「平家物語」といいながら、実際には「源頼朝・義経」対「木曾義仲」の対決と、木曾義仲の滅びを授業で講義しているのですが、教科書には簡単なあらすじしかついていないので、あらすじをこれから語ります。
「平家物語」の中心人物、平清盛(たいらのきよもり)は、平安時代において貴族(藤原氏など)よりも身分の低い武士階級の出身でしたが、天皇や藤原氏の後継者・主導権争い(保元の乱・平治の乱)の際に、自分が有している武力・兵力を天皇や藤原氏に上手く「売りつけ」、のし上がっていきました。また、藤原氏と同様に、自分の娘(徳子)を天皇と結婚させて、生まれてきた幼児を天皇(安徳天皇)にして、自分は外祖父として権力を握ったのです。最高の官位である太政大臣に就任したり、400年もの長きにわたって首都であった平安京(現在の京都)を独断で廃止し、一時的にとは言え自分の根拠地である福原に都を遷したり、と平安時代末期の日本で第一の権力者となったのです。
この清盛こそ、平家物語の冒頭に現れる「おごれる人」「猛き者」その人なのです。全盛を誇った清盛とその一族でしたが、その運命は「久しからず」「ついには滅び」てゆくわけですね。清盛は、ひどい熱病に苦しみながら死没し、大黒柱の清盛を失った平家一族は、急速に求心力を失っていきます。
衰え行く平家一族に対して復讐心に燃えるのが、源頼朝・義経兄弟や、彼らの従兄弟に当たる源義仲(木曾義仲)たち、源氏です。源氏は、前述の保元の乱の際に頼朝・義経の祖父である源為義が、平治の乱の際には頼朝・義経の父である源義朝が、それぞれ平家によって倒されており、頼朝は命だけは助けられ伊豆(静岡県)へ流刑となり、義経は京都からはるか遠い奥州(東北地方)に、木曾義仲はその名の通り木曾(長野県)に、それぞれ身を隠していました。
さて、前述のように清盛を失って意気消沈している平家に対し、これを好機ととらえて、頼朝・義経と、木曾義仲はそれぞれ兵を挙げます。万事慎重な頼朝よりも、勇猛な木曾義仲のほうが早く平家の軍勢を次々打ち破っていき、義仲は「朝日将軍」などと呼ばれるほどの勢いで平家一族が暮らす京都へ迫ります。平家は、都を捨て、安徳天皇を伴って西国へ落ち延びていくことになりました。
義仲は、勢い込んで京都に入ります。最初は、威張っていた平家を打ち破った義仲とその軍勢は京都の人々に歓迎されました。しかし、地方で長く暮らしていたため礼儀知らずな行動を繰り返す義仲と、京で略奪や暴行を繰り返す木曾勢の人気はあっという間に下落します。そこで、安徳天皇の父方の祖父後白河法皇や、その周囲にいる貴族たちは義仲にうんざりし、義仲を倒してほしいという旨を、鎌倉で勢力を蓄えていた頼朝に依頼するのです。同じ源氏の義仲が恥ずかしい行為を繰り返しているのは、源氏全体の不名誉だということもあり、頼朝は、弟の九郎義経を大将にして、義仲を倒すべく大軍を派遣したのです。
さて、義仲を追討する軍が鎌倉を出発する際、梶原景季が、主人である頼朝の邸を訪れます。梶原は、この戦いで自分こそが先陣したいと思い、頼朝が大切にしている日本一の名馬「生食(いけずき)」をいただきたいと頼朝に願い出ます。この時、頼朝は「万一の時に自分が乗る馬だからだめだ」と却下し、「生食」に次ぐ名馬とされる「摺墨」を梶原に与えたのです。ところが、やはり先陣をねらっていた佐々木高綱が、梶原の訪問の後で「生食」をいただきたいと頼朝に願い出たところ、「鎌倉殿(頼朝)、いかがおぼしめされけん」、佐々木高綱に「生食」を与えてしまったのです。
収まらないのは、「生食」を与えられなかった梶原です。梶原は、佐々木が「生食」を得たことを知るやいなや、佐々木と「刺し違へ、よき侍二人死にて、鎌倉殿に損取らせ奉らん」と考えるのです。梶原は、佐々木に話しかけますが、佐々木は機転をきかせて「『生食』はいただいたのではない、盗んだのだ」と答えるのです。これには、梶原も苦笑いして腹立ちが収まり「さらば、景季も盗むべかりけるものを」と言って、矛を収めます。
このようなエピソードがあって、「宇治川の先陣」のシーンに至ります。授業で扱ったように、佐々木が先陣し梶原がそれに続いて、義経の宇治川を渡るという作戦は成功します。義経軍に敗れた木曾義仲は、次々と兵を失い、ついには乳母子の今井四郎兼平と二人だけになってしまうのです。こうして、義仲最後の時が訪れます――。
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