私の読書遍歴 一年国語科 村尾勉
小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。
一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。
夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。
中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。
一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。
高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。
読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。
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