年という節目に、ユーロという枠組み自体が破綻の危機にあります。複数の国に共通の通貨を使わせるという仕組みはなぜうまくいかないのでしょうか?
岩井:たしかに統一通貨ユーロの試みは、今のところうまくいっていません。でも、複数の国の通貨を共通化する政策がうまくいったケースもあるのです。例えば、明治維新の日本がそれです。江戸時代には、江戸は金、大阪は銀と、事実上一国に2種類の貨幣単位が存在していました。
江戸の日本はかつての欧州 統一通貨「円」はなぜ成功した?
池上:そのうえ、江戸時代には、藩札もありましたね。今でいう地域通貨です。明治維新前の日本はユーロ統一前のヨーロッパのような通貨体制だったわけですね。藩札はどんな役割を担っていたのでしょうか?
池上:国をあげて輸出を増やし、安い輸入品が入ってこないようにする現在の政策と変わらなかったんですね。藩ごとの藩札、共通通貨の江戸の金、大阪の銀が混在していたのが江戸時代までの日本の通貨事情だった。
岩井:だから、こうした複数の通貨の両替を生業とする人たちもいました。いわゆる両替商、為替商です。それが明治維新を経て、「円」という通貨に全国統一されました。いろいろな失敗もありましたが、ひとまず通貨を統一して、そしてその統一がある程度うまくいったがゆえに、日本は近代国家として、経済的そして産業的に発達できましたわけです。
池上:なぜ明治維新の日本では、通貨統一がうまくいったのでしょうか?
「労働力の移動」が統一通貨が成立する絶対条件
岩井:それは、通貨の統一と同時に「労働力の移動」が頻繁に起きたからです。ご存知の通り、江戸時代まで、人々は自分の住んでいる藩に縛りつけられていました。明治政府は、通貨統一と相前後して、人々の移動の自由を認めるようになったのです。日本人はどこに住んでもどこで働いてもよくなりました。
経済学用語に「最適通貨圏」という考え方があります。ある地域で共通通貨を維持するためには、その地域内では、資本や労働力が自由に動くことが前提となるんです。
明治期の日本では、通貨の統一と同時に、人々と資本とが移動し、経済活動が活発なところに労働力と資本とが投下されるようになりました。それが成功の大きな要因といっていいでしょう。最適通貨圏の模範でした。
池上:岩井さんのご先祖さまの例で言えば、江戸時代だったら松江藩の経済状況が悪化して失業しても国を出ることが叶わなかったのが、明治維新以降は、いざとなったら出雲地方を出てほかの土地で働くことが可能になった。それが日本全国で起きた。だから共通通貨「円」への移行が成功した、というわけですね。
岩井:その通りです。実際、私の両親は戦前に島根を出て東京へやってきました。同じような人たちは周りにたくさんいました。島根から東京へ。地方から都会へ。
こうした労働力のダイナミックな移動が、経済の地域間調整を行ってきたのです。資本が動き、人々がそれに合わせるように動く。資本が投下された場所に労働力は集約され、経済が活性化する。その繰り返しで、江戸時代には経済的には必ずしも統一していなかった日本は、ひとつの通貨で経済活動を行う国に変身し、先進国になりました。
もちろんその成長と引き換えに、たとえば島根県は過疎化し、東京や大阪には過剰といわれるほど人口が集中しました。それがいいか悪いかはまた別問題としてあります。が、経済の側面から眺めると必然的な流れだったといえます。
ケンタッキーフライドチキン・スクールに象徴されるアメリカの成長
池上:アメリカはどうだったんでしょう? ドルの誕生と国の成長も、明治維新以降の日本と同じような経緯をたどっているのでしょうか?
岩井:はい。アメリカは日本よりもはるかに国土が広いですが、もともとが「移動の自由」を掲げてできた国のようなものですよね。西部劇の世界さながらに、人々は馬車に乗って移動し、新しい街を瞬く間に作り上げ、栄える街は人口が増大し、寂れる街はゴーストタウンになる、というのを繰り返しました。
馬車から自動車の時代になっても、この構造は基本的には踏襲され、その証左として、現在でも基幹道路の要所要所の街には、ケンタッキーフライドチキン・スクールといわれる学校があります。
池上:ケンタッキーフライドチキン・スクール?
岩井:ケンタッキーフライドチキンのようなフランチャイズチェーンのように、教える内容を規格化し、どこから来た誰でも面倒な手続きなしで転入でき、すぐに転出もできる学校です。それだけ人々の移動が激しい。
池上彰氏
池上:明治維新以降の日本とアメリカの国内成長の過程を眺めると、共通通貨が成功するか否かは、お金の統一と同時に「人=労働力の移動」がカギというわけですね。
さて、そこでヨーロッパでユーロがうまくいっていない原因に話を戻しましょう。岩井さん、日本とアメリカの例を踏まえて、もう一度「ユーロがうまくいかない」わけを教えてください
岩井:ユーロの失敗。それは、ヨーロッパ経済を通貨で統合しようと考えたヨーロッパのインテリ層の理想と、通貨は統合されても国どころか地元からさえ離れないヨーロッパの普通の人々との現実との差が生んだ、まさに「知性の失敗」が大きな原因でしょう。
池上:知性の失敗? 詳しく教えてください。
岩井:そもそも、ユーロを推進したのは、ヨーロッパのインテリ層、指導者層です。彼らにとってみれば、ヨーロッパ域内はもちろん、世界中を自由に移動するのが当たり前です。イタリアで生まれ育ち、イギリスのケンブリッジで博士号を取り、ベルギーの大学で教え、ドイツ人と結婚して、研究のため2、3年アメリカへ渡るというような人が、珍しくありません。そんなヨーロッパのインテリ層がそもそもユーロを構想したのです。
失業しても移動しないヨーロッパの「普通の人々」
池上:ヨーロッパのインテリ層は、域内を自在に移動し、仕事も得ているわけですね。つまり、仕事の需要に合わせて自分が動く。
岩井:逆に言うと、ヨーロッパ域内を自在に移動し、雇用の場所を見つけられる、あるいは、そもそもそうやって「場所に縛られずに移動してもいい」と考えるのはインテリ層やエリート層に限られる、ともいえます。「万国の労働者よ,団結せよ」といったマルクスには申し訳ないですが、異なった国の労働者ほど団結しにくい存在はありません。
池上:ということは、そうでない大半のヨーロッパの人たちは違う、と。
岩井:ええ。ユーロ危機の中心のひとつであるイタリアの例を紹介いたしましょう。私はかつてイタリアのシエナという美しい街に半年間暮らし、そこで目の当たりにしましたが、イタリア人の大半はイタリアの外へ出ようとはしません。それどころか、地元からイタリア国内の他の地域にすら出ようとしない人のほうが多いのです。地元地域への帰属意識が強く、またそれぞれの地域文化に誇りを持っています。
一番の楽しみが何百年続いたパリオという地区対抗の競馬です。たとえ勉強や仕事のために平日は地元を離れても、週末には洗濯物を抱えて実家に帰る。シエナの若者の9割は地元へ帰ってくるという統計があったはずです。おそらくイタリアのどの地域も同じようなものでしょう。
池上:地元を離れない上に、イタリアをはじめ、南欧の人々は基本的に楽天的ですね。先日、ローマに取材に行って驚いたのですが、ユーロ危機のど真ん中にいる、という意識をイタリアの一般市民がほとんど持っていない。失業率も上がって苦しいはずなのに、緊迫感がない。現地で退職した学校の先生に話を聞くと、現職時代の給料は安かったけれど、年金は退職時の給与と同額が保証されているから心配ないよ、と余裕でした。
岩井:ユーロ危機のもうひとつの当事国ギリシアも同じような状況です。
池上:国が保障しているから、子供が成人して大学を卒業して働き場所がなく実家にいついていても、とりあえずの生活には不自由しないのです。もちろん、その人は、結構な年齢になった子どもに職がないことは嘆いていました。しかし、それでは国がもたないのではと尋ねると「大切なヨーロッパ文明発祥の地を、他の地域が早く助けなかったからだ」と言ってのける。ローマ文明を興した我々が一番の文明人なんだという過剰な自負と、楽天的な気質とが同居している。岩井先生がおっしゃるように、ギリシアにも、同じことが言えるでしょう。たしかギリシアの自殺率は、世界で一番低いレベルのはずです。
岩井:そのうえイタリアもギリシアも観光国家の側面があります。ますますもって自分の地元を出て外で稼ぎに出かけるという発想が起きにくい。
池上:一方、自国が不景気になっても、ユーロに加盟して独自通貨がないから、為替対策による産業振興や雇用の確保もできませんね。
ユーロ圏では、個別の財政政策がただの赤字垂れ流しになる
岩井:そうです。かつては、国内が不景気になると、出雲藩が藩札を発行したように、ギリシア中央銀行がギリシア通貨であるドラクマを発行し、切り下げを行い、輸出を増やし、輸入を減らし、雇用を確保していました。しかし今はそれができません。となると、同じユーロで経済活動を行っているドイツなどと同じ土俵で戦えるか。それは難しい。ギリシア人やイタリア人が移動をいとわなければ、フランクフルトや、あるいはブリュッセルやパリへ働きに出ることで、ある程度地域の経済状況に合わせた雇用調整ができたはずですが、そうした動きは現実には起きていない。かつて1950-60年代には出稼ぎが盛んで、その時の国辱的なイメージが残っており、今では政府は食い止めようとする。ただし、東欧や中欧は違いますが。
池上:かつての日本は通貨の統一と同時に国そのものも統一しましたけれど、ユーロの場合は通貨を統一しても、国それぞれは未だに独立した存在ですからね。島根から東京に移動するのと、ギリシアからドイツへ移動するのは、心理的にも実質的にも難しい側面はあるかもしれない。
うーん、となると、頭が痛いですね。ユーロ通貨統一に合わせた域内の労働力移動が見込まれにくい今、ユーロ危機に打つ手はないのでしょうか?
岩井:難しい。短期的には、欧州中央銀行がユーロ債を大量発行して、第二のリーマン・ショックを避けることしかありませんが、現在は、これもいやがっています。何しろ財政政策は使えない。そもそもの危機の原因が放漫財政にあったのですから。
共通通貨になる前は、財政支出を増すと、利子率が上がってしまう。国内投資は減るし、高い利子率に惹かれて外国資本がやってきて、ドラクマ高になり、輸出も減る。財政に自然に規律がかかったのです。
ところが、ギリシアのGDPがユーロに占める割合は3%ほど。共通通貨になったら、寄らば大樹、いやドイツの陰で、いくら財政投資を増やしても、EUがひとまとまりの金融市場になっていますから、利子率は上がらないし、ユーロ高にもならない。密かにですが国債をばんばん発行して、政府が社会保障や公共投資に使って、国内の雇用や公務員の年金財源を確保するという、悪魔の誘惑が生まれてしまう。民主主義国家は、本当に、ポピュリズムに弱い。その誘惑に負けて、財政赤字を大きく膨らまし、それを隠蔽してきた。
それが明るみに出て、ギリシアには投資価値がないことに人々が気づきます。自国通貨ドラクマがあった時代ならば、まずドラクマが暴落するはずですが、それがない。結果すぐにギリシア国債が下がり、それが火種となって、ユーロ危機につながったわけです。
池上:ギリシアの財政赤字のひどさが明るみに出たのは、2009年10月政権交代が起きたのが直接のきっかけでしたね。
国々をまたいで通貨を統一しても、国々をまたいで労働力は移動しない。通貨が統一されているために、不景気になっても各国単位の財政政策は有効な景気対策にはならない――。こうして見ていくと、ユーロ危機は、起こるべくして起きたようにも感じられます。
そこで根本的な疑問がわき上がってきます。そもそも先ほどお話に出たヨーロッパのインテリ層は、なぜ通貨を共通化しようとしたのでしょうか?
アメリカの影におびえて急ぎすぎたユーロ成立
岩井:それはヨーロッパ域内の政治の意志が大きかったのです。第二次世界大戦のように、その後の東西冷戦のように、ヨーロッパ域内で隣国同士が戦い合うような事態を避けなければいけない。より具体的には、ドイツとフランスとのパワーをバランスしよう、というわけですね。つまり、経済大国となったドイツの力を抑え、ユーロという枠組みに押し込めて、ドイツとフランスとの確執を埋没させよう、さらに統一ヨーロッパという強い経済圏を創出しようと考えたのです。それが共通通貨ユーロという形に結実しました。
しかし、インテリの政治的な夢と、現実との間にはギャップがあった、というわけです。
池上:なるほど、それで「知性の失敗」というわけですね。ヨーロッパ知性主義が理想のユーロ大経済圏を求めたけれど、各国の人々は実際には踊らなかった。日本国内やかつてのアメリカ国内で起きたような、労働力の頻繁な移動が、ユーロ圏内では起きなかった――。では、どうすればうまくいったのでしょうか?
岩井:ヨーロッパは文明が早くから発達した地域ですから、文化的にものすごく多様性がある。そんなヨーロッパ域内で、人間が自由に動くようになるには、時間がかかります。まず、労働力の移動をもっとゆっくりじっくりと促してから、ユーロを導入する、という順番であれば、もっとユーロはうまくいったかもしれません。たとえば、導入が20年後だったら、という思いはあります。
池上:急ぎすぎたということですね。第二次世界大戦後、ヨーロッパではゆっくり時間をかけて、統一ヨーロッパのかたちを整えようとしてきました。1957年にヨーロッパ経済共同体(EEC)ができて、1993年にヨーロッパ共同体(EC)ができて、その後、勢いに乗って、ヨーロッパ圏の大統領と国旗と国歌を定めようとしたらさすがに否決されたりもしました。そのスピードからすると、ユーロ導入はまだまだ時期尚早だったのかもしれません。
岩井:時間さえかければ、ひょっとすると第2のアメリカ合衆国になったかもしれません。しかしそうなるためにはやはり一世代くらいの時間はかかります。
池上:なぜ、ヨーロッパはユーロ導入を急ぎすぎてしまったのですか?
岩井:アメリカの影響が大きいですね。ドイツやフランスなどヨーロッパの経営者の多くがアメリカで経済学や経営学を学ぶようになり、経済に関するヨーロッパのインテリの思考がきわめてアメリカ的になった。
その結果、例えばドイツですら、グローバル化したい大手銀行を中心に、従来からの社会民主主義的性格を持った市場経済、という概念を否定し、より新自由主義経済的な経済運営を求める動きが強くなったのです。
池上:アメリカ流市場主義の影響下にヨーロッパもあった、ということですね。
岩井:はい。なにより90年代、世界経済が「アメリカの時代」になったことで、ヨーロッパの指導者層は焦りました。その焦りが、ドルに対する対抗意識を生み、基軸通貨ユーロを立ち上げてドルと競合する、あるいはユーロ圏をつくって、アメリカ=ドル経済圏と対抗しよう、という野心を抱いたのですね。ユーロ合衆国です。
そのため、通貨統一という本来ならば時間をかけなければいけない事業を、今にしてみれば拙速に進めてしまいました。ただ、そんな野心を抱いていたヨーロッパのインテリたちも、アメリカ的な資本主義のほうがこんなに早く凋落するとは思ってはいなかったでしょう。
フリードマン流「新自由主義」が正しいのか?
池上:ちなみにギリシアの国家経営破綻がすぐに明るみに出ず、ヨーロッパの人々が雇用を求めて移動を厭わないようになれば、ユーロはなんとか維持できていたんでしょうか?
岩井:分からないですね。というのも、ユーロ危機の勃発は、ギリシアなどの国家経営破綻だけが原因ではなく、アメリカ発のサブプライムローン問題、そしてリーマンショックも大きく影響しているからです。いま起こらなかったとしても、いつか起こったと思います。
池上:統一通貨圏はうまくいくわけはないんじゃないか?という議論は、ユーロの導入時にも専門家の間でなされていているのですよね?
岩井:ええ。さきほど最適通貨圏のお話しをしましたが、これを唱えたのはカナダ人の経済学者、ロバート・マンデルです。
池上:1999年のノーベル経済学賞受賞者ですね。
岩井:マンデルなどは最初からユーロはダメだろうと明言していました。それから、シカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンらも懐疑的でした。
池上:自由放任主義を唱えた、いわゆる新自由主義派の代表ともいえる経済学者ですね。1976年にやはりノーベル経済学賞を受賞しています。
岩井:はい。徹底した市場主義者フリードマンの理論からすると、統一通貨ユーロの発想は相いれませんからね。ただし、フリードマンは、以前に一度、大きな間違いを犯しているんです。実は、1971年のアメリカのニクソンショックを後押ししていたんです。
池上:ニクソンショックとは、それまで固定相場制をとっていて金の兌換紙幣だったドルを変動相場制に切り替え、金との交換停止を断行した一連の政策で起きた「ショック」のことでしたね。時の大統領リチャード・ニクソンがアメリカ議会にも知らせずに、1971年8月15日、突然発表したことから「ニクソンショック」と呼ばれています。
岩井:71年当時ドルは世界の基軸通貨という役割を担っていました。一国の通貨に過ぎないのに同時に世界の共通通貨になっている。フリードマンは、これをアメリカにとっては不利なことだと考えました。ドルが世界の基軸通貨であるということは、金に直接的にリンクした固定相場制であり、そのため、アメリカは国内の経済政策が自由に取れない。当時はベトナム戦争下で財政赤字が深刻化していました。その状況を打開するためにも、ドルと金との繋がりを断って、当時のマルクや円のように一国の通貨となって、ドルの価格は為替市場で自由に変動するのが望ましいと考えたのです。
池上:ところが、アメリカの不景気は解消されなかった……。
岩井:固定相場から変動相場に移行したにも関わらず、ドルは基軸通貨であり続けた。ドルを基軸通貨にしたのは、金との固定相場ではなかったことがわかってしまった。
けれども、フリードマンは、その後もすべての通貨価値は市場で自由に決まるのが望ましいと考えています。ユーロのような統一通貨は人間が上から貨幣経済をコントロールするものであり、絶対にうまくいかない、と反対していました。ユーロがスタートした当初、フリードマンらのこうした意見は表にあまり出てきませんでした。
池上:当初、ユーロは好スタートを切ったかに見えましたしね。
お金と経済に「知性」はいらない?
岩井:はい。でもユーロ危機が表面化した時、フリードマンはすでに亡くなっていましたが、「あのとき、ああ言っていた」とフリードマンらの意見が急にクローズアップされるようになったわけです。
池上:今の時点で「通貨や経済を人間がコントロールできるわけがない。市場に任せろ」というフリードマンの意見を聞くとたしかに説得力がありますが、一方でユーロのような統一通貨へ憧れを抱く人々の気持ちもわかります。
人間には、お金に振り回されてきたという長い歴史がありますから、知性の力でお金をコントロールできるようにしよう、多国間で通過を統一しよう、とヨーロッパの知性主義がユーロに行きついた、というのは、ある意味で理解できます。
岩井:明治維新の日本、そしてアメリカのように、条件さえそろえば、通貨統一は成功します。私もユーロの構想は悪くない、と思っていました。ユーロ、というのはたしかに、人間の知性で考えた概念です。知性を集約し、政治的な意思で統一通貨をつくり、その成功に向けて加盟国の経済を統合させて、強く安定的な経済圏を実現する――。
このシナリオそのものは、悪くない、と思います。ただ、繰り返しになりますが、各国、そしてヨーロッパの人々の足並みがそろう前にあまりに拙速にユーロを成功させようと急ぎすぎた。ユーロの加盟国も急速に増やしすぎた。残念だな、という感は否めないですね。
池上:やはり人間の知性では、お金を、経済をコントロールするのは無理なんでしょうか?
岩井:東欧やソ連の社会主義体制が終焉したとき、計画経済への幻想は打ち砕かれました。今回のユーロ危機では、市場経済にある種の計画性を持ち込もうというやり方が挫折したのも事実です。ですからこの結果を受けて、新自由主義を標榜するフリードマン一派は自分たちが正しかったと快哉を叫んでいます。けれども、人間の知性がお金や経済にまったくかなわないか、というとそれも正しくありません。というのも、ユーロ圏とまったく反対に位置づけられそうな自由主義的なアメリカの資本主義とグローバルな金融市場が、ユーロ危機と相前後して、いやむしろユーロ危機に先だって、危機を迎えているのですから。
池上:たしかに! では次回は、アメリカの市場経済の危機について「お金の正体」に焦点を当てながら、岩井先生に解明いただきましょう。
2014年2月27日木曜日
ウクライナがピンチです、2014.02
ウクライナ
首都キエフは、ソ連時代、モスクワ、ペテルブルグに続く第3の都市でした。
ここからロシアの歴史が始まったとされている古都で、京都市の姉妹都市でもあります。
また、ウクライナ美術館や、キエフオペラハウスとして有名なキエフ国立歌劇場など、芸術の都としても有名です。
南部は黒海に面し、特にクリミア半島は、クレムリンの要人達に夏の行楽地として人気があったこともあって、現在でもリゾート地として知られています。
ヤルタ会談で有名なヤルタは、旧ソ連のイメージとは遠く温暖な地中海性気候であり、ワインの有名な産地でもあります。
べラルーシ
ポーランド ロシア
ウクライナ
ハンガリー ルーマニア 黒海 ソチ
ブルガリア トルコ
・大きく西側と東側で分離(民族/言語/文化)
・西側=農業エリア(EUへの輸出増)、東側=工業エリア(ロシアへの輸出増)
・人口推移=グラフで簡易イメージすると「y=-1/3x+10」くらいの大幅な人口減(10年間で100万人減で、人口が1/10減った・・・)
・変動相場制にした(new!)
EUへの影響
・なんたってガスパイプラインやが、現在大きく5経路ある
ヴィボルグ(ロシア連邦レニングラード州)→北海経路
ベラルーシ→ポーランド経路
エレン(ロシア連邦のリペツク州)→ウクライナ経路
黒海→ブルガリア経路
黒海→トルコ経路
封鎖される可能性があるのは、エレン→ウクライナ経路なんで、EUはまぁ大丈夫やな
ロシアへの影響
・これはデカイ・・・エレンはガスパイプラインの重要な分岐点
・ここをウクライナの暴れん坊が攻めてくるとプーチン激オコ
・ウクライナへは工業支援のため金落としまくり
つづき
・失業率は低位推移(1%以下とは驚き・・・)
・ウクライナ国民が何に怒っているのかというと報道のとおり現政権に対するものやが・・・それだけではないような気が
・ウクライナを裏で操る輩がソチオリンピック開催中に仕掛けたかね?
ワイが一番悲しいのは、ウクライナで平穏に暮らしている市民や子供達やな
・欧州各国の変態金持ちに少女売られるとか・・・
・漫画「MONSTER」のように孤児が「511キンダーハイム(架空)」のような施設に送り込まれるとか・・・
力弱き者が不幸にならんように、短期的に収束してほしいわ。発散は困るで。
しっかし、USは本当に力失ったわ・・・オバマではダメやろな。USは
2014年2月19日水曜日
江戸時代の身分
守護大名=将軍の家臣、国司、県知事、県警本部長、一万石以上の武家
戦国大名=やくざの組長
旗本=
上位5階級以上、国家公務員キャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、上級、将軍に会う資格あり、近衛兵、江戸時代において徳川の直臣、三千石程度で名門
御家人=
6階級以下、国家公務員ノンキャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、下級、将軍に会う資格なし御+家人、将軍などの偉い武士の部下
上から、
老中
町奉行(警察庁長官兼東京都知事)
与力(武士、警部、警視、警視正)
同心(足軽、警察官の巡査、巡査長)
戦国大名=やくざの組長
旗本=
上位5階級以上、国家公務員キャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、上級、将軍に会う資格あり、近衛兵、江戸時代において徳川の直臣、三千石程度で名門
御家人=
6階級以下、国家公務員ノンキャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、下級、将軍に会う資格なし御+家人、将軍などの偉い武士の部下
上から、
老中
町奉行(警察庁長官兼東京都知事)
与力(武士、警部、警視、警視正)
同心(足軽、警察官の巡査、巡査長)
岡引(序列に入らない、警察官ではない)
2014年2月18日火曜日
このひと、詳しいっす
handle name : hikari_light_shinkansen
日比谷で検索のこと
日比谷高、対策の方法をお願いします!
こんにちは。
1度hikariさんに回答してもらった、中3のsoraです。
今回、日比谷高校対策の方法を教えていただきたくて、リクエストさせていただきました。
私は、中2まで不登校だったので、今のところ、内申がわかりません。
中1の5月からあまり行っていなかったからです。
しかし、3年になってからは今まで、遅刻・欠席は1度もないです。
入試の事を考えて、とにかく頑張るようにして復帰しました。
時々、hikariさんの回答を読ませてもらったので、hikariさんが今まで言ったような問題集は結構持っています。
そして、数学に関しては、「未来を切り開くシリーズ」で、ちょこちょこ進めていて、2次方程式までは終わったところです。
ですが、理科と社会は全くわかりません。
今の勉強のスピードでは、だめだということはわかっています。
数学も他の合格する人より、ものすごい遅れていることもちゃんとわかっているのですが、
何から勉強したらいいのか、いつまでにこの問題集は終わらせるべきだという答えがないと、私は明日でもいいやと思ってしまう馬鹿なので、何でも先延ばしにしてしまって、ゆっくり終わらせるようになってしまいます。
こんな状態では絶対に合格できないし、このままではだめだという気持ちがあります。
それにこんな状態では、他の日比谷高校を志望校にしている方にも申し訳ないと思ってしまいます。
なので、今回は、数学の未来を切り開くシリーズの「方程式と関数」「図形」「確立・統計と総まとめ」「入試実践」をつめつめのスケジュールでいいので、それぞれどれくらいまでに終わらせればいいかという事と、理科は未来を切り開くシリーズを持っているのでなんとかなるのですが、社会は参考書自体、何を使えばいいのかわからないので、社会の参考書を教えていただければうれしいです。
ちなみにですが、火・水・金は最高4時間で月・木は最高3時間で土曜日は最高13時間。日曜は最高10時間できます。
ですが、宿題も出るときは結構出てしまうので、できれば、上に書いてある時間マイナス1時間で考えてもらえればうれしいです。
とても面倒くさい質問ですが、答えていただけるとありがたいです。
こんな私ですが、サポートしていただけるとうれしいです。
長文失礼しました。
1.
都立高校は原則、中3時の評定を調査書点として計算するので、中3から頑張って登校できるようになればいいですよ。中3になってから、遅刻・欠席なしということなので、とても頑張っていますよ。
平日は、数学は1時間程度勉強することができるでしょう。英語1時間で、残りは理科・社会になりますね。
2.
都立日比谷高校の数学の対策を考えるとき、『未来を~』シリーズではなかなか太刀打ちできないんですね。なので、早い段階で基本的事項を完全にしてしまい、レベルの高い教材に取り組んでいくことが必要となります。
『未来を~ 方程式と関数』については、第4章まで終わっているということなので、5月中に中間テストの勉強と第6章、第7章のところをやっておいてください。第6章は「関数」ですが、直線の式を求めること、2直線の交点、変域、変化の割合といった、関数の基本のところだけを勉強します。中3で学習する「二次関数」は、グラフをかいて変域を確認するようにしてくださいな。
第7章の「数列」は授業では扱いませんが、都立自校作成問題でも出題されるので、勉強しておいてください。
1日6ページ程度で、1週間程度でできるはずです。
6月から、図形のところに入っていきます。おそらく中2の「図形の証明」がほとんど勉強できていないんだろうと思います。図形の証明問題は、都立共通、都立自校作成ともに取らないといけない問題になるので、必ずやっておきたいところ。
『こわくない数学 図形の証明問題』(くもん出版)が、マンガを読みながら分かりやすく学習できるので、これで勉強してもらおうかと思います。10日から2週間で。
7月の期末テストに向けて1週間確保しておきたいので、6月の残り2週間弱で『未来を~ 図形』の第1章から第4章を勉強しましょうか。第1章~第3章が小学校・中1・中2の復習、第4章が『こわくない数学』の復習部分なので、さくっと勉強。
なお、『未来を~ 確率統計と総まとめ』の第1章 確率のところもこの時期に勉強しておきましょう。
期末テスト終了後、7月は3週間程度確保できるので、『未来を~ 図形』の第5章以降と『未来を~ 確率統計と総まとめ』の第4章~第7章に取り組んでくださいね。分量は合計130ページになりますが、ゆったりとした紙面なのでそれほど無理のない分量だと思います。夏休みに入っているしね。
ざっと、こんな感じかな。
3.
夏休み教材としては、『未来を~ 入試実践』と『「基本のカギ」だけで解く入試数学』(学研)を使っていきます。『未来を~ 入試実践』については、関数や図形の入試問題の基本的な解き方を勉強していきます。『「基本のカギ」だけで~』は、中1・中2範囲も含めた全般の復習教材になりますね。
4.
今年の都立日比谷高校の入試問題では、大問4の問3で「切頭三角柱の公式」が出題されています。これは、2010年の都立新宿高校でも出題されたものですが、学校ではもちろん勉強しません。これは、『高校入試数学問題精講 幾何(図形)編』(旺文社)では触れられている内容なので、9月以降はこうした教材で勉強していくことになりますね。
5.
社会は、教科書が中心になりますね。歴史は、まずはキーワードが何時代なのか結びつける勉強をしておいてください。キーワードが教科書のどの辺に書いてあるのか確認するところから始めてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1066247605
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448728924
問題集としては、中2のときの学校のワークブックがあればそれを使用すればよいし、なければ『中学定期テストの対策ワーク 社会歴史』(旺文社)でいいんだろうと思います。
地理については、教科書に加えて『東大生が教える合格テクニック 地理』(学研)を合わせてどうぞ。地理もそれぞれの地域のイメージ作りから。
6.
学力状況については、今の時点ではわざわざ模試を受験するまでもなく、模試の過去問を使って時間厳守で問題を解いて、大まかな偏差値を求めておけばいいですよ。2年分購入すれば(合計6800円)、都立共通型入試の模試を10回分受験することができます。
http://www.shinken.co.jp/test/pastworkbook.html
模試は、都立自校作成型対応の模試を受験していけばよいかと思います。
自分で危機意識を持って、何とかしないといけないと思っているのなら、何とかなるかな。これから厳しい勉強になってきますが、めげずに頑張っていきましょう。
中3 <都立新宿高校Ⅳ>
お久しぶりです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1178157731
等で質問させていただきました。
以下が、今取り組んでいる勉強です。
《国語》
評論入門が本屋で見つからず時が過ぎてしまいました(汗)
冬休みから電話帳の公立編を塾の宿題で、自校作編を塾の授業で進めています。
自校作編はまだ1年分しか解いてないと思います。
《数学》
塾で
【1】(1)~(6)・【2~4】(1)・図形証明・できれば記述
を当日正解する方針で決定し、『入試実践』の分は新中問でもう大丈夫と言われたので
電話帳の自校作編を進めることになりました。(最近はじめたので、まだ戸山と白鴎だけ。最後まで解く予定です。)
ぼちぼち新宿の過去問も解いています。
『数学でる順』はどうしても解きたくて、抜粋して1冊完成させてしまいました・・・。
《英語》
『スラスラ読む 長文14』を終えた後はずっと電話帳の自校作編を続けています。
2年目に入って、立川まで解きました。
宿題の関係でまだ手をつけられてないのですが『英語長文精講』は購入してあります。
過去問をあまりにも早く解き終えすぎたので、2回目を2月に再演習したいと思っています。
《理科》
『理科でる順』を進めています。今は地学編で、もう少しだと思います。
過去問で8割になかなか届きません。。。
《社会》
『資料読解』を進めています。これもあと少しで終わりです。
過去問で100点に近い点数が取れるようになってきています!
過去問の点数、解いたものを書いておきます。
<H23>
国82 数43 英88 理59 社69
<H22>
国89 数44 英78 理78 社75
<H21>
国77 数42 英69 理69 社100
<H20>
数55 英72 理75
<H19>
英64 社90
<H18>
社100
★最後の追い込み(2月)は どのような勉強をすれば良いでしょうか?
★理科の計算分野が全くといっていいほどできません。どうすれば良いでしょうか?
★過去問や平均点から見て、僕の数学の目標点はどれぐらいになりますか?
長々とすみません。hikari_light_shinkansen先生、よろしくお願いいたします。
ベストアンサーに選ばれた回答
hikari_light_shinkansenさん リクエストマッチ!
1.
『評論入門のための高校入試国語』について、書店で教材が入手できないなら、ネット書店を利用すればよかったんだけどね。個別指導塾しか通っていないので、水準の高い評論についての知識や読解方法について勉強していないんだよね。そこが少し気になるところかな。
ただ、『システム中学国語』シリーズは取り組んでもらっているので、基本的な読解方法については学習できているはずです。過去問の点数を見ても大丈夫でしょう。
あと、家庭で自校作成問題に取り組んでおいて、塾の授業でこの解説を展開してもらってください。解いている時間の受講料が無駄ですから。
2.(1)
数学については、解くべき問題の流れはだいたいこれでいいです。ただ、直前の時期というのは、時間も少ないので、『新中問 発展編』では全部の問題をチェックすることはできないんですよね。それで『未来を~ 入試実践』で最後の確認をしていくわけです。
『数学問題精講 幾何編』などに取り組んでいない以上、妥協の産物として出したもので、これは絶対に外せない教材なんだろうと思うのですが。塾の担当者が、都立新宿の問題を研究して判断したのなら、それでいいんですけどね。
(2)
都立自校作成の過去問については、電話帳のような単年度分を使うよりも、出題レベルが同程度の高校の複数年度分に取り組んでいくほうが、効果的ではあるんだけどね。同じ自校作成でも出題の方向性が微妙に違っていて、戸山の問題は少し難しいかもしれませんが、まぁいいんだけど、白鴎の数学の問題は、都立新宿の問題からは遠いのかな。
yumekanaeruakiraさんが決めたのなら仕方がないんだけど、白鴎の問題を指示して授業で解説したとなると、ちょっと疑問符がつくのかな。
新宿の過去問は絶対なんだけど、レベル・出題パターン的に都立国分寺の問題を数年分取り組むのもいいんじゃないかな。少しレベルを上げて、都立立川の問題も新宿の問題からは遠くないですね。問題は、塾に過去問があるだろうから、コピーしてもらえばいいですね。
(3)
この時期は、新しい都立自校作成問題を解いていくことと同時に、今まで解いてきた問題を使って再度、どういう流れで解いたのかその問題の解法パターンを整理することも大切です。
決して「あぁ、こうすれば解答できたんだよね」といった答え合わせだけで終わらないこと。それでは力はつかないわけですからね。
以前に、自校作成問題ノートについて書いたと思います。こうしたノートがあるなら、このノートを読み返して欲しいと思います。2月の直前期にこういうノートがいきてくるわけです。
3日で2題は解けるはずですので、都立自校作成問題についてあと15回分ぐらいは解いて欲しいなぁと思います。
3.
英語について、『英語長文問題精講』は見送りです。この教材を使うのなら、他校の都立自校作成問題に取り組んだほうがいいでしょう。『英語長文問題精講』は春休みの宿題とします。
新宿の英語は、「速く読む」というのがとても大切な要素になります。比較的易しめの自校作成問題なら何でもよいのですが、都立国立のような2題しか出題されず、比較的英文が重たい(読みづらい)ものは避けたほうがよいかな。サクサクッと読むことのできる感覚というのが大切になるからね。
直前2,3日前は、自信をつけるために都立墨田川あたりの問題に取り組んでもらうとよいかと思います。
4.
都立の理科は、『でる順』などの問題集を繰り返し学習すれば、8割以上はカバーできるんだけどね。まだ1回目すらできていないのなら、過去問で8割に達しないのも仕方ないかな。
160ページ程度の問題集で、1日1時間で1ヶ月半もあれば十分に終わる教材だと思っていたのですが。重要知識のもれがあると怖いので2回はやってもらう必要がありますが、2回目は「入試実践問題」に絞って取り組んでもらおうかと思います。入試まで何とかできるでしょ。
5.
社会は、自分が使い込んできた教科書なりノートなりテキストなり何でもよいので、最後はこれを何回も抜けているところがないかチェックしてもらうことになります。
問題を解く感覚というのも大切なので、過去問を中心に問題を解くというのもやっておいてください。
6.
点数については、H23については微妙なところなのですが、ギリギリ合格に入り込めた感じかな。H22については大丈夫だろうと思います。
こちらが予定した教材をこなしてもらえば、楽々に合格できる力をつけてもらえたのですが、まぁ7~8割程度はやってもらっているので、都立新宿高校については十分に合格できる力がついているかと思います。
数学と理科は、まだ不十分な点があるので、平日は各教科1時間ずつ勉強するとして、土日について6日分ほど残っているので、その分数学と理科の上乗せをしてください。
最後の追い込み、頑張ろうね。
グレード
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回答日時:2012/1/30 02:56:26
日比谷で検索のこと
日比谷高、対策の方法をお願いします!
こんにちは。
1度hikariさんに回答してもらった、中3のsoraです。
今回、日比谷高校対策の方法を教えていただきたくて、リクエストさせていただきました。
私は、中2まで不登校だったので、今のところ、内申がわかりません。
中1の5月からあまり行っていなかったからです。
しかし、3年になってからは今まで、遅刻・欠席は1度もないです。
入試の事を考えて、とにかく頑張るようにして復帰しました。
時々、hikariさんの回答を読ませてもらったので、hikariさんが今まで言ったような問題集は結構持っています。
そして、数学に関しては、「未来を切り開くシリーズ」で、ちょこちょこ進めていて、2次方程式までは終わったところです。
ですが、理科と社会は全くわかりません。
今の勉強のスピードでは、だめだということはわかっています。
数学も他の合格する人より、ものすごい遅れていることもちゃんとわかっているのですが、
何から勉強したらいいのか、いつまでにこの問題集は終わらせるべきだという答えがないと、私は明日でもいいやと思ってしまう馬鹿なので、何でも先延ばしにしてしまって、ゆっくり終わらせるようになってしまいます。
こんな状態では絶対に合格できないし、このままではだめだという気持ちがあります。
それにこんな状態では、他の日比谷高校を志望校にしている方にも申し訳ないと思ってしまいます。
なので、今回は、数学の未来を切り開くシリーズの「方程式と関数」「図形」「確立・統計と総まとめ」「入試実践」をつめつめのスケジュールでいいので、それぞれどれくらいまでに終わらせればいいかという事と、理科は未来を切り開くシリーズを持っているのでなんとかなるのですが、社会は参考書自体、何を使えばいいのかわからないので、社会の参考書を教えていただければうれしいです。
ちなみにですが、火・水・金は最高4時間で月・木は最高3時間で土曜日は最高13時間。日曜は最高10時間できます。
ですが、宿題も出るときは結構出てしまうので、できれば、上に書いてある時間マイナス1時間で考えてもらえればうれしいです。
とても面倒くさい質問ですが、答えていただけるとありがたいです。
こんな私ですが、サポートしていただけるとうれしいです。
長文失礼しました。
1.
都立高校は原則、中3時の評定を調査書点として計算するので、中3から頑張って登校できるようになればいいですよ。中3になってから、遅刻・欠席なしということなので、とても頑張っていますよ。
平日は、数学は1時間程度勉強することができるでしょう。英語1時間で、残りは理科・社会になりますね。
2.
都立日比谷高校の数学の対策を考えるとき、『未来を~』シリーズではなかなか太刀打ちできないんですね。なので、早い段階で基本的事項を完全にしてしまい、レベルの高い教材に取り組んでいくことが必要となります。
『未来を~ 方程式と関数』については、第4章まで終わっているということなので、5月中に中間テストの勉強と第6章、第7章のところをやっておいてください。第6章は「関数」ですが、直線の式を求めること、2直線の交点、変域、変化の割合といった、関数の基本のところだけを勉強します。中3で学習する「二次関数」は、グラフをかいて変域を確認するようにしてくださいな。
第7章の「数列」は授業では扱いませんが、都立自校作成問題でも出題されるので、勉強しておいてください。
1日6ページ程度で、1週間程度でできるはずです。
6月から、図形のところに入っていきます。おそらく中2の「図形の証明」がほとんど勉強できていないんだろうと思います。図形の証明問題は、都立共通、都立自校作成ともに取らないといけない問題になるので、必ずやっておきたいところ。
『こわくない数学 図形の証明問題』(くもん出版)が、マンガを読みながら分かりやすく学習できるので、これで勉強してもらおうかと思います。10日から2週間で。
7月の期末テストに向けて1週間確保しておきたいので、6月の残り2週間弱で『未来を~ 図形』の第1章から第4章を勉強しましょうか。第1章~第3章が小学校・中1・中2の復習、第4章が『こわくない数学』の復習部分なので、さくっと勉強。
なお、『未来を~ 確率統計と総まとめ』の第1章 確率のところもこの時期に勉強しておきましょう。
期末テスト終了後、7月は3週間程度確保できるので、『未来を~ 図形』の第5章以降と『未来を~ 確率統計と総まとめ』の第4章~第7章に取り組んでくださいね。分量は合計130ページになりますが、ゆったりとした紙面なのでそれほど無理のない分量だと思います。夏休みに入っているしね。
ざっと、こんな感じかな。
3.
夏休み教材としては、『未来を~ 入試実践』と『「基本のカギ」だけで解く入試数学』(学研)を使っていきます。『未来を~ 入試実践』については、関数や図形の入試問題の基本的な解き方を勉強していきます。『「基本のカギ」だけで~』は、中1・中2範囲も含めた全般の復習教材になりますね。
4.
今年の都立日比谷高校の入試問題では、大問4の問3で「切頭三角柱の公式」が出題されています。これは、2010年の都立新宿高校でも出題されたものですが、学校ではもちろん勉強しません。これは、『高校入試数学問題精講 幾何(図形)編』(旺文社)では触れられている内容なので、9月以降はこうした教材で勉強していくことになりますね。
5.
社会は、教科書が中心になりますね。歴史は、まずはキーワードが何時代なのか結びつける勉強をしておいてください。キーワードが教科書のどの辺に書いてあるのか確認するところから始めてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1066247605
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448728924
問題集としては、中2のときの学校のワークブックがあればそれを使用すればよいし、なければ『中学定期テストの対策ワーク 社会歴史』(旺文社)でいいんだろうと思います。
地理については、教科書に加えて『東大生が教える合格テクニック 地理』(学研)を合わせてどうぞ。地理もそれぞれの地域のイメージ作りから。
6.
学力状況については、今の時点ではわざわざ模試を受験するまでもなく、模試の過去問を使って時間厳守で問題を解いて、大まかな偏差値を求めておけばいいですよ。2年分購入すれば(合計6800円)、都立共通型入試の模試を10回分受験することができます。
http://www.shinken.co.jp/test/pastworkbook.html
模試は、都立自校作成型対応の模試を受験していけばよいかと思います。
自分で危機意識を持って、何とかしないといけないと思っているのなら、何とかなるかな。これから厳しい勉強になってきますが、めげずに頑張っていきましょう。
中3 <都立新宿高校Ⅳ>
お久しぶりです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1178157731
等で質問させていただきました。
以下が、今取り組んでいる勉強です。
《国語》
評論入門が本屋で見つからず時が過ぎてしまいました(汗)
冬休みから電話帳の公立編を塾の宿題で、自校作編を塾の授業で進めています。
自校作編はまだ1年分しか解いてないと思います。
《数学》
塾で
【1】(1)~(6)・【2~4】(1)・図形証明・できれば記述
を当日正解する方針で決定し、『入試実践』の分は新中問でもう大丈夫と言われたので
電話帳の自校作編を進めることになりました。(最近はじめたので、まだ戸山と白鴎だけ。最後まで解く予定です。)
ぼちぼち新宿の過去問も解いています。
『数学でる順』はどうしても解きたくて、抜粋して1冊完成させてしまいました・・・。
《英語》
『スラスラ読む 長文14』を終えた後はずっと電話帳の自校作編を続けています。
2年目に入って、立川まで解きました。
宿題の関係でまだ手をつけられてないのですが『英語長文精講』は購入してあります。
過去問をあまりにも早く解き終えすぎたので、2回目を2月に再演習したいと思っています。
《理科》
『理科でる順』を進めています。今は地学編で、もう少しだと思います。
過去問で8割になかなか届きません。。。
《社会》
『資料読解』を進めています。これもあと少しで終わりです。
過去問で100点に近い点数が取れるようになってきています!
過去問の点数、解いたものを書いておきます。
<H23>
国82 数43 英88 理59 社69
<H22>
国89 数44 英78 理78 社75
<H21>
国77 数42 英69 理69 社100
<H20>
数55 英72 理75
<H19>
英64 社90
<H18>
社100
★最後の追い込み(2月)は どのような勉強をすれば良いでしょうか?
★理科の計算分野が全くといっていいほどできません。どうすれば良いでしょうか?
★過去問や平均点から見て、僕の数学の目標点はどれぐらいになりますか?
長々とすみません。hikari_light_shinkansen先生、よろしくお願いいたします。
ベストアンサーに選ばれた回答
hikari_light_shinkansenさん リクエストマッチ!
1.
『評論入門のための高校入試国語』について、書店で教材が入手できないなら、ネット書店を利用すればよかったんだけどね。個別指導塾しか通っていないので、水準の高い評論についての知識や読解方法について勉強していないんだよね。そこが少し気になるところかな。
ただ、『システム中学国語』シリーズは取り組んでもらっているので、基本的な読解方法については学習できているはずです。過去問の点数を見ても大丈夫でしょう。
あと、家庭で自校作成問題に取り組んでおいて、塾の授業でこの解説を展開してもらってください。解いている時間の受講料が無駄ですから。
2.(1)
数学については、解くべき問題の流れはだいたいこれでいいです。ただ、直前の時期というのは、時間も少ないので、『新中問 発展編』では全部の問題をチェックすることはできないんですよね。それで『未来を~ 入試実践』で最後の確認をしていくわけです。
『数学問題精講 幾何編』などに取り組んでいない以上、妥協の産物として出したもので、これは絶対に外せない教材なんだろうと思うのですが。塾の担当者が、都立新宿の問題を研究して判断したのなら、それでいいんですけどね。
(2)
都立自校作成の過去問については、電話帳のような単年度分を使うよりも、出題レベルが同程度の高校の複数年度分に取り組んでいくほうが、効果的ではあるんだけどね。同じ自校作成でも出題の方向性が微妙に違っていて、戸山の問題は少し難しいかもしれませんが、まぁいいんだけど、白鴎の数学の問題は、都立新宿の問題からは遠いのかな。
yumekanaeruakiraさんが決めたのなら仕方がないんだけど、白鴎の問題を指示して授業で解説したとなると、ちょっと疑問符がつくのかな。
新宿の過去問は絶対なんだけど、レベル・出題パターン的に都立国分寺の問題を数年分取り組むのもいいんじゃないかな。少しレベルを上げて、都立立川の問題も新宿の問題からは遠くないですね。問題は、塾に過去問があるだろうから、コピーしてもらえばいいですね。
(3)
この時期は、新しい都立自校作成問題を解いていくことと同時に、今まで解いてきた問題を使って再度、どういう流れで解いたのかその問題の解法パターンを整理することも大切です。
決して「あぁ、こうすれば解答できたんだよね」といった答え合わせだけで終わらないこと。それでは力はつかないわけですからね。
以前に、自校作成問題ノートについて書いたと思います。こうしたノートがあるなら、このノートを読み返して欲しいと思います。2月の直前期にこういうノートがいきてくるわけです。
3日で2題は解けるはずですので、都立自校作成問題についてあと15回分ぐらいは解いて欲しいなぁと思います。
3.
英語について、『英語長文問題精講』は見送りです。この教材を使うのなら、他校の都立自校作成問題に取り組んだほうがいいでしょう。『英語長文問題精講』は春休みの宿題とします。
新宿の英語は、「速く読む」というのがとても大切な要素になります。比較的易しめの自校作成問題なら何でもよいのですが、都立国立のような2題しか出題されず、比較的英文が重たい(読みづらい)ものは避けたほうがよいかな。サクサクッと読むことのできる感覚というのが大切になるからね。
直前2,3日前は、自信をつけるために都立墨田川あたりの問題に取り組んでもらうとよいかと思います。
4.
都立の理科は、『でる順』などの問題集を繰り返し学習すれば、8割以上はカバーできるんだけどね。まだ1回目すらできていないのなら、過去問で8割に達しないのも仕方ないかな。
160ページ程度の問題集で、1日1時間で1ヶ月半もあれば十分に終わる教材だと思っていたのですが。重要知識のもれがあると怖いので2回はやってもらう必要がありますが、2回目は「入試実践問題」に絞って取り組んでもらおうかと思います。入試まで何とかできるでしょ。
5.
社会は、自分が使い込んできた教科書なりノートなりテキストなり何でもよいので、最後はこれを何回も抜けているところがないかチェックしてもらうことになります。
問題を解く感覚というのも大切なので、過去問を中心に問題を解くというのもやっておいてください。
6.
点数については、H23については微妙なところなのですが、ギリギリ合格に入り込めた感じかな。H22については大丈夫だろうと思います。
こちらが予定した教材をこなしてもらえば、楽々に合格できる力をつけてもらえたのですが、まぁ7~8割程度はやってもらっているので、都立新宿高校については十分に合格できる力がついているかと思います。
数学と理科は、まだ不十分な点があるので、平日は各教科1時間ずつ勉強するとして、土日について6日分ほど残っているので、その分数学と理科の上乗せをしてください。
最後の追い込み、頑張ろうね。
グレード
ナイス!1違反報告
回答日時:2012/1/30 02:56:26
2014年1月25日土曜日
世界地図
GMT Map
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Standard_time_zones_of_the_world.png
おもしろ世界地図
http://dailynewsagency.com/2012/07/22/mapping-stereotypes-2ej/
国の形を何かに例えた
http://dailynewsagency.com/2013/06/18/creative-interpretations-of-european-countries-114/
海底ケーブルマップ
http://www.submarinecablemap.com/
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Standard_time_zones_of_the_world.png
おもしろ世界地図
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国の形を何かに例えた
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海底ケーブルマップ
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ヨーロッパ地図 覚え方
まず北にある島国がイギリス(United Kingdom)、これはわかりますよね?
首都は今年オリンピックが開催されたロンドン(London)です。
次に、イギリスの西隣にある島国が、アイルランド(Ireland)です。首都はダブリン(Dublin)です。
次に、ヨーロッパ大陸部です。
ヨーロッパ大陸の中央部にある国は、スイス(Switzerland/schweiz/suisse)です。ハイジのふるさとです。首都はベルン(Bern)ですが、最大都市はチューリッヒ(Zürich)です。
スイスの西にある国は、フランス(France)です。首都はパリ(Paris)です。
フランスの南西にある国は、スペイン(espana/Spain)。首都はマドリード。
さらに西、ヨーロッパの西端にあるのは、ポルトガルです。首都はリスボン。
フランスとスペインの間の山の中にある小さい国は、アンドラです。
スイスの南にある、長靴のような形をした国が、イタリア(italia/Italy)。首都は3000年の歴史を誇るローマ(Roma/Rome)です。
ローマ市内に、世界で一番小さな国があります。バチカン(Vatican)といいます。面積はたったの44haで、東京ディズニーランドより小さいです。
また、イタリアの中にはサンマリノという小さな国もあります。
あと、フランスとイタリアの間には、モナコという小さな国もあります。カジノとF-1で有名ですね。
スイスの北にある国は、ドイツ(Deutschland/Germany)です。首都はベルリン(Berlin)。世界4位の経済大国です。(1位アメリカ、2位中国、3位日本)
ドイツとフランスの間には、3つの国があります。これらは総称して「ベネルクス三国」と呼ばれます。
北から順に、オランダ(Nederland/Netherlands/Holland)(首都アムステルダム)、ベルギー(Belgium)(首都ブリュッセル)、ルクセンブルク(Luxembourg)です。
ドイツの北は、デンマーク(首都コペンハーゲン)。ドイツの東は、ポーランド(首都ワルシャワ)。さらに東は、ベラルーシ(首都ミンスク)。もっと東に行くと、世界一広い国、ロシア(首都モスクワ)です。ベラルーシの南、ロシアの南西にある比較的広い国は、ウクライナ(首都キエフ)。チェルノヴイリ原発事故のあった国ですね。
ドイツの南東は、チェコ(首都プラハ)とオーストリア(Österreich/Austia)(首都ウィーン)。オーストラリアと紛らわしいですね。ウィーンはクラシック音楽で有名ですね。
スイスとオーストリアの間には、リヒテンシュタイン(Liechtenstein)(首都ファドゥーツ)という小さな国があります。
チェコの東は、スロバキア(首都ブラチスラバ)。かつてはチェコスロバキアとして一つの国でした。
スロバキアの南は、ハンガリー(首都ブダペスト)。
それより南は、スロベニア(首都リュブリャナ)、クロアチア(首都ザグレブ)、セルビア(首都ベオグラード)、ルーマニア(首都ブカレスト)、モルドバ(首都キシニョフ)、ボスニアヘルツェゴビナ(首都サラエボ)、モンテネグロ(首都ポドゴリツァ)、アルバニア(首都ティラナ)、マケドニア(首都スコピエ)、ブルガリア(首都ソフィア)(ヨーグルトと琴欧洲)、コソボ(最近独立した国です)があります。そして一番南には、財政破綻(笑)したギリシャ(首都アテネ)があります。4000年の歴史を誇る国でオリンピックの発祥です。
地中海には、マルタ(首都バレッタ)とキプロス(首都ニコシア)という島国があります。
ポーランドの北東に、3つの国があり、「バルト3国」と総称されます。北から順にエストニア(首都タリン)、ラトビア(首都リガ)、リトアニア(首都ビリニュス)です。
ヨーロッパの一番北、いわゆる北欧は、東から順にフィンランド(首都ヘルシンキ)(サンタクロースとムーミンの国)、スウェーデン(首都ストックホルム)(ノーベル賞の授賞式が行われる国です)、ノルウェー(首都オスロ)です。
一番北の絶海の孤島にある島国は、アイスランドです。名前からして寒そうですね。軍隊を持たない平和な国です。
首都は今年オリンピックが開催されたロンドン(London)です。
次に、イギリスの西隣にある島国が、アイルランド(Ireland)です。首都はダブリン(Dublin)です。
次に、ヨーロッパ大陸部です。
ヨーロッパ大陸の中央部にある国は、スイス(Switzerland/schweiz/suisse)です。ハイジのふるさとです。首都はベルン(Bern)ですが、最大都市はチューリッヒ(Zürich)です。
スイスの西にある国は、フランス(France)です。首都はパリ(Paris)です。
フランスの南西にある国は、スペイン(espana/Spain)。首都はマドリード。
さらに西、ヨーロッパの西端にあるのは、ポルトガルです。首都はリスボン。
フランスとスペインの間の山の中にある小さい国は、アンドラです。
スイスの南にある、長靴のような形をした国が、イタリア(italia/Italy)。首都は3000年の歴史を誇るローマ(Roma/Rome)です。
ローマ市内に、世界で一番小さな国があります。バチカン(Vatican)といいます。面積はたったの44haで、東京ディズニーランドより小さいです。
また、イタリアの中にはサンマリノという小さな国もあります。
あと、フランスとイタリアの間には、モナコという小さな国もあります。カジノとF-1で有名ですね。
スイスの北にある国は、ドイツ(Deutschland/Germany)です。首都はベルリン(Berlin)。世界4位の経済大国です。(1位アメリカ、2位中国、3位日本)
ドイツとフランスの間には、3つの国があります。これらは総称して「ベネルクス三国」と呼ばれます。
北から順に、オランダ(Nederland/Netherlands/Holland)(首都アムステルダム)、ベルギー(Belgium)(首都ブリュッセル)、ルクセンブルク(Luxembourg)です。
ドイツの北は、デンマーク(首都コペンハーゲン)。ドイツの東は、ポーランド(首都ワルシャワ)。さらに東は、ベラルーシ(首都ミンスク)。もっと東に行くと、世界一広い国、ロシア(首都モスクワ)です。ベラルーシの南、ロシアの南西にある比較的広い国は、ウクライナ(首都キエフ)。チェルノヴイリ原発事故のあった国ですね。
ドイツの南東は、チェコ(首都プラハ)とオーストリア(Österreich/Austia)(首都ウィーン)。オーストラリアと紛らわしいですね。ウィーンはクラシック音楽で有名ですね。
スイスとオーストリアの間には、リヒテンシュタイン(Liechtenstein)(首都ファドゥーツ)という小さな国があります。
チェコの東は、スロバキア(首都ブラチスラバ)。かつてはチェコスロバキアとして一つの国でした。
スロバキアの南は、ハンガリー(首都ブダペスト)。
それより南は、スロベニア(首都リュブリャナ)、クロアチア(首都ザグレブ)、セルビア(首都ベオグラード)、ルーマニア(首都ブカレスト)、モルドバ(首都キシニョフ)、ボスニアヘルツェゴビナ(首都サラエボ)、モンテネグロ(首都ポドゴリツァ)、アルバニア(首都ティラナ)、マケドニア(首都スコピエ)、ブルガリア(首都ソフィア)(ヨーグルトと琴欧洲)、コソボ(最近独立した国です)があります。そして一番南には、財政破綻(笑)したギリシャ(首都アテネ)があります。4000年の歴史を誇る国でオリンピックの発祥です。
地中海には、マルタ(首都バレッタ)とキプロス(首都ニコシア)という島国があります。
ポーランドの北東に、3つの国があり、「バルト3国」と総称されます。北から順にエストニア(首都タリン)、ラトビア(首都リガ)、リトアニア(首都ビリニュス)です。
ヨーロッパの一番北、いわゆる北欧は、東から順にフィンランド(首都ヘルシンキ)(サンタクロースとムーミンの国)、スウェーデン(首都ストックホルム)(ノーベル賞の授賞式が行われる国です)、ノルウェー(首都オスロ)です。
一番北の絶海の孤島にある島国は、アイスランドです。名前からして寒そうですね。軍隊を持たない平和な国です。
EU加盟国、加盟順、覚え方
「おらが忘れたベルトをポチに持ってくるように頼み、ポチがそろそろフェラーリで持って来るよ!」
「私(おら)は、古いベルトを忘れたけれど、会社への愛があるからギリギリの思いでスポーツカーでオフィスまでちゃんと行きます。」
原加盟国
1958年
おら、古いベルト
1973年
愛で
1981年
ギリギリ
1986年
スポーツカーで
1995年
オフィスへ行きます。
ポチはスロスロ(そろそろ)、フェラーリで来ます。
2004年
2007年
2013年
「私(おら)は、古いベルトを忘れたけれど、会社への愛があるからギリギリの思いでスポーツカーでオフィスまでちゃんと行きます。」
原加盟国
1958年
- オランダ王国 (アムステルダム) … オラ
- フランス共和国 (パリ) … フ
- ルクセンブルク大公国 (ルクセンブルク) … ル
- イタリア共和国 (ローマ) … イ
- ベルギー王国 (ブリュッセル) … ベル
- ドイツ連邦共和国 (ベルリン) … ド
おら、古いベルト
1973年
- アイルランド (ダブリン) … ア
- グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国 (ロンドン) … イ
- デンマーク王国 (コペンハーゲン) … デ
愛で
1981年
- ギリシア共和国 (アテネ) … ギリ
ギリギリ
1986年
- スペイン王国 (マドリード) … ス
- ポルトガル共和国 (リスボン) … ポ
スポーツカーで
1995年
- オーストリア共和国 (ウィーン) … オ
- フィンランド共和国 (ヘルシンキ) … フィ
- スウェーデン王国 (ストックホルム) … ス
オフィスへ行きます。
ポチはスロスロ(そろそろ)、フェラーリで来ます。
2004年
- ポーランド共和国 (ワルシャワ) … ポ
- チェコ共和国 (プラハ) … チ
- ハンガリー共和国 (ブダペスト) … ハ
- スロベニア共和国 (リュブリャナ) … スロ
- スロバキア共和国 (ブラチスラバ) … スロ
- エストニア共和国 (タリン) … エ
- ラトビア共和国 (リガ) … ラ
- リトアニア共和国 (ヴィリニュス) … リ
- キプロス共和国 (ニコシア) … キ
- マルタ共和国 (バレッタ) … マ
2007年
- ブルガリア共和国 (ソフィア)
- ルーマニア (ブカレスト)
2013年
- クロアチア共和国 (ザグレブ)
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