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2016年7月2日土曜日

池上彰氏の凄さと限界

池上氏関連のホッテントリがここ数日あがってたので、自分の思うところを書いてみる。
自分は一応、新卒で池上氏と同じ業界に就職(といっても、自分は紙媒体)し、記者という肩書をもらっていた経験がある。
7年ほど現場にいて、体壊して、ちょっと内勤の管理部門にいさせてもらったのだが、なんか、内側から会社を見ているうちにもともと、あんまり向いていなかったかな?と思っていた業界がさらに嫌になって転職して10年ちょっとになる。

普通、あの業界では、最初の何年か地方で修行して、いずれ東京や大阪に戻ってくるパターンが多いが、自分の就職先は、いわゆる経済紙で(ってもう社名明かしたようなもんだが)地方支局が貧弱な会社だった故、新卒が地方支局に行くという制度がなく、入社から退社まで東京で過ごした。


池上氏の凄さは、なんといっても、情報を取捨選択してわかりやすく伝えるプレゼン能力と、守備範囲の広さだと思う。
で、あれだけのことを伝えられるには、背後に相当の知識があるのであろうと思われている。
その「相当」がどの程度なのか、というと、たぶん、世間一般の人が想像するよりは、かなり浅くて、
けっこうぎりぎりのラインでしゃべっているのではないか、という気がする。それでももちろん、かなりのレベルではあるだろうが。
いわゆる大手のメディア企業の記者にまず最初に求められるのは、
「昨日聞きかじったばかりのことを、あたかも以前から詳しく知っているかのようにしゃべったり書いたりする能力」である。
なにしろ、日々、いろんなことが起こるのだ。
なかなか深堀している暇などない。
そうこうして、キャリアを積んでいくうちに、それぞれの専門分野ができていくわけだが、
大半の人は、きちっと専門分野を確立する前に、デスクや管理職になったりして、だんだんと現場から離れていく。
記者職としてキャリアを全うする人(編集委員とか論説委員とか解説委員とか)は少数派だ。

池上氏の経歴を見ると、NHKで地方局や通信部を回った後、東京の社会部で気象庁や文部省、宮内庁などを担当した、とある。
まあ社会部記者として一般的なコースという感じだ。
東京では、悪名高き日本の「記者クラブ」に所属し、最優遇される立場で、役人から懇切丁寧なレクを受けて、
それをニュース原稿に仕上げるのが、まず最初の基本的な仕事だったと推測する。
NHKの記者は特に、「特ダネ」を取ってくることよりも、「報道されるべき情報を落とさない」ことをなにより求められるらしいので、
多分、想像以上に、定例記者会見に出席したり、資料をチェックしたり、他社の報道を確認したり、
思いのほかルーティーンワークが多いのではないかと推測される。
(なお、NHKスペシャルなどのドキュメンタリー番組は、主にディレクター職の人が担当しているので、
一つのテーマを深くじっくり追いかけるのは、あまり記者の仕事ではないらしい。
実は自分もNスぺ作りたくてディレクターを第一志望にしてNHK受けたのだが、見事に落ちた)


で、そんなに知識が深くなくても記者が務まるのかといえば、そこそこ務まる。
自分は、そのさして長くない記者のキャリアの大半を、メーカーを中心とした企業の取材で過ごしたのだが、
正直、最初は、「貸方」「借方」もよくわかってなかった。(大学は政治学選考だったし)

それでも、入門書片手に勉強しながら記事書いて何とかなっていたし、
そもそも「大手メディアの記者」が企業の広報部を訪ねると、結構いろいろ懇切丁寧に教えてくれるのである。
そりゃ、変な記事書かれたくないからね。
多分、NHKの記者というのも、それなりの対応を受けるはずである。
もちろん、伝えてほしいことは積極的かつ懇切丁寧に伝え、触れられたくないことは隠しながら、だが。
中には、「たいてい経験の浅い若手が担当する企業」というのがあって、そういう会社の古参の広報さんの中には
「今、編集委員の何々さんねえ、あの人が新人のころ、私がいろいろ教えてあげたものだよ、わっはっは」なんて言ってたりした。
もし、あなたの会社の広報部に、なんだか大学出たての記者ばっかりくるようだったら、
それは、メディアから軽んじられている証拠である。

もちろん、教わってばっかりでは舐められるので、こっちも勉強していくわけだが、
何しろこちらは早いと一年で担当が変わってしまうが、
相手はその会社一筋なわけで、知識の深さでは、敵わないのが通常だ。
知識を深めるのは、そこそこにしておいて、知らなくてもはったりかませる胆力をつけたほうが役に立つ。
そうこうしているうちに、正面から取材を申し込んだり、正規の記者会見に出席したり、
ニュースリリースを原稿に仕立て上げているばっかりでは通り一遍の記事しか書けず、
社内的にもマイナス点はつかないものの、プラス点がつけられることもないので、
独自に夜討ち朝駆け(アポなしで取材対象のところに押しかける)したり、独自ルート作ったりし始めるのである。
そんなことをしているうちに、自分のような、結局途中で業界を去ってしまうような木っ端記者でも、
ごくごくたまには、取材担当企業の株価をストップ安にしちゃうような記事を書くチャンスが巡ってくることもある。

まあでも、ぶっちゃけいえば、そこそこキャリアを積んでいる先輩の中でも
減価償却費が資金繰りにどういう影響を与えるのかよくわかっていないまま、
それでも企業の経営危機について記事を書いているような人はざらにいた。
(まあ、自分も経験積みながらようやくわかるようになったクチで、
当初はなんのことやらわからなかったのだから、偉そうなことは言えないが)
それでも、首にはなりはしない。


そういえば、思い出したことがある。
今の若い人にほ想像もつかないだろうが、その昔、世界のエレクトロニクス業界をリードし、
今でいえばappleと同じくらいのブランド力で各種製品を生み出していたSONYという会社があった(今もある)。
当時はまだまだ、かつての威光が残っていた。
自分は、そこのメイン担当になるほどの能力もキャリアもなかったが、
たまたま、SONYの会社が取り組んでいる内容が、自分の取材テーマに関わっていたことがあって
取材を申し込んだことがある。
いわゆるストレートニュースではなくて、連載コラムのような記事を書くためである。
で、SONYに行ってみて驚いた。
美人広報さんが、それまでの取材で見たことないような、
膨大でかつ、非常にわかりやすくまとまった資料をお持ち帰り用に用意していたのである。
なんかもう、取材しなくても、この資料テキトーにまとめたら記事書けちゃいそうな。
もちろん、そんな手抜き仕事をして相手の思うツボにはまってはいかんので、
きちんと担当者さんに話を聞いて、自分なりの記事を書いてみたのだが、
やっぱり資料に引きずられなかったかといえば、影響はあったわけで、
まあ、恐ろしい会社であった。
かつて「メイド・イン・ジャパン」の強さの象徴として流布されたSONY伝説は、
もちろん実力の部分もあったけれど、伝説を伝説たらしめようという広報戦略によって
かさを増されていた側面も多かったというのは、そこそこ業界で有名な話である。
なんだか、大分、話がそれた。


多分、池上氏は、NHKでそこそこの社会部記者だったのだろうと思われる。
そんな彼の経歴の中で異彩を放っているのは、そろそろ管理職か専門記者か、という分岐点にさしかかったあたりで
キャスターに転身し、その後10年以上にわたって「週刊こどもニュース」を担当していたことだろう。
(すごい優秀な記者と認められていたら、ここいらで、海外支局あたりで経験つんでいるはずである)
そこそこの取材経験を積んだ後で、
「衆議院と参議院って、どう違うのですか?」とか「比例代表制ってなんですか?」とか、
「どうして輸出が中心の企業は、円高ドル安になると困るんですか?」とか
あらためて、そういうレベルからニュースを解説する仕事を10年以上も続けたジャーナリストは、
少なくとも今の日本では皆無に等しいんではなかろうか?


普通、そこそこキャリアを積んだ記者は、あらためてそんな仕事をしたがらないし、
そもそも、そんなレベルことは、真っ当な社会人ならば学校で習っているはず、というのが日本社会の建前で、
読者や視聴者を、そんなこともわからないヤツらと想定して記事や番組を作っていたら、
ある意味、「お客様をバカにしている」ことにもなりかねない(と、みんな考えていたのだろうと思う)。
まあ実際、そのレベルで作ってみたら、予想以上に受けたわけだが。

「こども向け」の番組というフォーマットを得ることで、池上氏はそういう稀有な仕事を追及していった。
その結果、得たのが、あのたぐいまれなるプレゼン能力だと思うのだ。
多分、池上氏程度の知識や取材能力をもった記者は、NHKや全国紙にはゴロゴロしていると思う。
(自分のかつての勤め先でも、そこそこキャリアがあって、東京でそれなりに仕事している先輩は、皆さんそれなりに凄かった)
でも、その知識や取材結果を子供にわかるレベルでよどみなくしゃべれる人は、そうはいない。

池上氏のニュース解説番組をたまに拝見すると、自然災害のメカニズムから、最新の科学上の発見、日本の選挙から世界経済まで
あらゆる森羅万象を斬っておられるようである。
だが、自分が見る限り、その解説は一般紙や新書本で得られる知見を超えるものはほとんど見ない。
「いや、それは、視聴者に分かりやすいレベルにしているからで、その背後には物凄い知識が・・・」という見方もあるが、
果たしてどうだろうか?
多分、毎日6紙読むという新聞をベースに、ひたすら横に広くいろいろな情報を取り入れておられるように見える。
海外取材などの映像を見ることもあるが、どうも、テレビ局とコーディネータによるセッティングが透けて見えてしょうがない。
多分、その経歴からいっても、海外取材に独自のルートなどはそんなにお持ちではなさそうだ。
やはり、「あまり深くないレベルで次々とあらゆる分野に取り組んでいく」ことがこの人の真骨頂だと思う。
それが悪い、ということではなくて、それがこなせる凄さがある、ということである。

著書を読んでも(といっても、ほんの数冊目を通しただけだが)、たとえば同じNHK出身の元ワシントン支局長の手島龍一氏とか、
あるいは日経の元スター記者で週刊ニュース新書の田勢康弘氏の著書のような、深い取材と鋭い洞察に支えられた
凄みのようなものは感じられない。
そのかわり、入門書としてのわかりやすさはピカイチだ。
やはり、この人の存在価値は「広く入門レベルの知識を提供する」以上でも以下でもないのだろうと思う。
(なお、今、軽く検索してみたらどうやらニュース英語の本まで出されているようだが、
膨大な著書のどこまでご自分で書かれているのだろうか?という疑問は置いておく。
出版業界では、驚くほど「著者が適当にしゃべったことを編集者やライターがまとめた本」というのが、世間で思われている以上に多い。
あと、池上氏が英語を話しているところって、あんまり見たことないような。
NHKの採用試験を突破するくらいだから、読むことに関しては、そこそこのレベルと推察できるが)



さらに、分かりやすさの理由の一つとして、「子供のような素朴な疑問にも正面から取り組む」というのがあるように思う。
巷間よくいわれる、選挙特番の「池上無双」の象徴ともいわれる「創価学会の話題」についても、
タブーへの果敢な挑戦というより、素朴な疑問を追求していった結果なのかもしれない。
「どうして自民党は公明党と組んでいるんですか?」という質問は、大人はあんまりしない。
それは何となくタブーであると感じているせいでもあるが、一方で「そりゃ、理由はみんな知っている」からである。
ましてや、「政治記者歴何十年」を売りにするような政治ジャーナリスト諸氏は、
そんなことよりも、自分の掴んできた独自情報を話したくて仕方なかろう。

だが、池上氏はそういう疑問をスルーしたりしない。
「それは、公明党には創価学会という支持母体があって、固定票が見込めるからですよ」と優しく語りかけるのだ。
で、「では、公明党と創価学会の本部がある信濃町に行ってみましょう!」と、女子アナを連れてツアーを組んだりする。
実際、やってみれば、放送しちゃいけないタブーというほどのこともない。
そりゃそうだ。
ある程度、日本の政治に関心を持っている人ならば、普通に知っていることなのだから。

公明党の側だって、連立与党として大臣まで出す立場になった以上、その程度の取材を拒否するはずもなく、
ちゃんと「公式な答え」だって用意している。

だから、池上氏が
「創価学会の人たちが、選挙は功徳だなんていう仏教用語を使っていたりしますが、政教分離の観点からみて
問題があると思われませんか?」と質問しても、
「創価学会は、大切な支持団体ではありますが、創価学会と公明党は全く別個の組織です。
政教分離というのは、政府が宗教活動を行ったり、宗教活動に介入したり、宗教団体が政治に介入することを禁じておりますが
宗教団体が政党を支持することを禁じるものではなく、現在の公明党と創価学会の関係は問題と思っておりませんが云々」
といった、きちっと理論武装した答えしか返ってこない。

「そうはおっしゃいますけれども、ここに創価学会の名誉会長が、公明党に指示した文書がありましてね・・・」
などと、爆弾情報でもぶっこんで来たら、それは多少「タブーに斬り込んだ」ことになるだろうが、
そこまでのことはしない。
多分、そこまでの取材もしていないと思う。そもそもが、そういう役割の人ではなくて、そこは、
政治を専門する別のジャーナリストの役割だろう。
池上氏はただ、意味ありげに
「はい、そうですか、よくわかりました」と視線を投げかけるという、
きわめてテレビのキャスター的な技術を見せるのみだ。

で、こう考えてみると、やはり池上氏の凄さでは
「子供にも分かるように語ること」「子供の持つような素朴な疑問をゆるがせにしないこと」
を常に追求し実践してきた所にあるように思われる。
これは、なかなかに難しい。
多分、そこには、「相手(子供)が、何がわかって何がわからないのか」を推察する想像力や共感力と
「限られた言葉で複雑なことを説明する」ことを可能にする、優れた言語能力が必要なのではないかと思っている。
ただし、限られた言葉で語りえることは、やはり、ある程度、限られているわけで、
その辺が、池上氏の限界ではないかと考えている。

2016年6月24日金曜日

2016年5月28日土曜日

Text of President Obama’s Speech in Hiroshima, Japan

The following is a transcript of President Obama’s speech in Hiroshima, Japan, as recorded by The New York Times.

Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.

Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in a not-so-distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women and children, thousands of Koreans, a dozen Americans held prisoner.

Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors having learned to make blades from flint and spears from wood used these tools not just for hunting but against their own kind. On every continent, the history of civilization is filled with war, whether driven by scarcity of grain or hunger for gold, compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen. Peoples have been subjugated and liberated. And at each juncture, innocents have suffered, a countless toll, their names forgotten by time.

The world war that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities and magnificent art. Their thinkers had advanced ideas of justice and harmony and truth. And yet the war grew out of the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest tribes, an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints.

In the span of a few years, some 60 million people would die. Men, women, children, no different than us. Shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death. There are many sites around the world that chronicle this war, memorials that tell stories of courage and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity.

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Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies, we are most starkly reminded of humanity’s core contradiction. How the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our toolmaking, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will — those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily we learn to justify violence in the name of some higher cause.

Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness, and yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith as a license to kill.

Nations arise telling a story that binds people together in sacrifice and cooperation, allowing for remarkable feats. But those same stories have so often been used to oppress and dehumanize those who are different.

Science allows us to communicate across the seas and fly above the clouds, to cure disease and understand the cosmos, but those same discoveries can be turned into ever more efficient killing machines.

The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

That is why we come to this place. We stand here in the middle of this city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see. We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed across the arc of that terrible war and the wars that came before and the wars that would follow.

Mere words cannot give voice to such suffering. But we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.

Some day, the voices of the hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of Aug. 6, 1945, must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination. It allows us to change.

And since that fateful day, we have made choices that give us hope. The United States and Japan have forged not only an alliance but a friendship that has won far more for our people than we could ever claim through war. The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy. Oppressed people and nations won liberation. An international community established institutions and treaties that work to avoid war and aspire to restrict and roll back and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

Still, every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world shows our work is never done. We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil, so nations and the alliances that we form must possess the means to defend ourselves. But among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them.

We may not realize this goal in my lifetime, but persistent effort can roll back the possibility of catastrophe. We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. We can stop the spread to new nations and secure deadly materials from fanatics.

And yet that is not enough. For we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale. We must change our mind-set about war itself. To prevent conflict through diplomacy and strive to end conflicts after they’ve begun. To see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition. To define our nations not by our capacity to destroy but by what we build. And perhaps, above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race.

For this, too, is what makes our species unique. We’re not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.

We see these stories in the hibakusha. The woman who forgave a pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized that what she really hated was war itself. The man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

My own nation’s story began with simple words: All men are created equal and endowed by our creator with certain unalienable rights including life, liberty and the pursuit of happiness. Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans. The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family — that is the story that we all must tell.

That is why we come to Hiroshima. So that we might think of people we love. The first smile from our children in the morning. The gentle touch from a spouse over the kitchen table. The comforting embrace of a parent. We can think of those things and know that those same precious moments took place here, 71 years ago.

Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it. When the choices made by nations, when the choices made by leaders, reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done.

The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child. That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare but as the start of our own moral awakening.

2015年6月6日土曜日

韓国と日本の世界遺産登録

朴槿恵大統領はなぜ第三国での日本批判を繰り返すのか 日韓で食い違う「告げ口」理解

韓国の朴槿恵大統領が5月4日、安倍晋三首相が米上下両院合同会議で行った演説について「慰安婦被害者たちをはじめとする歴史問題に対する真の謝罪をして近隣諸国と信頼を強化できる機会を活かせなかったことは、米国でも多くの批判を受けている」と述べた。「米国で批判されている」と主張することで、安倍首相を批判したといえる。朴大統領は20日には、ユネスコのボコバ事務局長との会談で、戦時中に徴用された朝鮮人が働かされた施設を含む「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産として登録することに反対する考えを伝えた。

「韓国の安全保障にとって重要な日本」を理解しない韓国

 ボコバ氏との会談に関するニュースが流れてきた時、私は編集局内で「朴槿恵さんらしいよね」という声を聞いた。朴大統領が日本にケチをつけるのは珍しくない、という反応だ。驚きがないから、このニュースは翌日の新聞に小さくしか載らなかった。安倍首相の演説への反応にしろ、世界遺産にしろ、日本では「またか」という受け止め方が強いというのが、率直な評価だろう。

 ただ、日本でいわゆる「告げ口外交」と言われる言動について、韓国では一般に「告げ口」という意識が共有されていない。韓国では、朴大統領は「正しいことを正当に言っているだけ」であり、「告げ口」という評価は当たらないという感覚が強い。韓国人とこの話題を話すと、話がかみ合わないことが多いのだ。

 こうした認識の差は、韓国と日本の社会意識の違いからくるように思われる。韓国側の特徴として挙げることができるのは、やはり儒教の影響だろう。ただし、過去の事象にどれくらい適用すべきかは判断が分かれるとしても、基本的人権のような普遍的「正しさ」というものがあるという感覚は、欧米社会にも強い。さらに、世界遺産問題では日本側の主張にもかなり苦しい部分があるのだが、この点については後述しようと思う。

「正しさ」への強い確信
 朴大統領は安倍演説を批判した際、「このように日本が歴史を直視できず、自らの過去の問題に埋没していこうとしているといっても、それは私たちが解決してあげられない問題だ」と続けた。ずいぶんと「上から目線」に感じられる発言だ。朴大統領のキャラクターということもあるのだろうが、それだけではなく、自分たちの立場が絶対的に「正しい」という確信が背景にあると見るのが自然だろう。

 これは、儒教に基づく韓国社会の伝統的思考法に則ったものだ。韓国では、「正しさ=正義」が絶対視される。別の言い方をするならば、道徳性が非常に重視される。ただ、正義や道徳性の判断基準は自分たちが決めるので、その感覚を共有しない他者から見ると「正義の押しつけ」になってしまう。だから、日本とは「正しい歴史認識」を巡って衝突することになる。

 現代韓国研究の第一人者である慶応大の小此木政夫名誉教授は「近世までの朝鮮は経済的に豊かでなく、軍事的に強大でもなかった。中国の儒教文明の強い影響下にあったこともあり、『何が正しいか』という名分論で自分たちの正統性を主張するしかなかった。中国との関係では、力ではかなわないから、論理的な反論をする以外に方法がない。それが、『正しさ』を追及する伝統を生んだのではないか」と話す。

 1980年代までの強権的体制の下ではこうした意識が顕在化することはなかったが、民主化と冷戦終結によって重しが外れ、「伝統」の影響力が復活してきたと考えられる。こうした現象は、韓国に限らず、東欧などでも見られることだ。

強い序列意識が背景に
 韓国の社会意識に大きな影響を与えている儒教・朱子学は、序列意識の強いものだ。そして、序列上位のものには道徳性を強く求める「徳治」が強調される。この考えは、国際関係にも持ち込まれる。韓国が自らより序列上位にあると考える欧米先進国や国際機関に徳を求めて、韓国の正しさ=日本の不当性を訴えようとなるようだ。

 その裏には、強大国に力で対抗できない「小国」だと自らを規定する意識がある。周辺国の思惑と争いの中で、自らの運命を主体的に決められずにきた朝鮮半島の歴史を背景にしたものだ。

 だから、過去の侵略行為を否定し、慰安婦問題での日本の責任を否定する(と韓国が考える)安倍首相を、米国が歓迎するようなことは、あってはならないことだ。米国を訪れる外国首脳に対する最高のもてなしである、上下両院合同総会での演説の機会を安倍首相に提供し、過去への謝罪をしない安倍首相に拍手を送ることは言語道断ということになる。

 それなのに実際には、慰安婦問題や植民地支配について演説で明言しなかった安倍首相に、米国の議員たちは総立ちの拍手を送った。韓国の感覚からすれば、あってはならないことだ。韓国メディアが演説後、「韓国外交の敗北」などと大きく書き立てるほどのショックを受けた背景には、こうした感覚があるといえそうだ。

 日本と同じように、韓国にも「国連信仰」がある。世界遺産の問題でユネスコが「正しい」姿勢を見せることに期待する韓国の心理は、安倍演説への反応に通じるものだ。米国やユネスコに「正しい主張」を伝えることは、決して「告げ口」などとは評されないのである。

日本研究者の「声明」に安堵
 米国の著名な日本研究者ら187人が5月4日、慰安婦問題などで安倍首相に批判的な見解を示した「声明」を発表した。賛同者はその後、457人に増えている。

 声明は、慰安婦問題について「最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません」と指摘。戦後70年の今年は「日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会」だとして、安倍首相に適切な対応を取るよう求めた。

 韓国メディアが歓迎したのは当然だが、その背景には、やはり「国際社会が味方をしてくれた」という安堵感があるはずだ。

 研究者たちの声明は、慰安婦問題が「韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました」と中韓を批判する一方で、「強制連行」があったかどうかよりも「非人道的制度を取り巻く、より広い文脈」を重視すべきだと指摘している。普遍的な人権問題としてとらえる国際社会の潮流を反映しつつ、単純な日本批判に陥らないよう苦心した跡のうかがえる内容だ。

 残念ながら韓国メディアの多くは、自分たちの「正しさ」に合う部分だけに焦点を当てて報道し、中韓への苦言は無視したり、簡単に触れるにとどめていた。

 ただ、朝鮮日報が「日本に対する世界の著名な歴史学者たちの批判を、第三者によるものだから意味があるというならば、韓国に対する彼らの苦言も第三者によるものだから価値があると受け止めるのが成熟した姿勢だ」というコラムを掲載するなど、一部ではあるものの、正面から受け止めようとする姿勢も見られたことは留意すべきだろう。

日本相手だけではない「告げ口」
 実は、日本的な感覚で「告げ口」に見える行動は、日本を相手にした時だけ出てくるわけではない。修学旅行の高校生ら300人余りが犠牲になった昨年4月の「セウォル号」沈没事故の時も、朴槿恵政権に責任があると糾弾する活動が、約250万人の韓国系市民が住む米国で繰り広げられた。

 事故の約1カ月後には、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに「真実に光を」と題する1ページ全面を使った意見広告が掲載された。ニューヨーク・タイムズには「なぜ韓国人は朴槿恵大統領に怒っているのか」、ワシントン・ポストには「朴槿恵大統領はセウォル号と共に韓国の民主主義を沈めようとしているのか」というサブタイトルがそれぞれ付いていた。

 ニューヨークなど、全米各地で朴大統領の退陣要求集会も行われた。左派系ネットメディア・オーマイニュースによると、マンハッタンでの集会には約150人が参加した。参加者たちは、英語と韓国語で「朴槿恵は出て行け」などと書かれた横断幕やプラカードを持って、「無能無責任な朴槿恵反民主独裁政権を糾弾する」と訴えたのだという。

 朴大統領と敵対する進歩派による「場外乱闘」だ。米国の世論が、韓国内の問題に対する抗議活動に大きな関心を寄せるとは考えづらい。抗議活動をしている人たちも、そんなことを本気で期待しているわけではないだろう。米国の世論に「正しさ」を訴えている姿をアピールすることが大事だという感覚があるようだ。

世界遺産問題は、 日韓の意思疎通不在を象徴
 「告げ口」外交という本筋からは外れるが、世界遺産問題と関連して一つ紹介しておきたい。「明治日本の産業革命遺産」の対象時期の問題だ。私が知る限り、本稿を書いている5月下旬時点で、このことにきちんと触れたのは5月22日付毎日新聞の社説だけである。

 冒頭で紹介した朴大統領の言及にある通り、韓国は、「産業革命遺産」には徴用された朝鮮人が働かされた施設が含まれていると反発している。日本側はこれに対して「対象となっているのは1850年代から1910年までであり、第二次世界大戦中の徴用とは時期が違う」と反論。菅義偉官房長官は「韓国の主張するような政治的主張を持ち込むべきではない」(5月22日の記者会見)と、韓国の反発を一蹴している。

 日本も、戦時中に朝鮮人徴用が行われたことを否定しているわけではない。争点といえば、世界遺産登録の申請に入っている時期ではなかったということになる。

 申請で対象とされた1850年代は、幕末という意味だ。それくらい、私にもすぐ分かった。だが、「1910年まで」というのは分からなかった。そのため政府の担当者に「1910年に何があったのか」と質問したところ、「ロンドンで開かれた日英博覧会に八幡製鉄所で作られた鉄が出品された」という答が返ってきた。日本が産業化に成功したことを西欧諸国に知らしめた記念の年ということらしい。

 世界遺産登録をめざすにあたって、日本の成功を西欧諸国に誇示できた年を区切りとすることは、遺産群にストーリー性を持たせ、訴求力を高める効果を期待できる。だから、申請に当たってそうした手法を取ることは当然であり、なんら批判されるべきことではない。負の歴史があったから世界遺産として保存すべきでないという主張も、正当なものとは思えない。

 ただ、1910年が、日本の産業化における画期的な年として従来から認められてきたのかと問われれば、かなり苦しいと言わざるをえない。

 象徴的な施設の一つとなっている長崎県の「軍艦島(端島)」で保存運動に取り組んできた関係者によると、世界遺産申請の話が出た当初から、関係者の間では朝鮮人徴用への反発が出るのではないかという懸念があった。そのため、軍艦島などは対象から外そうと検討されたこともあったという。この関係者は「この問題をクリアできるようにしたのが、1910年という区切りだった」と話した。

 石破茂・内閣府特命担当相は5月8日の記者会見*で、「ロンドンにおいて日英博覧会というものが開催をされ、そこにおいて日本の新しい産業の発展が一つの区切りということになったものだという議論がなされて今回の勧告になった」と説明すると同時に、「この年は日韓併合の年ではないかという指摘も当然予想される」と話した。石破氏の発言にある通り、1910年というのは、韓国との関係においては感情的反発を呼びやすい年でもある。

 この問題では、日韓両国の専門家や外交官の多くが「昔だったら事前調整がきちんと行われ、大きな問題にはならなかったはず」と口をそろえる。当初からそうした懸念を持たれていたにもかかわらず、最終局面になるまで放置されていたということは、まさに近年の両国間における意思疎通の不在を象徴するものといえるだろう。

参考

石破内閣府特命担当大臣記者会見要旨 平成27年5月8日
(平成27年5月8日(金) 9:08~9:30  於:合同庁舎8号館1階S106会見室)

1.発言要旨

 おはようございます。冒頭、私から申し上げます。
 既に5月4日、私の談話においても述べたことの繰り返しになって恐縮でありますが、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」についてのイコモスの記載の勧告についてであります。
 我が国が誇るべき文化遺産である「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が、専門的な諮問機関である国際記念物遺跡会議、いわゆるイコモスから世界遺産としてふさわしい旨の評価を受け、ユネスコ世界遺産委員会に対し登録の勧告がなされたことは大変喜ばしいことであると考えております。この勧告を受け、本年6月末から7月、具体的には6月28日から7月8日と承知をいたしておりますが、その間にドイツのボンで世界遺産委員会が開催されるわけであります。その日時は特定できませんが、その間に登録の可否が決定されるということになっておると承知をいたしておるわけでありまして、この世界遺産委員会におきまして、本件がイコモスの勧告どおりに世界遺産一覧表へ記載されるよう最善を尽くしてまいりたいと考えておる次第であります。談話と重複した部分が多くて恐縮です。
 以上です。
2.質疑応答

(問)冒頭、世界遺産の件についてお伺いしますが、今回のイコモスからの勧告について、韓国政府、韓国の国会から一部施設が戦時中に強制労働があったというのがあるとして、反対する考え、姿勢を示されていますけれども、日本政府としてどのように理解を求めていかれる考えなのか改めてお願いします。
(答)去る5月4日、韓国の国会、具体的には外交統一委員会でありますが、今御指摘のような決議が採択されたということは報道等により承知をしておるところであります。政府として今までも述べたことかもしれませんが、この本件遺産の対象は1850年代から1910年ということであります。したがいまして、先の大戦中の朝鮮半島の出身である方々の旧民間徴用工の問題とは対象とする年代、歴史的位置づけ、その背景が異なるというものであります。徴用工の問題というのは、戦時中の1940年代のお話でございます。この遺産はあくまで1850年代から1910年までの産業遺産としての顕著な普遍的な形に着目をして推薦をしたものでありまして、それを受ける形で様々な議論の末に、イコモスから本件を世界遺産に登録すべきという勧告が今般なされたものであります。
 世界遺産委員会におきましては、この勧告を尊重し、本推薦案件が技術的・専門的見地から審議され、勧告どおりに世界遺産登録が決定されるということを期待しているものでありますが、この点につきまして、韓国はもとより世界遺産委員会の委員国に対しまして十分な御説明をし理解を求めていくということが極めて肝要だというふうに考えております。
 なお、何で1910年なんだと、この年は日韓併合の年ではないのかというような御指摘も、当然予想されるところでありますが、この1910年というのはロンドンにおいて日英博覧会というものが開催をされ、そこにおいて日本の新しい産業の発展が一つの区切りということになったものだという議論がなされて今回の勧告になったというふうに承知をいたしております。ですから、私どもとして、この私どもが推薦した理由、そして、言ってみれば、世界の遺産というのか宝物というのか、そういう価値というものを丁寧に誠実に、韓国のみならず世界中に御説明をするというような真摯かつ誠実な姿勢が最も肝要だというふうに私自身考えておるところです。
(問)今の関連ですけれども、今回この世界遺産に関して所管が文化庁ではなくて内閣官房になっているということもあって、韓国のこういった反応というのは前々からずっと予想はされていて、そのあたりの連携とかを含めて、韓国や各国へのケアというのは、これまで十分にとれてきたというふうにお考えでしょうか。
(答)十分かどうか、それは判断される方によって違うのだと思います。ただ、これは実際に稼働中のものも含んでおるということもあって、富岡製糸場などとは少し趣を異にするものでございます。内閣官房所管ということになっておるわけでありますが、当然、外務省を始めとして政府部内においてきちんとした意思の疎通を図りつつ連携をとりながら今日まで努力をしてきたものであります。今後とも政府部内で意思の疎通を図りながら、一致した認識のもとに連携を密にして、この6月から7月にかけて開かれる委員会に向けて更なる努力を真摯かつ誠実にしていくということに尽きると考えております。
(問)地方自治の観点から、マイナンバー制度を活用し、自治体と連携して郵便局が役立つことはありますでしょうか。
(答)このマイナンバーというものを使っていろいろな行政というものが更にきめ細かく丁寧に行われるようになる。そして、個人の方々の情報であるとかプライバシーの尊重ということは常に念頭に置きつつも行政の更なるきめ細かい対応、そしてまた国民の方々に対して不公正がないように、不平等がないようにきちんとした行政が納税者の立場あるいは国民の主権者としての立場に配意しつつ効果的に行われるということは重要なことだと思っております。郵便局との連携がどのようになされていくかということは、これから内閣府としても関係省庁あるいは日本郵政ともお話をしながら、このマイナンバー制度が企図いたしております目的の達成のために可能な限りの連携を図ることは当然だと思っております。
(問)所管外で申しわけないんですけれども、昨日、衆議院の憲法審査会が開かれまして、今日、各紙大きく書いていると思うんですけれども、結構意見の食い違いというかですね、鮮明になったんですけれども、緊急事態条項なんかを始めとするところから改憲すればいいじゃないかという自民党に対して、言葉として「お試し改憲」という言葉を使う民主党なんかがあって、こうした議論を大臣御自身がどう御覧になったかという点と、あと改憲の必要性自体は前から訴えられておられると思うんですけれども、改憲の手順について、大臣御自身が所感がありましたら伺えないかと思うんですが。
(答)これは、内閣の一員としてお答えすべきものではございません。内閣としてこの問題に対して、このように考えるということをお答えするというものでもございませんので、あくまで一衆議院議員としてお答えをするということでよろしいんでしょうか。
 これは長く私も二十数年この問題は議論をいたしてまいりました。そして、憲法改正草案の起草委員として、この条文作りにも携わってきたという立場にございます。憲法審査会においていろいろなお考えが披瀝をされ、そして議論が深まるということは当然事の重大性から考えて望ましいことだと承知をいたしております。
 その上で、これは党内であった議論ですが、憲法改正草案全体を対象物とするというのは、難しかろうねと。当然、改正条文は一つだけではない、前文から始まりまして膨大な改正条項を含んでおるわけで、Aという条項は賛成だが、Bという条項については反対だということは当然あるわけで、国会における3分の2の議決にしても、ましてや国民投票にしても、技術的に可能かどうかという議論はしたんですけど、そうすると、ものすごい長い紙になって、この条文のここの部分は賛成だ、反対だとか、そんなことは多分、技術的に絶対無理だとは言わないが、極めて難しいねというふうな議論はしたと思っております。
 さすれば、それを「お試し」と言うかどうかは別として、どの条文について国民投票に付するのか、その前の衆・参両院の総議員数の3分の2の議決に対象物として付するのかということは、党内でこういうふうな順番ということを決めたということはございません。また、これから先も国民投票法を成立したことも受けて、党内においてどういう条文を最初にやるんだろうねと。これも党内で意見が収れんしたわけではありません。例えば環境権のように、比較的国民の皆様方の多くの御理解を得やすいものからやってはどうかという意見もあれば、あるいは参議院の在り方、衆・参の在り方についてやったらどうかという意見もあれば、いろいろな意見がございます。まず政権与党たる私どもあるいは公明党の中で議論がなされ、野党は野党において議論がなされ、その後にどういうやり方でやるかということは収れんをしてくるものではないでしょうか。何を優先すべきで、何を劣後させるべきかということは私が申し上げることではございません。緊急事態条項あるいは実力組織たる自衛隊の位置付けというものは、占領下において制定された憲法というものをどのように考えるか、そしてサンフランシスコ条約の発効によって独立国たる地位を回復をした、その後の経緯をどう考えるか。そして自由民主党というものが、なぜ昭和30年に保守合同によって結党されたのか等々、そのような議論がまた党内で活発になされるということは重要なことだと思っております。
 国民の皆様方に、なぜ改憲をする必要があるのかということを本当に懇切丁寧に御説明をし理解を得るということが何にしても一番大事なことではないかなと。何かよくわからない答弁で恐縮ですが、そういうような形になろうと思います。
(問)隠岐諸島の視察の件で2点お聞かせいただきたいんですが、1点目が、現地でもお話を伺わせていただいたんですけれども、改めて視察の御感想をお聞かせいただきたいのと、現地で大臣からも非常に高い評価、いろいろ様々な取組に対して高い評価のコメントをいただいておりますけれども、それは離島という地理的な条件が大きく要因としてあるのか、これから地方創生を進めていく上で、隠岐諸島に離島だからこそできるのか、本土ではできないのか、そういう地理的な条件が地方創生において重要度を占めているのかについて所感をお聞かせいただければと思います。
(答)隠岐の島、なかんずく海士町の取組というものは、私自身、この大臣に就任する以前から非常に強い関心を持っておりました。日程の都合上なかなか海士町に行くことはできなくて、町長さんのお話、あるいは島前高校の改革に携わってこられた創生会議のメンバーであります奥田麻衣子さんのお話等々も何度も伺いながら行く機会を得なかったのですが、今回行くことができて、やはりこれは「やねだん」でもそうですし、中村ブレイスにしてもそうなんですけれど、実際に見てみるということはとても大事なことだと思っております。やはり世の中の評価を得ているというもの、これは本物だねという、いつも言う言葉を使えば、「驚きと感動」というんでしょうか、そういう印象を強く受けたということであります。
 離島だからどうなのかということについて申し上げれば、これは海士町長さんが書かれた『離島発 生き残るための10の戦略』という本があります。これ、ぜひ皆様方にも一回お読みいただきたい。さらさらっと読める本ですが、非常に中身の濃い本です。離島である、そこにおいて極めて財政が厳しい、そこに三位一体改革があったと。町長も書いておられますように、あれがなければ海士町の改革へ向けての取組というのはなかったかもしれないというふうに書いておられます。離島という厳しい条件、そして、そうであるがゆえに、公共事業に多くを頼ってきた海士町というものの在り方がギリギリまで来た段階で、もうこれしかないではないかというような、そういうような状況になったということは、別に離島だからというわけではありませんが、離島であるがゆえに公共事業に負う割合が他よりも高かったのかもしれません。
 そして、本にありますように、実際に公共事業に携わってこられた関係の方々から「改革をしなければだめだ」とおっしゃったと。「あなた、今まで公共事業というもので会社をやってきたんじゃないの」ということを町長は思ったそうですが、そこの建設関係の方がおっしゃるには、「今まで自分たちはその公共事業で多くの恩恵を受けてきた。しかし、これが続かないとするならば、これに代わるものを作っていくということは、今までそういう恩恵を受けてきた者の務めではないか」ということをその建設関係の方がおっしゃり、町長はそれに深い感銘を受けたということが本の中に書いてありますし、実際に行ってみてそうだなというふうに思いました。ですから、決していいことだとは思わないが、そういうような極限状態まで来たからこそその危機感から改革の推進力が生まれたということは、これは事実だろうというふうに思っております。
 じゃ、何でもかんでも極限に追い込めばいいかというと、そういうわけでは当然ないのであって、何と言うんでしょう、あそこの隠岐の島というかな、隠岐諸島の海士町の状況というのは、やがて将来の日本じゃないのかということです。そういうような「気づき」というのか、そういうものをどれだけ普遍的に広めていくのかということはやはり私どもの務めだろうというふうに思っております。
 そして、そういう所へ行ってみて、海士町の方々が明るい方々が多いなという感じを持ちました。疲弊したとか、もちろん辛いことも苦しいこともいっぱいある。だけども、ここで前向きに取り組んでいくと、そして地方創生の一つのモデルだと言うことはやめてくれと、まだ我々は途中段階にあるのだということでした。そのことについて、冒頭の御質問に戻れば、非常に強い感銘を受けたのであって、この問題は更に多くの人々が海士町を訪れ、いろいろ得た知見というものを広めていくことを報道関係の皆様方にもお願いしたいことでございます。
(問)話戻って恐縮なんですが、世界遺産のことでもう一点お伺いしたいんですけれども、イコモスの勧告では、いわゆる軍艦島を含めて幾つかの施設で保存の計画をしっかり立てるようにという勧告がなされていますけれども、例えば軍艦島を挙げても、保存には非常な費用がかかるということを長崎市のほうでも試算されていますが、国としてどのように保存に関わっていくのか、大臣、今からどのようにお考えになりますか。
(答)これは仮に世界遺産のリストに載ったと、載っても載らなくてもそれは大事なことなんですけれども、世界遺産のリストに載るということは、それが人類全体の、世界全体の貴重な資産であるというようなことになるわけでございます。そうすると、政府の中のどこが担当をするか、そしてまた、自治体との関係をどうするかという議論はもちろんあるんですけれども、日本国政府として、これを主体的に保存していく、あるいは先ほど御指摘もありましたが、観光客の方々の受け入れ態勢とかそういうものも含めて世界遺産にふさわしい対応がこれから先なされていくということの主体は、あくまで日本国政府であるべきだというふうに考えております。それが世界全体の遺産である、宝物である以上、それは金がかかるからどうのとか、そのようなものは政府が負担しないとかそういうようなことではなくて、あくまで自治体との話合いをきちんと踏まえた上で政府として主体的にやっていくべきものではないかなと現時点では考えております。

2014年7月31日木曜日

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語

http://thepage.jp/
7月6日(日)13時0分配信
 アルゼンチンの雲行きが怪しくなっています。といってもブラジルで行われているワールドカップ(W杯)サッカーのことではありません。アルゼンチンの国家財政のことです。2001年以来、13年ぶりの債務不履行(デフォルト)に陥る不安が高まっています。ここでいうデフォルトとはアルゼンチンが自国で発行した国債が返せない状態をいいます。一体どういうことなのでしょうか。

アルゼンチンが再び「デフォルト」危機ってどういうこと? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
[図表]再びデフォルト危機に陥っているアルゼンチン
どうして再びデフォルト危機になった?
 国債とは国の借金です。いつまでにこれだけの利息をつけて返すから貸してくださいと内外の投資家に募ります。「借金」という点で企業のそれと似た点が多々あります。まず約束の日までに借金の元本と利息を払わないと誰も信用してくれなくなります。追加の借金は誰も信用しませんからもちろんできなくなります。

 返すアテがない限り、発行した国は投資家(債権者)に減額をお願いするなど頭を下げなければなりません。アルゼンチンの場合、そうした事態が2001年に発生しました。したがって、現在はデフォルト後に債権者と話し合って決めた金額を支払っている最中となります。その途中で「やはり返せなくなった」に陥ったかもしれない……というのが今回の出来事です。

 2001年のデフォルト後、債権者の9割は減額に応じました。まったく返ってこないよりは少しでも回収したいからです。デフォルトしたからといって、アルゼンチンという国が消えてなくなるわけではありません。いくらか有望な産業もあります。その点では企業が民事再生法や会社更生法を申請して倒産するのと似ています。主体は存続するので粘り強く待とうと考えるのです。

 ところが一部の債権者は減額そのものに応じませんでした。「貸したカネは約束通り払え」と主張したのです。2014年6月、アメリカの裁判所が訴えを認め、全額を返さなければ7割ともいわれる減額に応じた債権者への利払いも認めないと命じました。アルゼンチン政府は、もし判決通りの全額返済(約1兆5000億円)をしたら、中央銀行が保有する外貨準備の5割を超えるとの試算を公表しました。つまり返せるのです。

 ただそうしてしまうと、前述の9割にのぼる減額受け入れ組の面目が立ちません。「全額よこせと主張したら払われるならば、大金をどぶに捨てるような減額を飲んだ我々はどうなるのだ」と。そうした声が大勢となったら10年以上何とか行ってきた返済計画自体を見直さざるを得ず、それが全員全額という結論になれば払えません。といって全額組への支払いを拒否したら判決にしたがって減額受け入れ組への利払いもできません。

 アルゼンチン政府は裁判結果を「不正で不当」と反発、予定通り利払いを続けるとしました。払う力があっても技術的に払えない状態で、2001年の「対外債務(借金)の元本と利子の支払いを停止した」と発表した状態とは異なります。今後はアルゼンチン政府が全額要求組と話し合って(お互い顔も見たくないでしょうが)譲歩を引き出すか、裁判の決定と現実を足して二で割ったような抜け道を探るような動きになりそうです。

市場は「影響は限定的」との見方
 市場は今回のデフォルト危機をおおむね「影響は限定的」とみなしています。何しろ返せるわけですから。とはいえ理由が何であっても「アルゼンチンはお騒がせ国」というレッテルが再びバシッと貼られるのがいい話であるはずもなく、通貨ペソは下落傾向に転じています。お騒がせ国の通貨は信用できないので売られてしまうのです。すると輸入品が高くなって国民生活が脅かされかねません。

 今のアルゼンチンはインフレ(物価が継続して上がる)気味ながら比較的順調な経済成長を遂げています。不安材料のインフレが物価高で助長されると国内経済にかなりの打撃を与えます。通貨が下がってメリットのある輸出もアルゼンチンの主力はもともと価格の安い農産品中心なので追い風より向かい風の方が強く吹きます。堪りかねて輸入規制でもしようものなら自由貿易圏から一層白い目を向けられるでしょう。

2001年のデフォルトはなぜ起きた?
 そもそもの発端であった2001年のデフォルトはなぜ起きたのでしょうか。アルゼンチンはパンパと呼ばれる肥えた平原を持ち、小麦や牧畜が盛んに行われ、フリゴリフィコ(保冷船)の運行開始以降は欧州などの一大食料輸出国として1920年代までは有数の富裕国でした。しかし農業とくに特定の産品に偏った輸出中心経済は1929年から始まった世界恐慌で大きな挫折を味わいます。農産品は工業製品よりも生産が不安定になりがちな上に、単価が安いために恐慌(突発的大不景気)に弱かったのです。

 この反省から戦後は工業化にも取り組みます。代表的な方法が輸入代替工業化で工業先進国から輸入してきた製品を国内で生産して自給していこうとの試みでした。一種の産業保護政策で多国籍に展開する企業との競争に敗れ、他方で補助金などを通して特定の企業が国内市場を独占するなど競争原理が働かなくなったり汚職や腐敗の温床にもなりかねない状態が続いて経済が行き詰まります。

 打破するために一転して国際市場経済への参入へとかじを切り替えたものの、今度は外国資本の参入、国内産業の衰退、インフレによる途方もない物価高などを招き、91年に「1ペソ=1ドル」の固定相場に変え、米ドルを後ろ盾にするなど苦心に苦心を重ねました。それでインフレはいったん収まり、10年近く安定します。ここで以前からの借金問題を少しでも改善すればよかったのを当時の政権は逆にばらまきへ走り、悪化したまま「その時」を迎えます。

今回の危機は“最悪のタイミング”
 90年代後半のアメリカのクリントン政権はドル高政策に出て外資の呼び込みをはかりました。特効薬だったはずの固定相場もペソが実力以上の評価を受ける形となり、国際水準から考えて労働者の賃金が高くなり、アメリカとは逆に外資が逃げ出します。固定相場ではドル高=ペソ高なので輸出も減少し、当然少なくなる税収を補うため国債に依存し、それが嫌われてさらに投資が減っていきます。

 ここで実勢に見合った相場となる変動相場制に移るべきという意見も出たものの、固定相場の成功体験と、それを失うとペソで収入を得て国際的信用のあるドルを借りていた企業などにの反発を恐れて踏み切れずにいました。同じ固定相場制の競合国ブラジルが99年に変動相場制に移って国際競争力を回復させたのと対照的に、ペソは過大評価と市場の信認を失います。とともに積もり積もった借金が疑問視され資本がさらに大流出、政府もあわてて公務員給与カットなどの対応をするも暴動にまで発展した揚げ句、ついに2001年、デフォルト(お手上げ)宣言せざるを得なくなりました。

 その後、アルゼンチンは変動相場制に移行し最悪期は脱するも、未だ返済途上にあって新たな国債を発行できません。そうなると道路などインフラの充実や補修に回すカネがなく厳しい状態が続いていました。一刻も早く返し終えて、デフォルト以来、締め出しを食らっている国際資本市場に再参加したいところでの新たなデフォルト危機。アルゼンチンにとって最悪のタイミングです。




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■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)

2014年7月30日水曜日

<中国>イチからわかるウイグル族独立問題





2013年11月1日(金)10時30分配信

 北京の天安門広場で、車が歩道に突入し5人が死亡した事件について、当局は新疆(しんきょう)ウイグル自治区の活動家によるテロと断定しているのですが、背景にはウイグルにおける中国からの独立問題があります。ウイグルとはどのような場所で、彼等はなぜ中国から独立しようとしているのでしょうか?

自治区の半数がイスラム教徒
 新疆ウイグル自治区は中国の西端に位置し、人口約2000万の半分がイスラム教徒のウイグル族で占められている特殊な地域です。中国が王朝だった時代には、中国やモンゴル遊牧民族の圧力を受けながら独立と従属を繰り返していました。この地域にある楼蘭という古都はシルクロードの舞台としても有名な場所です。しかし1949年に中国共産党が政権を握って以降は、完全に中国に併合され、1955年に新疆ウイグル自治区という名称になり今に至っています。

 中国当局は、新疆ウイグル自治区に大量の漢族を移住させ人口比を逆転させようとしており、政治や経済といった重要な分野では漢人が大きな影響力を持っています。また中国は建前上、宗教を否定する社会主義国家なので、イスラム教の活動について常に監視下に置いています。このため一部の住民は中国の統治に対して強く反発し、中国からの分離独立を主張しています。

2009年暴動では約200人死亡
 2009年には同自治区のウルムチで、漢族によるウイグル族への襲撃事件を発端とした激しい暴動が発生し、中国当局の発表によると約200人が死亡しました。当局は暴動を扇動したとしてウイグル族9人を処刑したほか数百人が拘束されたといわれています。

 今年に入っても、警官隊と活動家の衝突などが何度も起こっていますが、同自治区の内情は外国のマスコミが取材できないためあまり明らかになっていません。一部の報道によれば、日本が戦時中に導入していた隣組(住民を相互監視させ密告させる仕組み。現在の町内会や回覧板はその名残)によく似た制度を導入し、住民を監視下に置いているといわれています。

軍事的に重要な地域
 中国はチベットでも同様の問題を抱えており、10月には国連人権理事会が中国に対してチベットやウイグル自治区などにおける少数民族の権利保護を求めました。しかし、中国側は「国を分断するような行為を受け入れることはできない」と主張し、反体制活動を弾圧するのは正当な行為であるとの立場を崩していません。かつて西側諸国は、中国のこうした人権弾圧を強く批判していましたが、現在では大国となった中国との経済協力を優先し、これらの問題については黙認しています。

 中国人は歴史的に、北方と西方の備えを完璧にしないと中国本土を守ることはできないとの考えを強く持っており、新疆ウイグル自治区は軍事的に重要な地域と認識されています。また一部民族の独立を認めてしまうと、数十あるといわれる少数民族が、一斉に中国政府に反旗を翻す可能性があり、当局はこうした事態を強く危惧しています。中国はよほどのことがない限り、この地域の独立を認めることはないでしょう。


(The Capital Tribune Japan)

2014年7月23日水曜日

元ソニー開発者のヒット商品“扇風機付き作業服” 「一度着たら手放せない」

2014.7.12 18:04
 昨年の3倍、25万着がすでに完売

 「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。

 商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。

 試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。

 そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。

 その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。

 ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目

 当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。

 「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。

 しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。

 「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。

 1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。

 開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」

 ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。

 その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。

 すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。

 「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」

 最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)

2014年4月25日金曜日

宮中晩餐会メニューApril24th2014

 「国賓」として来日したオバマ米大統領。国賓は政府が日本に招待する外国要人のうち、最上級の手厚いもてなしをする最高ランクの賓客だが、オバマ大統領が平成21年に来日した際には国賓ではなく、「実務訪問賓客」という形だった。

 来日する外国賓客の区分は「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」「実務訪問賓客」「外務省賓客」の順番で、それぞれ待遇が決まっており、国内の滞在経費は日本側が負担する。

 最もランクの高い国賓は国王や元首が対象で、天皇、皇后両陛下が参加される一連の行事に臨む。まず、三権の長、全閣僚も出席して皇居で「歓迎行事」が行われた後、両陛下との「ご会見」「宮中晩餐会」と続き、国賓が東京を出発するにあたっては、両陛下が「お見送り」に行かれる。この“4点セット”が国賓接遇の原則となっており、両陛下は事前に外務省の担当者らから相手国について説明を受け、入念に準備をされる。

 予算や陛下のスケジュールなどの都合から、国賓待遇は年間1、2件。今年3月にはベトナムのチュオン・タン・サン国家主席が国賓として来日している。

 国賓、公賓の場合、通常は東京・元赤坂の迎賓館が宿泊先として用意されるが、オバマ米大統領は今回、迎賓館ではなく、都内の老舗ホテルに宿泊。皇居訪問の際の車も、宮内庁が国賓に差し回す御料車ではなく、米国側が自前で用意した大統領専用車を使用するなど、他の国賓とは異なる点がうかがえる。

 改修工事のため使用できなかったケースなどを除くと、過去に来日した国賓で迎賓館を利用しなかったのは、米国のカーター大統領(昭和54年6月)とフランスのシラク大統領(平成8年11月)の2人だけ。駐日米大使公邸に泊まったカーター氏の場合は、迎賓館が東京サミットの会場として使われていたという事情があるが、今回は「特に米国側から説明はない」(宮内庁関係者)という。

 国賓が東京を離れる際には、両陛下がお別れのあいさつのため宿泊先を訪問されるのが慣例。宮内庁関係者は「今回も同様」というが、宿泊先が変われば警備の仕方は大きく変わる。

 通常、来日した国賓の移動に供されるのは、トヨタの「センチュリーロイヤル」。両陛下が国会開会式や東日本大震災追悼式、全国戦没者追悼式ご臨席の際などに使用され、差し回しの際も宮内庁の運転技官がハンドルを握るが、オバマ氏が平成21年に来日した際も、事前に米国から輸送機で運ばれた特殊装備の大統領専用車が使われた。宮内庁関係者は「米国の場合は非常に警備が厳しいのだろう」と話している。

昭和49年11月19日、フォード、田中角栄
昭和54年6月25日、カーター、大平正芳
昭和58年11月10日、レーガン、中曽根康弘
平成4年1月9日、ブッシュ、宮沢喜一
平成8年4月17日、クリントン、橋本龍太郎


料理
コンソメスープ
マダイの洋酒蒸し(付け合わせにグリーンアスパラガス、舌平目の細切りパン粉揚げ)
羊のもも肉の蒸し焼き(付け合わせに温野菜、アピオスの空揚げ、クレソン)
サラダ
アイスクリーム(富士山型)
果物(メロン、イチゴ)

飲み物
白ワイン(コルトン・シャルルマーニュ1999)
赤ワイン(シャトー・マルゴー1994)
シャンパン(モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニヨン1998)

オバマ米大統領を迎えての天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が24日、皇居・豊明殿(ほうめいでん)で行われた。

宮中晩さん会で出される料理は、明治時代以来の慣例でフランス料理。宗教上の制約を受けないことから羊肉がメイン料理となることが多く、今回の晩さん会も羊のもも肉の蒸し焼きがフルコースのメインとなった。

 また、メニューからは「旬の食材で国賓をもてなす」という宮内庁のこだわりも垣間見える。魚料理で使われているマダイは産卵を控えて脂が乗った今ごろがまさに旬だ。3月に来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席夫妻に出されたサワラも春が旬だった。

 農産物については御料(ごりょう)牧場(栃木県)で育てたものができるだけ使用される。今回はコンソメスープのだしとなる鶏肉、メイン料理の羊などが同牧場で育てたものだという。

 ワインは宮内庁が常時4000~5000本を保管しており、国賓にはその中で最高の1本をセレクトして提供する。10年ぐらい熟成させたワインを出すことが多く、晩さん会のたびに銘柄は異なるというが、日本酒の銘柄は常に「菊正宗」だという。



オバマ米大統領を歓迎する宮中晩さん会での天皇陛下のあいさつ全文は次の通り。

 この度、アメリカ合衆国大統領バラック・オバマ閣下が、国賓として我(わ)が国を御訪問になりましたことを心から歓迎いたします。ここに今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。

 まず大統領閣下に、三年前に起こった東日本大震災に際し、米国政府及び多くの米国国民からお見舞いと支援を頂いたことに対する、私どもの深い感謝の気持ちをお伝えしたく思います。この地震と津波による災害では、死者、行方不明者が二万人以上となり、建物は壊され、美しい海や山に囲まれた町や田畑は、がれきに覆われました。二万人を超える貴国の軍人が参加した「トモダチ作戦」を始めとし、貴国の多くの人々が被災者のために行った支援活動は、物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました。

 歴史を振り返りますと、貴国と我が国との交流は、我が国に来航したマシュー・ペリー提督と徳川幕府の交渉により、一八五四年日米和親条約が調印されたことに始まります。我が国はそれまで二百年以上にわたり鎖国政策を行ってきましたが、開国を決意し、欧米の国々より、当時日本にとり未知であった領域分野の学問や技術については、これを鋭意学び、国を発展させることに努めました。貴国の人々に負うところ、また大なるものがあります。

 私が貴国を初めて訪れましたのは、一九五三年、エリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列した機会に、貴国を始めとする欧米諸国を訪れた時のことであります。一九六〇年、日米修好百年の年には、現在の皇太子を出産して間もない皇后と共に、初めて公式に貴国を訪問し、アイゼンハワー大統領御夫妻主催の晩餐(ばんさん)会にお招きいただき、また多くの米国国民と触れ合う機会に恵まれる中、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドの各地を約二週間をかけて訪問いたしました。私どもにとり今も忘れられないのは、ニューヨーク訪問の際、貴国政府及びニューヨーク市が大型船によるマンハッタン島巡りを計画し、船上に当時貴国で勉学にいそしむ大勢の日本人留学生を招いてくださったことです。当時学習意欲にあふれつつも、余裕のない戦後の生活の中でそれを十分に満たせなかった我が国の有為な若者に、更(さら)に学ぶ機会を与えてくれた貴国の奨学生制度は、実に有り難いものであったと思います。

 その後も国賓としての訪問も含め、貴国を何度か訪れておりますが、その都度貴国民から温かく迎えられたことが心に残っています。貴国が多様な人々を包容し、民主主義の理想を求め、より良い社会を築こうと常に努力する姿には深い感銘を覚えます。貴国と我が国の両国民は、先の戦争による痛ましい断絶を乗り越え、緊密な協力関係を築きました。両国民が来し方を振り返り、互いの理解を一層深め、相携えて進んでいくことを願ってやみません。

 両国の友好の象徴となっている桜とハナミズキの季節に行われる大統領閣下のこの度の御滞在が、実り多きなものとなりますよう願っております。

 ここに杯を挙げて、大統領閣下及び御家族の御健勝と、アメリカ合衆国国民の幸せを祈ります。


2014年4月11日金曜日

ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった?

2014年3月1日にロシア軍が展開し始め、世界の注目を集めたウクライナのクリミア半島。黒海に突き出したこの土地は、多くの戦争の舞台となってきました。なかでもクリミア戦争はその代表で、今回のウクライナ危機をめぐっても、たびたび言及されています。クリミア戦争とは、果たしてどんな戦争だったのでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wwvbHCGzSTA


クリミア戦争が発生した背景

 クリミア戦争(1853-1856年)は黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争です。1853年7月にロシア帝国が当時オスマン・トルコの配下にあった、黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まりました。大きな背景としては、以下の3点があげられます。

(1)多くの民族や宗教が混在するこの地を支配し、16世紀にはヨーロッパを圧倒していたイスラム帝国のオスマン・トルコが、この頃には衰退していたこと、
(2)18世紀末から軍事大国化したロシア帝国が、南方への領土拡張を目指す「南下政策」をとっていたこと、
(3)ヨーロッパ全体で民族主義が高まるなか、ロシアではスラブ系民族の一体性を強調する大ロシア主義が高まっていたこと、です。

ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争に

 これらの背景のもとで、戦闘に至った直接的なきっかけは、1853年にオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権をフランスに認めたことでした。1774年からトルコでの「ロシア正教徒の保護権」が認められていたロシアは、これに強く反発。外交交渉の決裂を受け、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィアなどをロシア軍が占領したのです。

これに対して、多くのヨーロッパ諸国はトルコを支援。そのなかには、

・フランス……トルコでのキリスト教徒保護権をロシアと争っていた。
・イギリス……インドから地中海までの交通路を確保するため、ロシアの南下政策と対立していた。
・オーストリア……モルダヴィアなどに隣接し、さらに国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れていた。
・イタリアのサルディニア公国……分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせたかった。

それぞれの事情でヨーロッパの大国が介入する、大戦争に発展したのです。

 1855年9月、クリミア半島にあったロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落。これにより、一説では合計30万人ともいわれる死者を出す、当時としては空前の規模の戦争は終息に向かいました。また、この戦争はナイチンゲールが傷病兵の看護を始めたことでも知られます。

クリミア戦争が残したもの

 クリミア戦争の結果、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を失いました。さらに、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対する「ヨーロッパの保護」(これによってトルコは、さらにヨーロッパ列強の干渉にさらされることになった)などにも合意。

 後にロシア海軍の黒海艦隊は復活しましたが、大きな犠牲を払いながらもそれ以上の南下を止められたため、クリミア戦争はロシアからみて、ヨーロッパ勢の介入による挫折と屈辱を意味するものになったのです。

 クリミア半島はその後もロシア海軍の要衝であり続けましたが、ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移譲されました。ロシアとウクライナがともにソ連の一部であった間、これは大きな火種にもなりませんでした。

 しかし、冷戦終結後の1991年にソ連が崩壊したことで、クリミア半島とそこに暮らすロシア系人たちは、ロシアから切り離されました。これらの歴史に照らすと、今回のロシア軍による行動を現地の多くのロシア系人たちが歓迎していることは、無理のないことといえるでしょう。そして、 民族主義が再び高まるなか、ロシアがヨーロッパ勢と対立してでもクリミアに特別な思い入れをもつこともまた、不思議でないのです。

(国際政治学者・六辻彰二)

2014年3月17日月曜日

ウクライナ危機の原点―プーチン氏は武力でソ連崩壊の歴史書き換え

 今月12日、ロシアのプーチン大統領はクリミアのイスラム系少数民族タタールの指導者、ムスタファ・ジェミレフ氏との電話会談で恐ろしい可能性に言及した。ウクライナの報道によると、プーチン氏は1991年のウクライナのソ連離脱の合法性を疑問視したという。

 当時も世界はロシアとウクライナの戦争や対立の長期化を恐れていた。ロシアの大統領がウクライナからクリミア地方の奪取に成功すれば、ロシアはウクライナの他の地域まで手に入れようとするかもしれない。さらには、多数のロシア系住民やロシア語を話す少数派の住民を抱えるモルドバやバルト諸国の一部まで食指を伸ばす可能性がある。

 現在の危機の原点はソ連末期にある。プーチン大統領はソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」だと言って嘆き悲しんだ。ロシア政府は長い間、ウクライナ――今や2番目に大きいスラブ系国家で、かつてはソ連の広大な土地を占め、隣国として常にロシアを不安にさせる存在である――に物欲しそうな目を向けていた。現在のウクライナ危機とロシアのクリミア占領は旧ソ連地域を経済、政治、軍事を網羅するユーラシア連合に再統合しようとするロシア政府の計画に直結している。

 ソ連はかつて、ロシアと呼ばれることも多かったが、実際は複数の国家の集合体だった。これらの国家は不承不承、15の共和国としてひとまとめにされ、ソ連時代のほとんどの期間を通じて、モスクワの圧制の下に置かれた。ロシア人の人口は当時、約1億5000万人で、ソ連の人口の51%を占めるにすぎなかった。ウクライナ人の人口は5000万人で2番目に多く、ソ連全体の20%近くを占めていた。

 1991年12月1日、ウクライナが投票で独立を決めると、ソ連の運命が決まった。ウクライナ市民の90%以上が独立を支持した。現在と同様にロシア系住民が多数派を占めていたクリミアでも、54%が独立に賛成票を投じた。ソ連の海軍基地があったセバストポリでは57%が独立に賛成した。要するに、ウクライナのロシア人の多くがウクライナの独立に賛成したということだ。

 ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ氏は緩やかな連合体の枠組みを策定していたが、ロシア共和国のボリス・エリツィン氏とウクライナのレオニード・クラフチュク氏は参加を拒否した。1991年12月8日、ベラルーシの森の狩猟小屋でエリツィン氏とクラフチュク氏はソ連を解体し、旧ソ連共和国を結びつける独立国家共同体(CIS)を創設した。ゴルバチョフ氏もエリツィン氏もウクライナ抜きの連合体の成功は想像できなかった。ロシア指導部はCISのコストを負担することに違和感があったものの、ウクライナが参加するならと納得した。エリツィン氏がジョージ・H・W・ブッシュ大統領に繰り返し伝えたとおり、CIS内部にウクライナのスラブ系住民が参加しなければ、ロシアは中央アジアの共和国に数でも投票でも負けてしまうだろう。

 その結果起きたのは連鎖反応だった。ウクライナはゴルバチョフ氏が構想した連合体への参加は望まず、ロシアはウクライナ抜きの連合体を想像できなかった。それでもCISに参加したいと考えていた共和国はロシアのいない連合体を思い描くことはできなかった。

 エリツィン氏の補佐官たちはロシアを箱舟――ソ連が崩壊して生まれたばかりの民主主義や、1991年8月のクーデター未遂でゴルバチョフ氏を失脚させようとした不器用な策士たちに抵抗して勝ち取った権力を救うための乗り物――のように考えていた。こうした姿勢は経済的にも十分に納得がいくものだった。ロシア革命時、レーニンは新たなソビエト国家がウクライナの石炭なしでは繁栄できないと主張した。しかし、1991年になると、ソ連最大の富、特に莫大な鉱物資源は共和国にではなく、ロシアの地にあった。

 ソ連は他の帝国とは異なっていた。ソ連という帝国の中心にあり、豊かな資源を持つロシアは共和国を資源から切り離すことができた。つまり、ロシアは過去のどの帝国と比較しても、植民地の喪失によって多くを手にすることになっていた。エリツィン氏と彼の補佐官たちはそれをよくわかっていた。

 ソ連解体を遅らせたいと思っていたゴルバチョフ氏はウクライナの独立心を鈍らせようと、クリミアのロシア系住民の支持を利用したいと考えていた。エリツィン氏の名誉のために言うと、エリツィン氏はそれを拒んだ。エリツィン氏は冷酷なセルビアの指導者スロボダン・ミロシェビッチ氏のように、ロシア連邦から取り残された少数派のロシア系住民が住む飛び地を武力で併合することもなかった。

 しかし、エリツィン氏はソ連がロシアの役に立つ別の形で復活できるとの期待を捨ててはいなかった。エリツィン氏の補佐官はロシアが経済的、軍事的に回復すれば、ロシアの元に再び戻ってくると考えていた。1991年9月、エリツィン氏の腹心のゲンナジー・ブルブリス氏はゴルバチョフ氏の主要補佐官にこう言った。「われわれは自らを他と切り離してロシアを救い、独立性を強化しなければならない。その後、ロシアが立ち直ったときに、みんながロシアの元に集まるだろう。(連合の)問題は再び解決できる」。

 エリツィン氏の補佐官は旧ソ連の共和国がロシアの元に自主的に戻ってくることを期待していた。エリツィン氏は独立を主張するチェチェン共和国などロシア連邦内で戦う用意はあったが、ロシア国境を超えるつもりはなかった。エリツィン氏のおかげで旧ソ連は核を持つユーゴスラビアにならずに済んだ。

 エリツィン氏は旧ソ連地域を平和的に再統合しようとしていたが、その方針は後任のプーチン氏によって破棄された。プーチン氏は2008年にグルジアに、14年にはウクライナに侵攻した。プーチン氏のロシアはエリツィン氏のロシアとは異なり、新たに手に入れた経済力と以前からの軍事力の両方を利用してソ連崩壊の歴史を書き換えようとしている。

 西側はロシアがこれまでの外交政策からこのように大きく逸脱することに対して、つまり、プーチン氏が武力で新帝国主義的な目標を達成しようとしていることに対してどのように反応すべきだろうか。1991年当時、西側は冷戦時代のライバルの崩壊がおおむね平和的に進むように支援し、大成功を収めた。ブッシュ大統領は欧州の同盟国と合意を形成し、西側は旧ソ連の共和国に外交上の承認と経済協力を与えることができた。同時に、ソ連崩壊後の新たな国境を不可侵とすることを求めた。

 今のロシアは当時とは違う。米国や拡大した欧州連合もそうだ。だが、1991年に軍事衝突を阻止した方法がまた成功するかもしれない。武力による政治的主権の侵害に反対して米国とその西側の同盟国が共同戦線を形成することはロシアよるクリミア併合とソ連崩壊後の国境の修正を阻止する上で欠かせない。世界は今、ソ連帝国の夢への後戻りを許すことはできない。

 (プロキー博士は歴史学教授でハーバード大学ウクライナ研究所所長。新著「The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union(最後の帝国:ソ連の最後の日々)」は5月にベーシック・ブックスから刊行される)

質問なるほドリ:クリミア、どんな所?=回答・真野森作

毎日新聞 2014年03月03日 東京朝刊


 ◇多民族が行き交う要衝 ソ連時代に入植、ロシア系6割

 なるほドリ ロシア軍が乗り込んだクリミア半島ってどんなところ?

 記者 黒海(こっかい)の北側に突き出た半島で、全域がウクライナ領です。半島の大部分はクリミア自治共和国と呼ばれる行政区域で、南西側にはセバストポリという別の特別市があります。クリミア自治共和国は独自の内閣を持つなど、特別の権限が与えられています。セバストポリにはロシアが黒海艦隊基地を構えています。ウクライナが旧ソ連から独立した後、ロシアが租借(そしゃく)契約を結んだためです。南東側の保養地ヤルタは第二次大戦末期の1945年2月に米英ソ3国首脳が戦後体制を協議した場所として知られています。

 Q 半島にはどんな歴史があるの?

 A 古代にギリシャ人が入植し、ローマ帝国、ゲルマン民族、モンゴル系やオスマン・トルコの支配を受けました。18世紀後半からロシアが統治してきましたが、54年にソ連の指導者、フルシチョフがウクライナ共和国へ帰属(きぞく)を移しました。

 Q なぜ頻繁(ひんぱん)に支配者が代わったの?

 A 欧州とアジアをつなぐ黒海に面し古くから多様な民族が行き交う要衝(ようしょう)だったからです。ロシアは冬でも凍らない港を求めて南へ領土を拡大する志向が強く、セバストポリという良港を持つクリミアで他国と勢力を争って来ました。

 Q どんな人たちが住んでいるの?

 A かつてはトルコ系のクリミア・タタール人が多数派でしたが、ソ連時代に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、今ではロシア系が人口の6割を占めます。このため親露(しんろ)感情が根強く、今回の危機の原因の一つとなっているのです。(モスクワ支局)

お金の正体 池上彰×岩井克人

 2011年、欧州ではユーロ危機が起き、米国ではウォール街で経済格差の是正を訴えるデモが起きました。

 どちらも騒動の主役は「お金」です。2002年に誕生したヨーロッパの統合通貨ユーロ。そのユーロがつくりあげた経済圏が、参加国の財政破たんなどを機に崩壊の危機に瀕しています。一方、市場経済の極みともいうべきアメリカの金融市場は、ユーロ危機より前の2008年に起きたいわゆるリーマンショックでその土台がぐらつきました。さらに2011年には、相変わらず高給を食む金融関係者や企業経営者に対し、はっきりと反旗を翻す動きがウォール街をはじめアメリカの各所で起きています。

 この危機と騒動の本質は何か? 私たちが「正しい経済」を手に入れるにはどうすればいいのか? そのためにはどうやら「お金の正体」を改めて知る必要がありそうです。そこで今回は、『貨幣論』『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるか』などの著作で、「お金と資本主義と会社の関係」を考え抜いてきた岩井克人東大名誉教授にご登場いただきます。「お金の正体」、迫ってみましょう。

ユーロ危機はなぜ起きたか?――知性の失敗

池上:昨年2011年は、経済の側面で見ると岩井先生のご専門である『お金』そのもの価値が揺らいだ年でした。そのひとつの象徴がユーロ危機です。「ユーロ」が参加国の従来の通貨を統合して法定通貨となったのは2002年1月ですから、今から10年前ですね。誕生から10年という節目に、ユーロという枠組み自体が破綻の危機にあります。複数の国に共通の通貨を使わせるという仕組みはなぜうまくいかないのでしょうか?

岩井:たしかに統一通貨ユーロの試みは、今のところうまくいっていません。でも、複数の国の通貨を共通化する政策がうまくいったケースもあるのです。例えば、明治維新の日本がそれです。江戸時代には、江戸は金、大阪は銀と、事実上一国に2種類の貨幣単位が存在していました。

江戸の日本はかつての欧州 統一通貨「円」はなぜ成功した?

池上:そのうえ、江戸時代には、藩札もありましたね。今でいう地域通貨です。明治維新前の日本はユーロ統一前のヨーロッパのような通貨体制だったわけですね。藩札はどんな役割を担っていたのでしょうか?


池上:国をあげて輸出を増やし、安い輸入品が入ってこないようにする現在の政策と変わらなかったんですね。藩ごとの藩札、共通通貨の江戸の金、大阪の銀が混在していたのが江戸時代までの日本の通貨事情だった。

岩井:だから、こうした複数の通貨の両替を生業とする人たちもいました。いわゆる両替商、為替商です。それが明治維新を経て、「円」という通貨に全国統一されました。いろいろな失敗もありましたが、ひとまず通貨を統一して、そしてその統一がある程度うまくいったがゆえに、日本は近代国家として、経済的そして産業的に発達できましたわけです。

池上:なぜ明治維新の日本では、通貨統一がうまくいったのでしょうか?

「労働力の移動」が統一通貨が成立する絶対条件

岩井:それは、通貨の統一と同時に「労働力の移動」が頻繁に起きたからです。ご存知の通り、江戸時代まで、人々は自分の住んでいる藩に縛りつけられていました。明治政府は、通貨統一と相前後して、人々の移動の自由を認めるようになったのです。日本人はどこに住んでもどこで働いてもよくなりました。

 経済学用語に「最適通貨圏」という考え方があります。ある地域で共通通貨を維持するためには、その地域内では、資本や労働力が自由に動くことが前提となるんです。

 明治期の日本では、通貨の統一と同時に、人々と資本とが移動し、経済活動が活発なところに労働力と資本とが投下されるようになりました。それが成功の大きな要因といっていいでしょう。最適通貨圏の模範でした。

池上:岩井さんのご先祖さまの例で言えば、江戸時代だったら松江藩の経済状況が悪化して失業しても国を出ることが叶わなかったのが、明治維新以降は、いざとなったら出雲地方を出てほかの土地で働くことが可能になった。それが日本全国で起きた。だから共通通貨「円」への移行が成功した、というわけですね。

岩井:その通りです。実際、私の両親は戦前に島根を出て東京へやってきました。同じような人たちは周りにたくさんいました。島根から東京へ。地方から都会へ。

 こうした労働力のダイナミックな移動が、経済の地域間調整を行ってきたのです。資本が動き、人々がそれに合わせるように動く。資本が投下された場所に労働力は集約され、経済が活性化する。その繰り返しで、江戸時代には経済的には必ずしも統一していなかった日本は、ひとつの通貨で経済活動を行う国に変身し、先進国になりました。

 もちろんその成長と引き換えに、たとえば島根県は過疎化し、東京や大阪には過剰といわれるほど人口が集中しました。それがいいか悪いかはまた別問題としてあります。が、経済の側面から眺めると必然的な流れだったといえます。

ケンタッキーフライドチキン・スクールに象徴されるアメリカの成長

池上:アメリカはどうだったんでしょう? ドルの誕生と国の成長も、明治維新以降の日本と同じような経緯をたどっているのでしょうか?

岩井:はい。アメリカは日本よりもはるかに国土が広いですが、もともとが「移動の自由」を掲げてできた国のようなものですよね。西部劇の世界さながらに、人々は馬車に乗って移動し、新しい街を瞬く間に作り上げ、栄える街は人口が増大し、寂れる街はゴーストタウンになる、というのを繰り返しました。

 馬車から自動車の時代になっても、この構造は基本的には踏襲され、その証左として、現在でも基幹道路の要所要所の街には、ケンタッキーフライドチキン・スクールといわれる学校があります。

池上:ケンタッキーフライドチキン・スクール?

岩井:ケンタッキーフライドチキンのようなフランチャイズチェーンのように、教える内容を規格化し、どこから来た誰でも面倒な手続きなしで転入でき、すぐに転出もできる学校です。それだけ人々の移動が激しい。


池上彰氏
池上:明治維新以降の日本とアメリカの国内成長の過程を眺めると、共通通貨が成功するか否かは、お金の統一と同時に「人=労働力の移動」がカギというわけですね。

 さて、そこでヨーロッパでユーロがうまくいっていない原因に話を戻しましょう。岩井さん、日本とアメリカの例を踏まえて、もう一度「ユーロがうまくいかない」わけを教えてください

岩井:ユーロの失敗。それは、ヨーロッパ経済を通貨で統合しようと考えたヨーロッパのインテリ層の理想と、通貨は統合されても国どころか地元からさえ離れないヨーロッパの普通の人々との現実との差が生んだ、まさに「知性の失敗」が大きな原因でしょう。

池上:知性の失敗? 詳しく教えてください。

岩井:そもそも、ユーロを推進したのは、ヨーロッパのインテリ層、指導者層です。彼らにとってみれば、ヨーロッパ域内はもちろん、世界中を自由に移動するのが当たり前です。イタリアで生まれ育ち、イギリスのケンブリッジで博士号を取り、ベルギーの大学で教え、ドイツ人と結婚して、研究のため2、3年アメリカへ渡るというような人が、珍しくありません。そんなヨーロッパのインテリ層がそもそもユーロを構想したのです。

失業しても移動しないヨーロッパの「普通の人々」

池上:ヨーロッパのインテリ層は、域内を自在に移動し、仕事も得ているわけですね。つまり、仕事の需要に合わせて自分が動く。

岩井:逆に言うと、ヨーロッパ域内を自在に移動し、雇用の場所を見つけられる、あるいは、そもそもそうやって「場所に縛られずに移動してもいい」と考えるのはインテリ層やエリート層に限られる、ともいえます。「万国の労働者よ,団結せよ」といったマルクスには申し訳ないですが、異なった国の労働者ほど団結しにくい存在はありません。

池上:ということは、そうでない大半のヨーロッパの人たちは違う、と。

岩井:ええ。ユーロ危機の中心のひとつであるイタリアの例を紹介いたしましょう。私はかつてイタリアのシエナという美しい街に半年間暮らし、そこで目の当たりにしましたが、イタリア人の大半はイタリアの外へ出ようとはしません。それどころか、地元からイタリア国内の他の地域にすら出ようとしない人のほうが多いのです。地元地域への帰属意識が強く、またそれぞれの地域文化に誇りを持っています。

 一番の楽しみが何百年続いたパリオという地区対抗の競馬です。たとえ勉強や仕事のために平日は地元を離れても、週末には洗濯物を抱えて実家に帰る。シエナの若者の9割は地元へ帰ってくるという統計があったはずです。おそらくイタリアのどの地域も同じようなものでしょう。

池上:地元を離れない上に、イタリアをはじめ、南欧の人々は基本的に楽天的ですね。先日、ローマに取材に行って驚いたのですが、ユーロ危機のど真ん中にいる、という意識をイタリアの一般市民がほとんど持っていない。失業率も上がって苦しいはずなのに、緊迫感がない。現地で退職した学校の先生に話を聞くと、現職時代の給料は安かったけれど、年金は退職時の給与と同額が保証されているから心配ないよ、と余裕でした。

岩井:ユーロ危機のもうひとつの当事国ギリシアも同じような状況です。

池上:国が保障しているから、子供が成人して大学を卒業して働き場所がなく実家にいついていても、とりあえずの生活には不自由しないのです。もちろん、その人は、結構な年齢になった子どもに職がないことは嘆いていました。しかし、それでは国がもたないのではと尋ねると「大切なヨーロッパ文明発祥の地を、他の地域が早く助けなかったからだ」と言ってのける。ローマ文明を興した我々が一番の文明人なんだという過剰な自負と、楽天的な気質とが同居している。岩井先生がおっしゃるように、ギリシアにも、同じことが言えるでしょう。たしかギリシアの自殺率は、世界で一番低いレベルのはずです。

岩井:そのうえイタリアもギリシアも観光国家の側面があります。ますますもって自分の地元を出て外で稼ぎに出かけるという発想が起きにくい。

池上:一方、自国が不景気になっても、ユーロに加盟して独自通貨がないから、為替対策による産業振興や雇用の確保もできませんね。

ユーロ圏では、個別の財政政策がただの赤字垂れ流しになる

岩井:そうです。かつては、国内が不景気になると、出雲藩が藩札を発行したように、ギリシア中央銀行がギリシア通貨であるドラクマを発行し、切り下げを行い、輸出を増やし、輸入を減らし、雇用を確保していました。しかし今はそれができません。となると、同じユーロで経済活動を行っているドイツなどと同じ土俵で戦えるか。それは難しい。ギリシア人やイタリア人が移動をいとわなければ、フランクフルトや、あるいはブリュッセルやパリへ働きに出ることで、ある程度地域の経済状況に合わせた雇用調整ができたはずですが、そうした動きは現実には起きていない。かつて1950-60年代には出稼ぎが盛んで、その時の国辱的なイメージが残っており、今では政府は食い止めようとする。ただし、東欧や中欧は違いますが。

池上:かつての日本は通貨の統一と同時に国そのものも統一しましたけれど、ユーロの場合は通貨を統一しても、国それぞれは未だに独立した存在ですからね。島根から東京に移動するのと、ギリシアからドイツへ移動するのは、心理的にも実質的にも難しい側面はあるかもしれない。

 うーん、となると、頭が痛いですね。ユーロ通貨統一に合わせた域内の労働力移動が見込まれにくい今、ユーロ危機に打つ手はないのでしょうか?

岩井:難しい。短期的には、欧州中央銀行がユーロ債を大量発行して、第二のリーマン・ショックを避けることしかありませんが、現在は、これもいやがっています。何しろ財政政策は使えない。そもそもの危機の原因が放漫財政にあったのですから。

 共通通貨になる前は、財政支出を増すと、利子率が上がってしまう。国内投資は減るし、高い利子率に惹かれて外国資本がやってきて、ドラクマ高になり、輸出も減る。財政に自然に規律がかかったのです。

 ところが、ギリシアのGDPがユーロに占める割合は3%ほど。共通通貨になったら、寄らば大樹、いやドイツの陰で、いくら財政投資を増やしても、EUがひとまとまりの金融市場になっていますから、利子率は上がらないし、ユーロ高にもならない。密かにですが国債をばんばん発行して、政府が社会保障や公共投資に使って、国内の雇用や公務員の年金財源を確保するという、悪魔の誘惑が生まれてしまう。民主主義国家は、本当に、ポピュリズムに弱い。その誘惑に負けて、財政赤字を大きく膨らまし、それを隠蔽してきた。

 それが明るみに出て、ギリシアには投資価値がないことに人々が気づきます。自国通貨ドラクマがあった時代ならば、まずドラクマが暴落するはずですが、それがない。結果すぐにギリシア国債が下がり、それが火種となって、ユーロ危機につながったわけです。

池上:ギリシアの財政赤字のひどさが明るみに出たのは、2009年10月政権交代が起きたのが直接のきっかけでしたね。

 国々をまたいで通貨を統一しても、国々をまたいで労働力は移動しない。通貨が統一されているために、不景気になっても各国単位の財政政策は有効な景気対策にはならない――。こうして見ていくと、ユーロ危機は、起こるべくして起きたようにも感じられます。

 そこで根本的な疑問がわき上がってきます。そもそも先ほどお話に出たヨーロッパのインテリ層は、なぜ通貨を共通化しようとしたのでしょうか?

アメリカの影におびえて急ぎすぎたユーロ成立

岩井:それはヨーロッパ域内の政治の意志が大きかったのです。第二次世界大戦のように、その後の東西冷戦のように、ヨーロッパ域内で隣国同士が戦い合うような事態を避けなければいけない。より具体的には、ドイツとフランスとのパワーをバランスしよう、というわけですね。つまり、経済大国となったドイツの力を抑え、ユーロという枠組みに押し込めて、ドイツとフランスとの確執を埋没させよう、さらに統一ヨーロッパという強い経済圏を創出しようと考えたのです。それが共通通貨ユーロという形に結実しました。

 しかし、インテリの政治的な夢と、現実との間にはギャップがあった、というわけです。

池上:なるほど、それで「知性の失敗」というわけですね。ヨーロッパ知性主義が理想のユーロ大経済圏を求めたけれど、各国の人々は実際には踊らなかった。日本国内やかつてのアメリカ国内で起きたような、労働力の頻繁な移動が、ユーロ圏内では起きなかった――。では、どうすればうまくいったのでしょうか?

岩井:ヨーロッパは文明が早くから発達した地域ですから、文化的にものすごく多様性がある。そんなヨーロッパ域内で、人間が自由に動くようになるには、時間がかかります。まず、労働力の移動をもっとゆっくりじっくりと促してから、ユーロを導入する、という順番であれば、もっとユーロはうまくいったかもしれません。たとえば、導入が20年後だったら、という思いはあります。

池上:急ぎすぎたということですね。第二次世界大戦後、ヨーロッパではゆっくり時間をかけて、統一ヨーロッパのかたちを整えようとしてきました。1957年にヨーロッパ経済共同体(EEC)ができて、1993年にヨーロッパ共同体(EC)ができて、その後、勢いに乗って、ヨーロッパ圏の大統領と国旗と国歌を定めようとしたらさすがに否決されたりもしました。そのスピードからすると、ユーロ導入はまだまだ時期尚早だったのかもしれません。

岩井:時間さえかければ、ひょっとすると第2のアメリカ合衆国になったかもしれません。しかしそうなるためにはやはり一世代くらいの時間はかかります。

池上:なぜ、ヨーロッパはユーロ導入を急ぎすぎてしまったのですか?

岩井:アメリカの影響が大きいですね。ドイツやフランスなどヨーロッパの経営者の多くがアメリカで経済学や経営学を学ぶようになり、経済に関するヨーロッパのインテリの思考がきわめてアメリカ的になった。

 その結果、例えばドイツですら、グローバル化したい大手銀行を中心に、従来からの社会民主主義的性格を持った市場経済、という概念を否定し、より新自由主義経済的な経済運営を求める動きが強くなったのです。

池上:アメリカ流市場主義の影響下にヨーロッパもあった、ということですね。

岩井:はい。なにより90年代、世界経済が「アメリカの時代」になったことで、ヨーロッパの指導者層は焦りました。その焦りが、ドルに対する対抗意識を生み、基軸通貨ユーロを立ち上げてドルと競合する、あるいはユーロ圏をつくって、アメリカ=ドル経済圏と対抗しよう、という野心を抱いたのですね。ユーロ合衆国です。

 そのため、通貨統一という本来ならば時間をかけなければいけない事業を、今にしてみれば拙速に進めてしまいました。ただ、そんな野心を抱いていたヨーロッパのインテリたちも、アメリカ的な資本主義のほうがこんなに早く凋落するとは思ってはいなかったでしょう。

フリードマン流「新自由主義」が正しいのか?

池上:ちなみにギリシアの国家経営破綻がすぐに明るみに出ず、ヨーロッパの人々が雇用を求めて移動を厭わないようになれば、ユーロはなんとか維持できていたんでしょうか? 

岩井:分からないですね。というのも、ユーロ危機の勃発は、ギリシアなどの国家経営破綻だけが原因ではなく、アメリカ発のサブプライムローン問題、そしてリーマンショックも大きく影響しているからです。いま起こらなかったとしても、いつか起こったと思います。

池上:統一通貨圏はうまくいくわけはないんじゃないか?という議論は、ユーロの導入時にも専門家の間でなされていているのですよね?

岩井:ええ。さきほど最適通貨圏のお話しをしましたが、これを唱えたのはカナダ人の経済学者、ロバート・マンデルです。

池上:1999年のノーベル経済学賞受賞者ですね。


岩井:マンデルなどは最初からユーロはダメだろうと明言していました。それから、シカゴ大学の経済学者、ミルトン・フリードマンらも懐疑的でした。

池上:自由放任主義を唱えた、いわゆる新自由主義派の代表ともいえる経済学者ですね。1976年にやはりノーベル経済学賞を受賞しています。

岩井:はい。徹底した市場主義者フリードマンの理論からすると、統一通貨ユーロの発想は相いれませんからね。ただし、フリードマンは、以前に一度、大きな間違いを犯しているんです。実は、1971年のアメリカのニクソンショックを後押ししていたんです。

池上:ニクソンショックとは、それまで固定相場制をとっていて金の兌換紙幣だったドルを変動相場制に切り替え、金との交換停止を断行した一連の政策で起きた「ショック」のことでしたね。時の大統領リチャード・ニクソンがアメリカ議会にも知らせずに、1971年8月15日、突然発表したことから「ニクソンショック」と呼ばれています。

岩井:71年当時ドルは世界の基軸通貨という役割を担っていました。一国の通貨に過ぎないのに同時に世界の共通通貨になっている。フリードマンは、これをアメリカにとっては不利なことだと考えました。ドルが世界の基軸通貨であるということは、金に直接的にリンクした固定相場制であり、そのため、アメリカは国内の経済政策が自由に取れない。当時はベトナム戦争下で財政赤字が深刻化していました。その状況を打開するためにも、ドルと金との繋がりを断って、当時のマルクや円のように一国の通貨となって、ドルの価格は為替市場で自由に変動するのが望ましいと考えたのです。

池上:ところが、アメリカの不景気は解消されなかった……。

岩井:固定相場から変動相場に移行したにも関わらず、ドルは基軸通貨であり続けた。ドルを基軸通貨にしたのは、金との固定相場ではなかったことがわかってしまった。

 けれども、フリードマンは、その後もすべての通貨価値は市場で自由に決まるのが望ましいと考えています。ユーロのような統一通貨は人間が上から貨幣経済をコントロールするものであり、絶対にうまくいかない、と反対していました。ユーロがスタートした当初、フリードマンらのこうした意見は表にあまり出てきませんでした。

池上:当初、ユーロは好スタートを切ったかに見えましたしね。

お金と経済に「知性」はいらない?

岩井:はい。でもユーロ危機が表面化した時、フリードマンはすでに亡くなっていましたが、「あのとき、ああ言っていた」とフリードマンらの意見が急にクローズアップされるようになったわけです。

池上:今の時点で「通貨や経済を人間がコントロールできるわけがない。市場に任せろ」というフリードマンの意見を聞くとたしかに説得力がありますが、一方でユーロのような統一通貨へ憧れを抱く人々の気持ちもわかります。

 人間には、お金に振り回されてきたという長い歴史がありますから、知性の力でお金をコントロールできるようにしよう、多国間で通過を統一しよう、とヨーロッパの知性主義がユーロに行きついた、というのは、ある意味で理解できます。

岩井:明治維新の日本、そしてアメリカのように、条件さえそろえば、通貨統一は成功します。私もユーロの構想は悪くない、と思っていました。ユーロ、というのはたしかに、人間の知性で考えた概念です。知性を集約し、政治的な意思で統一通貨をつくり、その成功に向けて加盟国の経済を統合させて、強く安定的な経済圏を実現する――。

 このシナリオそのものは、悪くない、と思います。ただ、繰り返しになりますが、各国、そしてヨーロッパの人々の足並みがそろう前にあまりに拙速にユーロを成功させようと急ぎすぎた。ユーロの加盟国も急速に増やしすぎた。残念だな、という感は否めないですね。

池上:やはり人間の知性では、お金を、経済をコントロールするのは無理なんでしょうか?

岩井:東欧やソ連の社会主義体制が終焉したとき、計画経済への幻想は打ち砕かれました。今回のユーロ危機では、市場経済にある種の計画性を持ち込もうというやり方が挫折したのも事実です。ですからこの結果を受けて、新自由主義を標榜するフリードマン一派は自分たちが正しかったと快哉を叫んでいます。けれども、人間の知性がお金や経済にまったくかなわないか、というとそれも正しくありません。というのも、ユーロ圏とまったく反対に位置づけられそうな自由主義的なアメリカの資本主義とグローバルな金融市場が、ユーロ危機と相前後して、いやむしろユーロ危機に先だって、危機を迎えているのですから。

池上:たしかに! では次回は、アメリカの市場経済の危機について「お金の正体」に焦点を当てながら、岩井先生に解明いただきましょう。

2014年2月27日木曜日

ウクライナがピンチです、2014.02


ウクライナ
首都キエフは、ソ連時代、モスクワ、ペテルブルグに続く第3の都市でした。
ここからロシアの歴史が始まったとされている古都で、京都市の姉妹都市でもあります。
また、ウクライナ美術館や、キエフオペラハウスとして有名なキエフ国立歌劇場など、芸術の都としても有名です。
南部は黒海に面し、特にクリミア半島は、クレムリンの要人達に夏の行楽地として人気があったこともあって、現在でもリゾート地として知られています。
ヤルタ会談で有名なヤルタは、旧ソ連のイメージとは遠く温暖な地中海性気候であり、ワインの有名な産地でもあります。

                  べラルーシ
          ポーランド               ロシア
                    ウクライナ
         
ハンガリー    ルーマニア      黒海       ソチ

           ブルガリア    トルコ
                 

・大きく西側と東側で分離(民族/言語/文化)
・西側=農業エリア(EUへの輸出増)、東側=工業エリア(ロシアへの輸出増)
・人口推移=グラフで簡易イメージすると「y=-1/3x+10」くらいの大幅な人口減(10年間で100万人減で、人口が1/10減った・・・)
・変動相場制にした(new!)

EUへの影響
・なんたってガスパイプラインやが、現在大きく5経路ある

  ヴィボルグ(ロシア連邦レニングラード州)→北海経路
  ベラルーシ→ポーランド経路
  エレン(ロシア連邦のリペツク州)→ウクライナ経路
  黒海→ブルガリア経路
  黒海→トルコ経路

封鎖される可能性があるのは、エレン→ウクライナ経路なんで、EUはまぁ大丈夫やな

ロシアへの影響
・これはデカイ・・・エレンはガスパイプラインの重要な分岐点
・ここをウクライナの暴れん坊が攻めてくるとプーチン激オコ
・ウクライナへは工業支援のため金落としまくり

つづき
・失業率は低位推移(1%以下とは驚き・・・)
・ウクライナ国民が何に怒っているのかというと報道のとおり現政権に対するものやが・・・それだけではないような気が
・ウクライナを裏で操る輩がソチオリンピック開催中に仕掛けたかね?

ワイが一番悲しいのは、ウクライナで平穏に暮らしている市民や子供達やな
・欧州各国の変態金持ちに少女売られるとか・・・
・漫画「MONSTER」のように孤児が「511キンダーハイム(架空)」のような施設に送り込まれるとか・・・

力弱き者が不幸にならんように、短期的に収束してほしいわ。発散は困るで。
しっかし、USは本当に力失ったわ・・・オバマではダメやろな。USは

2014年2月19日水曜日

江戸時代の身分

守護大名=将軍の家臣、国司、県知事、県警本部長、一万石以上の武家
戦国大名=やくざの組長


旗本=
上位5階級以上、国家公務員キャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、上級、将軍に会う資格あり、近衛兵、江戸時代において徳川の直臣、三千石程度で名門

御家人=
6階級以下、国家公務員ノンキャリア官僚、将軍の家臣(大名の家臣ではない)、下級、将軍に会う資格なし御+家人、将軍などの偉い武士の部下


上から、

老中
町奉行(警察庁長官兼東京都知事)
与力(武士、警部、警視、警視正)
同心(足軽、警察官の巡査、巡査長)
岡引(序列に入らない、警察官ではない)

2014年1月25日土曜日

世界地図

GMT Map
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Standard_time_zones_of_the_world.png


おもしろ世界地図
http://dailynewsagency.com/2012/07/22/mapping-stereotypes-2ej/


国の形を何かに例えた
http://dailynewsagency.com/2013/06/18/creative-interpretations-of-european-countries-114/


海底ケーブルマップ
http://www.submarinecablemap.com/

ヨーロッパ地図 覚え方

まず北にある島国がイギリス(United Kingdom)、これはわかりますよね?
首都は今年オリンピックが開催されたロンドン(London)です。
次に、イギリスの西隣にある島国が、アイルランド(Ireland)です。首都はダブリン(Dublin)です。
次に、ヨーロッパ大陸部です。

ヨーロッパ大陸の中央部にある国は、スイス(Switzerland/schweiz/suisse)です。ハイジのふるさとです。首都はベルン(Bern)ですが、最大都市はチューリッヒ(Zürich)です。
スイスの西にある国は、フランス(France)です。首都はパリ(Paris)です。
フランスの南西にある国は、スペイン(espana/Spain)。首都はマドリード。
さらに西、ヨーロッパの西端にあるのは、ポルトガルです。首都はリスボン。
フランスとスペインの間の山の中にある小さい国は、アンドラです。
スイスの南にある、長靴のような形をした国が、イタリア(italia/Italy)。首都は3000年の歴史を誇るローマ(Roma/Rome)です。
ローマ市内に、世界で一番小さな国があります。バチカン(Vatican)といいます。面積はたったの44haで、東京ディズニーランドより小さいです。
また、イタリアの中にはサンマリノという小さな国もあります。
あと、フランスとイタリアの間には、モナコという小さな国もあります。カジノとF-1で有名ですね。

スイスの北にある国は、ドイツ(Deutschland/Germany)です。首都はベルリン(Berlin)。世界4位の経済大国です。(1位アメリカ、2位中国、3位日本)
ドイツとフランスの間には、3つの国があります。これらは総称して「ベネルクス三国」と呼ばれます。
北から順に、オランダ(Nederland/Netherlands/Holland)(首都アムステルダム)、ベルギー(Belgium)(首都ブリュッセル)、ルクセンブルク(Luxembourg)です。
ドイツの北は、デンマーク(首都コペンハーゲン)。ドイツの東は、ポーランド(首都ワルシャワ)。さらに東は、ベラルーシ(首都ミンスク)。もっと東に行くと、世界一広い国、ロシア(首都モスクワ)です。ベラルーシの南、ロシアの南西にある比較的広い国は、ウクライナ(首都キエフ)。チェルノヴイリ原発事故のあった国ですね。
ドイツの南東は、チェコ(首都プラハ)とオーストリア(Österreich/Austia)(首都ウィーン)。オーストラリアと紛らわしいですね。ウィーンはクラシック音楽で有名ですね。
スイスとオーストリアの間には、リヒテンシュタイン(Liechtenstein)(首都ファドゥーツ)という小さな国があります。

チェコの東は、スロバキア(首都ブラチスラバ)。かつてはチェコスロバキアとして一つの国でした。
スロバキアの南は、ハンガリー(首都ブダペスト)。
それより南は、スロベニア(首都リュブリャナ)、クロアチア(首都ザグレブ)、セルビア(首都ベオグラード)、ルーマニア(首都ブカレスト)、モルドバ(首都キシニョフ)、ボスニアヘルツェゴビナ(首都サラエボ)、モンテネグロ(首都ポドゴリツァ)、アルバニア(首都ティラナ)、マケドニア(首都スコピエ)、ブルガリア(首都ソフィア)(ヨーグルトと琴欧洲)、コソボ(最近独立した国です)があります。そして一番南には、財政破綻(笑)したギリシャ(首都アテネ)があります。4000年の歴史を誇る国でオリンピックの発祥です。

地中海には、マルタ(首都バレッタ)とキプロス(首都ニコシア)という島国があります。
ポーランドの北東に、3つの国があり、「バルト3国」と総称されます。北から順にエストニア(首都タリン)、ラトビア(首都リガ)、リトアニア(首都ビリニュス)です。
ヨーロッパの一番北、いわゆる北欧は、東から順にフィンランド(首都ヘルシンキ)(サンタクロースとムーミンの国)、スウェーデン(首都ストックホルム)(ノーベル賞の授賞式が行われる国です)、ノルウェー(首都オスロ)です。
一番北の絶海の孤島にある島国は、アイスランドです。名前からして寒そうですね。軍隊を持たない平和な国です。

EU加盟国、加盟順、覚え方

「おらが忘れたベルトをポチに持ってくるように頼み、ポチがそろそろフェラーリで持って来るよ!」


「私(おら)は、古いベルトを忘れたけれど、会社への愛があるからギリギリの思いでスポーツカーでオフィスまでちゃんと行きます。」

原加盟国
1958年
  • オランダ王国 (アムステルダム) … オラ
  • フランス共和国 (パリ) … フ
  • ルクセンブルク大公国 (ルクセンブルク) … ル
  • イタリア共和国 (ローマ) … イ
  • ベルギー王国 (ブリュッセル) … ベル
  • ドイツ連邦共和国 (ベルリン) … ド


おら、古いベルト
1973年
  • アイルランド (ダブリン) … ア
  • グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国 (ロンドン) … イ
  • デンマーク王国 (コペンハーゲン) … デ


愛で
1981年

  • ギリシア共和国 (アテネ) … ギリ


ギリギリ
1986年

  • スペイン王国 (マドリード) … ス
  • ポルトガル共和国 (リスボン) … ポ


スポーツカーで
1995年

  • オーストリア共和国 (ウィーン) … オ
  • フィンランド共和国 (ヘルシンキ) … フィ
  • スウェーデン王国 (ストックホルム) … ス


オフィスへ行きます。



ポチはスロスロ(そろそろ)、フェラーリで来ます。
2004年

  • ポーランド共和国 (ワルシャワ) … ポ
  • チェコ共和国 (プラハ) … チ
  • ハンガリー共和国 (ブダペスト) … ハ
  • スロベニア共和国 (リュブリャナ) … スロ
  • スロバキア共和国 (ブラチスラバ) … スロ
  • エストニア共和国 (タリン) … エ
  • ラトビア共和国 (リガ) … ラ
  • リトアニア共和国 (ヴィリニュス) … リ
  • キプロス共和国 (ニコシア) … キ
  • マルタ共和国 (バレッタ) … マ

2007年

  • ブルガリア共和国 (ソフィア)
  • ルーマニア (ブカレスト)


2013年

  • クロアチア共和国 (ザグレブ)




2013年11月25日月曜日

かんべえさんの日記からあまりにスバラシかったので勝手に拝借しました、スミマセン。

<11月17日>(日)

○『軍師の門』(火坂雅志・角川文庫・上下巻)を読了。黒田官兵衛ものであって、来年のNHK大河ドラマのネタ本である。

○が、これがつまらない。まーったく下手な小説だと思う。義理だ、仕事だと自分に言い聞かせながら最後まで読み通した。人物描写は浅いし、ストーリーには山谷がないし、とにかく史実をなぞってみました、という体裁である。荒木村重に投獄される部分も、本能寺の変から中国大返しに至る部分も、ほとんどドラマになっていない。唯一、フィクションでくわえた女性が登場するが、これが全く魅力に欠けると来ている。何が書きたかったのだろう。笑ってしまうのは、最後についている「解説」もひどい。お暇な方は、書店でこの解説だけを立ち読みされたらよい。ワシは「やっぱり買うの止めようか」と思いましたぞ。

○と、いきなり全否定してしまったが、ここ20年くらいで戦国時代研究はずいぶんと進化を遂げているようで、本書にはたとえば官兵衛が九州に行ってからの官兵衛の足跡や、城造りの名手であったことなどが丁寧に描かれている。歴史小説としてはいかんが、官兵衛ファンにとっては読んでおくべき一冊ということになるのかもしれない。でもねえ、これに比べると時代は古くなってしまうし、古い材料を元にして書かれているけど、司馬遼太郎の『播磨灘物語』や吉川英治の『黒田如水』の方が、よっぽど小説としてのレベルは高いし、そっちの方がお勧めだと思う。まあ、比べる相手が悪いという気もするが。

○ワシ自身の官兵衛像は、この辺この辺で書いた通りである。何と10年以上前に書いたものなので、いい加減自分でも忘れているのだが、とにかく官兵衛が「軍師」であったというのが信じがたいと思う。黒田官兵衛孝高は、何はさておいて戦国武将ですよ。自分の家や家来をほったらかして、秀吉の腹心になって満足していたとは思えないんですよねえ。現代人は、軍師とか参謀役とかが妙に好きなわけですが、戦国時代はまだラインとスタッフが未分化な組織で戦争をやっているわけですから、「軍師」の地位はあんまり高くはなかったと思うんです。

○それから、「高松城水攻め」が官兵衛の発案だったという話も嘘くさいと思う。あんな風にカネのかかる作戦は、思いついても口に出せないでしょ、普通。あれは土木事業が大好きだった秀吉が、三木城→鳥取城の城攻め思想を発展させて、トップダウンで決めたと考えるのが自然であろう。官兵衛をスーパースターにしようとすると、ついついそういう設定にしたくなるけど、そういう人ではなかったと思うんだな。

○と、腹ふくるる思いをした不肖かんべえなのであった。ね、官兵衛さん、違うよねえ。





歴史漫談『官兵衛とかんべえ』
①戦国時代編(掲載:2000.4.2--4.5)

<4月2日>(日)
○『播磨灘物語』を読み返してみました。「かんべえ」というハンドルネームの元となった黒田官兵衛の生涯なんですが、あらためて気がつくと、彼は20代にはほとんど何もしていないんですね。官兵衛が世の中に飛び出すのは、30を過ぎて羽柴秀吉に出会ってから。その後の活躍はわりと有名ですが、若き日の官兵衛が何をしていたのかはほとんど伝わっていない。ことによると鬱々とした日々だったような気もする。 

○『播磨灘物語』の中では、官兵衛がキリシタン仲間との交流したり、将軍足利義昭擁立に協力したことが書かれているけど、このあたりは司馬遼太郎さんの想像力の産物と考えたほうがいいでしょう。のちの天才軍師は、どんな青春時代を送っていたのか。ということで、架空インタビューを実施してみました。 

かんべえ 「官兵衛さんは20代の頃は何をしていたんですか?」
官兵衛 「いやもう、正直なところ暇で暇で・・・・。こんな田舎でくすぶっていていいのかと、何度も思いましたよ」
かんべえ 「やめちゃいたいとは思いませんでしたか」
官兵衛 「そんなこといっても、僕は長男だし、筆頭家老だし、無責任なことはできませんよ」
かんべえ 「長男だなんて、そんなこと気にする人だったんですか」
官兵衛 「親父が40代で隠居して、僕に家督を譲ってくれたでしょう。それでいきなり小寺家の筆頭家老でしょう。最初のうちは重荷だったですよ。弟もいるし、家臣はみんな真面目だし、周囲の期待は大きかったし・・・・。それに小寺氏の家老って、ほかに頼りになるひとはあんまりいないし、退屈なわりには結構きつかったですよ」

かんべえ 「小寺家を乗っ取って独立、なんて思いませんでしたか」
官兵衛 「全然。僕はそんなガラじゃないって・・・・」
かんべえ 「そういうところが後世では人気があるんですけど、その気になれば20代のうちに播磨一国くらいは取れてたでしょ」
官兵衛 「(笑い)・・・・かもしれないけど、その場合は人生そこで終わったでしょうね。後になってから良かったなと思ったんだけど、僕は20代では何もしなかったけど、無茶や無理もしなかったの。それで信用されたと思うんだな。田舎で信用されるには、“昔から知ってる”ってのがいちばんですからね。とくに黒田家内部が僕を信用してくれた。その後、僕はいろんなギャンブルをしたけど、みんな最後までついてきてくれましたからね」
かんべえ 「それじゃやっぱり、無駄にしてたわけじゃないんだ」
官兵衛 「やっぱり二代目ですからね。親の代からの家臣に信用されるのって、難しいですよ」

かんべえ 「20代で楽しかったことって何がありますか」
官兵衛 「やっぱりキリシタンになったことでしょうね。正直に言いますけど、僕はそれほど信仰心が厚かったわけじゃないんです。ただね、キリシタンになると情報が入ってきた。それが面白かった」
かんべえ 「なぜキリシタンは情報が入るんですか」
官兵衛 「キリシタンになるって連中は、当時としてはインテリなんですよ。それも若くて面白い奴が多かった。そいつら全員と友人になれたんです。しかも神の前にはみな平等だから、大名でも商人でも対等に付き合うんです。今でいうネットワーキングですか。田舎に住んでいたけど、あれで世界が広がったと思う」
かんべえ 「なんだか勉強会みたいなことをしてたんですね」
官兵衛 「情報を集めるとか、形勢を分析する技術なんてのは、あの頃に覚えたんです」

かんべえ 「官兵衛さんの20代には、播磨の国はまだ空白地帯ですね」
官兵衛 「東から織田家、西から毛利家が伸びてきていた。でも播磨に到達するまでには、5年以上かかると思っていたから、あわてることはなかった。そうそう、それでお金を貯めてましたね」
かんべえ 「官兵衛さんは晩年になってもケチだったという評判が残っています」
官兵衛 「若いときからの癖なんだな、きっと。いずれ勝負のときが来る、と思ってたから」
かんべえ 「そういうお金は何に使ったんですか」
官兵衛 「主に情報を集めるためかな。そうそう、僕は初めて秀吉に会ったときは袖の下を渡してるんですよ。あの人はお金のかかる人だって知ってたから」

かんべえ 「官兵衛さんは、意外と生臭いこともしてるんですね」
官兵衛 「その辺が竹中半兵衛さんとの違いかな。僕はね、秀吉の若い頃からの悪事をいっぱい知ってるの。とても書けないようなことも含めて」
かんべえ 「歴史に残ってないことも含めて、ですね」
官兵衛 「歴史に残っていることなんて、ほんの一部ですからね。年取ってから、僕は秀吉から干されるわけだけど、それって無理のない話なの。弱みをいっぱい握っているわけだから」
かんべえ 「歴史に残ってない話を少し教えてくださいよ。本能寺の変は実は秀吉が仕組んだとか」
官兵衛 「そりゃあちょっと無理があるけど、司馬さんが書き残したことはたくさんありますよ。いい本だけどね」 



<4月3日>(月)
○かんべえと官兵衛の会話は思ったよりはずんで、どんどん先へと進みます。 

かんべえ 本当は、官兵衛さんの20代についてだけ聞くつもりだったんですけど、ご機嫌が良いようなので、もう少し話を伺ってみましょう。で、司馬さんがあの時代について書き残したことって、どんなことがあるんでしょう。
官兵衛 たとえばね、織田軍団の内部事情なんかは、あんなに生易しいものではなかったね。
かんべえ と、いいますと?
官兵衛 当時の織田軍団というと、今でいうとオーナー社長の下で急成長している企業なわけですよ。もうソフトバンクか光通信かってくらいで。組織の内部はもうむちゃくちゃね。朝令暮改に下克上で、落ち着きがない上にピリピリしているの。仲間内の足の引っ張り合いもすごくえげつない。
かんべえ たとえば、秀吉と柴田勝家は仲が悪かったそうですね。
官兵衛 あの二人はまだいいの。お互いに認め合っているところがあったから。でも、汚いことするやつもいるわけ。たとえば信長の晩年に、重臣の林、佐久間が放逐されるでしょ?あれだって仕掛けるやつがいるの、内部に。もう油断も隙もない。前線に立ってても、いつ後ろから弾が飛んでくるか分からない。正直なところ四分六で内部の方を向いてないと、仕事ができないって感じ。 

かんべえ でも、織田軍団の中で秀吉は出世しますよね。あれはやっぱり他人の足を引っ張ってのし上がるんですか。
官兵衛 そういう面がなかったとはいえないよね。たとえば、ある時期の織田家は、誰が中国方面担当司令官になるかがすごく注目されるんです。誰が見たって打倒毛利家が最重要課題だし、その担当者が織田家ナンバーワンの評価になるから。信長はそういうとき、部下にコンペをさせるんです。もっとも早く、確実に、安上がりに勝てそうな部下を選んで指名する。実はある時期までは、この競争は光秀が一番札だった。
かんべえ 秀吉はそれを大逆転するわけですね。
官兵衛 そう、そのやり方がおかしいの。秀吉はいきなり僕を岐阜城に連れていって、「すごい男を見つけました。この男ひとりで播州は取れます。ついでに中国方面も全部取れます」って宣伝するわけ。そこで僕は初めて信長の前に出て、「こうすれば毛利は倒せます」と一席ぶたされるんです。これが受けちゃって、「よし、だったら秀吉、毛利攻めはお前がやれ」。これで決まり。
かんべえ いきなり自分の出世に利用されちゃったわけですね。
官兵衛 そう、だから秀吉は僕には恩義があるんです。

かんべえ じゃあ、毛利攻めの最中にも、同僚によるいじめがあったんですか。
官兵衛 端的にいうと、荒木村重が造反するでしょ。あれで僕はエライ目にあうわけだけど、僕の前に、最後に説得に行ったのは明智光秀なの。でも説得に行ったのか、寝返りをけしかけたのかは分からないよ。
かんべえ ひえー、そりゃひどい。
官兵衛 だって、彼は秀吉にポストを取られて、気の進まない丹波攻略なんかをさせられてるんだもの。邪推かもしれないけど、「おぬしの気持ちはよく分かる」なんて言ってたんじゃないの?摂津の村重が寝返ると、播磨の羽柴軍は困るけど、丹波の明智軍は関係ないしね。
かんべえ 光秀はけしからんやつですね。
官兵衛 でもね、こっちも彼に対してはいろいろやったから。 

かんべえ 具体的にどんなことをしてたんですか。
官兵衛 スパイを送ってたんだよね。明智軍だけじゃないよ、秀吉軍てのは自民党田中派みたいなもので、そこらじゅうに「隠れ秀吉派」を作ってあるわけ。光秀はとくに危ないってんで、優秀なのを送り込んどいたの。そしたらある日、様子がおかしいことに気づいたんだな。
かんべえ ひょっとして・・・・
官兵衛 そう、明智軍が亀山城を出て、老の坂まで来たら、「わが敵は備中にあらず、本能寺にあり」って言うんだもん、そのままスパイは逐電して秀吉陣営まで飛んできた。
かんべえ 本能寺の変を知らせたのはスパイだったんですか。
官兵衛 もちろん、信長が死んだかどうかはわからなかったけど、結果は察しがついたよね。堺の商人が飛脚をよこしたとか、明智の使者が報告先を間違えたってのは、僕らが後で作った話。これが「中国大返し」の実態ですよ。 

○かんべえさんのインタビューに対し、官兵衛さんは快調に何でもしゃべってくれる。明日はいよいよ本能寺の変の真相が明らかになる。乞うご期待。 



<4月4日>(火)
○光秀の謀反は秀吉陣営にはつつぬけだった、という。そうなると気になってくるのは、日本史最大の謎のひとつである本能寺の変の真相だ。 

かんべえ そこまで話したら、本能寺の変の真相についても教えてくださいよ。
官兵衛 うーん、本当のところはね、僕らもわかんないよ。光秀がなんであんなことをしたのかはね。でも、彼の気持ちは分かるんだ。
かんべえ 後世では怨恨説、野望説などが有力とされています。
官兵衛 野望ってことはないよ。奴はそんなタマじゃなかった。怨恨も当たらないね。浪人してたところを拾ってもらったんだから、信長への恨みよりは恩義の方が圧倒的に大きい。強いていえば、正当防衛に近いのかな。あのままいけば、彼は確実に殺されていた。だから殺られる前に殺った。それと、最後の頃の光秀は、心身症に近かったからね。
かんべえ 光秀をそんな風に追い込んだのは信長自身だった、と。
官兵衛 うーん、これを説明するのは難しいんだけど・・・・・

かんべえ いろいろわけがありそうですね。
官兵衛 そうだな、ある時期から信長は明らかにおかしくなっちゃうわけ。もう、全然、感情の抑制が効かなくなってしまうの。やたらと人を殺させたり、かと思うとボロボロ泣いたり、冷静な指導者ではなくなってしまう。元亀年間の頃は、織田家がいつ滅ぼされるかわからないという緊張感があったけど、長篠の合戦あたりからはそれもなくなって、完全に自分を止められなくなった。天正9年には「伊賀のもの、一人も生かすな」なんて無茶苦茶な命令を出してしまう。でも、なにしろ織田家はワンマンカンパニーだから、そうなっちゃうと誰も止められない。組織としての抑止力もゼロだったし。
かんべえ オーナーが変になって、バブル企業が崩壊する感じですか。
官兵衛 もちろん、止めようとはしたんですよ。秘書役の森蘭丸なんかが、「ちょっと御館様が変なんです。秀吉さん、あんたがいちばん呼吸が合うんだから、なんとか言ってやってください」って頼んでくるわけ。でもさ、秀吉はイエスマンだから、結局何も言えないの。
かんべえ 信長がそんなふうになった理由はなんだったんでしょう。
官兵衛 僕ははね、殺し過ぎたんだと思うんだな。あの人は叡山焼き討ち、伊勢一向一揆虐殺とかやるでしょ。でも彼だって人間だから、良心の呵責は感じていると思うんだ。そうすると苦しむよね。苦しいのを忘れるために、もういっぺん虐殺をやっちゃうの。それで、「こんなことはたいしたことじゃないんだ、こいつらが悪いんだ」って思うんだろうね。そうやって自己正当化を図っているうちに、暴力が拡大再生産されていく。最後の時期には恐くて、誰も面と向かってものが言えなくなっていた。

かんべえ それでも、織田家の快進撃は続いていた。
官兵衛 ある時期からの織田家は事業部制になって、羽柴、明智、柴田、丹羽、滝川といった子会社が競争しながらどんどん成長するのね。でも、親会社の社長は狂っていて、自分がいつクビになるか分からない。そういうとき、子会社の社長はどうすると思う?
かんべえ ・・・・分かりませんね。
官兵衛 自分だけはやられたくないから、やられ役を作っちゃうの。つまりイジメだね。信長の怒りが爆発しそうになると、「悪いのは全部こいつです」とみんなで口裏を合わせてしまう。そうしておけば自分自身は無事だからね。
かんべえ 犠牲になったのが光秀であったと。
官兵衛 そう、彼は典型的ないじめられ役だったの。信長がひとりで怒り狂っているときに、なーんとなく光秀がスケープゴートになってしまう。そういう雰囲気作りは、秀吉がいちばん上手だったよ。小さな頃にいじめられた子供は、大人になってからそういう勘が働くのね。
かんべえ それじゃ光秀はたまりませんね。
官兵衛 そう、最後の頃には、「俺はこのままじゃ殺される」と思ってただろうね。

かんべえ それじゃ、官兵衛さんなんかは、光秀の裏切りはうすうす感じていたんじゃないですか?
官兵衛 感じてなかったといったら嘘になるね。というより、信長が死んだと聞いて、織田家の部将はみんなほっとしたと思うよ。正直なところ、最後の頃はみんなが戦々恐々で、「誰かなんとかしてくれ!」って感じだったもの。光秀の謀反に内心、拍手を送った部将は少なくないと思う。
かんべえ 言葉は悪いですけど、彼は家臣団を右代表して手を下しちゃったというか。
官兵衛 そう。光秀の気持ちになるとね、信長を殺せばみんなが拍手してくれると思ってたんじゃないかな。でもそれって甘いよね。自分の主君を殺した人間は誰にも信用されない。そういうことって、実際に手を下してみると気がつくんだよね。本能寺の後の彼の行動は明らかに変でしょ。非常に中途半端な行動を続けて、まるで自滅するように死んでしまう。
かんべえ なんだか光秀が可哀相になってきたな。

官兵衛 そういう罪悪感は、当時の織田家の部将はみんな感じていたと思うよ。「あいつ馬鹿だなー」なんていいつつ、まあ、でも取りあえず自分が助かって良かったな、って。
かんべえ そういう計算をしていた官兵衛さんも結構ずるいというか。
官兵衛 たしかに、ついに光秀が動いた、という情報を得たときは、立ち込めていた雲が消え去ったような気がしたな。高松城で毛利軍と対峙していたけど、彼らは最初から戦う気なんかなくって、お互い八百長試合もいいところだったからね。吉川、小早川とはツーカーの意思疎通ができていたし、僕らはいつでも好きなときに席を立つことができた。僕らはついてたんだ。
かんべえ 聞いててだんだん腹が立ってきたな。やっぱり本能寺の変は秀吉が仕組んだんじゃないの。
官兵衛 そういうなって。その後の「中国大返し」から山崎の戦いのプロセスは、やっぱりギャンブルだったからね。もちろん、負ける気は少しもなかったけど。
かんべえ 秀吉と官兵衛さんは、相当に腹黒いことを相談していたんですね。
官兵衛 あははー、でもね、秀吉と僕のコンビは、当時の日本では掛け値なしに最強だったと思うよ。二人で知恵を絞って強敵に打ち勝っていくという体験は、強烈な快感だった。・・・・それに、君だってこういう話は、まんざら嫌いでもないんだろう? 



<4月5日>(水)
○かんべえさんと官兵衛さんの戦国時代問答は、3日間にわたって続けられました。二人の間には、若干の余熱が残っているらしく、昨今の状勢に関しての雑談が続いています。 

官兵衛 ときに今度はこっちから聞くけど、僕が戦国時代の話をしている間に、この時代では総理大臣の交代があったんだね。本能寺ほどではないが、最高権力者の無力化という一種の異常事態が発生した。ところが乱世になるという感じでもない。これはどういうことだい。
かんべえ 小渕前首相が倒れたのは4月1日の夜。それが4月5日には新内閣発足。「中3日」で処理したわけですが、うち1日は事実を隠していたから本当は「中2日」でした。危機管理としては上出来の部類で、個人的には久々に「自民党という知恵」を感じましたね。現にこの間の株価は、ほとんど政局とは無関係でした。

官兵衛 それで次の政権はちゃんと機能するのかな。どうも簡単すぎるように感じるけど。
かんべえ 今回の事態を本能寺の変に置き換えれば、せいぜい清洲会議が行われたあたりでしょう。やっぱり戦争をやらなければ政治は安定しません。現代日本では戦争をしませんから、代わりに選挙をやって決着をつけます。選挙で勝てば森政権は認知を得ますし、負ければ他の人に取って代わられるでしょう。
官兵衛 だったら早くやったほうがいいな。
かんべえ 新聞紙上では、解散・総選挙は近いという見方がもっぱらです。
官兵衛 戦争でも選挙でもいいが、天下を取るときはちゃんとライバルを倒して、自分の正統性を立証しなければならないね。リスクを回避してちゃ、権力は安定しないよ。

かんべえ ところがホンネの話、政治家は選挙が恐いんです。森さんも「ノミの心臓」で解散を先送りするという説もある。
官兵衛 政治家のことは知らんが、戦国大名が戦争を逃げちゃいかんね。この世界は、いつも戦い続ける、ということが大事なんだな。織田信長が戦国時代の勝利者になった理由が分かるかね? 勝っても負けても、しじゅう戦争をしていたからさ。武田や毛利なんて、勝てるいくさだけ選んでやっていたから、織田家の脅威にはならなかった。
かんべえ ほほう、武田、毛利はいくさが足らなかった、と。
官兵衛 だいたい彼らは、ロジスティクスの概念を知らなかったから、大規模な遠征軍を組織できなかった。しかし織田軍団はいつも各地を転戦して、細かな無数のノウハウを蓄えていた。そこの違いが大きい。

かんべえ 今の話を現代に置き換えてみると、いつも選挙を戦うことが政党を強くするということですね。思い当たることが多いなあ。自民党の中でも、これまで武闘派といわれる集団が権力を握り、リーダーを生み出してきた歴史がありますしね。あ、そういえば企業だって競争がなければ駄目になりますわな。
官兵衛 戦うということは、人材を育てる上でも大切なことなんだ。勝ちぐせをつけてのしあがるか、敗北から教訓を得るか、いずれにせよ戦わないことにはリーダーは育たない。
かんべえ 現代はリーダー不在の時代などといわれますが、それは政治家が「君子の争い」をしたり、「相乗り選挙」をやっているからかもしれませんね。
官兵衛 そういうところは戦国時代を見習ってください。
かんべえ 最後は『プレジデント』の対談みたいな落ちになりましたな。
官兵衛 あははー、ところで誰がこんなもん読んでるんだ? 



編集者敬白



歴史漫談『官兵衛とかんべえ』 ②参謀論編(掲載:2000.5.3--5.7)



<5月3日>(水)
○世間は5連休に突入。HPを見る人も減るだろうけど、休日にネットサーフィンくらいしか楽しみのない人(ワシもそうだが)のために、特別企画のインタビューをお送りします。ゲストはあの人です。

ホスト:溜池通信編集長*かんべえ
ゲスト:戦国時代の知将*官兵衛

●第1回「僕は参謀じゃない」

かんべえ 当HPへようこそ。1ヶ月ぶりのご無沙汰でした。
官兵衛 やあしばらく。その後、僕へのファンレターの類はあったかね。
かんべえ いえ、もう全然。常連さんの方が一人、面白かったといってくれたくらいで。この企画、あんまり受けてないんですよ。
官兵衛 なーんだ、前回は相当に画期的な話をしたつもりだったのに、意外とレベル低いんだなここの読者は。
かんべえ 止めましょうよ、そうやって煽るの。メールを催促しているのがモロばれですから。みんなその程度には賢いんです。
官兵衛 あははは・・・・ま、お互い受けなくてもいいから好きなことしゃべろうか。

かんべえ それで今回は「参謀とは何か」についてお聞きしたいのですが。
官兵衛 んー、ということは、僕は参謀ということにされてるわけ?
かんべえ 如水・黒田官兵衛は、今日では筑前黒田家52万石の開祖というよりは、秀吉に天下を取らせた名参謀という評価の方が有名なんですが。
官兵衛 それは不本意だなー。たしかに僕は秀吉へのコンサルティングはしたけど、本業は黒田家の当主だからね。親の代からの部下もいっぱいいたし、ちゃんとした武将のつもりだったんだけど。
かんべえ 後世から見ると、戦国時代の武将なんて掃いて捨てるほどいるけど、名参謀はあんまりいないでしょ。だから今の時代から見るとそっちの方が値打ちあるんですよ。
官兵衛 同時代の感覚からいうとね、参謀って一人の武将の信頼だけがあればそれでいい立場でしょ。でも武将は部下全員の信頼がないと務まらないわけですよ。この人駄目だなー、見込みないなーと思われたら、みんな離れていってしまう。そりゃ厳しさが全然違うよ。
かんべえ ほー、官兵衛さんの自己認識では、自分はあくまでも武将であると。
官兵衛 純粋な参謀というと、武田信玄に仕えた山本勘助なんかいい例だと思うんだけど、自前の部下を持たないから、無責任な評論家みたいな存在なわけ。あとは君主に取り入っていればいいだけだから、あんまり尊敬された人はいなかったね。

かんべえ いまのご指摘は非常に興味深いところなんですが、組織をラインとスタッフに分けると、戦国時代のルールはライン重視であったと。
官兵衛 当然だよ。ラインというのは、たとえ5人の部下を持つ足軽頭でも、ちゃんとリスクを負ってるんだから。リスク持たずに仕事してるやつと比較しちゃ気の毒だ。
かんべえ 官兵衛さん自身が黒田家のトップとして、ラインやスタッフを使っておられたのでしょうが、やはりラインを重視されたわけですか。
官兵衛 そうだね。特に若い人を育てるときは、ラインに置かなければいけないと思うね。
かんべえ 官兵衛さん自身が助言を求めた相手は誰になりますか。
官兵衛 父でしょうかね。でもね、助言を求める相手は、何も家臣に雇わなくてもいいんですよ。たとえば自分の領内の政治がうまくいっているかどうかなどは、家臣に聞くよりも町民や百姓に直接聞いたほうがいい。僕はそういう定点観測をよくやりましたよ。

かんべえ しかし官兵衛さんは、秀吉軍においてはトップへのアドバイザーというか、スタッフ的な仕事をされてますよね。
官兵衛 そこんとこに織田軍団の人使いの妙があるんだな。僕の主筋である小寺家が織田方と組んだことで、僕は信長の指示を受ける立場になったの。で、僕は中国方面司令官である秀吉の与力として働くように命じられるわけ。それで秀吉軍で仕事をして、アドバイザー的なこともしたんだけど、単純に秀吉に仕えていたわけではない。
かんべえ なるほど、秀吉と官兵衛は単なる主従ではないわけですね。
官兵衛 そう、クライアントとコンサルタントというか、投資家とストラテジストみたいな関係。しかも僕のパフォーマンスが悪かったら、どんなに秀吉の受けが良くても、他の与力たちが黙っちゃいない。ちゃんと信長に報告が行くという形で、チェック機能が働いていた。そういう意味では緊張関係があった。
かんべえ 織田軍団というのは近代的な組織だったんですね。
官兵衛 というか、部下がサボったり裏切らないように、信長がきっちり監視していたんですよ。秀吉と僕が相談するときも、なるべく一対一にならないように気をつけました。毛利との外交交渉なんかは当然そうするけど、城攻めの作戦なんかはわざと大勢の前で進言するの。なぜこの作戦がいいかという理由を、全員に説明しなければならない。そういう状況はちゃんと安土に報告されている。

かんべえ うーん、これは気が抜けない。
官兵衛 安土は忍者も寄越すし。
かんべえ え、忍者ってよその国に派遣するもんじゃないんですか。
官兵衛 あのねえ、どんな世界でもそうだけど、一流の人間てのは数が少ないの。敵国に派遣して情報が取れるほどの忍者は、希少価値だし、雇おうとするとすごく高いわけ。でも二流の忍者は大勢いるし、安く使えるの。そういう忍者には、戦国武将は自分の部下を監視する役目を与えるんだな。だって僕らも、安土から来たと分かってる忍者は斬れないじゃない。
かんべえ 忍者のマイナーリーグみたいなものですね。
官兵衛 本能寺の変のあとは、そういう配慮がまったく不要になった。僕が本当の意味で秀吉の参謀の仕事をしたのは、それから後のごくわずかな時間に過ぎません。でも、その間に天下の大勢が決まった。
かんべえ 官兵衛さんがいわゆる「参謀」に対し、かならずしも好感を持ってない、というのが、この話を進めるにあたって面白い前提になると思います。明日もお楽しみに。



<5月4日>(木)


●第2回「孔明は戦略家失格」

かんべえ なんで参謀にこだわっているかというと、歴史好きといわれる日本人の中には知将タイプの人気が高いんですよ。『信長の野望』みたいな歴史ものシミュレーションゲームでも、武力より知力の高いキャラクターが好かれる。
官兵衛 帷幕にあって千里の外に勝利を我がものとする、というやつだな。そんなこと滅多にないんだけど。
かんべえ 黒田官兵衛ファンもかなりの部分はそういう見方をしていると思いますよ。
官兵衛 そういうところはずっと変わらないんだね。僕自身、「官兵衛殿はわが国の諸葛孔明ですな」みたいなことを生きてるうちに何度も言われましたよ。僕はあんまり孔明という人を評価してないんだけど。

かんべえ 当代有数の戦略家の一人に、岡崎久彦さんという元外交官がいるんですけど、この人のオフィスに行くと、応接室にご自分で書かれた「出師の表」が飾ってあるんです。
官兵衛 あれはいい文章だね。僕らの時代でも、これ読んで泣かないやつは男じゃない、みたいな言い方をしてました。ところが、ああいうマニュフェストにはマイナス面もある。
かんべえ 岡崎さんの言によると、「出師の表」は魏へ進撃するたびに何度も書かれていて、後へ行けば行くほど苦しい内容になるんだそうです。
官兵衛 そうなんだ。「出師の表」には、蜀が魏を攻めなきゃいけない大義名分が明らかにしてある。あれを読めば兵士の士気も高まったと思う。でも、あんなふうに宣言してしまうと、蜀としては後に引けなくなる。つまり自分のオプションを非常に少なくしてしまった。「出師の表」によって忠臣・孔明の名は歴史に刻まれたけど、戦略家・孔明は自分を窮地に追い込んでしまった。

かんべえ 当時、孔明が置かれていた条件は相当に不利なもので、それも人気の理由になっていると思いますが。
官兵衛 たしかに当時の蜀は魏に対して圧倒的に不利だった。そういうときは、弱者の戦略を取らなければならない。できれば先方がこちらに攻めてきてくれるのがベストで、次善の策はゲリラ戦と内部工作。地の利を活かしたベトナム戦争スタイルを目指さなければならない。遠征軍を組織してこちらから攻めていくなんて、非常にもったいない話なんだ。
かんべえ 官兵衛さんが孔明の立場だったらどうしてますか。
官兵衛 そうだね、あの程度の不利な条件を逆転した例は、歴史を探せばいくらでもある。そういうときは、敵失が出るのを辛抱強く待っていたことが多い。曹操が死んだ後の魏は混乱続きだったから、僕なら我慢だね。でも、孔明は魏を討たなきゃならないという使命感が強かったし、病弱だったから待ってられなかった。

かんべえ ではじっと時間を稼ぐとして、その間はどうしますか。
官兵衛 人材の発掘と育成に決まっているじゃないか。
かんべえ うーむ、たしかに孔明の下では人材が育たなかった。唯一の馬稷も泣きながら斬ってしまったし。
官兵衛 斬っちゃ駄目なんだよ。あれじゃ、部下は動揺するよ。「孔明殿はあれだけ手塩にかけた部下も斬ってしまった。能のないわれわれはどうなるんだ」って話になる。
かんべえ 官兵衛さんが考える人材育成の決め手は何ですか。
官兵衛 織田信長や魏の曹操がいいお手本だよ。大盤振る舞いをして人を集めて、どんどん仕事を任せて、失敗してももう一度チャンスを与える。トップというもんはね、期待している部下が失敗したときは内心「しめた」と思うくらいでなきゃ。そういうリスクをとらないと、人は集まらないし部下は成長しない。
かんべえ この前、マレーシアに行ったときに感じたんですが、あそこはマハティールが20年近く政権を握って、後継者が育っていないんですね。トップが独りで何でもできちゃうと、部下が甘えてしまって指示待ち型になってしまうんですね。
官兵衛 権限委譲をしないと、結局は自分が苦しむことになる。三国志の中に、捕虜が「孔明殿は鞭20以上の罰はご自分で決裁されます」と言うので、司馬仲達がほくそえんだ、という記述があるよね。本当かどうか知らないけど、おそらく仲達は「なーんだ、あいつはその程度か」と思ったんじゃないかな。これじゃ俺は負けんわ、と。

かんべえ 結論として、官兵衛さんは諸葛孔明に対して点が辛い。
官兵衛 戦略家としては一流ではない。だって結果を残せなかったんだもの。でも彼は忠臣で、男の美学を貫いたわけだ。
かんべえ それではトップを補佐する人材としてはどんな形が望ましいと考えますか。
官兵衛 その辺の話はまた明日。



<5月5日>(金)


●第3回「トップは参謀より賢い」

かんべえ たとえば中国の歴史書などを読むと、皇帝とその補佐役の話がしょっちゅう出てきますよね。
官兵衛 『資治通鑑』なんかは全編そればっかりだな。どの時代を読んでも、ナントカという家臣がこういう進言をして、君主の怒りを買って殺された、あるいは意見が採用されてうまくいって誉められた、てな話が延々と続く。ま、あれは司馬光が皇帝に読ませるために書いたんだから、それはいいんだけど。
かんべえ 日本の歴史では、徳川綱吉と柳沢吉保とか、吉宗と大岡越前なんて例はありますけど、「強力なリーダーと名補佐役」の実例は、話として好まれるわりには少ないような気がします。
官兵衛 リーダーシップの性質に問題があるんじゃないのかな。トップが全組織を掌握している場合は、アドバイザーは必要だし、なり手もどんどん出てくる。中国の皇帝は絶対専制君主でしょ?だから家臣が必死で知恵を出そうする。でも、「トップは君臨すれども統治せず」の日本型の組織においては、補佐役なんて本当は必要ない。みんな官僚機構がやってくれるから。

かんべえ なるほど、日本の組織でもトップがちゃんと権限を持っていれば、名補佐役は出てくるわけですね。そういえば本田技研の本田宗一郎と藤沢武夫、なんて例もある。
官兵衛 一方、信長なんかはカリスマ型が行き過ぎて、補佐役を持とうとしなかったリーダーだけどね。秀吉や家康なんかは、まだしも普通の人だったから他人の意見をよく聞いたと思う。

かんべえ 話が飛びますけど、企業のコンサルティングをする場合でも、クライアントが会社のCEOであるか、経営企画部であるかは大きな分かれ道になるようです。
官兵衛 前者は分かるんだけど、後者はどういうケースなんだい。
かんべえ 企業がコンサルティングを求めるときは、かなりの困難を抱えていることが多いわけです。で、実はその解決策も、経営企画部は分かっていることがあるんです。でも、実行できない。そこでどうするかというと、高いお金を払ってコンサルティング会社に仕事をお願いするんです。すると「御社はこうすべきである」とアドバイスしてもらえる。すると、できないはずの改革ができるようになる。

官兵衛 情けない話だなあ。そんな改革、うまくいかないんじゃないのか?
かんべえ ええ、コンサルティング会社を使ってうまくいった、なんて話は聞いたことがありません。これ、アメリカでもそうみたいですね。
官兵衛 今の話は、経営企画部が自分の責任を回避しているわけだろう。自分が補佐役になるべきところを、他人にやらせて自分はいい子でいたいと。
かんべえ まあ、「組織の責任は無責任」の典型といいますか。
官兵衛 助言をする相手は個人じゃなきゃ駄目だよ。

かんべえ 助言を求めるのも、与えるのも個人、というところが大事なわけですね。
官兵衛 そう、とくに助言を求める方の器量が大事なの。はっきり言っちゃうとね、トップは自分の実力を超える補佐役を使うことはできないんだ。
かんべえ おお、これは異なことを。本当ですか。
官兵衛 当たり前だよ。補佐役が担当する仕事というのは、ほとんどの場合ひとつの分野に限られている。ところが、トップは全体を見なきゃいけないだろ。たとえば僕は、秀吉軍の作戦と外交を担当した。でも、軍の財務や人事システムやロジスティクスなんかは、他の人が担当している。秀吉はそういう全体を見ている上に、織田家内部の政治問題でも悩まなきゃならない。どっちが偉いかは明らかでしょう。
かんべえ しかし自分の実力以下の人間を使うのでは、補佐役にならないのでは?
官兵衛 そうじゃないんだな。極端なケースをいえば、いつも不適切な進言をしてくれる部下というのがいたら、こんなに有益なことはないんだ。だって2つ策があって迷っているときは、そいつの意見の逆を採用すればいいんだから。
かんべえ シャーロック・ホームズに出てくるレストレード警部みたいなものですな。
官兵衛 脇で名論卓説を唱えるばかりが補佐役じゃないんだ。トップをヨイショして、いつもいい機嫌にしておく、なんてのも考えようによっては非常に重要な補佐役だぜ。

かんべえ どんどん幻想が壊れていく感じなんですが、「参謀タイプ」とか「補佐役」という存在には不思議な人気があるんです。それこそ、日本人に多い諸葛孔明や黒田官兵衛の人気につながるようなもので。
官兵衛 就職先としてコンサルティング企業に人気があるとか。
かんべえ まことに遺憾ながら、今の日本でトップといわれている人たちが、総じて年を取り過ぎていたり、賢そうに見えなかったりする、というのも背景にあるのではないかと。
官兵衛 トップの地位にある人というのを甘く見てはいけませんね。どんな組織でもそうなんだけど、ナンバーワンとナンバーツーの間にはものすごい差があるんですよ。山の頂上にいる人は360度の景色を見ているけど、山登りをしている途中の人は頂上しか眼に入らない。
かんべえ どんな山であっても、頂上に立てる人は一人しかいないと。
官兵衛 そう、だからあんまり馬鹿にするもんじゃありません。




<5月6日>(土)


●第4回「米国大統領とブレーンたち」

かんべえ 参謀論が好まれるのは、若くて頭が良くてちょっと野心もあるような人が、「俺もいつの日かトップの信頼を得て、参謀として腕をふるいたい」みたいなことを、出世の近道と考えるからかもしれません。
官兵衛 そういう人は、じかにトップを目指せばいいのにね。
かんべえ まぁ、最近は自分で起業するなんて人も増えてきましたけど、大組織の中にいるとそれが現実的に思えるんでしょうね。しかし実際の補佐役なんてのは、お説通りそれほどカッコイイもんじゃない。私も昔、トップの秘書役を2年ほどやりましたけど、ご挨拶案とスケジュールとロジスティクスの心配だけしてたら終わってしまいました。
官兵衛 戦略面でトップに貢献する補佐役なんて、滅多にあるもんじゃないからな。しかも周囲から評価されるのは、ブレーンよりはむしろぞうきんがけやるタイプだ。最近も、愚直に滅私奉公してたら、首相の座が転がり込んできた人がいたな。

かんべえ これはアメリカであった話なんですが、とある大統領が当選するのに功績のあった人物が2人いたんだそうです。そこで大統領は、二人に対して「大統領に重要事項で進言する役目」と「大統領のスケジュールを管理する役目」という仕事をオファーした。すると前者を選んだ人はすぐに忘れられて、後者を選んだ人が政権内で重要な地位を占めるようになった。
官兵衛 それは面白い話だな。つまり前者のポストを選ぶと、いつ大統領に会うかは後者のポストの人に決められてしまう。大統領の日常を押さえるというのは、究極の補佐役になることを意味するわけだ。
かんべえ でしょ? ネタを明かすと大統領はレーガンで、首席補佐官になったのはベーカーなんです。ベーカーは「大統領はこう言ってるんだけど、君はどっちを取る?」と言って、見栄えのする方の仕事をライバルに選ばせたんだそうです。策士ですよね。

官兵衛 アメリカはその手の話が豊富そうだね。
かんべえ よくぞ聞いてくださいました。アメリカ政治というのは中国に似ていて、行政上の権限はすべて大統領に集中するんです。たとえば国務長官というと偉そうに聞こえるけど、英語ではSecretary of State、つまり秘書に過ぎない。つまり、大統領が自分の外交上の権限を委任する人が、国務長官なんです。こういう制度においては、大統領への距離の近さに比例して権限の重さが決まる。
官兵衛 大統領の信頼をいかに勝ち得るかが鍵になるわけだ。こういう組織の中では、補佐役を目指す値打ちがある。

かんべえ そうそう、前の財務長官だったルービンさんに面白いエピソードがあるんです。彼は経済担当補佐官だった時代に、毎週予定されている大統領へのブリーフィングの時間を、「今日は特段、ご説明するテーマはありません」と言って他人に譲ることがあったんだそうです。
官兵衛 うーん、それを聞いただけでも相当なタマだね、ルービンて男は。話すテーマがないなんてことはあり得ないから、むしろそういう評判を立てようとしたんだろうな。
かんべえ 大統領と二人きりで話せるチャンスをパスするわけだから、ホワイトハウスではむちゃくちゃ目立ちますよ。あるいは、大統領の日程を調整する担当者に恩を売る狙いがあったのかもしれません。
官兵衛 いずれにせよ、補佐役としての自分を売り込む、非常に重要なテクニックを身につけていると見たね。

かんべえ クリントンにはいろんなブレーンがいて、なかでもディック・モリスという選挙参謀が、96年の再選を可能にした男として知られています。モリスの回顧録を読んで興味深く感じたのは、彼があくまで友人としてクリントンに接しているんですね。モリスは最後は売春婦スキャンダルで解雇されるわけですが、精神的にどん底に落ち込んだ状態でホワイトハウスに電話するんです。そしてクリントンに謝罪する。クリントンは「君を信じているよ」と答える。なんというか、トップと補佐役の関係じゃないんです。
官兵衛 要するに、「恐れながら申し上げます」てな感じではないわけだ。
かんべえ たとえばモリスはこんなふうに助言するんです。過去41人の大統領のうち、Aクラスはだれとだれ、Bクラスはだれ、それ以外はCクラス、と分類してみせる。「で、君はこのままだとBとCの中間くらいだ」って。しかもこの内容、彼は電話で伝えている。
官兵衛 うーん、そこまで言えるのも偉いが、言わせているクリントンもあっぱれだな。

かんべえ アメリカの大統領制度というのは、200年以上の歴史があるだけあって、これを補完するシステムがたくさんあるんです。そのひとつとして、大統領のブレーン予備軍がワシントンに集まってくるような仕組みがある。
官兵衛 日本でも首相補佐官なんて制度を作ったが、果たして上手に使えるのかな。ブレーンを多用すると、とかく日本では「側近政治」と呼ばれてかえって評判が悪い。
かんべえ やっぱり日本の組織はライン重視なんでしょうかね。首相が自分の友人を勝手に連れてきて意見を聞くくらいなら、公務員試験に合格した官僚たちの指図に従う方がまだましだ、という感情があるのかもしれない。
官兵衛 まあ、首相を間接選挙で選んでいるという違いはあるけどね。
かんべえ 根源的な疑問が残るんですが、トップの補佐役というか、いわゆるスタッフ組織というのはなんのために必要なんでしょうか。ラインがしっかりしていればそもそもスタッフなんぞ不要だという見方もできるような気がしますが。
官兵衛 いや、スタッフというのはそもそも戦争が生み出したものなんだ。この話は長くなるのでまた明日。





<5月7日>(日)


●第5回「軍師から参謀へ」

かんべえ 連休も対談もいよいよ今宵限り。では、官兵衛さん、思う存分どうぞ。
官兵衛 トップというのは孤独な仕事で、部下に指令を下すときには相談相手がほしいと思う。とくに戦争の場合、将軍はいったん部下に命令を下したら最後、彼らは死ぬかもしれないわけ。そういう状態で部下にアドバイスを求めたところで、冷静な意見が聞けるはずがない。
かんべえ 部下だって命が惜しいから、アドバイスにはバイアスがかかりますよね。
官兵衛 そう、だから将軍は、大局的な視点でものを見られる人を近くに置いておいた方がいい。そこでラインから離れて、専門のスタッフ、補佐役が必要になるわけだ。そういう仕事は昔は劉備玄徳に諸葛孔明、みたいに一人で十分だった。こういう状態は参謀以前の段階で、たとえば「軍師」と呼ぶのが適当だろう。
かんべえ 君主が賢臣を求めるという、中国の古典によくある世界ですね。

官兵衛 ところが軍師にはいろいろ限界があるんだな。なにしろ将軍の個人的な信頼を得てアドバイスをしているわけだから、将軍の耳の痛いことまではなかなか言えない。それからラインの兵卒たちとしては、将軍の命令ならともかく、軍師の言うことなんか聞きたくはないわけだ。何より困るのは、軍隊や国全体の利益と君主個人の利益が一致しないことがある。そういうとき、軍師は君主の側についてしまう。それでは部下はたまったもんじゃない。
かんべえ 軍師にはいわゆる「政治的正統性」が欠けているんですね。
官兵衛 そう、そこに気がついた補佐役は、軍師からちょっと進歩して参謀になる。つまり将軍個人の利益を代表するのではなく、国全体や軍の利益を代表するようになる。
かんべえ たとえば官兵衛さんは秀吉個人に雇われたわけではなくて、どうやったら織田軍全体が良くなるかを考えていた。ということは、軍師ではなくて参謀だったと。
官兵衛 そのへんは微妙かもしれないけど、戦国時代というのは、ちょうど軍師が参謀になる端境期だったんじゃないかな。日本では江戸時代以後になると、たとえば商家の場合、大旦那個人よりも家全体の繁栄が大切だということがコンセンサスになる。だから道楽息子を廃嫡して、出来のいい番頭に店を継がせるなんて話がわんさか出てくる。
かんべえ はいはい、社長が大事か会社が大事かという話ですね。それって資本主義の発達にとっては非常に重要なステップなんじゃないでしょうか。
官兵衛 おそらく日本の場合、あの頃に「今の社長より会社の未来が大事」という学習が行われたんだろうな。

かんべえ 時代が下ると、参謀というのは個人ではできなくなって、組織の仕事になってしまいます。私も会社ではいわゆるスタッフ部門で働いていますが。
官兵衛 レーダーや原子爆弾が戦争から生まれたように、スタッフという組織上の発明も軍隊から生まれた。英語でいうGeneral Staff、日本語でいう参謀本部が誕生したのは19世紀の欧州でのこと。新興国家プロイセンが、1812年に皇帝直属の「参謀本部」を作ったところ、オーストリアもフランスも打倒してしまった。そこで各国が競って参謀本部の真似をするようになった。
かんべえ 参謀自体はその前からあったんじゃないですか。
官兵衛 それはそう。でも、プロイセンは参謀本部を常設の組織にした点が新しかった。つまり平時から戦争計画を作成して、地図を作るなどの情報収集をやったんだな。
かんべえ 軍隊が自分で地図を作るという発想が新しいですね。
官兵衛 それから、「将来はこの辺で戦争をやるだろう」と思われる地域に、将校を旅行させるといったシミュレーションもやった。それからロジスティクスに関する情報やノウハウを蓄積した点も鋭かった。要するに近代の戦争とは、個人の勇気や将軍の指揮だけで勝てるようなものではなく、総合力の闘いになっていたから、そういう戦争のプロを育てる必要があったんだな。

かんべえ そこで参謀本部を作って、戦争のプロを常時、組織化したわけですね。
官兵衛 プロイセンが倒さなければならなかった相手は、軍事の天才ナポレオンだった。彼は自分一人に情報を集めて、誰にも相談せずにすべての命令を下すことができた。ところが、モスクワ遠征みたいに50万の兵士を派遣するとなると、自分一人ですべての作戦活動を仕切ることはできなくなる。スタッフがいないことの限界が出てきたんだね。
かんべえ なんだか、成長途上にあるベンチャー企業がぶつかる「壁」みたいな話ですね。
官兵衛 プロイセンはナポレオンのいる戦場では撤退を繰り返して、いない戦場で細かく得点を稼ぐという勝ちパターンを覚えた。その結果、ナポレオンは局地戦ではいつも勝っているのに、終わってみればフランス軍は負けているということになってしまった。
かんべえ それって最近はやりの「ナレッジ経営」のお手本みたいな話ですね。
官兵衛 そう、勝つために重要な知識を、トップ一人に集中させるか、参謀本部という組織で共有するかの違いだね。

かんべえ いまではどこの国の軍隊にも参謀本部があり、そこのトップは制服組の頂点ということになっていますね。米国では統合参謀本部長、日本では統合幕僚会議議長。それから組織をラインとスタッフに分けて、相互にローテーションを実施するという原理は、ほとんどの企業が導入しています。
官兵衛 それは過去の経験が生かされているということだろうね。
かんべえ おかしいなぁ、組織の原理はこれだけ進化しているのに、今のわれわれの周囲には組織をめぐるおかしな話はいくらでもありますよ。リーダーシップの昏迷も言われ続けて久しいし。
官兵衛 あははー、それは2通りの解釈ができると思うよ。ひとつは組織なんてもともとそんなもんで、君らの受け止め方が贅沢になっているだけだということ。もうひとつは、そろそろ組織に関する新しい原理が誕生する頃なのかもしれないという見方。僕はどっちだか知らんけどね。
かんべえ うーん、それはまた大問題になるので、別の機会に考えることにいたしましょう。官兵衛さん、5日間にわたってお付き合いいただき、ありがとうございました。
官兵衛 全部通して読んでくれた奇特なアナタ、感想のメールを待ってるよ。



○長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。連休中はほかにも話題はいろいろあったのに、全部放り出して歴史漫談を続けてしまいました。明日からは平常モードに戻る予定です。




編集者敬白