detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?page=1&qid=12158290662&sort=1
「セキュリティエンジニアを将来の夢にしているのですが」――高校2年生がYahoo!知恵袋でこんな相談を投げかけたところ、大学教授やセキュリティ企業の中の人など、各界のスペシャリストたちが回答欄に次々降臨するという謎の盛り上がりを見せています。
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セキュリティエンジニアを将来の夢にしているのですが(Yahoo!知恵袋)
投稿者は、セキュリティエンジニアになるためには専門学校と大学どちらへ進むのがかで悩んでいるもよう。セキュリティエンジニアは技術が重要で、学歴はそこまで気にしなくてよい、という意見を耳にしたことも迷いにつながっているようです。
これに対し現在(4月20日22時時点)22件の回答が集まっているのですが、圧巻なのが回答者の顔ぶれ。HASHコンサルティング代表・徳丸浩さんを筆頭に、立命館大学情報理工学部の上原哲太郎教授、慶応大学大学院メディアデザイン研究科の砂原秀樹教授、他にもYahoo! JAPANの楠正憲さん、他にもセキュリティ企業・ラックの中の人(おそらく西本逸郎CTO)などなど、名だたる専門家たちが次々と降臨。高校2年生の質問に対し、セキュリティエンジニアに必要なものは何か、今すべきことは何なのかを真剣に答えてくれています。何だこの胸熱な展開は……!
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祭りの口火を切った徳丸さん(「業界のものです」という書き出しが奥ゆかしい)
この知恵袋はたちまちネット上でも「本にして売れるレベル」「これぞ真の意味での知恵袋」「知恵袋史上最高の回答群」と話題に。あまりにも豪華な“夢の共演”ぶりから「セキュリティエンジニア界のアベンジャーズかと思った」「とりあえずアルマゲドンのテーマ曲流しますね」といった声もあがっています。
まさしく「知恵袋」の名にふさわしい回答が集まった今回の質問。おれたちが普段見ている知恵袋は何だったのか……という気もしますが、たまにこういう奇跡が起こるのがインターネットのステキなところです。
2016年6月3日金曜日
2016年5月10日火曜日
博士論文、修士論文、卒論が読めます。
北海大リポジトリ
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/index.jsp
国内の機関リポジトリ一覧
http://www.nii.ac.jp/irp/info/list.html
東大リポジトリ
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/
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東大リポジトリ
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2016年1月10日日曜日
灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
“灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
プレジデント 1月5日(火)8時45分配信
“灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
都司嘉宣・深田地質研究所客員研究員、元東京大学地震研究所准教授。東京大学工学部土木工学科卒。 東京大学大学院理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)修了。
■「悔しいのですが、天才はほんとうにいる」
「劣等感にずっとさいなまれてきたから、私しか持っていない力で勝負してやろうと生きてきました。私の力では、絶対に勝てない人たちはいます。悔しいのですが、天才はほんとうにいるのです」
東京大学地震研究所の准教授だった都司嘉宣(つじ・よしのぶ)さん(68)が、自らのキャリアを振り返った。長年にわたり、津波や歴史地震学の権威として精力的な研究活動を続けてきた。2011年3月11日の大震災では、発生直後からNHKの番組などで津波についての解説をしたことでも知られる。
12年3月に64歳で定年退官し、現在は、深田地質研究所(文京区)の客員研究員などを務める。東北大学の研究者らとともに調査をし、論文を精力的に書く。一方で、海外の研究者が来日すると、東北などの被災地を英語やロシア語を駆使して案内する。
都司さんは甲子園球場の近くの小学校に通っている頃は、常に1番の成績だった。灘中(神戸市)に進学すると、1学年150人ほどのうち、130番前後になった。
「はじめて強烈な劣等感を持ちました。私の学力ではかなわない生徒ばかりだったのです」
中学2年から3年になるとき、父の仕事の関係で都内に転居し、麻布中(港区)に転校した。一学年270人で、成績は常時、50番以内になった。
東大(理科一類)の受験では、得意の地学でほぼ満点だったという。
「あの頃、東大の試験で地学を受ける人は少なかったのです。穴中の穴でした。数学の点数も高かったと思います。英語は、抜群にはよくなかったのかもしれませんね。英語には前々から、劣等感を抱いていたのです」
1966年、現役で東京大学に入学する。3年からは、工学部の土木学科に進む。地球物理学科に進みたかったが、家庭の事情もあり、70年、土木学科を卒業した。その頃を「(土木学科は)自分が本来、いるところではないと思っていた」と振り返る。
卒業後は念願だった、大学院の理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)に進む。就職することは考えなかったという。
「土木学科の学生の中には、その後、大手建設会社の社長になった者もいますが、うらやましいと感じたことはありません。企業で出世したいと思ったことがないのです。同窓会で彼らと会っても、話はあまり合いませんね。そもそも、東大卒ということで優越感を抱いたこともありません」
■力ずくの研究姿勢が認められ、東大助教授に
大学院在学中は親元を離れ、3畳一間のアパートに住む。家庭教師のアルバイトを掛け持ちし、学費や生活費をねん出した。親の支援を受けなかった。
「自分で選んだ道に進んでいるのですから、迷いも焦りもありませんでした。この頃は研究のこと以外、考えませんでした」
1972年、24歳で修士課程を修了する。博士課程2年の25歳から、国立防災科学技術センターに研究員として勤務する。29歳で結婚した。相手の女性は都司さんの学歴を籍を入れるまで知らなかったようだ。
「私も人をみるとき、学歴は一切、無視します。研究者の力を判断するときも、論文や学会などでの活躍だけに興味がわきます」
センターで一緒に研究をする人たちの学歴を気にかけたこともないという。
「ほかの研究者がどのような研究をしていて、どのくらいの深さまで掘り下げているか、といったことは意識していました」
1982年、35歳のとき、博士号(東京大学)を取得する。この頃、東大の地震研究所の梶浦欣二郎教授(故人)から、定年退官で退職するから研究室を引き継いでほしいと話を受ける。
都司さんは、梶浦教授から研究指導は受けたことがない。
「天才・梶浦と呼ばれていたほどの研究者から誘われ、恐れ多いと思い、当初はお断りをしたのです。梶浦先生の研究室の名を汚してはいけないと思いました」
梶浦教授は、都司さんの論文に早くから注目をしていたようだった。
「私は安政東海地震(1854)の津波による被害などを調べて、論文を書いたのです。まず、地震が発生した地域の2500ほどの寺院の住職に手紙を送りました。自寺の過去帳に、この地震で死亡した、寺の檀家の人数が書かれてあったら教えてくださいという内容です。6割ほどの寺から回答をいただきました。その被害記録から、地震の震度や被害について書き上げたのです」
都司さんは、梶浦教授は論文から何かを感じてくれたのではないかと語る。
「汚れまくって、力ずくで書き上げた論文に感心をしてくださったようです。あれはすごい論文だ、と誉めていただきました。あのごつさが、よかったのかもしれません。天才は試みないでしょうから……。
私には、常に劣等感があります。優秀な人の中でいかに生きていくべきかと考え続けると、アイデアは浮かんでくるものなのです」
■劣等感が私を突き動かした
1984年、37歳のとき、東大地震研究所に助教授として勤務することになった。ほかの教授や助教授に劣等感を抱くことがしばしばあったという。
「天才肌で、光り輝くタイプの研究者が多いのです。英語の力ではかなわないから、ロシア語を勉強し始めました。ロシアは、津波の研究が進んでいます。ロシア語で書かれた論文を読むことができると、得るものが大きいのです。今では、専門分野の論文ならほとんど辞書なしで、なんとか読めるようになりました」
都司さんが繰り返す言葉が、「劣等感が私を突き動かした」だ。劣等感があると、自分が進んでいく方向もみえてくると話す。
「特徴のあるもので、まだ、ほかの人が試みていないこと、さらに試みることができないであろうことに挑むようにしてきました」
東大地震研究所で、講師や准教授を雇うとき、その研究者の学歴について話し合われることはなかったと語る。
「東大卒か否かは、まったく関係ありません。地震研究所に勤務する40人ほどの准教授や教授のほぼ全員が、その研究者の名前を知っているくらいでないと、採用されることはまずありえないと思います。20~30代で書いた論文が学会で相当に高い評価を受けていないと、名前が知られることはないでしょうね」
前提として、一定水準以上の英語力と論文を書く力が必要にはなるという。最近5年間で書いた論文や学会での活動を記載した書類を地震研究所に提出することを求めると、1回の募集で全国から平均20人ほどがエントリーする。
「みんなが輝かしい才能の持ち主で天才肌なのですが、採用されるのは1~2人。研究者として生きていくのは、過酷なのです。
私は、修士課程で教えていた弟子たちには、院を修了した後の進路は、民間企業にも目を向けるようにといい続けきました。大学の研究者以外の道に進むことを促がしてきたくらいです。
弟子13人全員が大学、研究所、会社や気象庁、病院、高校などで立派に働き、家族を養っています。これが、私の自慢です。変わり種では、医師になった者もいます」
教え子たちからカラオケで歌うようにリクエストされていたのが、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」と氣志團の「まぶだち」。
「(石原)裕次郎とか、(北島)さぶちゃんの歌を歌いたいのですが、学生たちが歌わせてくれないのです。大学で津波を教えるのも、何かと大変です(笑)。私の場合は、劣等感にさいなまれてきたことが、実はよかったのかもしれませんね」
都司さんは、高校を卒業していない人が受ける「高認」(高卒認定試験)の試験対策の問題集を「しまりすの親方」というペンネームで執筆している。「高認理数系学習室」(学びリンク)などの問題集だ。今では、"高認界のカリスマ"といわれている。今後は、高校を辞めたり、不登校などの人たちに教えたいのだという。
ジャーナリスト 吉田典史=文
プレジデント 1月5日(火)8時45分配信
“灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感
都司嘉宣・深田地質研究所客員研究員、元東京大学地震研究所准教授。東京大学工学部土木工学科卒。 東京大学大学院理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)修了。
■「悔しいのですが、天才はほんとうにいる」
「劣等感にずっとさいなまれてきたから、私しか持っていない力で勝負してやろうと生きてきました。私の力では、絶対に勝てない人たちはいます。悔しいのですが、天才はほんとうにいるのです」
東京大学地震研究所の准教授だった都司嘉宣(つじ・よしのぶ)さん(68)が、自らのキャリアを振り返った。長年にわたり、津波や歴史地震学の権威として精力的な研究活動を続けてきた。2011年3月11日の大震災では、発生直後からNHKの番組などで津波についての解説をしたことでも知られる。
12年3月に64歳で定年退官し、現在は、深田地質研究所(文京区)の客員研究員などを務める。東北大学の研究者らとともに調査をし、論文を精力的に書く。一方で、海外の研究者が来日すると、東北などの被災地を英語やロシア語を駆使して案内する。
都司さんは甲子園球場の近くの小学校に通っている頃は、常に1番の成績だった。灘中(神戸市)に進学すると、1学年150人ほどのうち、130番前後になった。
「はじめて強烈な劣等感を持ちました。私の学力ではかなわない生徒ばかりだったのです」
中学2年から3年になるとき、父の仕事の関係で都内に転居し、麻布中(港区)に転校した。一学年270人で、成績は常時、50番以内になった。
東大(理科一類)の受験では、得意の地学でほぼ満点だったという。
「あの頃、東大の試験で地学を受ける人は少なかったのです。穴中の穴でした。数学の点数も高かったと思います。英語は、抜群にはよくなかったのかもしれませんね。英語には前々から、劣等感を抱いていたのです」
1966年、現役で東京大学に入学する。3年からは、工学部の土木学科に進む。地球物理学科に進みたかったが、家庭の事情もあり、70年、土木学科を卒業した。その頃を「(土木学科は)自分が本来、いるところではないと思っていた」と振り返る。
卒業後は念願だった、大学院の理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)に進む。就職することは考えなかったという。
「土木学科の学生の中には、その後、大手建設会社の社長になった者もいますが、うらやましいと感じたことはありません。企業で出世したいと思ったことがないのです。同窓会で彼らと会っても、話はあまり合いませんね。そもそも、東大卒ということで優越感を抱いたこともありません」
■力ずくの研究姿勢が認められ、東大助教授に
大学院在学中は親元を離れ、3畳一間のアパートに住む。家庭教師のアルバイトを掛け持ちし、学費や生活費をねん出した。親の支援を受けなかった。
「自分で選んだ道に進んでいるのですから、迷いも焦りもありませんでした。この頃は研究のこと以外、考えませんでした」
1972年、24歳で修士課程を修了する。博士課程2年の25歳から、国立防災科学技術センターに研究員として勤務する。29歳で結婚した。相手の女性は都司さんの学歴を籍を入れるまで知らなかったようだ。
「私も人をみるとき、学歴は一切、無視します。研究者の力を判断するときも、論文や学会などでの活躍だけに興味がわきます」
センターで一緒に研究をする人たちの学歴を気にかけたこともないという。
「ほかの研究者がどのような研究をしていて、どのくらいの深さまで掘り下げているか、といったことは意識していました」
1982年、35歳のとき、博士号(東京大学)を取得する。この頃、東大の地震研究所の梶浦欣二郎教授(故人)から、定年退官で退職するから研究室を引き継いでほしいと話を受ける。
都司さんは、梶浦教授から研究指導は受けたことがない。
「天才・梶浦と呼ばれていたほどの研究者から誘われ、恐れ多いと思い、当初はお断りをしたのです。梶浦先生の研究室の名を汚してはいけないと思いました」
梶浦教授は、都司さんの論文に早くから注目をしていたようだった。
「私は安政東海地震(1854)の津波による被害などを調べて、論文を書いたのです。まず、地震が発生した地域の2500ほどの寺院の住職に手紙を送りました。自寺の過去帳に、この地震で死亡した、寺の檀家の人数が書かれてあったら教えてくださいという内容です。6割ほどの寺から回答をいただきました。その被害記録から、地震の震度や被害について書き上げたのです」
都司さんは、梶浦教授は論文から何かを感じてくれたのではないかと語る。
「汚れまくって、力ずくで書き上げた論文に感心をしてくださったようです。あれはすごい論文だ、と誉めていただきました。あのごつさが、よかったのかもしれません。天才は試みないでしょうから……。
私には、常に劣等感があります。優秀な人の中でいかに生きていくべきかと考え続けると、アイデアは浮かんでくるものなのです」
■劣等感が私を突き動かした
1984年、37歳のとき、東大地震研究所に助教授として勤務することになった。ほかの教授や助教授に劣等感を抱くことがしばしばあったという。
「天才肌で、光り輝くタイプの研究者が多いのです。英語の力ではかなわないから、ロシア語を勉強し始めました。ロシアは、津波の研究が進んでいます。ロシア語で書かれた論文を読むことができると、得るものが大きいのです。今では、専門分野の論文ならほとんど辞書なしで、なんとか読めるようになりました」
都司さんが繰り返す言葉が、「劣等感が私を突き動かした」だ。劣等感があると、自分が進んでいく方向もみえてくると話す。
「特徴のあるもので、まだ、ほかの人が試みていないこと、さらに試みることができないであろうことに挑むようにしてきました」
東大地震研究所で、講師や准教授を雇うとき、その研究者の学歴について話し合われることはなかったと語る。
「東大卒か否かは、まったく関係ありません。地震研究所に勤務する40人ほどの准教授や教授のほぼ全員が、その研究者の名前を知っているくらいでないと、採用されることはまずありえないと思います。20~30代で書いた論文が学会で相当に高い評価を受けていないと、名前が知られることはないでしょうね」
前提として、一定水準以上の英語力と論文を書く力が必要にはなるという。最近5年間で書いた論文や学会での活動を記載した書類を地震研究所に提出することを求めると、1回の募集で全国から平均20人ほどがエントリーする。
「みんなが輝かしい才能の持ち主で天才肌なのですが、採用されるのは1~2人。研究者として生きていくのは、過酷なのです。
私は、修士課程で教えていた弟子たちには、院を修了した後の進路は、民間企業にも目を向けるようにといい続けきました。大学の研究者以外の道に進むことを促がしてきたくらいです。
弟子13人全員が大学、研究所、会社や気象庁、病院、高校などで立派に働き、家族を養っています。これが、私の自慢です。変わり種では、医師になった者もいます」
教え子たちからカラオケで歌うようにリクエストされていたのが、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」と氣志團の「まぶだち」。
「(石原)裕次郎とか、(北島)さぶちゃんの歌を歌いたいのですが、学生たちが歌わせてくれないのです。大学で津波を教えるのも、何かと大変です(笑)。私の場合は、劣等感にさいなまれてきたことが、実はよかったのかもしれませんね」
都司さんは、高校を卒業していない人が受ける「高認」(高卒認定試験)の試験対策の問題集を「しまりすの親方」というペンネームで執筆している。「高認理数系学習室」(学びリンク)などの問題集だ。今では、"高認界のカリスマ"といわれている。今後は、高校を辞めたり、不登校などの人たちに教えたいのだという。
ジャーナリスト 吉田典史=文
2015年7月24日金曜日
進路に困りましたか? その1
「いまは経産省時代に培った法律や制度に関する知識を糧に、会社でコンサルタント業や再生可能エネルギー電源の開発をしています。元官僚という重々しい肩書を収入につなげるまで1年半くらいかかりました。1人で生きていくうえで大事なのは、誰にでもわかるようなシンボルをつなぎ合わせてストーリーにし、他人に理解してもらう『セルフブランディング』。例えば、国の制度を説明するにも、どこの馬の骨かわからない『ただの物知りの宇佐美典也』が説明するのと、『元経産官僚で現在は会社を経営し国と民間両方の立場がわかる宇佐美典也』が説明するのでは、説得力が違うでしょう。自分の経歴に対する世間のイメージと合った情報発信を繰り返すことで、少しずつ『元官僚で再生エネをやっている人』というストーリー・ブランドが浸透し、それが稼ぎにつながってきました。貧乏したこともありましたが、いまの収入は官僚時代よりも多くなりました」
「セルフブランディングは、就活にも応用できます。例えばイベントサークルや広告研究会で活動していた学生が『コミュニケーション能力に自信があります』とアピールしたら面接担当者は『そうかもね』と思います。一方、数学理論を研究する学生が、コミュ力ありますと言っても、『?』でしょう。数学研究という自らのシンボルと、相手に伝えたいストーリーがずれているからです」
――最近は親がエントリーシートを書くと言われるほどたくさんの会社に応募する学生が多いそうです。主体的に企業選びをする上で、どのような情報収集が必要でしょうか。
「目標のために人の力を借りることは悪いことではありません。けれども、借りるという範囲でおさめないと。外面を取り繕って内定とっても、いずれ外面ははがれ落ちます。自分にとって本当に必要な組織にめぐり合った上での内定じゃないと続かないでしょう」
「就活している上で見落としがちなのは、OB訪問とか会社説明会とか、外の人から得られる情報は本音じゃないってことです。結局、他人です。いいことしか言いません。それよりも、自分の父親や親族などの人生を見るべきです。例えば父親は何十年も働いてきて、どういう人生をたどっているか。1回くらい飲みに行って仕事について語り合って、自らの職業観を描いてみる。過去にお世話になった人、例えば高校の恩師や部活のコーチ、仲間に会いに行って『自分ってどういう人間でしたか』と聞いてみるのも自己分析をする上で役立つでしょう。案外、灯台もと暗しなものです」
「多くの学生は就活中、大企業しか見えていないでしょう。もちろん、新入社員を社会人としてある程度の規格生産品にしてくれる大企業の教育環境はありがたい。5年後、10年後の自分に、または会社の未来に確信が持てないなら大企業を目指せばいい」
「高学歴な人ほど地縁や血縁からは離れたところで生活しがちです。一方、肩書を捨ててわかったことですが、結局、最後の最後に頼れるのは利害関係のない地縁や血縁、小中高や大学の友人です。その人たちは自分が気がつかなかった世界をけっこう知っていて、惜しげもなく協力してくれたりします。例えば、父親や親戚のおじさんに『いいと思う会社、伸びると思う会社を100社教えて』と頼んでみては。きっと目に入らなかったいい会社をいっぱい教えてくれると思いますよ」
◇
うさみ・のりや 1981年、東京都生まれ、東大経済卒。経済産業省に入り、経済産業政策局、産業技術環境局で企業立地促進政策や技術関連法制を担当。その後、国立研究開発法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」に出向し、電気・IT分野のプロジェクトを立案。在職中、自身の「三十路の官僚のブログ」で給与明細や官僚の生態などをつづり話題に。
2012年、経産省を退職。いまはエネルギー・不動産関連会社「Absolute Global Assets」取締役として再生可能エネルギー電源の開発・仲介取引、再生エネルギー分野の法務コンサルティング、省エネ商材の販売など手がける。
著書に「30歳キャリア官僚が最後にどうしても伝えたいこと」(ダイヤモンド社)、「肩書き捨てたら地獄だった ―挫折した元官僚が教える『頼れない』時代の働き方」(中公新書ラクレ)
■記者のひとこと
斜陽産業といわれる新聞業界に身を置く私にとって、年齢が一つしか変わらない宇佐美さんが、30歳そこそこで超がつくほどのエリートコースを降りたことを「なんてもったいないことを」と思っていた。一方、「どんな変わり者だろう」と興味があった。
弁舌鋭いブログの書きぶりから、冷静沈着で理路整然といった姿を想像して取材に臨んだが、語り口は意外に穏やか。プライベートな話も赤裸々に語り、よく笑う人で肩の力が抜けた。仕事もいっしょ。思い込みを捨てて他人からの視線を気にしなければ、もっと楽しく生きていけるし、そんなの簡単なことだよ、と言われているような気がした。(佐々木洋輔)
「セルフブランディングは、就活にも応用できます。例えばイベントサークルや広告研究会で活動していた学生が『コミュニケーション能力に自信があります』とアピールしたら面接担当者は『そうかもね』と思います。一方、数学理論を研究する学生が、コミュ力ありますと言っても、『?』でしょう。数学研究という自らのシンボルと、相手に伝えたいストーリーがずれているからです」
――最近は親がエントリーシートを書くと言われるほどたくさんの会社に応募する学生が多いそうです。主体的に企業選びをする上で、どのような情報収集が必要でしょうか。
「目標のために人の力を借りることは悪いことではありません。けれども、借りるという範囲でおさめないと。外面を取り繕って内定とっても、いずれ外面ははがれ落ちます。自分にとって本当に必要な組織にめぐり合った上での内定じゃないと続かないでしょう」
「就活している上で見落としがちなのは、OB訪問とか会社説明会とか、外の人から得られる情報は本音じゃないってことです。結局、他人です。いいことしか言いません。それよりも、自分の父親や親族などの人生を見るべきです。例えば父親は何十年も働いてきて、どういう人生をたどっているか。1回くらい飲みに行って仕事について語り合って、自らの職業観を描いてみる。過去にお世話になった人、例えば高校の恩師や部活のコーチ、仲間に会いに行って『自分ってどういう人間でしたか』と聞いてみるのも自己分析をする上で役立つでしょう。案外、灯台もと暗しなものです」
「多くの学生は就活中、大企業しか見えていないでしょう。もちろん、新入社員を社会人としてある程度の規格生産品にしてくれる大企業の教育環境はありがたい。5年後、10年後の自分に、または会社の未来に確信が持てないなら大企業を目指せばいい」
「高学歴な人ほど地縁や血縁からは離れたところで生活しがちです。一方、肩書を捨ててわかったことですが、結局、最後の最後に頼れるのは利害関係のない地縁や血縁、小中高や大学の友人です。その人たちは自分が気がつかなかった世界をけっこう知っていて、惜しげもなく協力してくれたりします。例えば、父親や親戚のおじさんに『いいと思う会社、伸びると思う会社を100社教えて』と頼んでみては。きっと目に入らなかったいい会社をいっぱい教えてくれると思いますよ」
◇
うさみ・のりや 1981年、東京都生まれ、東大経済卒。経済産業省に入り、経済産業政策局、産業技術環境局で企業立地促進政策や技術関連法制を担当。その後、国立研究開発法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」に出向し、電気・IT分野のプロジェクトを立案。在職中、自身の「三十路の官僚のブログ」で給与明細や官僚の生態などをつづり話題に。
2012年、経産省を退職。いまはエネルギー・不動産関連会社「Absolute Global Assets」取締役として再生可能エネルギー電源の開発・仲介取引、再生エネルギー分野の法務コンサルティング、省エネ商材の販売など手がける。
著書に「30歳キャリア官僚が最後にどうしても伝えたいこと」(ダイヤモンド社)、「肩書き捨てたら地獄だった ―挫折した元官僚が教える『頼れない』時代の働き方」(中公新書ラクレ)
■記者のひとこと
斜陽産業といわれる新聞業界に身を置く私にとって、年齢が一つしか変わらない宇佐美さんが、30歳そこそこで超がつくほどのエリートコースを降りたことを「なんてもったいないことを」と思っていた。一方、「どんな変わり者だろう」と興味があった。
弁舌鋭いブログの書きぶりから、冷静沈着で理路整然といった姿を想像して取材に臨んだが、語り口は意外に穏やか。プライベートな話も赤裸々に語り、よく笑う人で肩の力が抜けた。仕事もいっしょ。思い込みを捨てて他人からの視線を気にしなければ、もっと楽しく生きていけるし、そんなの簡単なことだよ、と言われているような気がした。(佐々木洋輔)
2014年7月23日水曜日
元ソニー開発者のヒット商品“扇風機付き作業服” 「一度着たら手放せない」
2014.7.12 18:04
昨年の3倍、25万着がすでに完売
「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。
商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。
試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。
そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。
その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。
ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目
当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。
「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。
しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。
「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。
1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。
開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」
ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。
その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。
すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。
「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」
最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)
昨年の3倍、25万着がすでに完売
「空調服」という会社をご存じだろうか。その会社が開発したユニークな作業服がいま大ヒットしているのだ。
商品名は社名と同じ「空調服」で、背中の腰の部分に2基のファンがついている。そのファンが体全体に風を送って汗を気化し、その気化熱によって体を冷やす仕組みになっている。風呂上がりの濡れた体に扇風機が心地よいのと同じ原理なのだ。
試しにその空調服を着てみると、確かに涼しい。というよりも少し寒いくらいに感じるほど。汗をかいていると、とりわけ涼しいそうだ。しかも、体が汗臭くならない。汗臭くなるのは、衣服に汗がついて雑菌が繁殖するためで、汗をすべて気化させてしまえば、臭いは全くしなくなるわけだ。
そのため、建設現場などで作業している人の間で人気を呼び、次々に注文が舞い込んでいるという。「今年は昨年の3倍超、25万着を生産しますが、予約分を含めてほぼ完売の状態です。代理店で取り合いになっていて、余り注文をしないでほしいと言っているところです」と市ヶ谷弘司社長はうれしい悲鳴を上げる。
その社長室には、ソニー創業者の井深大氏とのツーショット写真が飾られている。実は市ヶ谷社長は元ソニーの開発者で、大学も井深氏と同じ早稲田大学理工学部。しかし、1970年のソニー入社後しばらくの間は井深氏とほとんどコンタクトがなかったという。それが社内の発明大会で大きく変わった。
ソニー時代の発明に井深、盛田両氏が注目
当時、ブラウン管の検査部門で働いていた市ヶ谷社長は発明大会にブラウン管技術を使った笛を出品。それが井深氏の目に留まったのだ。すると、すぐさま新製品の開発部門に異動。半導体を使って音を合成する楽器の開発に携わった。そしてつくったのが電子ピアノだった。これには盛田昭夫会長(当時)が興味を示し、自宅に招待してくれたという。
「仲間3人と一緒でしたが、開発についてのいろいろな話をし、発売前のウォークマンを見せてくれたことが印象に残っています」と当時を振り返る。
しかし、1991年、市ヶ谷社長は自分で発明したいものを売ってみたいとソニーを退社。新会社を立ち上げて、ブラウン管の画質を検査する装置の製造・販売を開始した。ところが数年後、東南アジアに売り込みに行った時、市ヶ谷社長は危機感を抱いた。
「クーラーを使っていない発展途上国の人たちが将来、日本人のようにクーラーを使うようになったら、エネルギー危機が起こる」--そう思った市ヶ谷社長は検査装置を販売した利益で省エネルギーな冷却装置をつくろうと決心。空調服の開発を始めた。
1年後の1999年、最初の空調服が完成した。それは水タンクを装備した水冷式。ポンプでタンクの水を吸い上げて服の裏側に吊した冷却用の布を濡らし、空気を送って水を気化させることで涼しくするものだ。しかし、これはタンクが邪魔になったり、水漏れがするなど欠点が多かった。そこで、ファンを使うことにした。そして6年後の2004年、試行錯誤の末にようやく完成した。
開発哲学は「最先端の勉強をしないこと」
ただ、最初の数年は思うように売れなかった。というのも、販売ルートがなく、故障することもあったからだ。「まず10万着つくってみたのですが、それがなくなるのに6~7年かかりました」と市ヶ谷社長。
その間、さまざまな改良を加えると同時に、展示会などで来場者に試着してもらい、知名度を上げる努力を行った。その結果、年間1万着だった販売が徐々に増えていき、しかも実際に買ったお客から「一度着たら手放せない」という声が相次ぐようになった。
すると、一気に販売に火がつき、2012年に2万着だったのが、13年には8万着、2014年には25万着と大きく伸びているわけだ。「ようやく思い描いていた通りになってきた」と話す市ヶ谷社長の開発哲学は、最先端の勉強をしないこと。
「新しいものをつくろうとすると、その分野の最先端のことを勉強することが多いと思いますが、それだとその範囲でしか商品を開発できず、画期的なものはできません。しかも、最先端のことを勉強すればするほど、発想は似てきてしまい、商品も同じようになってしまいます。空調服も冷房に関して最先端のことを追究していたら、生まれていなかったかもしれません」
最近は海外からの引き合いも増えており、そのための代理店を探しているという。市ヶ谷社長が開発した空調服の勢いは止まるところがなさそうだ。(ジャーナリスト 山田清志=文)
2013年10月22日火曜日
東大より上!? 人事部の評価が抜群に高い大学8
旧来の学歴ブランドが崩れている。ソフトバンク、三菱重工、日本HPの採用責任者は、学生に何を求めているか。
■なぜ、偏差値50台のAPUの評価が高いか
「(立命館アジア太平洋大学から)2012年は6人の内定者を出しました。事務系の採用数は毎年100人弱ですが、6人というのは大学別の採用数ではもちろん(東大などを抜き)トップです」
三菱重工業の原田庸一郎人事部次長はこう語る。
大分空港からリムジンバスで30分。別府市内に着くと再び乗り換えたバスに揺られながら山道を登っていく。日光のいろは坂のように険しい坂道を蛇行しながら進むこと15分。別府湾と市街を見下ろす頂上付近に立命館アジア太平洋大学(APU)のキャンパスがあった。
2000年に開学。地上と隔絶されたこの辺境の地で約5800人の学生が学ぶ。しかも約半数を世界83カ国・地域の外国人留学生が占めるという文字通り日本屈指の国際大学である。しかし、それだけではない。開学10年余にして卒業生の多くが超難関企業に就職。旧来の伝統校や偏差値上位校に有利な就職戦線地図を大きく塗り替えようとしている。
冒頭の三菱重工もその1社である。三菱重工といえば1990年代から2000年代初頭にかけて東大、京大をはじめとする旧帝大や早慶の学生(技術系含む)を2桁単位で採用し、文系大学では一橋大学出身者を最も多く採用していた(大学通信調査)。その同社の事務系採用でA PUがトップに立ったということは一橋大学を抜いたことを意味する。
三菱重工だけではない。11年度の就職先には、新日本製鉄、神戸製鋼、旭化成、小松製作所、住友化学、ソニー、東芝、野村証券、三井住友銀行、三菱商事、丸紅、武田薬品工業、電通、博報堂といった一流企業がずらりと並ぶ。APUの就職率は95.1%であるが、難関の一部上場企業への就職率は約36%を誇る。ちなみに一部上場企業への就職率を開示している大学は少ないが、慶應義塾大学が約43%だ。慶應の入学偏差値は65~70であるのに対し、APUは50~55。偏差値を超えたAPUの人気ぶりが際立つ。
APUの村田陽一事務局次長(学生支援・就職支援担当)は「超難関企業の内定者を見ると、たとえばパナソニックや東芝など製造業では理系学生の採用数が多く、文系はせいぜい40人、50人ぐらいですが、旧帝大や早慶しかいないところにAPUがポツンと入っている。あるいは三菱重工さんのように多く採用してくれるところもある。富士通さんも毎年4~5人採用してくれています」と語る。留学生は学内選考で8割が決まるというが、13年3月卒業生は、12年7月時点で「ほぼ完売状態。就職希望の留学生の内定がほぼ出揃った」(村田事務局次長)という。
なぜ、APUの人気が高いのか。言うまでもなく日本企業が渇望するグローバル人材の資質に優れているからだ。三菱重工の原田人事部次長はAPUの魅力をこう語る。
「1つは中国や韓国に限らず、アジアやヨーロッパを含めて幅広い国や地域の学生が集まり、特定の国に偏らない多様な人材が豊富であることです。2番目は日本語教育にも力を入れ、外国人の日本語レベルが非常に高い。3番目は市街から離れた修学環境に適した立地にあり、実際に非常に勉強しておられる。4番目はキャリア支援の事務局と学生との連携が非常に密であり、日本企業への就職に力を入れていることです」
グローバル人材の資質が異文化リテラシーにあるとすれば、APUは「日本人と留学生が授業や課外活動を含めて交わり合うような仕組みや仕掛けを長年つくり続けてきた」(村田事務局次長)。その1つが留学生と日本人学生が共同生活をおくる学生寮だ。個室と2人部屋があるが日本人は外国人との同居が必須であり、互いの文化を理解し合えなければ一緒に暮らすことはできない。
「国際交流という言葉は美しいのですが、現場では全然美しくない。時には対立も起こります。たとえば『時間にルーズだし、自己主張だけはしやがって』というのが日本人が抱く最初の感覚です。しかし、留学生は国によって悪気がないのに時間の感覚がルーズで約束を守らない人もおり、そこにコンフリクトが起こる。あるいは授業で4人のチームでプレゼンするとなると、日本人2人に細かい準備だけをさせて、留学生の2人がプレゼンのいいところだけを持っていこうとする。『なんだ、このやろう』と思うんですが、それを乗り越えて互いにどうすれば一緒に協力できるのか、相手を巻き込むにはどうすればいいのかを考えないと前に進まない。そうした人種や国境のカベを乗り越える経験をたくさんすることで日本人も一皮むけていく。企業の担当者もそういう点を非常に重視しています」(村田事務局次長)
異文化受容力に加えて積極的な海外志向も企業の評価が高い。APUには交換留学生制度があるが、TOEFL550点以上とハードルが高く留学できるのは1学年の2割程度。しかしそれでも海外渡航の夢がやみがたく1年間休学してワーキングホリデーを利用して海外体験する学生が約4割もいる。現地で揉まれて培うコミュニケーション力も企業の魅力の1つだ。
「旧帝大の学生など最近はTOEICが800点というのは珍しくありませんが、APUの学生は700点だったりする。でも皆、海外経験を持っている。採用面接で、海外で働けますかと聞かれて、途上国は勘弁してほしいという学生もいるそうですが、自ら手を挙げて『どこでもいいから行かせてほしい』というのがうちの学生の特徴です。企業の側もうちの学生にはどれだけ英語ができるのか、はっきり言ってあまり求めていない。それよりも、いろいろな人とどんな環境であってもきちんとコミュニケーションできる能力を買われていると思います」(村田事務局次長)
高い異文化受容力、海外志向、国境を越えたコミュニケーション力。これが企業が求めるグローバル人材のポテンシャルであるとすれば、APUは明らかに企業のニーズを踏まえた教育を実践している。
日本の大学は、旧来型のマスプロ教育を漫然と実施するばかりで、企業が求める人材ニーズに応える教育を怠ってきた。企業もそのことをよく知っているために、大学の入試偏差値に過度に依存し、入学後の成績は採用選考の参考にしないという日本独特の風潮が長らく続いてきた。しかし、本当に欲しい人材を育成すれば、偏差値は低くても企業が採用することをAPUは実証した。
APUに限らない。04年に開学した秋田県の公立大学である国際教養大学も100%の就職率を誇る。1学年の定員は150人と少ないが、グローバル人材の養成という明確な育成ビジョンを掲げ、英語のみで授業を行うほか、1年間の海外留学を義務づけるなど従来の日本の大学にない特色を持つ。
1クラス15人以下を基準とする授業は、ディスカッションやディベート、プレゼンテーションへの参加を通じて自ら考え、主張できる能力を養う。さらに教員1人あたりの学生数は約10人と小学校の分校並み。教員の半数を外国人が占めるが、3年間の任期制であり、教員は専門の研究分野ではなく「教育力」で評価されるという徹底した教育重視の大学だ。
国際教養大学を訪問し、2人の学生を採用した大手石油会社の人事担当者は「全員が海外の大学に留学し、現地の学生と机を並べ、正規科目を30単位取得するらしい。留学前はTOEICが800点でも帰国後は全員が900点を超えるという。それだけ海外で揉まれてきた証拠であり、自分も若ければぜひこういう大学に行きたかった」と絶賛する。
■人事部が注目する大学・学部
1.立命館アジア太平洋大学(2000年開学)
中国・韓国だけではなく、世界80カ国以上の優秀な留学生が学び、日本語教育に注力し、日本語のレベルが非常に高い。学生の半数を占める日本人学生は講義と大学寮での外国人との生活に揉まれ、グローバル人材の素養を身につけている。
2.国際教養大学(2004年開学)
教員の半数を外国人が占め、すべての授業を英語で実施。1年間の海外留学を義務づけ、留学先大学で約30単位を取得。帰国後のTOEICは900点以上。少人数授業とグローバル人材に必要なリベラルアーツ教育に注力。
3.早稲田大学 国際教養学部(2004年開設)
英語による徹底した授業に加え、約3割の外国人留学生との交流、2年次後半からの1年間の海外留学を通じてグローバル素養を修得している。大規模講義のイメージの強い早稲田大学にあって1クラス約25人と少人数形式の授業。
4.国際大学 国際経営学研究科(1988年開設)
日本初の100%英語によるMBAプログラムを導入した大学院。全寮制を原則に50カ国以上から集まる学生と教員が多文化・多国籍の環境下で学ぶ。グローバル・リーダーの養成を目的とした実践形式の授業に注力。
5.慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス・SFC(1990年開設)
総合政策学部・環境情報学部の分離融合で、両学部の授業を学生自ら自由に組んで受講できる。カリキュラムの中核となる100近くの多様な研究プロジェクトに所属し、自主性・創造性を磨いている。
6.立教大学経営学部(2006年開設)
産学協同の少人数プロジェクトによるビジネス課題解決の実践的学習を1年次から3年次まで繰り返す。そこで培われるプレゼンテーション力やコミュニケーションスキル、チームワーク力は即戦力として魅力的。
7.金沢工業大学(1965年開学)
1週間単位で知識や技術の達成度を評価しながら能力の向上を図るポートフォリオシステムを採用。修学アドバイザー(クラス担任)による個人別指導の評価は高い。卒業後のキャリア像を考えさせるための職業指導を徹底する。
8.豊田工業大学(1981年開学)
1年次全寮制教育と徹底した少人数形式による授業で工学系の基礎的能力への評価が高い。産業界と連携した「産学就業力向上委員会」を設置。アカデミックアドバイザー(教員)と事務局が一体となって第一志望企業への就職を目指している。
■なぜ、偏差値50台のAPUの評価が高いか
「(立命館アジア太平洋大学から)2012年は6人の内定者を出しました。事務系の採用数は毎年100人弱ですが、6人というのは大学別の採用数ではもちろん(東大などを抜き)トップです」
三菱重工業の原田庸一郎人事部次長はこう語る。
大分空港からリムジンバスで30分。別府市内に着くと再び乗り換えたバスに揺られながら山道を登っていく。日光のいろは坂のように険しい坂道を蛇行しながら進むこと15分。別府湾と市街を見下ろす頂上付近に立命館アジア太平洋大学(APU)のキャンパスがあった。
2000年に開学。地上と隔絶されたこの辺境の地で約5800人の学生が学ぶ。しかも約半数を世界83カ国・地域の外国人留学生が占めるという文字通り日本屈指の国際大学である。しかし、それだけではない。開学10年余にして卒業生の多くが超難関企業に就職。旧来の伝統校や偏差値上位校に有利な就職戦線地図を大きく塗り替えようとしている。
冒頭の三菱重工もその1社である。三菱重工といえば1990年代から2000年代初頭にかけて東大、京大をはじめとする旧帝大や早慶の学生(技術系含む)を2桁単位で採用し、文系大学では一橋大学出身者を最も多く採用していた(大学通信調査)。その同社の事務系採用でA PUがトップに立ったということは一橋大学を抜いたことを意味する。
三菱重工だけではない。11年度の就職先には、新日本製鉄、神戸製鋼、旭化成、小松製作所、住友化学、ソニー、東芝、野村証券、三井住友銀行、三菱商事、丸紅、武田薬品工業、電通、博報堂といった一流企業がずらりと並ぶ。APUの就職率は95.1%であるが、難関の一部上場企業への就職率は約36%を誇る。ちなみに一部上場企業への就職率を開示している大学は少ないが、慶應義塾大学が約43%だ。慶應の入学偏差値は65~70であるのに対し、APUは50~55。偏差値を超えたAPUの人気ぶりが際立つ。
APUの村田陽一事務局次長(学生支援・就職支援担当)は「超難関企業の内定者を見ると、たとえばパナソニックや東芝など製造業では理系学生の採用数が多く、文系はせいぜい40人、50人ぐらいですが、旧帝大や早慶しかいないところにAPUがポツンと入っている。あるいは三菱重工さんのように多く採用してくれるところもある。富士通さんも毎年4~5人採用してくれています」と語る。留学生は学内選考で8割が決まるというが、13年3月卒業生は、12年7月時点で「ほぼ完売状態。就職希望の留学生の内定がほぼ出揃った」(村田事務局次長)という。
なぜ、APUの人気が高いのか。言うまでもなく日本企業が渇望するグローバル人材の資質に優れているからだ。三菱重工の原田人事部次長はAPUの魅力をこう語る。
「1つは中国や韓国に限らず、アジアやヨーロッパを含めて幅広い国や地域の学生が集まり、特定の国に偏らない多様な人材が豊富であることです。2番目は日本語教育にも力を入れ、外国人の日本語レベルが非常に高い。3番目は市街から離れた修学環境に適した立地にあり、実際に非常に勉強しておられる。4番目はキャリア支援の事務局と学生との連携が非常に密であり、日本企業への就職に力を入れていることです」
グローバル人材の資質が異文化リテラシーにあるとすれば、APUは「日本人と留学生が授業や課外活動を含めて交わり合うような仕組みや仕掛けを長年つくり続けてきた」(村田事務局次長)。その1つが留学生と日本人学生が共同生活をおくる学生寮だ。個室と2人部屋があるが日本人は外国人との同居が必須であり、互いの文化を理解し合えなければ一緒に暮らすことはできない。
「国際交流という言葉は美しいのですが、現場では全然美しくない。時には対立も起こります。たとえば『時間にルーズだし、自己主張だけはしやがって』というのが日本人が抱く最初の感覚です。しかし、留学生は国によって悪気がないのに時間の感覚がルーズで約束を守らない人もおり、そこにコンフリクトが起こる。あるいは授業で4人のチームでプレゼンするとなると、日本人2人に細かい準備だけをさせて、留学生の2人がプレゼンのいいところだけを持っていこうとする。『なんだ、このやろう』と思うんですが、それを乗り越えて互いにどうすれば一緒に協力できるのか、相手を巻き込むにはどうすればいいのかを考えないと前に進まない。そうした人種や国境のカベを乗り越える経験をたくさんすることで日本人も一皮むけていく。企業の担当者もそういう点を非常に重視しています」(村田事務局次長)
異文化受容力に加えて積極的な海外志向も企業の評価が高い。APUには交換留学生制度があるが、TOEFL550点以上とハードルが高く留学できるのは1学年の2割程度。しかしそれでも海外渡航の夢がやみがたく1年間休学してワーキングホリデーを利用して海外体験する学生が約4割もいる。現地で揉まれて培うコミュニケーション力も企業の魅力の1つだ。
「旧帝大の学生など最近はTOEICが800点というのは珍しくありませんが、APUの学生は700点だったりする。でも皆、海外経験を持っている。採用面接で、海外で働けますかと聞かれて、途上国は勘弁してほしいという学生もいるそうですが、自ら手を挙げて『どこでもいいから行かせてほしい』というのがうちの学生の特徴です。企業の側もうちの学生にはどれだけ英語ができるのか、はっきり言ってあまり求めていない。それよりも、いろいろな人とどんな環境であってもきちんとコミュニケーションできる能力を買われていると思います」(村田事務局次長)
高い異文化受容力、海外志向、国境を越えたコミュニケーション力。これが企業が求めるグローバル人材のポテンシャルであるとすれば、APUは明らかに企業のニーズを踏まえた教育を実践している。
日本の大学は、旧来型のマスプロ教育を漫然と実施するばかりで、企業が求める人材ニーズに応える教育を怠ってきた。企業もそのことをよく知っているために、大学の入試偏差値に過度に依存し、入学後の成績は採用選考の参考にしないという日本独特の風潮が長らく続いてきた。しかし、本当に欲しい人材を育成すれば、偏差値は低くても企業が採用することをAPUは実証した。
APUに限らない。04年に開学した秋田県の公立大学である国際教養大学も100%の就職率を誇る。1学年の定員は150人と少ないが、グローバル人材の養成という明確な育成ビジョンを掲げ、英語のみで授業を行うほか、1年間の海外留学を義務づけるなど従来の日本の大学にない特色を持つ。
1クラス15人以下を基準とする授業は、ディスカッションやディベート、プレゼンテーションへの参加を通じて自ら考え、主張できる能力を養う。さらに教員1人あたりの学生数は約10人と小学校の分校並み。教員の半数を外国人が占めるが、3年間の任期制であり、教員は専門の研究分野ではなく「教育力」で評価されるという徹底した教育重視の大学だ。
国際教養大学を訪問し、2人の学生を採用した大手石油会社の人事担当者は「全員が海外の大学に留学し、現地の学生と机を並べ、正規科目を30単位取得するらしい。留学前はTOEICが800点でも帰国後は全員が900点を超えるという。それだけ海外で揉まれてきた証拠であり、自分も若ければぜひこういう大学に行きたかった」と絶賛する。
■人事部が注目する大学・学部
1.立命館アジア太平洋大学(2000年開学)
中国・韓国だけではなく、世界80カ国以上の優秀な留学生が学び、日本語教育に注力し、日本語のレベルが非常に高い。学生の半数を占める日本人学生は講義と大学寮での外国人との生活に揉まれ、グローバル人材の素養を身につけている。
2.国際教養大学(2004年開学)
教員の半数を外国人が占め、すべての授業を英語で実施。1年間の海外留学を義務づけ、留学先大学で約30単位を取得。帰国後のTOEICは900点以上。少人数授業とグローバル人材に必要なリベラルアーツ教育に注力。
3.早稲田大学 国際教養学部(2004年開設)
英語による徹底した授業に加え、約3割の外国人留学生との交流、2年次後半からの1年間の海外留学を通じてグローバル素養を修得している。大規模講義のイメージの強い早稲田大学にあって1クラス約25人と少人数形式の授業。
4.国際大学 国際経営学研究科(1988年開設)
日本初の100%英語によるMBAプログラムを導入した大学院。全寮制を原則に50カ国以上から集まる学生と教員が多文化・多国籍の環境下で学ぶ。グローバル・リーダーの養成を目的とした実践形式の授業に注力。
5.慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス・SFC(1990年開設)
総合政策学部・環境情報学部の分離融合で、両学部の授業を学生自ら自由に組んで受講できる。カリキュラムの中核となる100近くの多様な研究プロジェクトに所属し、自主性・創造性を磨いている。
6.立教大学経営学部(2006年開設)
産学協同の少人数プロジェクトによるビジネス課題解決の実践的学習を1年次から3年次まで繰り返す。そこで培われるプレゼンテーション力やコミュニケーションスキル、チームワーク力は即戦力として魅力的。
7.金沢工業大学(1965年開学)
1週間単位で知識や技術の達成度を評価しながら能力の向上を図るポートフォリオシステムを採用。修学アドバイザー(クラス担任)による個人別指導の評価は高い。卒業後のキャリア像を考えさせるための職業指導を徹底する。
8.豊田工業大学(1981年開学)
1年次全寮制教育と徹底した少人数形式による授業で工学系の基礎的能力への評価が高い。産業界と連携した「産学就業力向上委員会」を設置。アカデミックアドバイザー(教員)と事務局が一体となって第一志望企業への就職を目指している。
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