2014年4月11日金曜日

ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった?

2014年3月1日にロシア軍が展開し始め、世界の注目を集めたウクライナのクリミア半島。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。なかでもクリミア戦争はその代表で、今回のウクライナ危機をめぐっても、たびたび言及されています。クリミア戦争とは、果たしてどんな戦争だったのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA


クリミア戦争が発生した背景

 クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。

(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。

ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に

 これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。

これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、

・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。

それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。

 1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。

クリミア戦争が残したもの

 クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。

 後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。

 クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。

 しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。

(国際政治学者・六辻彰二)

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