2014年7月31日木曜日

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語

http://thepage.jp/
7月6日(日)13時0分配信
 アルゼンチンの雲行きが怪しくなっています。といってもブラジルで行われているワールドカップ(W杯)サッカーのことではありません。アルゼンチンの国家財政のことです。2001年以来、13年ぶりの債務不履行(デフォルト)に陥る不安が高まっています。ここでいうデフォルトとはアルゼンチンが自国で発行した国債が返せない状態をいいます。一体どういうことなのでしょうか。

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
[図表]再びデフォルト危機に陥っているアルゼンチン
どうして再びデフォルト危機になった?
 国債とは国の借金です。いつまでにこれだけの利息をつけて返すから貸してくださいと内外の投資家に募ります。「借金」という点で企業のそれと似た点が多々あります。まず約束の日までに借金の元本と利息を払わないと誰も信用してくれなくなります。追加の借金は誰も信用しませんからもちろんできなくなります。

 返すアテがない限り、発行した国は投資家(債権者)に減額をお願いするなど頭を下げなければなりません。アルゼンチンの場合、そうした事態が2001年に発生しました。したがって、現在はデフォルト後に債権者と話し合って決めた金額を支払っている最中となります。その途中で「やはり返せなくなった」に陥ったかもしれない……というのが今回の出来事です。

 2001年のデフォルト後、債権者の9割は減額に応じました。まったく返ってこないよりは少しでも回収したいからです。デフォルトしたからといって、アルゼンチンという国が消えてなくなるわけではありません。いくらか有望な産業もあります。その点では企業が民事再生法や会社更生法を申請して倒産するのと似ています。主体は存続するので粘り強く待とうと考えるのです。

 ところが一部の債権者は減額そのものに応じませんでした。「貸したカネは約束通り払え」と主張したのです。2014年6月、アメリカの裁判所が訴えを認め、全額を返さなければ7割ともいわれる減額に応じた債権者への利払いも認めないと命じました。アルゼンチン政府は、もし判決通りの全額返済(約1兆5000億円)をしたら、中央銀行が保有する外貨準備の5割を超えるとの試算を公表しました。つまり返せるのです。

 ただそうしてしまうと、前述の9割にのぼる減額受け入れ組の面目が立ちません。「全額よこせと主張したら払われるならば、大金をどぶに捨てるような減額を飲んだ我々はどうなるのだ」と。そうした声が大勢となったら10年以上何とか行ってきた返済計画自体を見直さざるを得ず、それが全員全額という結論になれば払えません。といって全額組への支払いを拒否したら判決にしたがって減額受け入れ組への利払いもできません。

 アルゼンチン政府は裁判結果を「不正で不当」と反発、予定通り利払いを続けるとしました。払う力があっても技術的に払えない状態で、2001年の「対外債務(借金)の元本と利子の支払いを停止した」と発表した状態とは異なります。今後はアルゼンチン政府が全額要求組と話し合って(お互い顔も見たくないでしょうが)譲歩を引き出すか、裁判の決定と現実を足して二で割ったような抜け道を探るような動きになりそうです。

市場は「影響は限定的」との見方
 市場は今回のデフォルト危機をおおむね「影響は限定的」とみなしています。何しろ返せるわけですから。とはいえ理由が何であっても「アルゼンチンはお騒がせ国」というレッテルが再びバシッと貼られるのがいい話であるはずもなく、通貨ペソは下落傾向に転じています。お騒がせ国の通貨は信用できないので売られてしまうのです。すると輸入品が高くなって国民生活が脅かされかねません。

 今のアルゼンチンはインフレ(物価が継続して上がる)気味ながら比較的順調な経済成長を遂げています。不安材料のインフレが物価高で助長されると国内経済にかなりの打撃を与えます。通貨が下がってメリットのある輸出もアルゼンチンの主力はもともと価格の安い農産品中心なので追い風より向かい風の方が強く吹きます。堪りかねて輸入規制でもしようものなら自由貿易圏から一層白い目を向けられるでしょう。

2001年のデフォルトはなぜ起きた?
 そもそもの発端であった2001年のデフォルトはなぜ起きたのでしょうか。アルゼンチンはパンパと呼ばれる肥えた平原を持ち、小麦や牧畜が盛んに行われ、フリゴリフィコ(保冷船)の運行開始以降は欧州などの一大食料輸出国として1920年代までは有数の富裕国でした。しかし農業とくに特定の産品に偏った輸出中心経済は1929年から始まった世界恐慌で大きな挫折を味わいます。農産品は工業製品よりも生産が不安定になりがちな上に、単価が安いために恐慌(突発的大不景気)に弱かったのです。

 この反省から戦後は工業化にも取り組みます。代表的な方法が輸入代替工業化で工業先進国から輸入してきた製品を国内で生産して自給していこうとの試みでした。一種の産業保護政策で多国籍に展開する企業との競争に敗れ、他方で補助金などを通して特定の企業が国内市場を独占するなど競争原理が働かなくなったり汚職や腐敗の温床にもなりかねない状態が続いて経済が行き詰まります。

 打破するために一転して国際市場経済への参入へとかじを切り替えたものの、今度は外国資本の参入、国内産業の衰退、インフレによる途方もない物価高などを招き、91年に「1ペソ=1ドル」の固定相場に変え、米ドルを後ろ盾にするなど苦心に苦心を重ねました。それでインフレはいったん収まり、10年近く安定します。ここで以前からの借金問題を少しでも改善すればよかったのを当時の政権は逆にばらまきへ走り、悪化したまま「その時」を迎えます。

今回の危機は“最悪のタイミング”
 90年代後半のアメリカのクリントン政権はドル高政策に出て外資の呼び込みをはかりました。特効薬だったはずの固定相場もペソが実力以上の評価を受ける形となり、国際水準から考えて労働者の賃金が高くなり、アメリカとは逆に外資が逃げ出します。固定相場ではドル高=ペソ高なので輸出も減少し、当然少なくなる税収を補うため国債に依存し、それが嫌われてさらに投資が減っていきます。

 ここで実勢に見合った相場となる変動相場制に移るべきという意見も出たものの、固定相場の成功体験と、それを失うとペソで収入を得て国際的信用のあるドルを借りていた企業などにの反発を恐れて踏み切れずにいました。同じ固定相場制の競合国ブラジルが99年に変動相場制に移って国際競争力を回復させたのと対照的に、ペソは過大評価と市場の信認を失います。とともに積もり積もった借金が疑問視され資本がさらに大流出、政府もあわてて公務員給与カットなどの対応をするも暴動にまで発展した揚げ句、ついに2001年、デフォルト(お手上げ)宣言せざるを得なくなりました。

 その後、アルゼンチンは変動相場制に移行し最悪期は脱するも、未だ返済途上にあって新たな国債を発行できません。そうなると道路などインフラの充実や補修に回すカネがなく厳しい状態が続いていました。一刻も早く返し終えて、デフォルト以来、締め出しを食らっている国際資本市場に再参加したいところでの新たなデフォルト危機。アルゼンチンにとって最悪のタイミングです。




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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)

2014年7月30日水曜日

<中国>イチからわかるウイグル族独立問題





2013年11月1日(金)10時30分配信

 北京の天安門広場で、車が歩道に突入し5人が死亡した事件について、当局は新疆(しんきょう)ウイグル自治区の活動家によるテロと断定しているのですが、背景にはウイグルにおける中国からの独立問題があります。ウイグルとはどのような場所で、彼等はなぜ中国から独立しようとしているのでしょうか?

自治区の半数がイスラム教徒
 新疆ウイグル自治区は中国の西端に位置し、人口約2000万の半分がイスラム教徒のウイグル族で占められている特殊な地域です。中国が王朝だった時代には、中国やモンゴル遊牧民族の圧力を受けながら独立と従属を繰り返していました。この地域にある楼蘭という古都はシルクロードの舞台としても有名な場所です。しかし1949年に中国共産党が政権を握って以降は、完全に中国に併合され、1955年に新疆ウイグル自治区という名称になり今に至っています。

 中国当局は、新疆ウイグル自治区に大量の漢族を移住させ人口比を逆転させようとしており、政治や経済といった重要な分野では漢人が大きな影響力を持っています。また中国は建前上、宗教を否定する社会主義国家なので、イスラム教の活動について常に監視下に置いています。このため一部の住民は中国の統治に対して強く反発し、中国からの分離独立を主張しています。

2009年暴動では約200人死亡
 2009年には同自治区のウルムチで、漢族によるウイグル族への襲撃事件を発端とした激しい暴動が発生し、中国当局の発表によると約200人が死亡しました。当局は暴動を扇動したとしてウイグル族9人を処刑したほか数百人が拘束されたといわれています。

 今年に入っても、警官隊と活動家の衝突などが何度も起こっていますが、同自治区の内情は外国のマスコミが取材できないためあまり明らかになっていません。一部の報道によれば、日本が戦時中に導入していた隣組(住民を相互監視させ密告させる仕組み。現在の町内会や回覧板はその名残)によく似た制度を導入し、住民を監視下に置いているといわれています。

軍事的に重要な地域
 中国はチベットでも同様の問題を抱えており、10月には国連人権理事会が中国に対してチベットやウイグル自治区などにおける少数民族の権利保護を求めました。しかし、中国側は「国を分断するような行為を受け入れることはできない」と主張し、反体制活動を弾圧するのは正当な行為であるとの立場を崩していません。かつて西側諸国は、中国のこうした人権弾圧を強く批判していましたが、現在では大国となった中国との経済協力を優先し、これらの問題については黙認しています。

 中国人は歴史的に、北方と西方の備えを完璧にしないと中国本土を守ることはできないとの考えを強く持っており、新疆ウイグル自治区は軍事的に重要な地域と認識されています。また一部民族の独立を認めてしまうと、数十あるといわれる少数民族が、一斉に中国政府に反旗を翻す可能性があり、当局はこうした事態を強く危惧しています。中国はよほどのことがない限り、この地域の独立を認めることはないでしょう。


(The Capital Tribune Japan)

2014年7月23日水曜日

元ソニー開発者のヒット商品“扇風機付き作業服” 「一度着たら手放せない」

2014.7.12 18:04
 昨年の3倍、25万着がすでに完売

 「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。

 商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。

 試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。

 そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。

 その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。

 ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目

 当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。

 「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。

 しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。

 「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。

 1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。

 開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」

 ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。

 その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。

 すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。

 「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」

 最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)

2014年4月26日土曜日

村尾先生の作文 April 25th 2014

私の読書遍歴 一年国語科 村尾勉

 小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF  が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。

 一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。

 夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。

 中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。

 一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。

 高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。

 読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。

2014年4月25日金曜日

宮中晩餐会メニューApril24th2014

 「国賓」として来日したオバマ米大統領。国賓は政府が日本に招待する外国要人のうち、最上級の手厚いもてなしをする最高ランクの賓客だが、オバマ大統領が平成21年に来日した際には国賓ではなく、「実務訪問賓客」という形だった。

 来日する外国賓客の区分は「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」「実務訪問賓客」「外務省賓客」の順番で、それぞれ待遇が決まっており、国内の滞在経費は日本側が負担する。

 最もランクの高い国賓は国王や元首が対象で、天皇、皇后両陛下が参加される一連の行事に臨む。まず、三権の長、全閣僚も出席して皇居で「歓迎行事」が行われた後、両陛下との「ご会見」「宮中晩餐会」と続き、国賓が東京を出発するにあたっては、両陛下が「お見送り」に行かれる。この“4点セット”が国賓接遇の原則となっており、両陛下は事前に外務省の担当者らから相手国について説明を受け、入念に準備をされる。

 予算や陛下のスケジュールなどの都合から、国賓待遇は年間1、2件。今年3月にはベトナムのチュオン・タン・サン国家主席が国賓として来日している。

 国賓、公賓の場合、通常は東京・元赤坂の迎賓館が宿泊先として用意されるが、オバマ米大統領は今回、迎賓館ではなく、都内の老舗ホテルに宿泊。皇居訪問の際の車も、宮内庁が国賓に差し回す御料車ではなく、米国側が自前で用意した大統領専用車を使用するなど、他の国賓とは異なる点がうかがえる。

 改修工事のため使用できなかったケースなどを除くと、過去に来日した国賓で迎賓館を利用しなかったのは、米国のカーター大統領(昭和54年6月)とフランスのシラク大統領(平成8年11月)の2人だけ。駐日米大使公邸に泊まったカーター氏の場合は、迎賓館が東京サミットの会場として使われていたという事情があるが、今回は「特に米国側から説明はない」(宮内庁関係者)という。

 国賓が東京を離れる際には、両陛下がお別れのあいさつのため宿泊先を訪問されるのが慣例。宮内庁関係者は「今回も同様」というが、宿泊先が変われば警備の仕方は大きく変わる。

 通常、来日した国賓の移動に供されるのは、トヨタの「センチュリーロイヤル」。両陛下が国会開会式や東日本大震災追悼式、全国戦没者追悼式ご臨席の際などに使用され、差し回しの際も宮内庁の運転技官がハンドルを握るが、オバマ氏が平成21年に来日した際も、事前に米国から輸送機で運ばれた特殊装備の大統領専用車が使われた。宮内庁関係者は「米国の場合は非常に警備が厳しいのだろう」と話している。

昭和49年11月19日、フォード、田中角栄
昭和54年6月25日、カーター、大平正芳
昭和58年11月10日、レーガン、中曽根康弘
平成4年1月9日、ブッシュ、宮沢喜一
平成8年4月17日、クリントン、橋本龍太郎


料理
コンソメスープ
マダイの洋酒蒸し(付け合わせにグリーンアスパラガス、舌平目の細切りパン粉揚げ)
羊のもも肉の蒸し焼き(付け合わせに温野菜、アピオスの空揚げ、クレソン)
サラダ
アイスクリーム(富士山型)
果物(メロン、イチゴ)

飲み物
白ワイン(コルトン・シャルルマーニュ1999)
赤ワイン(シャトー・マルゴー1994)
シャンパン(モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨン1998)

オバマ米大統領を迎えての天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が24日、皇居・豊明殿(ほうめいでん)で行われた。

宮中晩さん会で出される料理は、明治時代以来の慣例でフランス料理。宗教上の制約を受けないことから羊肉がメイン料理となることが多く、今回の晩さん会も羊のもも肉の蒸し焼きがフルコースのメインとなった。

 また、メニューからは「旬の食材で国賓をもてなす」という宮内庁のこだわりも垣間見える。魚料理で使われているマダイは産卵を控えて脂が乗った今ごろがまさに旬だ。3月に来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席夫妻に出されたサワラも春が旬だった。

 農産物については御料(ごりょう)牧場(栃木県)で育てたものができるだけ使用される。今回はコンソメスープのだしとなる鶏肉、メイン料理の羊などが同牧場で育てたものだという。

 ワインは宮内庁が常時4000~5000本を保管しており、国賓にはその中で最高の1本をセレクトして提供する。10年ぐらい熟成させたワインを出すことが多く、晩さん会のたびに銘柄は異なるというが、日本酒の銘柄は常に「菊正宗」だという。



オバマ米大統領を歓迎する宮中晩さん会での天皇陛下のあいさつ全文は次の通り。

 この度、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマ閣下が、国賓として我(わ)が国を御訪問になりましたことを心から歓迎いたします。ここに今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。

 まず大統領閣下に、三年前に起こった東日本大震災に際し、米国政府及び多くの米国国民からお見舞いと支援を頂いたことに対する、私どもの深い感謝の気持ちをお伝えしたく思います。この地震と津波による災害では、死者、行方不明者が二万人以上となり、建物は壊され、美しい海や山に囲まれた町や田畑は、がれきに覆われました。二万人を超える貴国の軍人が参加した「トモダチ作戦」を始めとし、貴国の多くの人々が被災者のために行った支援活動は、物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました。

 歴史を振り返りますと、貴国と我が国との交流は、我が国に来航したマシュー・ペリー提督と徳川幕府の交渉により、一八五四年日米和親条約が調印されたことに始まります。我が国はそれまで二百年以上にわたり鎖国政策を行ってきましたが、開国を決意し、欧米の国々より、当時日本にとり未知であった領域分野の学問や技術については、これを鋭意学び、国を発展させることに努めました。貴国の人々に負うところ、また大なるものがあります。

 私が貴国を初めて訪れましたのは、一九五三年、エリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列した機会に、貴国を始めとする欧米諸国を訪れた時のことであります。一九六〇年、日米修好百年の年には、現在の皇太子を出産して間もない皇后と共に、初めて公式に貴国を訪問し、アイゼンハワー大統領御夫妻主催の晩餐(ばんさん)会にお招きいただき、また多くの米国国民と触れ合う機会に恵まれる中、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドの各地を約二週間をかけて訪問いたしました。私どもにとり今も忘れられないのは、ニューヨーク訪問の際、貴国政府及びニューヨーク市が大型船によるマンハッタン島巡りを計画し、船上に当時貴国で勉学にいそしむ大勢の日本人留学生を招いてくださったことです。当時学習意欲にあふれつつも、余裕のない戦後の生活の中でそれを十分に満たせなかった我が国の有為な若者に、更(さら)に学ぶ機会を与えてくれた貴国の奨学生制度は、実に有り難いものであったと思います。

 その後も国賓としての訪問も含め、貴国を何度か訪れておりますが、その都度貴国民から温かく迎えられたことが心に残っています。貴国が多様な人々を包容し、民主主義の理想を求め、より良い社会を築こうと常に努力する姿には深い感銘を覚えます。貴国と我が国の両国民は、先の戦争による痛ましい断絶を乗り越え、緊密な協力関係を築きました。両国民が来し方を振り返り、互いの理解を一層深め、相携えて進んでいくことを願ってやみません。

 両国の友好の象徴となっている桜とハナミズキの季節に行われる大統領閣下のこの度の御滞在が、実り多きなものとなりますよう願っております。

 ここに杯を挙げて、大統領閣下及び御家族の御健勝と、アメリカ合衆国国民の幸せを祈ります。


2014年4月11日金曜日

ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった?

2014年3月1日にロシア軍が展開し始め、世界の注目を集めたウクライナのクリミア半島。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。なかでもクリミア戦争はその代表で、今回のウクライナ危機をめぐっても、たびたび言及されています。クリミア戦争とは、果たしてどんな戦争だったのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA


クリミア戦争が発生した背景

 クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。

(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。

ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に

 これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。

これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、

・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。

それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。

 1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。

クリミア戦争が残したもの

 クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。

 後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。

 クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。

 しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。

(国際政治学者・六辻彰二)

2014年4月6日日曜日

windows7 setting

Windows7 enterprise
Installed at April 6th


use KMS activator

open administrator mode

1.paste in cmd
slmgr.vbs /skms 127.0.0.1:1688

2.launch KMS activator and push activation windows VL

3.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -skms 127.0.0.1

4.paste in cmd
cscript %WinDir%\System32\slmgr.vbs -ato

5.for check, paste in cmd
slmgr /dlv



computer name is ... kanzo7-PC
log on name is ... kanzo7
log on passwords are ... kan
homenetwork passwords are ... kanzo1818

パスワードなしでログオンする方法
 すべてのプログラム→アクセサリ→ファイル名を指定して実行→control userpasswords2→パスワード入力必要のチェックを外す。

windows7 installed items are...
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