シベリアが地図上の名称としてはじめて記録されたのは1407年で、シベリア征服の遠征軍が組織されたのは1578年。モスクワ公国のイヴァン4世(イヴァン雷帝)が、“タタールのくびき”と呼ばれたモンゴルの支配を打ち破ってロシアを統一した直後だった。それから15年後の1593年には、早くも受刑者の強制移住が行なわれたという。
当時はコロンブスがアメリカ大陸を“発見”してからおよそ1世紀で、西ヨーロッパ各国からの移民が本格化した時期だった。“新大陸”は当初、新天地を求めた移住というより、犯罪者の流刑地として使われていた。イギリスによるオーストラリア開発が本格化するのは18世紀後半だが、これはアメリカの独立により流刑地がなくなり、国内の監獄が満員になったためだ。監獄が近代的な更正施設になる前は、どの国でも犯罪者はもっとも安価な労働力だった。ロシアにとっての“新大陸”は豊富な地下資源の眠るシベリアで、そこに強制労働収容所がつくられ犯罪者が送り込まれたのは必然だった。
● 19世紀以降、急増したシベリア流刑
それでも18世紀までは、シベリアに送られる犯罪者の数は年間2000人程度だった。だが19世紀になると、ナポレオンのロシア遠征によって西ヨーロッパの自由主義(近代主義)に触れた知識人を中心に、旧態依然とした農奴制や帝政への批判が起こるようになる。その結果、大量の政治犯がシベリアに流されるようになり、その数は年間2万人、累計で200万人を超えるまでに膨らんだ。
ドストエフスキーの『罪と罰』では、金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフはシベリア流刑となり、そのあとを娼婦のソーニャが追う。そのドストエフスキー自身も社会主義者として逮捕、死刑判決を受け、皇帝の特赦によってシベリアに流され、その体験をもとに『死の家の記録』を書いている。
トルイストイの『復活』では、無実の罪でシベリアに送られた女囚カチューシャを追うネフリュードフ公爵の贖罪の旅が描かれている。劇作家とした成功し文壇の寵児となったチェーホフは、30歳のときに周囲の反対を押し切って長期のシベリア取材を敢行し、最果ての流刑地であったサハリン(樺太)を訪れ、『サハリン島』というノンフィクションを書いた。このようにシベリアは、一貫して19世紀ロシア文学の重要な背景だった。
20世紀に入るとロシアの帝政はますます混迷し、社会変革への期待が盛り上がってくる。その先導者となったレーニンもトロツキーもスターリンも、革命の指導者たちの多くがシベリア流刑を経験している。
1917年の10月革命で世界初の社会主義国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立すると、2年後には「強制労働収容所に関する法令」が発布され、帝政時代の貴族や政府の高官、反革命軍参加者、各宗派の修道僧、ネップ(新経済政策)時代の個人企業家、旧インテリ階級などが大量にシベリアに送られた。
1924年にレーニンが死ぬと、権力を掌握したスターリンは最大のライバルであるトロツキーをソ連から追放するとともに、徹底した粛清に乗り出した。とりわけ1934年のキーロフ(レニングラード・ソビエト議長)の暗殺を契機に共産党の古参幹部を軒並み逮捕・処刑した大粛清では2年間に135万人が即決裁判で有罪にされ、その半数が死刑判決を受け、残りの半数が強制収容所に送られた(キーロフ暗殺は現在ではスターリンの謀略とされている)。
● 強制収容所は人種の博覧会状態
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連は東からポーランドに攻め入り、独ソ不可侵条約によってポーランドの東半分を占領するとともに、ポーランドの軍人や旧指導層の多くをシベリアに連行した。
さらにソ連は11月、フィンランドに相互援助条約の締結を拒否されると宣戦布告もなくフィンランドに侵攻し(冬戦争)、国土の11%をソ連に割譲させた。この戦争で捕らえられたフィンランド軍の捕虜もシベリアに送られた。
1940年6月、ソ連はバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した。これらの国の住民も片っ端から逮捕され、強制移住を加えるとソ連に連行された数は10万人を超えるとされる。また同年、ルーマニアに侵攻したソ連はベッサラビアと北ブコビナを獲得したが、この地域の反共産主義者、民族主義者もシベリア送りとなった。
1941年にドイツがソ連に侵攻すると、ソ連領内に居住するドイツ移民はすべて強制労働収容所に送られた。さらにユダヤ人も「敵性国民」としてほとんどがシベリアに連行された。
次いで、ドイツに奪われた領土を奪還していく過程で、ウクライナなど一時的にドイツの占領下にあった地域の住民が続々と逮捕された。積極的にドイツ軍に協力した者はもちろん、ドイツ人とすこしでも接触した者は「消極的反逆」あるいは「ドイツ軍との協力」として軍法会議にかけられ、生活のためにやむなくドイツ兵のために洗濯をしたり、炊事場で働いた婦女子も犯罪者として重労働を宣告されたという。
戦争が終わると、ポーランド、東ドイツ、ルーマニア、ハンガリーなどソ連軍の占領した東ヨーロッパ諸国から「反ソ行為」などを理由に大量の逮捕者がシベリアに連れ去られた。また1956年のハンガリー動乱でも、1万6000人以上のハンガリー人がソ連に連行されたといわれている。
ソ連領内に侵攻して捕虜になったドイツ兵も、当然のことながら全員がシベリアに送られた。抑留されたドイツ兵は350万人を超えるといわれるが、懲罰の対象とされた彼らの置かれた環境は劣悪そのもので、収容者の9割が死亡したところもあった。日本兵のシベリア抑留は、スターリンにとってはこうした軍事捕虜の一類型でしかなかった。
シベリアの強制労働収容所はまるで人種の博覧会だった。ドイツ、中・東欧の国民やユダヤ人を中心に、英、米、仏、伊、さらにはヨーロッパの西端のスペイン人までいたという。彼らは1936~39年のスペイン内戦の生き残りで、民主化を求めた人民戦線の兵士だった。フランコ軍に破れ、希望を胸に新生活を求めてソ連に亡命したとたんにシベリアに送られてしまったのだ。
● ロシア人も大量にシベリア送りに
もちろんロシア人自身も、スターリンの魔の手から逃れることはできなかった。
ロシア革命後、海外に亡命していた白系ロシア人は、ソ連が占領した地域では全員が本国に移送され、強制労働収容所に送られた。満州には10万人あまりの白系ロシア人が住んでいたとされるが、彼らもまた日本兵と同じくシベリア行きの列車に乗せられたのだ。
さらに悲惨なのはドイツ軍の捕虜となっていたソ連兵で、彼らは戦争が終わると軍楽隊に迎えられて祖国の土を踏んだものの、ただちに逮捕されてシベリア送りとなった。「資本主義の生活環境に毒された人間の思想を改造すること」がその目的だったという。スターリンは、西側と接触した人間のすべてを潜在的な敵と見なしたのだ。
日常生活が戻っても、恐怖はずっとつきまとった。それぞれの企業には「反ソ行為」を取り締まるためのノルマが課せられており、工場に遅刻するとサボタージュと見なされ、3回の遅刻でシベリア送りにされることもあったという。このようにして、「ソ連は三つの民族に分かれている。現在監獄にいる者、過去において監獄生活をした者、そして将来監獄に入れられであろう者」という自虐的な小噺が生まれた。
抑留者たちの手記によると、シベリア最大の都市であったハバロフスクでは夕方ほぼ同じ時間に仕事が終わるので、工場から収容所に帰る男や女の囚人たちの列で大通りが埋まるほどだったという。これはシベリアの他の都市も同じで、どこも捕虜と囚人が溢れていた。
もちろん街には一般人も暮らしていたが、彼らもその多くが元流刑者かその家族だった。
政治犯の場合、刑期が終わっても居住制限がつけられ、モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)に戻ることが許されなかった。これがひとつの理由だが、さらに多いのは、自由の身となった流刑者自身が帰郷を断念したケースだ。
第2世界大戦後、ドイツとの戦場になった地域では深刻な食糧難と飢饉が発生した。それに比べれば石炭などを産出するシベリアの流刑都市の方がはるかに生活に余裕があった。そのため故郷から家族を呼び寄せ、自由民として囚人とともに炭鉱で働いたり、技能を活かして食堂や洋服店を開くなどした元流刑者がたくさんいたのだ。
シベリア流刑の規模がどの程度かは諸説あるが、多くの研究者は1500万~2500万人と推定している。これは当時のソ連の人口の20%ちかいすさまじい数だ。
ハバロフクスやウラジオストクなどシベリアの町を訪れた旅行者は、ヨーロッパのような街並みとともに、その人種の多様さに驚くだろう。その背景には、このような歴史が隠されているのだ。
*シベリア流刑の歴史については若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(サイマル出版会)を参考にした。
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