2014年3月17日月曜日

ウクライナ危機の原点―プーチン氏は武力でソ連崩壊の歴史書き換え

 今月12日、ロシアのプーチン大統領はクリミアのイスラム系少数民族タタールの指導者、ムスタファ・ジェミレフ氏との電話会談で恐ろしい可能性に言及した。ウクライナの報道によると、プーチン氏は1991年のウクライナのソ連離脱の合法性を疑問視したという。

 当時も世界はロシアとウクライナの戦争や対立の長期化を恐れていた。ロシアの大統領がウクライナからクリミア地方の奪取に成功すれば、ロシアはウクライナの他の地域まで手に入れようとするかもしれない。さらには、多数のロシア系住民やロシア語を話す少数派の住民を抱えるモルドバやバルト諸国の一部まで食指を伸ばす可能性がある。

 現在の危機の原点はソ連末期にある。プーチン大統領はソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」だと言って嘆き悲しんだ。ロシア政府は長い間、ウクライナ――今や2番目に大きいスラブ系国家で、かつてはソ連の広大な土地を占め、隣国として常にロシアを不安にさせる存在である――に物欲しそうな目を向けていた。現在のウクライナ危機とロシアのクリミア占領は旧ソ連地域を経済、政治、軍事を網羅するユーラシア連合に再統合しようとするロシア政府の計画に直結している。

 ソ連はかつて、ロシアと呼ばれることも多かったが、実際は複数の国家の集合体だった。これらの国家は不承不承、15の共和国としてひとまとめにされ、ソ連時代のほとんどの期間を通じて、モスクワの圧制の下に置かれた。ロシア人の人口は当時、約1億5000万人で、ソ連の人口の51%を占めるにすぎなかった。ウクライナ人の人口は5000万人で2番目に多く、ソ連全体の20%近くを占めていた。

 1991年12月1日、ウクライナが投票で独立を決めると、ソ連の運命が決まった。ウクライナ市民の90%以上が独立を支持した。現在と同様にロシア系住民が多数派を占めていたクリミアでも、54%が独立に賛成票を投じた。ソ連の海軍基地があったセバストポリでは57%が独立に賛成した。要するに、ウクライナのロシア人の多くがウクライナの独立に賛成したということだ。

 ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ氏は緩やかな連合体の枠組みを策定していたが、ロシア共和国のボリス・エリツィン氏とウクライナのレオニード・クラフチュク氏は参加を拒否した。1991年12月8日、ベラルーシの森の狩猟小屋でエリツィン氏とクラフチュク氏はソ連を解体し、旧ソ連共和国を結びつける独立国家共同体(CIS)を創設した。ゴルバチョフ氏もエリツィン氏もウクライナ抜きの連合体の成功は想像できなかった。ロシア指導部はCISのコストを負担することに違和感があったものの、ウクライナが参加するならと納得した。エリツィン氏がジョージ・H・W・ブッシュ大統領に繰り返し伝えたとおり、CIS内部にウクライナのスラブ系住民が参加しなければ、ロシアは中央アジアの共和国に数でも投票でも負けてしまうだろう。

 その結果起きたのは連鎖反応だった。ウクライナはゴルバチョフ氏が構想した連合体への参加は望まず、ロシアはウクライナ抜きの連合体を想像できなかった。それでもCISに参加したいと考えていた共和国はロシアのいない連合体を思い描くことはできなかった。

 エリツィン氏の補佐官たちはロシアを箱舟――ソ連が崩壊して生まれたばかりの民主主義や、1991年8月のクーデター未遂でゴルバチョフ氏を失脚させようとした不器用な策士たちに抵抗して勝ち取った権力を救うための乗り物――のように考えていた。こうした姿勢は経済的にも十分に納得がいくものだった。ロシア革命時、レーニンは新たなソビエト国家がウクライナの石炭なしでは繁栄できないと主張した。しかし、1991年になると、ソ連最大の富、特に莫大な鉱物資源は共和国にではなく、ロシアの地にあった。

 ソ連は他の帝国とは異なっていた。ソ連という帝国の中心にあり、豊かな資源を持つロシアは共和国を資源から切り離すことができた。つまり、ロシアは過去のどの帝国と比較しても、植民地の喪失によって多くを手にすることになっていた。エリツィン氏と彼の補佐官たちはそれをよくわかっていた。

 ソ連解体を遅らせたいと思っていたゴルバチョフ氏はウクライナの独立心を鈍らせようと、クリミアのロシア系住民の支持を利用したいと考えていた。エリツィン氏の名誉のために言うと、エリツィン氏はそれを拒んだ。エリツィン氏は冷酷なセルビアの指導者スロボダン・ミロシェビッチ氏のように、ロシア連邦から取り残された少数派のロシア系住民が住む飛び地を武力で併合することもなかった。

 しかし、エリツィン氏はソ連がロシアの役に立つ別の形で復活できるとの期待を捨ててはいなかった。エリツィン氏の補佐官はロシアが経済的、軍事的に回復すれば、ロシアの元に再び戻ってくると考えていた。1991年9月、エリツィン氏の腹心のゲンナジー・ブルブリス氏はゴルバチョフ氏の主要補佐官にこう言った。「われわれは自らを他と切り離してロシアを救い、独立性を強化しなければならない。その後、ロシアが立ち直ったときに、みんながロシアの元に集まるだろう。(連合の)問題は再び解決できる」。

 エリツィン氏の補佐官は旧ソ連の共和国がロシアの元に自主的に戻ってくることを期待していた。エリツィン氏は独立を主張するチェチェン共和国などロシア連邦内で戦う用意はあったが、ロシア国境を超えるつもりはなかった。エリツィン氏のおかげで旧ソ連は核を持つユーゴスラビアにならずに済んだ。

 エリツィン氏は旧ソ連地域を平和的に再統合しようとしていたが、その方針は後任のプーチン氏によって破棄された。プーチン氏は2008年にグルジアに、14年にはウクライナに侵攻した。プーチン氏のロシアはエリツィン氏のロシアとは異なり、新たに手に入れた経済力と以前からの軍事力の両方を利用してソ連崩壊の歴史を書き換えようとしている。

 西側はロシアがこれまでの外交政策からこのように大きく逸脱することに対して、つまり、プーチン氏が武力で新帝国主義的な目標を達成しようとしていることに対してどのように反応すべきだろうか。1991年当時、西側は冷戦時代のライバルの崩壊がおおむね平和的に進むように支援し、大成功を収めた。ブッシュ大統領は欧州の同盟国と合意を形成し、西側は旧ソ連の共和国に外交上の承認と経済協力を与えることができた。同時に、ソ連崩壊後の新たな国境を不可侵とすることを求めた。

 今のロシアは当時とは違う。米国や拡大した欧州連合もそうだ。だが、1991年に軍事衝突を阻止した方法がまた成功するかもしれない。武力による政治的主権の侵害に反対して米国とその西側の同盟国が共同戦線を形成することはロシアよるクリミア併合とソ連崩壊後の国境の修正を阻止する上で欠かせない。世界は今、ソ連帝国の夢への後戻りを許すことはできない。

 (プロキー博士は歴史学教授でハーバード大学ウクライナ研究所所長。新著「The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union(最後の帝国:ソ連の最後の日々)」は5月にベーシック・ブックスから刊行される)

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