世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
緒方洪庵のことである。
この人は、江戸末期に生まれた。
医者であった。
かれは、名を求めず、利を求めなかった。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。
そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
変人でこそなかったが、蘭方などをやっているということで、近所の人たちから、
「変わったお人やな。」
と思われていたかも知れない。ついでながら、洪庵は大坂(今の大阪市)に住んでいた。
なにしろ洪庵は、日常、人々にとって見慣れない横文字(オランダ語)の本を読んでいるのである。
いっぱんの人から見れば、常人のようには思われなかったかもしれない。
洪庵は、備中(今の岡山県)の人である。
現在の岡山市の西北方に足守という町があるが、江戸時代、ここに足守藩という小さな藩があって、緒方家は代々そこの藩士だった。
父が、藩の仕事で大坂に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
少年のころ、一人前のさむらいになるために、漢学の塾やけん術の同情に通ったのだが、生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだ。
少年の洪庵にとって、病弱である自分が歯がゆかった。この体、なんとかならないものだろうかと思った。
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
少年時代の洪庵も、そうだった。かれは、人間について考えた。
人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするということは、いったい何に原因するのか。
さらには、人体というのはどういう仕組みになっているのだろう、というようなことを考え込んだ。
この少年は、ものごとを理づめで考えるたちだった。
今の言葉でいえば、科学的に考えることが好きだったといっていい。
少年は、蘭学特に蘭方医学を学びたいと思った。
幸い、この当時、中天遊(1783~1835)という学者が、大坂で蘭方医学の塾を開いていて、
あわせて初歩的な物理学や化学につても教えていた。
少年はここに入門した。主として医学を学んだのである。
中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。二十二才のときであった。
江戸では、働きながら学んだ。あんまをしてわずかな金をもらったり、他家のげんかん番をしたりした。
そのころ、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1848)という人だった。
ついでながら、江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつうその自たくを塾にして、自分の学問を年わかい人々に伝えるのである。
それが、社会に対する恩返しとされていた。
洪庵は、坪井信道の塾で四年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。
そのあと、長崎へ行った。
長崎。
この町についてあらかじめ知っておかねばならないことは、江戸時代が鎖国だったことである。
幕府は、長崎港一カ所を外国に対して開いていた。
その外国も限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。
そういうわけで、長崎にはオランダ人がごく少数ながら住んでいたのである。
もう少し鎖国について話したい。
鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
長崎は、箱の中の日本としては、はりでついたように小さなあなだったといえる。
その小あなからかすかに世界の光が差しこんできていたのである。
当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。
人々にとって、志さえあれば、暗いはこの中でも世界を知ることができる。
例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学のいくぶんかでも自分のものにすることができたのである。
洪庵もそういう青年の一人だった。洪庵は長崎の町で二年学んだ。
二十九才の時、洪庵は大坂にもどった。
ここでしんりょうをする一方、塾を開いた。
ほぼ同時に結こんもした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。
考え深くもあった。八重は終生、かれを助け、塾の書生たちからも母親のようにしたわれた。
洪庵は自分の塾の名を適塾と名付けた。
日本のきんだいが大きなげき場とすれば、明治はそのはなやかなまく開けだった。
その前の江戸末期は、はいゆうたちのけいこの期間だったといえる。適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。
すばらしい学校だった。 入学試験などはない。
どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。
さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。
ここでは、「学問をする」というただ一つの目的と心で結ばれていた。
適塾においては、最初の数年は、オランダ語を学ぶことについやされる。
先生は、洪庵しかいない。
その洪庵先生も、病人たちをしんりょうしながら教える。
体が二つあっても足りないほどいそがしかったが、それでも塾の教育はうまくいった。
塾生のうちで、よくできる者ができない者を教えたからである。
八つの級に分かれていて、適塾に入って早々の者は八級とよばれる。
一級の人は、最も古いし、オランダ語もよくできる。各級に、学級委員のように「会頭」という者がいる。
塾生全部の代表として、塾頭という者がいた。
ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、
また別の時期の塾頭として、後に慶應義塾大学のそう立者になる福沢諭吉もいた。
適塾の建物は、今でも残っている。場所は、大阪市中央区北浜三丁目である。
当時、そのあたりは商家がのきをならべていて、適塾の建物はその間にはさまれていた。
造りも商家風で、今日の学校という感じのものではない。門もなければ運動場もなく、あるのは二階建てのただの民家だった。
その二階が塾生のね起き場所であった。そして教室でもあった。
塾生たちは、そこでひしめくようにしてくらしていた。夏は暑かったらしい。
先に述べた福沢諭吉は、明治以後、当時を思い出して、
「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。
目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。
という意味のことを述べている。
洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。
その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
緒方洪庵のことである。
この人は、江戸末期に生まれた。
医者であった。
かれは、名を求めず、利を求めなかった。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。
そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
変人でこそなかったが、蘭方などをやっているということで、近所の人たちから、
「変わったお人やな。」
と思われていたかも知れない。ついでながら、洪庵は大坂(今の大阪市)に住んでいた。
なにしろ洪庵は、日常、人々にとって見慣れない横文字(オランダ語)の本を読んでいるのである。
いっぱんの人から見れば、常人のようには思われなかったかもしれない。
洪庵は、備中(今の岡山県)の人である。
現在の岡山市の西北方に足守という町があるが、江戸時代、ここに足守藩という小さな藩があって、緒方家は代々そこの藩士だった。
父が、藩の仕事で大坂に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
少年のころ、一人前のさむらいになるために、漢学の塾やけん術の同情に通ったのだが、生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだ。
少年の洪庵にとって、病弱である自分が歯がゆかった。この体、なんとかならないものだろうかと思った。
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
少年時代の洪庵も、そうだった。かれは、人間について考えた。
人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするということは、いったい何に原因するのか。
さらには、人体というのはどういう仕組みになっているのだろう、というようなことを考え込んだ。
この少年は、ものごとを理づめで考えるたちだった。
今の言葉でいえば、科学的に考えることが好きだったといっていい。
少年は、蘭学特に蘭方医学を学びたいと思った。
幸い、この当時、中天遊(1783~1835)という学者が、大坂で蘭方医学の塾を開いていて、
あわせて初歩的な物理学や化学につても教えていた。
少年はここに入門した。主として医学を学んだのである。
中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。二十二才のときであった。
江戸では、働きながら学んだ。あんまをしてわずかな金をもらったり、他家のげんかん番をしたりした。
そのころ、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1848)という人だった。
ついでながら、江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつうその自たくを塾にして、自分の学問を年わかい人々に伝えるのである。
それが、社会に対する恩返しとされていた。
洪庵は、坪井信道の塾で四年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。
そのあと、長崎へ行った。
長崎。
この町についてあらかじめ知っておかねばならないことは、江戸時代が鎖国だったことである。
幕府は、長崎港一カ所を外国に対して開いていた。
その外国も限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。
そういうわけで、長崎にはオランダ人がごく少数ながら住んでいたのである。
もう少し鎖国について話したい。
鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
長崎は、箱の中の日本としては、はりでついたように小さなあなだったといえる。
その小あなからかすかに世界の光が差しこんできていたのである。
当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。
人々にとって、志さえあれば、暗いはこの中でも世界を知ることができる。
例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学のいくぶんかでも自分のものにすることができたのである。
洪庵もそういう青年の一人だった。洪庵は長崎の町で二年学んだ。
二十九才の時、洪庵は大坂にもどった。
ここでしんりょうをする一方、塾を開いた。
ほぼ同時に結こんもした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。
考え深くもあった。八重は終生、かれを助け、塾の書生たちからも母親のようにしたわれた。
洪庵は自分の塾の名を適塾と名付けた。
日本のきんだいが大きなげき場とすれば、明治はそのはなやかなまく開けだった。
その前の江戸末期は、はいゆうたちのけいこの期間だったといえる。適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。
すばらしい学校だった。 入学試験などはない。
どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。
さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。
ここでは、「学問をする」というただ一つの目的と心で結ばれていた。
適塾においては、最初の数年は、オランダ語を学ぶことについやされる。
先生は、洪庵しかいない。
その洪庵先生も、病人たちをしんりょうしながら教える。
体が二つあっても足りないほどいそがしかったが、それでも塾の教育はうまくいった。
塾生のうちで、よくできる者ができない者を教えたからである。
八つの級に分かれていて、適塾に入って早々の者は八級とよばれる。
一級の人は、最も古いし、オランダ語もよくできる。各級に、学級委員のように「会頭」という者がいる。
塾生全部の代表として、塾頭という者がいた。
ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、
また別の時期の塾頭として、後に慶應義塾大学のそう立者になる福沢諭吉もいた。
適塾の建物は、今でも残っている。場所は、大阪市中央区北浜三丁目である。
当時、そのあたりは商家がのきをならべていて、適塾の建物はその間にはさまれていた。
造りも商家風で、今日の学校という感じのものではない。門もなければ運動場もなく、あるのは二階建てのただの民家だった。
その二階が塾生のね起き場所であった。そして教室でもあった。
塾生たちは、そこでひしめくようにしてくらしていた。夏は暑かったらしい。
先に述べた福沢諭吉は、明治以後、当時を思い出して、
「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。
目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。
という意味のことを述べている。
洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。
その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。そういう洪庵に対し、幕府は、
「江戸へ来て、将軍様の侍医(奥医師)になれ。」 ということを言ってきた。
目もくらむほどにめいよなことだった。奥医師というのは、日本最高の医師というだけでなく、その身分は小さな大名よりも高かったのである。
つまり、洪庵の自分へのいましめに反することだった。 洪庵は断り続けた。
しかし幕府は聞かず、ついに、いやいやながらそれにしたがった。
洪庵は五十三才のときに江戸へ行き、そのよく年、あっけなくなくなってしまった。
もともと病弱であったから、わかいころから体をいたわり続け、心もできるだけのどかにするよう心がけてきた。
ところが、江戸でのはなやかな生活は、洪庵の性に合わず、心ののどかさも失われてしまった。
それに新しい生活が、かれに無理を強いた。
それらが、かれの健康をむしばみ、江戸へ行ったよく年、火が消えるようにしてなくなったのである。
振り返ってみると、洪庵の一生で、最も楽しかったのは、かれが塾生たちを教育していた時代だったろう。
洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。
かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。
弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。
やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。
後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。
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