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2014年4月26日土曜日

村尾先生の作文 April 25th 2014

私の読書遍歴 一年国語科 村尾勉

 小学校四年生の頃から学校の図書館で本を借りることを覚えた。SF  が好きでもちろん子ども向けのものだが、夢の世界に心を遊ばせる虜になった。覚えている書名は「宇宙のスカイラーク」 「地底探検」 「ついらくした月」 「宇宙パイロット」 「不死販売業者」「四次元世界の秘密」……。 SF 以外にはノンフィクションをよく読んだ。「コンチキ号漂流記」 「超音速への挑戦」 「ビーグル号漂流記」 「絶滅した恐竜たち」……。難しい本が多かったが本を読むたぴに新しい扉が開かれていくように思えた。

 一大転機が訪れたのは小学五年生のときだ。日ごろ、読書などとは無縁の父が「学級委員になったお祝い」と言って数冊の文庫本を買ってきてくれたのだ。初めての「大人の」本だった。字が難しくわからない言葉ばかり。それでも寸暇をおしんで読みふけった。そのときに夏目漱石をしった。「草枕」と「三四郎」がその数冊のなかにあったのだ。そこに込められた風刺や批評、表現された高い芸術性などといったものはさっぱりわからなかったが、「いつかのんびりした旅をしてみたい」「大学で勉強したい」とぼんやりとあこがれたものだった。その後、この二冊は私の愛読書となり、何冊買い換えたかわからない。

 夏目漱石を契機に日本文学に親しむようになった。「暗夜行路」 「斜陽」 「蒼氓」 「恩讐の彼方に」……。学校の図書館に日本文学全集(大人用の)があって、それを順番に借りていくのが日課となった。それらの小説は、モノクロ映画のように哀愁を帯びていて、その非日常性が背伸びをしたがる自分に合っていたようだ。

 中学に入るとまた転機がやってきた。自宅の近所に公共図書館ができたのだ。学校の図書館とは比べ物にならない蔵書数で、しかも夜七時まで開いている。ここでは海外の本を読むことにした。「武器よさらば」 「赤と黒」 「罪と罰」 「チボー家の人々」 「西遊記」……。特に「怒りの葡萄」 はヘンリー・フォンダの映画を先に見ていたため何度も読み返し、あの場面はこういう意味があったのかと反芻していた。

 一方では元来のSF 好き、さらに進化したミステリー好きも頭をもたげてきており、毎月の小遣い千円はほぼすべて草原推理文庫の購入に充てられていた。「空飛ぶ円盤」「レーン最後の事件」「樽」「月長石」「ABC殺害事件」「銀河帝国の興亡」「マラコット深海」「燃える世界」「アクロイド殺害事件」……。不思議なことに当時大流行していたルパン(一世のほう)、ホームズ、エラリー ・ クイーン、レンズマン、ジョン ・ カーターなどには全く魅力を感じていなかったらしい。

 高校に入ると安部公房を読んだ。だいたい高校生は安部公房か大江健三郎か太宰治かのファンになり、それぞれ相手を攻撃するためにほかの作家を読むものだが私も同様、安部公房が好きと言う理由で大江健三郎を読んでいたようだ。

 読書とは不思議なもので年齢によって読みたいものが変わる。ヘッセの「車輪の下」や久米正雄の「受験生の手記」は中学三年生のときには感動したが大学生の頃には「ふっ、若いな」と軽視するようになっていた。メルヴィルの「白鯨」は学生時代にはキリスト教礼賛の読み物と思っていたが、三十歳を過ぎた頃に読んだら大泣きした。単なるファッションとして高校のときに持ち歩いていた「徒然草」は自分の価値観・美意識を形成していた。何にしても読書する喜びを持てたことは幸せだと思っている。

2014年4月1日火曜日

為になる作文

第10回 アザラシのランプ(その1)

 ハンティング・キャンプに出ていたある日のこと、その日の食事はアザラシだった。イヌーキーがテント前の浜で若アザラシを一頭しとめ、それをチャーリー父さんが解体した。生肉で少し食べたあと、さらにスープで煮て食べた。
 アザラシがしとめられると、すぐに食料にしたいときにはその場で、たくさんとれたときなどはキャンプや村に戻ってから解体される。解体は、まず脂肪の層がついた皮をはぎ、つづいて内臓を取りのぞき、骨付きのまま肉をいくつかの部分に切り分ける、という手順ですすめられる。この解体作業の途中から、肉や肝臓や脳などの内臓はつまみ食いのように食べられる。チャーリー父さんのお気に入りは腎臓らしく、解体のときにはたいていいつでもその部分をサッと切り取っては口に運ぶ。食べきれなかった肉と、脂肪の層がとりのぞかれた毛皮は村へと持ち帰られる。
 そういうわけで、その日アザラシ肉の食事が終わるころには、脳を食べおえた頭の部分、胃腸などの内臓、それと皮から切り取られた脂肪の層が残されていた。ソリ犬のために持ち帰られることもあるが、現在これらはその場に置いていかれ、海鳥などのエサになることが多い。
 しかし極海に泳ぐアザラシのぶ厚い脂肪は、かつては人のくらしに利用されていた。それどころかこのアザラシの脂肪こそが、過酷な北極という環境において人のくらしを支える大切な役割をになっていた。木のないツンドラと氷の世界にあって、それはほぼ唯一の燃料として、ランプの燃料として使われていたのだ。
 ある日、村のビジターセンターの展示室の片隅にランプとしてつかわれていたという石皿が置かれていた。黒い頁岩のような、お盆大の平たい石をけずってつくった石皿だった。見てみたいと思っていた念願の実物だったが、それはすでにその役目を終えた展示物であり、かつてそこから立ち上がっていたであろう炎を想像することはなかなかむずかしかった。

 アザラシランプの炎がぼんやりとイメージできるようになったのは、一冊の絵本に出会ってからだった。絵本のタイトルは「氷の海とアザラシのランプ カールーク号北極探検記」。
 時代は20世紀はじめ、アラスカ・シベリアの北極海沿岸に起きた実際のできごとがもとになっている。1913年、アリューシャン地方のことばで魚を意味するカールークと名づけられた船が、カナダの探検隊をのせ北極地方にやってくる。ところがこの船、その年の冬には氷に閉じこめられ、ついには沈没してしまう。隊員たちは船を失うが、はげまし、助け合って、氷の上の過酷な生活を生き抜き、翌年の秋になって無事生還をはたす……。ただし、これは物語の半分にすぎない。
 この物語のもう半分は、この探険船に同船していた、この地方の先住民族イヌピアク族の一家族の物語だ。遭難した隊員たちの命を支えたのは、クーラルック父さんが毎日とってくるアザラシの肉であり、キールーク母さんがその手から毎日つくりだす毛皮服や手袋やブーツであり、つまりは過酷な北極で生きるすべを知る彼らの存在だったのだ。
 この物語の主人公は誰か、という問いには、それはバートレット船長をはじめとする探検隊だともいえるし、イヌピアク族の家族だともいえるだろう。しかし別の見方をするならば、それはアザラシのランプだ、といっていいようにも思う。
 クーラルック父さんとキールーク母さんの八才の娘、パグナスークは、船にのる前、おばあさんからアザラシ油のランプを手渡される。おじいさんが石を刻みつくったそのランプを、おばあさんはそれまでずっと肌身離さずにもちあるいてきた、そういうランプだ。おばあさんはパグナスークにランプをわたすときにこういう。
「船にのって、おまえは長い旅に出る。ランプと歌のあるところ、そこがおまえの家なんだ」
 ランプは、船の小さな部屋で、氷の上の旅で、いつも家族を照らしあたためつづける。そして家族が無事に村へと戻ってきたときから、またおばあさんのすむ家で火をともすことになるのだ。ずっと前からそうだったように。
 この絵本を開き、ところどころにおさめられた独特なタッチの絵をながめ、おばあさんの言葉を心にひびかせると、僕の胸のずっと奥の方、つまりはどこかで涙腺とつながっているような部分がモゾモゾする。かつてのイヌイットたちの世界であるにもかかわらず、なぜかとても懐かしい空気の中に入っていくようなのだ。その空気をかもしだす光景の片隅にはいつもアザラシランプの炎がゆらめいていた。
 その炎は、いったいどんな明るさや暖かさを持っていたのだろう。

 アザラシ解体のあとに残された白い脂肪の塊を見ていて、ふとそれをためしてみたくなった。それ、とは、アザラシの脂肪を燃やしてみることだった。
 脂肪の小さなカケラを切り取り、真ん中のへこんだ平らな石を見つけてきて、その上においた。芯はかつてツンドラのある種のコケを乾燥し使ったのだというが、とりあえずティッシュペーパーをよってつくった即席のコヨリを使うことにした。はたしてアザラシランプの炎はあらわれるだろうか。
 そっと火をつけてみる……つかない。芯は燃えるのだが、脂肪の塊まで行くと消えてしまう。何度かためすがつけることができない。単純なことを忘れていたことに気づく。液体は燃えるけど固体のままでは燃えないのだった。ロウソクだって芯のまわりは融けて液体になっている。そこで脂肪の小さな塊をつぶしてしぼり出し、液体の油だけを石のへこみにためることにする。再びティッシュの芯をつくってその油に浸した。
 再び火をつける。……燃えた。しっかりとしたオレンジがかった炎がともった。風にゆらめくが、その炎は想像以上に明るい。そして手をかざせば暖かささえ感じる。数センチ大の脂肪からしぼった油にすぎなかったが、それでも炎が10分間ほども燃えつづけたのには驚いた。石皿には何本かの芯を並べ、それによって火力を調節したといわれる。けっしてパワフルなものではないが、それでもせまい家の中でなら、灯りとしても暖房としてもかなりの力を発揮するだろうな、ということは想像できた。
 最初は僕のこの即席の実験を「何やってんだ?」という顔で見守っていたイヌーキーも、その炎を珍しがってながめている。きっと僕と同じように今日初めてアザラシ油の炎を見たのだろう。アザラシの脂肪ってホントに燃えるんだ、とでもいいたそうな顔だ。
 石の皿、アザラシの脂肪からしぼられた油、ツンドラのコケの芯……。まるで人が利用できる何ものもないかのような北極圏の自然の中から、この三つを見つけ、選び、組み合わせることによって、灯りと熱を生み出したイヌイットの先祖たち。テント前の浜でつくった即席アザラシランプの、それでもしっかりとしたオレンジ色の炎を見つめていると、そんなはるか遠い人たちのことを想像せずにいられなかった。

2013年12月8日日曜日

文語化すべき口語

http://www.ise.chuo-u.ac.jp/ISE/outline/Gmajor/nihongo/

  1. あまりに → 過度に
  2. いっぺんに → 一度に/一括して/まとめて
  3. あと → また,さらに
  4. やる → 行う
  5. してやる/してあげる → する
  6. してる → している
  7. してない → していない
  8. するけど → するが
  9. …だ.→ …である.
  10. …だった.→ …であった.
  11. …だったら → …であるとき/…であったらならば/…なら
  12. …だけど → …だが/…であるが
  13. (文頭の)だけど/でも → しかし/しかしながら/だが/ところが
  14. (文頭の)ちなみに → これと関連して/しかし/ただし
    【補足】 “LISP は list processor にちなむ”のように,動詞の“ちなむ”は使用してかまいません
  15. (自由度がないという意味で)しようがない → やむをえない
  16. みたいな → のような
  17. (一個のものをさして)とかは → は/のようなものは
  18. とか…とかは → や…は
  19. したり…したりする → したり…する
  20. じゃなくて → ではなく(て)
  21. なんでだろう → なぜか
  22. すごく/すごい → (適切な言葉)
    【例】 プログラムがすごい → プログラムが長い/複雑である/技巧的である
  23. すごい速い → すごく速い → 大変速い/きわめて速い/高速である
  24. 超 → 比較的/やや/かなり/たいへん/きわめて
  25. まじで → 真に/絶対的に/圧倒的に
  26. まともに/もろに → 直接的に/直接
  27. 簡単/楽 → 単純/易しい/容易
  28. 面倒/難儀/厄介 → 複雑/難しい/困難

「永遠の0」 あらすじと感想文

永遠の0のあらすじ

 司法試験に失敗し、またにアルバイトをするだけの怠惰な生活を送っている26歳の健太郎へ、4歳年上の姉でフリーライターの慶子から、アルバイトをしないかという電話が掛かってきます。内容は、ノンフィクションライターを目指す慶子のアシスタント。慶子は、「祖父」のことを調べたいとのこと。

 「祖父」とは2人の祖母の最初の結婚相手で、2人の母親・清子の実の父親ですが、2人が「祖父」の存在を知ったのは、6年前に祖母・松乃が亡くなったときでした。慶子と健太郎は「おじいちゃん」として慕っていた祖母の再婚相手から、「祖父」の存在を打ち明けられました。

 「祖父」は、海軍航空兵で神風で死んだとのこと。「祖父」についてはほとんど何もわからず、祖母も「おじいちゃん」には何も語らなかったそうです。慶子は、母親が「死んだお父さんて、どんな人だったのかな」とふとこぼしたのを聞き、何とかしてあげたいと思ったのでした。慶子は、取引先の大手新聞社が翌年に迎えた終戦六十周年の際に展開する大規模なプロジェクトに参加することができ、プロジェクトにもプラスになるのではと考えています。もっとも慶子は「特攻隊ってテロリストらしいわよ」と新聞社の社員の言葉を受け売りする程度の知識しかありませんでした。健太郎は、乗り気がしませんでしたが、退屈しのぎと、慶子からもらえるお小遣い目当てに協力することにしました。

 「祖父」の名は、宮部久蔵。大正8年生まれで、昭和9年に海軍に入隊。昭和20年、南西諸島沖(九州を飛び立ち沖縄へ向かう洋上)で戦死(享年26歳)ということしかわかっていません。慶子と健太郎は、宮部久蔵を知る人物に会うため、本名はじめわずかな情報から、厚生労働省や戦友会へ問い合わせをしました。

 2人が最初に会ったのは、埼玉県郊外に住む元海軍少尉・長谷川梅男。戦争で片腕を失った戦闘機乗りでしたが、本題が始まると、「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と間髪を入れずに吐き捨てました。宮部久蔵も、長谷川梅男も赤紙で招集された兵隊ではなく志願兵で、飛行機乗りを自ら望んだ航空兵でした。長谷川梅男は、「いいか。戦場は戦うところだ。逃げるところじゃない。あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わたしたち兵士にとっては関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を討つ。それが兵士の務めだ。和平や停戦は政治家の仕事だ。違うか」と圧倒してから、長谷川が農家の口減らしのために奉公に出た先で主人を棍棒で何度も殴りつけ、ここしかないということで軍隊に入ったことからはじめ、飛行機にほれ込み航空兵になったこと、中国空軍と戦っている時に真珠湾攻撃の話を聞いて地団駄を踏んだこと、オーストラリア攻略戦で米軍のP39・P40・ハリケーン、英軍のスピットファイアと戦ったが零戦の相手ではあかったこと、ラバウル基地に転属になり参加したガダルカナルの奪還作戦が苛烈を極めたこと(結局、日本軍は奪還に失敗、「ラバウルは搭乗員の墓場」「ラバウル転属は片道切符」と言われた)、ベテラン航空兵の未帰還も珍しくなかった中、宮部はいつもまったくの無傷で帰って来たことなどを、慶子と健太郎に語ります。

 戦後、一転して大罪人扱いされ、過酷な人生を送ってきた長谷川は憎しみに満ち、「わしも特攻で死にたかった」と語ります。2人は長谷川の話に圧倒されますが、健太郎は、長谷川が宮部へ向けて放った「臆病者」という言葉を、「その時、初めて、『臆病者』という言葉は自分に向かって言われた言葉として受け止めていたことに気がついた。なせならぼく自身がいつも逃げていたからだ。ぼくには祖父の血が流れていたのか」と戸惑います。

 2人は、宮部久蔵を知る人物に会い続けます。地元商工会の大物で元海軍中尉・伊藤寛次、元海軍飛行兵曹長・井崎源次郎、農家で元海軍整備兵曹長・永井清孝、老人ホームに住む元海軍中尉・谷川正夫、元県会議員で元海軍少尉の岡部昌男、元一部上場企業社長の元海軍中尉・武田貴則、引退したやくざで元海軍上等飛行兵曹・景浦介山、旅館経営者の元海軍一等兵曹・大西保彦から話を聞くうちに、宮部久蔵が、慶子と健太郎の中で蘇ります。宮部が、日本海軍の戦闘機乗りの秘儀と言われた「左捻り込み」をも使いこなす天才パイロットだったこと、惻隠の情を持った男であり、「生きて家族の元に帰る」と言い続けていたこと、そして、米空母搭乗員を「悪魔のようなゼロ」と震え上がらせたこと… 慶子と健太郎の心の中にも変化が生まれました。




永遠の0の読書感想文

 「永遠の0」の中で、日本軍にあと一押しされていたらやられていた戦いは相当あったとアメリカのハルゼーが回想していたというエピソードが紹介されていました。、あた、海軍の将軍たちは、もっとも叩くべきは敵の輸送船団・ドッグ・石油施設などであるにもかかわらず、弱腰になり反転を繰り返していたといいます。これには、軍部の中での出世競争や査定があり、船を失いたくなかったことや、敵の輸送船や施設をいくら叩いてもポイントにならなかったこと、そして、日露戦争後、一度も海戦をしたことがなかった日本は、太平洋戦争に突入した時点で、ただ海軍大学や海軍兵学校を出たというだけで実戦経験がゼロの将校ばかりだったことなどが、登場人物の口を通して語られました。致命的な失敗をしても、官僚(将校)たちは責任を追及されず、代わりに下士官以下が責任を取らされます。将軍や士官たちは自分たちが矢面に立つ場合は弱腰になり戦闘海域からすぐ離脱しますが、自分たちが危険にさらされることのない場合なら下士官以下をどんな無謀な作戦にも送り出して行ったとのこと。

 権力って、なんだろうと思いました。

 もちろん、「永遠の0」は小説であり、フィクションですが、大局への貢献や使命感の欠如した自分だけ良ければいいという、この官僚構造とでもいうものは、現代でも脈々と生きていると思いました。横領はもってのほかですが、横領にはならなくても官庁や会社の領収証で飲み食いをする場合、もちろん、職務に必要なときもありますが、自腹を切るのが嫌で会社に損失を負わせているというだけのこともあるのではないかと思います。大局としては、財政や経営状態が悪化するわけですが、それを何とも感じず、当たり前のように飲み食いする楽しみにふける人もいます。また、自分がやるはめになりそうなときは黙り込み、自分が労を背負う必要がない場合になるととたんに前に出て会議の場でだけひたすら目立ち、いざ、実践の場面になると、知らん顔をする人も多いかもしれません。何があっても自分は表には出ず、代わりに誰かの名前を出し、責任を問われることは絶対にないという人はどこの世界にもいると思います。そういった人間たちが、いわゆる「勝ち組」になってしまっている構造は、戦争中の日本も、今の日本も変わらないのだと思いました。

 あと、ゼロ戦は、やはりすごかったのだなと思いました。

 堀越二郎と曾根嘉年という情熱に燃える2人の若い設計者の血のにじむ努力によって零戦が生み出されたことが紹介される場面もありましたが、旋回と宙返りに優れるという格闘性能と、速度という本来相反する2つの性能を兼ね備えた魔法のような戦闘機だったとのこと。しかし、囲碁の棋士になるか一高に進むかで迷っていた中学生(旧制)でしたが、父が相場に手を出して大きな借金を残して首をくくり、中学を中退して母も病気になりまもなく死亡し、頼る親戚もなく、天涯孤独の身で海軍を志願した宮部が、世界最高と言われ、誰しもがその性能には陶酔していた零戦について、「自分は、この飛行機を作った人を恨みたい」「八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間を飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか」と語っていたことが印象に残っています。確かに、機械としては優秀でも、搭乗員は人間です。ラバウルを飛び立ち、3時間かけてガダルカナルへ向かい、敵地へ乗り込んだ圧倒的不利な状況の中で空戦を戦い、また3時間かけて戻ってくる作戦に、一週間に3度も、4度も出撃しなければならなかった飛行兵は、体力と、精神力の限界を超えていたのだなと思いました。ダイナマイトを発明したノーベルではありませんが、技術や装置を生み出すことと、人間社会の中で技術や装置が利用されることは違うようですし、「技術」や「装置」を、「権力」や「構造」に置き換えることもできるかもしれません。

 「永遠の0」は、真珠湾攻撃からはじまり、ミッドウェイ海戦、サンゴ海海戦、ガダルカナル攻防戦、フィリピン、レイテ、マリアナ沖海戦、サイパン、沖縄というように、戦争の転機になった戦いが順を追って登場するので、戦争を知らない世代でも読みやすかったです。

 また、官僚的構造でがんじがらめになり、官僚的構造の中で生きることだけに忠実な人間たちだけが権力を掌握していた日本軍に対し、「リメンバー・パールハーバー」で心を一つにしたアメリカ軍が、果敢に戦っていた様子も伝わってきました。ミッドウェイ海戦の時に、空母を飛び立ったアメリカ雷撃隊は、ゼロ戦の恐怖を承知のうえで、護衛戦闘機なしで飛び立ち、日本の迎撃機に全滅させられましたが、雷撃隊が零戦を低空に集めた結果として、急降下爆撃隊が上空からの日本空母部隊の爆撃に成功したことや、ドイツの工場を破壊する使命を帯びたB-17爆撃隊が、航続距離の問題で護衛機なしの丸腰の状態で、しかも正確に工場を破壊するため、昼間に爆撃を続け、毎回、40パーセント以上の未帰還機を出し続けていたことの語られていました。B-17搭乗員の戦死者数5千人は、神風の戦死者数4千人を超えているそうです。アメリカは、戦争に勝つというミッションのために、個人が命を駆けて戦い、軍も実力主義で、官僚的に優れているだけの軍人は要職には就くことがなかったようです。

 ただ、それでも、アメリカ軍のガッツある攻撃は「九死に一生を得る」ことがありました。しかし、特攻は「十死零生」で文字通り「必死」。「鹿屋の基地の防空壕内の施設で女子挺身隊として働いていた」などの記述もありましたが、当時は、生き延びるには過酷な時代だったのだなと思いました。

2013年11月18日月曜日

2013年11月13日水曜日

言語 作文下書きその2



 私と私の家族は常に日本語と共にあります。褒められるとき、怒られるとき、激しく言い合うとき、日常のあいさつも、疲れた時やお風呂に入るときの「よっこらはぁーー」という溜息も、理由などありません、日本語という言語を使っています。

 しかし世界にはたくさんの種類の言語が存在し、影響されあいながら文化を残し、現代に引き継がれてきました。たとえばバチカン市国の公用語であるラテン語は、現在それを日常使う民族は有りませんが、フランス語、イタリア語、スペイン語の原形と言われています。キリスト教の色濃い地中海周辺において、カトリック教会により聖書はラテン語(元はヘブライ語)に訳され、西ローマ帝国の公用語でした。分裂した東ローマ帝国はラテン語からギリシャ語に公用語を変更しビザンティン文化に発展、その後のヨーロッパにおけるルネサンスに影響をもたらしました。言語は意思を、伝え受け取る手段、生活、文化そのものであり、それらすべてを後世に継承する文明そのものであると私は考えています。

 十八世紀末、フランスのナポレオンによるエジプト遠征の時、その石碑は発掘されました。世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この岩盤には三つの碑文が、古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で同一の文章が三度繰り返し記述されていました。違う言語をしゃべる人でも分かるようにしたかったと考えられているそうです。プトレマイオス、クレオパトラ、王の名などが書いてあり、古代エジプトの歴史が一気に明らかになっていきます。クフ王、ツタンカーメンの財宝発掘へとつながる大きな一歩となったのでした。

 現在の自由民主主義と、その礎ともいうべきフランス革命、ナポレオン、溯って紀元前三千年のエジプト文明が、言語によって一気につながった出来事というには私の勝手壮大な「こじつけ」でしょうか。

 「ピラミッド5000年の嘘」という映画を見たことがあります。科学的な切り口でヒエログリフ、ピラミッド、エジプト文明までをも否定していきます。少し前の映画ですがおすすめです。



2013年11月12日火曜日

言語 下書きその1

 私と私の家族は常に日本語と共にあります。褒められるとき、怒られるとき、激しく言い合うとき、日常のあいさつも、疲れた時やお風呂に入るときの「よっこらはぁーー」という溜息も、理由などありません、日本語という言語を使っています。
 
 しかし世界にはたくさんの種類の言語が存在し、影響されあいながら文化を残し、現代に引き継がれてきました。たとえばバチカン市国の公用語であるラテン語は、現在それを日常使う民族は有りませんが、フランス語、イタリア語、スペイン語の原形と言われています。キリスト教の色濃い地中海周辺において、カトリック教会により聖書はラテン語(元はヘブライ語)に訳され、西ローマ帝国の公用語でした。分裂した東ローマ帝国はラテン語からギリシャ語に公用語を変更しビザンティン文化に発展、その後のヨーロッパにおけるルネサンスに影響をもたらしました。言語は意思を、伝え受け取る手段、生活、文化そのものであり、それらすべてを後世に継承する文明そのものであると私は考えています。

 18世紀末、フランスのナポレオンによるエジプト遠征のとき、その石碑は発掘されました。世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この岩盤には三つの碑文が、古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で同一の文章が三度繰り返し記述されていました。違う言語をしゃべる人でも分かるようにしたかったと考えられているそうです。プトレマイオス、クレオパトラ、王の名などが書いてあり、古代エジプトの歴史が一気に明らかになっていきます。クフ王、ツタンカーメンの財宝発掘へとつながる大きな一歩となったのでした。

 現在の自由民主主義の礎ともいうべきフランス革命、ナポレオン、溯ってBC3000年のエジプト文明が、言語によって一気につながった出来事というには私の勝手壮大な「こじつけ」でしょうか。

 少し前になりますが「ピラミッド5000年の嘘」という映画は私のこの話と、真逆な筋書きで、大変おもしろかったです。おすすめです。



2013年11月10日日曜日

Language ネタ帳

ごちそうさまでした。これは私たちの日本語であり日本以外の国にこれに相当する言葉はないらしい。「ラテン」という言葉に私が思い浮かべるのはブラジルやアルゼンチン、南アメリカの人々や音楽であるが、「ラテン語」といえばローマ帝国における公用語である。現在ラテン語を公用語としている国はない(バチカン市国は公用語)が、イタリア国、ルーマニア国、フランス国、スペイン国、ポルトガル語のルーツはラテン語であり、ドイツ語、オランダ語、英語の単語や文法に、多大な影響を与えたといわれている。

ちなみに、国連の公用語は、英語、ロシア語、中国語、フランス語、アラビア語、スペイン語の6つであるが、これは第二次世界大戦の戦勝国の言語に、国際的に重要なアラビア語とスペイン語を加えたものである。

ラテン人とは、古代ローマ帝国のローマ人のうち、属州出身者でない、ローマ市民権を持った人達です。
ただし、西ローマ帝国の崩壊により、ラテン人の概念が無くなってしまいます。
その結果、現在ラテン系人種として、ロマンス語系の言語を話す人達を、さすようになります。
ロマンス語系言語を話す人達として、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、ワロニー人(ベルギー南部)、イタリア人、ルーマニア人を指します。
その他ラテンアメリカ人を含む場合も有ります。


現在ラテン語を話す民族は有りません。(バチカン市国の公用語ではあります)








ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたた

キリストからさかのぼること3000年、







 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。






















もともとヘブライ語で書かれた聖書は西ローマ帝国、カトリック教会によりラテン語が採用され、後の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語にする。





初めに。英語とドイツ語の先祖はラテン語ではありません※。「ゲルマン祖語」と呼ばれる言語が先祖です。このゲルマン祖語とラテン語の先祖とが遠くさかのぼれば「インド・ヨーロッパ祖語」と呼ばれる共通の言語に行きつきます。

英語とドイツ語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「ゲルマン語派」と呼ばれるグループに属しており、その中でさらに細かく見てみますと「西ゲルマン語群」と呼ばれる小グループに属しています(「北ゲルマン語群」というのもあり、こちらはスウェーデン語など。「東ゲルマン語群」と呼ばれるのもあったが、全て死語)。


フランス語・イタリア語・スペイン語、この3つはラテン語が先祖です。正確に言いますと私たちが一般的に学ぶ「古典ラテン語」の口語である「俗ラテン語」と呼ばれる言語です。ラテン語の一種であるという点では同じですので、一般的に「ラテン語」と言ってしまって結構ですけどね。

さてラテン語は「インド・ヨーロッパ語族」の中の「イタリック語派」に属しており、さらに細かく見てみますと、「ラテン・ファリスク語群」に属しています。このラテン語の下位に「ロマンス諸語」と呼ばれるグループがあり、フランス語とイタリア語・スペイン語は「イタロ・西ロマンス語」と呼ばれるグループに属しています(東ロマンス語というグループもある。ルーマニア語など)。

イタロ・西ロマンス語はさらに「西ロマンス語」と「イタロ・ダルマチア語」に分けることができ、前者にはフランス語やイベリア半島のロマンス語(スペイン語やポルトガル語など)があり、後者にはイタリア語などがあります。

※「英語やドイツ語もラテン語を起源とする」というのはよくある間違いです。確かに両言語ともラテン語起源の単語をたくさん持っていますし、ラテン語に影響されたと思われる事柄もあります。文化的にもラテン語の影響はヨーロッパのほとんどの地域におよび、イギリスやドイツ語圏もその例外ではありません。

しかし例えば日本語には漢語がたくさんあり、日本語は漢語の影響を受け、漢字文化圏に属していますが、だからといって「日本語の起源は中国語だ」と言えるでしょうか。中国語と共通しているのはあくまでも漢語の範囲内においての話であって、文法や日本語本来の単語(大和言葉)にはほとんど何の共通点も見られませんので、それぞれは別の起源を有することがわかります。
英語・ドイツ語とラテン語の関係もこの日本語と中国語との関係と同じであり、系統的には英独両言語ともラテン語とは別グループの言語です。
もっとも英独両言語の先祖であるゲルマン祖語とラテン語の先祖とは共通の先祖までさかのぼれますので、この点において日本語と中国語との関係との大きな違いになりますけどね。





第5回 エジプト文明 
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「エジプトはナイルの賜物」
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  エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。前2700年頃には統一王朝が成立します。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているのでメソポタミアのようなめまぐるしい民族の侵入や王朝の興亡はあまりなく、独特の文化を築きます。
 エジプトが文明をもてたのは、なんといってもナイル川のおかげ。ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくる。だから何もしなくても地力が維持できるのです。あとは洪水が引いていく時に水の管理さえしっかりできればよい。

 前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です。「エジプトはナイルの賜物」。

 エジプトの空中写真を見るとナイル川の縁だけが緑になっているのがよく分かるでしょう。流域から少しはずれるとずっと砂漠が広がっています。
 エジプト文明をつくった人々はハム系という言語系統です。現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますがアラブ人と混じり合っていて、かれら自身もアラブ人だと自覚している。

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エジプトの文化
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エジプトの暦は太陽暦です。1年365日です。

 ナイル川はティグリス・ユーフラテスのように不定期な大洪水はおこりません。
 1000キロ以上上流のエチオピアの高原に降ったモンスーンの雨でナイル川は増水するので、毎年決まった時期に同じ様なペースで水かさが増していきます。エジプト人はいつナイル川が増水するか、それが最大の関心事。それにあわせて農耕の準備をするわけです。
 神官たちは、天体を観察しながら、ナイル増水の時を調べました。
 7月の半ば明け方の東の地平線ぎりぎりにシリウスがひときわ輝く時がある。ちょうどその時からナイルが増水することが解ってきた。翌年同じ場所にシリウスが輝くまでが365日。そして、またその時に増水がはじまるのです。

 こうしてできた暦が太陽暦です。だから、正確にいうと太陽暦じゃなくて洪水暦かシリウス暦なんだけどね。でも、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり、今では世界的に使われている暦です。

 1日を24時間にしたのもエジプトです。エジプトは10進法で、はじめは昼と夜をそれぞれ10に分けて20だったのが、昼と夜の境界の時間をそれぞれに付け加えて24になったそうです。

 洪水の水が引いたあと、農民たちはその上で農耕をはじめるのですが、土地の境界線が、増水のあとは泥に埋もれて全然わからなくなってしまうでしょ。そこで、エジプトでは測地術も発展します。

 文字は独特の絵文字を発達させます。鳥とか獅子とか秤とか、絵の形が字になってるね。これは一番格式の高い字で神聖文字といいます。これ以外に神官文字、民衆文字という字体がありました。

 この神聖文字の解読にまつわる話をしておきます。

 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。ただ、遠征するだけではなくて165人の学者を引き連れていくのです。強烈にエジプト世界に対してあこがれを持っていたんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をするかたわら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。そして、出てきたのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートルほどの碑文には国王をたたえる布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こういう記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かるように、同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりがあたえられたのです。

 ところがその後20年間解読できない。みんな、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。
 たとえば、鷹の形の字があれば、「飛ぶ」「速い」「勇猛」という意味じゃないか、とかね。

 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。かれは碑文の中の枠でくくってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んでいるのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。
 そして、かれは、これが王の名前をあらわしているのではないかと考えました。
 そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所に、プトレマイオス、とか、クレオパトラとか王の名があった。
 さらに観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPにあたる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 かれは、絵文字が表意文字でなく表音文字であることをはじめて発見したのです。これ以降はどんどん解読をすすめることができました。獅子はL、鷹はA、とかね。
 自分の名前神聖文字で書いてみましょう。おしゃれでしょ。

 この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかになったのです。

 ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。

  文字が書かれたのがパピルスです。パピルスという植物の茎をつぶしてシート状にします。英語のペーパーの語源です。ナイルの湿原に自生している植物ですが、今は観光用につくっているだけらしい。これ、エジプト土産にもらった実物です。まわします、破かずに見てください。

 精神世界の話。エジプト人は死後の世界に対して独特の関心を持っていました。かれらの死後の世界を描いたのが「死者の書」。
 冥界つまり、あの世を書いてある。
 死者の魂はあの世に行って神々の検査をうけるんです。
 ここに秤があるでしょ。秤の左側に乗っているのが真実の羽、右側に乗っているのが死者の心臓を入れた壺。心臓が真実の羽より軽いと不合格だと資料集には書いてありますが、実はどうなったら合格なのかわかっていません。残された絵はみんな真実の羽と心臓の壺が釣り合っているのです。まあ、とにかく、この秤の検査に合格すると、この世に再生できる。
 再生するには体がないと困るね。そこで死後、肉体を保存するのに情熱を持つ。これがミイラですね。
 ミイラをつくるときも松竹梅とランクがある。ミイラの作り方。まず、特別な石器のナイフでお腹を切って内臓を取り出す。この内臓は壺に詰めてとっておくんです。
 内臓を取ったあとのお腹には詰め物をします。松コースは柔らかい香草で詰める。梅コースは固い枯れ草とか詰めるので死体が乾燥して縮んでくると、お腹の皮を突き破って枯れ草がプシュプシュでてくる。こんな体で再生してもねえ。
 ミイラが腐らないように脳味噌も取り出す。長ーいスプーンを鼻の穴からズンと突っ込んで、掻き出すんです。掻き出した脳味噌は、そのまま地面にぶちまけて捨てちゃう。内臓とは大分扱いが違うね。心は心臓にあると思ったのですね。
 このエジプトの死生観は、のちのユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響をあたえたといわれています。

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古代エジプト史の流れ
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 さて、古代エジプト史の流れを見てみましょう。
 大きく三つの時代に分けられます。これをまず覚えてください。

 古王国(前2700~前2200年頃)
 中王国(前2100~前1700年頃)
 新王国(前1600~前1100年頃)

 簡単でしょ。
 それぞれのあいだの期間は中間期といって、エジプトが一つにまとまっていなかった時期です。

 古王国の都はメンフィス。エジプトの下流地域を下エジプトといいますが、ここに都が置かれた。
 古王国はピラミッドが造られた時代と覚えておきましょう。最大のクフ王のピラミッドをはじめ、すべてこの時代のものです。古王国で覚えるのはそれだけ。

 ピラミッドはみんな知ってると思いますが、案外なんなのかわかっていない。
 エジプトの王のことをファラオといいますが、そのファラオの墓だと一般には考えられているけれど、墓じゃないという学者もたくさんいる。
 墓室があるし、棺桶まである、なんで墓じゃないのか。
 実は今まであらゆるピラミッドから一つもミイラが発見されたことがないんです。
 墓泥棒は昔からいて、ピラミッドにも侵入しているんだけど、財宝は盗んでもミイラまで盗まないだろうから、墓だとするとやっぱり変なわけ。しかし、墓ではないのなら何故棺桶があるのかといわれると、これも説明できない。困りますね。
 一人のファラオが複数のピラミッドを建設した例もあるというから、われわれが考える墓ではなかったんだと思います。

 じゃあ、何かというと廟、神殿みたいなものらしい。日光の東照宮は家康を祀っているけど、墓ではない。そんなモノなんでしょう。

 クフ王のピラミッドの内部にはまだまだ発見されていない秘密の部屋があるらしい。世界に誇る文化遺産だからエジプト政府はピラミッドを傷つけるような調査は許さない。だから、早稲田大の吉村先生は音波の測定器使って調査してましたね。やっぱりなにかあるらしい。この辺は最後の歴史ロマンだからもやもやしている方が楽しいね。

 ピラミッドは多くの奴隷がむち打たれながら造ったと私の子どもの頃は書いてありましたが、これも違うらしい。ピラミッドを造った働き手は普通のエジプトの農民たちです。しかも、いやいや造らされたのでもないのです。
 1年の半分はナイルの増水で農地は水没していて農民は暇でしかたない。その時期にファラオが農民を集めて働かせた。重労働だったには違いありませんが、ちゃんと働けば小麦とビールが配られた。今でいう失業対策みたいなものだね。

 次の中王国はナイルの上流、上エジプトのテーベが都。それだけでおしまい。

 中王国はエジプト初の外来民族の侵入によって衰退しました。
 侵入したのが混成民族集団ヒクソス。これがアジア方面から侵入した。
 ヒクソスの侵入で馬と戦車がはじめてエジプトにもたらされました。それまでのエジプトには馬がいなかったわけだから、どれだけ孤立した世界だったかわかりますね。
 この時代はまだ馬に乗って戦えません。馬に乗って戦うためには、鞍とあぶみが必要ですがまだ発明されていないのです。
 馬は戦車を牽かせるために使います。戦車といってもただの馬車みたいなものです。御者が一人、そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を射ったのだと思います。エジプト兵はみな歩兵ですから、圧倒的に機動力で優れていたのです。

 その馬と戦車にエジプトは征服されますが、やがてエジプトはこの新戦法を自分のものにしてヒクソスを追い出した。できたのが新王国。

 新王国の都はテーベ。この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げました。シナイ半島をこえて、地中海西岸に進出します。シリア・パレスチナ方面です。
 新王国の成立の少し前に、ハンムラビ国王で有名な例の古バビロニア王国が滅びていて、この時期、メソポタミア地方中南部はカッシート王国、北部にミタンニ王国、小アジア地方にはヒッタイト王国という強国があった。新王国エジプトはこれらの国々と抗争をくりかえします。
 そしてトトメス3世(前1504ころ~前1450年ころ)の時にエジプトの領土は史上最大になる。このファラオは覚えておくこと。

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イクナートン
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 もう一人覚えておかないといけないファラオがアメンホテプ4世、別名イクナートン(前1379年ころ~前1362年ころ)です。エジプトは多神教の世界で、いろいろな地域にそれぞれの神様がいて、時代とともに流行の神様も変化するのですが、この新王国でもっとも信仰されていたのがアメン神です。そしてアメン神に仕える神官たちの勢力が非常に大きくなっていた。王権を左右するほどにね。
 アメンホテプのアメンはその神の名からきている。
 ところがアメンホテプ4世は神官たちが神の名をかりて政治に介入するのを嫌いました。しかし、かれらのバックには神がついているので、あからさまに対立することも難しかった。
イクナートン像
イクナートン像

そこで考えついたのが、新しい神をつくってそれを信仰することでした。
 アメン神を信仰しなければアメン神官団を無視してもいいわけだ。
 かれが新しく信仰した神がアトン神です。そして、イクナートンと改名。イクナ ートンとは「アトン神の役に立つ」という意味です。
 さらに、アメン神官団の勢力の強い首都テーベを捨てて、新しい都を建設します。これが、アマルナという都市です。
 だから、イクナートンは古代エジプトの宗教改革者と呼ばれる。
 かれの時代は、芸術もワンパターンから抜け出して非常に写実的な彫刻などがつくられます。イクナートンの像も残っていますが異様にリアルですね。この時代の芸術をアマルナ芸術といいます。


 しかし、ファラオとアメン神官団との対立は激しかったようでイクナートンが亡くなると、次のファラオによってアトン信仰は捨てられアメン信仰が復活しました。
 次のファラオというのがツタンカーメンです。

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ツタンカーメン
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 ツタンカーメンの正式名は、トゥット・アンク・アメン。アメン神の名が入っているでしょ。
 このファラオは墓に残された財宝で有名です。この黄金のマスクは見たことあると思います。

 この時期の王族の墓は王家の谷というところに集中しているのですが、ほとんどすべて長い歳月のあいだに盗掘されている。19世紀からヨーロッパ人による発掘が始まりますが完全な形の王墓が見つかったことはなかった。
 ところがツタンカーメンの墓だけは盗掘されていなかったのです。
 盗掘されなかった理由の一つはツタンカーメンがその名も知られていないほど無名の王だったこと。8歳から18歳くらいまで在位しただけの少年王で、格別な業績もなかった。だからその墓もすごく小さい。泥棒が見逃すほど小さいのです。
 もう一つは、ツタンカーメンのあとの時代にラムセス6世という偉大なファラオがいて、その大規模な墓がツタンカーメンの墓のすぐ横につくられるのですが、その工事の人夫小屋がツタンカーメンの墓の上に造られたのです。そのため、ツタンカーメンの墓は隠れてしまった。やがて、年月とともに存在も忘れられてしまった。

 発掘したのはカーターというイギリス人です。イギリス貴族のカーナボン卿という人が出資者になって王家の谷の発掘をした。発掘するためにはエジプト政府の許可がいるんだけれど、それまで発掘権を持っていたアメリカの学者がもう王家の谷には何もないと判断して、発掘権を返上したために許可がもらえたのです。

 カーター自身はツタンカーメンの墓があるはずだと確信して発掘を開始するんですが5年間全く成果なし。パトロンのカーナボン卿は大金持ちなんですが、さすがに資金がつづかなくなって発掘打ち切りを決意した最後の年、1922年ついに王墓へ通じる階段を発見しました。

 カーターが墓室をふさぐ扉を開けるのですがその時の情景は有名。
 カーターは早く墓の扉を開けたくて仕方がないんだけど、出資者の到着を待ちます。カーナボン卿の到着を待って扉の前まで進みます。有毒ガスが充満しているといけないので、まず扉の隅に小さな穴をあけてカーターはロウソクをかざして中をのぞき込みます。
 ところが、カーターは無言のまま。うしろにいたカーナボン卿がたまりかねて聞く。
「何か見えるかね?」
 やっとの事でカーターは答えます。
「はい、すばらしいものが…」
 ロウソクの明かりで光り輝く黄金の遺物が部屋いっぱいに詰まっていたのです。

 一番有名な黄金のマスクは、ツタンカーメンのミイラの上にかぶせてあったものです。ミイラは四重の厨子、石棺、三重の人形棺の中に入れられていた。一番内側の人形棺は黄金製。そのほかにもアマルナ芸術の影響もあるのか、芸術性の高い遺宝が2000点も発見された。
 これでも王墓の中では異例に小さいものだというから、普通の王墓にはどれだけの財宝があったか想像もできない。

 さて、ツタンカーメン自身のことですが、かれはイクナートンの息子(* 以前は腹違いの弟と書いていました)らしい。ミイラをレントゲンにかけたりして調べるんですよ。
 イクナートンが32歳で病死したあと王位につくのですが、エジプトの王位は、王の血統を継ぐ娘を妻にすることによって正統なものとされます。ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。アンケセナーメンはツタンカーメンより何歳か年上ですが、一緒に育てられた幼なじみで仲良しだったらしい。たぶん愛情があったんじゃないかな。遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが仲睦まじく描かれている玉座も残されています。

 この若妻アンケセナーメンですが実は2回目の結婚だった。一人目の夫は誰だったかというと実の父イクナートンです。ややこしい話でしょ。イクナートンはアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化するために、王の娘、自分の娘なんだけどね、を妻に加えたのでしょう。
 父であり夫であるイクナートンが死んで、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻になったんだ。

 ツタンカーメンは即位の時わずか8歳の少年ですから実際の政治はたぶんしていない。そこで、アメン神官団が力を盛り返して、イクナートンの宗教改革をすべてつぶして元に戻してしまいました。
 政治を取り仕切っていたのが三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。

 ここからはどんどん想像の世界に入っていくのですが、ツタンカーメンの死因です。かれのミイラをレントゲンにかけたところ頭蓋後方に穴が発見されました。
 調査した医者は「棍棒または剣のつかで頭部を打たれたことがもとでできたらしい」といっている。他殺の可能性があるということだね。宮廷の奥深くで権力闘争おこなわれていたとしたら、さあ、犯人は誰か。
 ツタンカーメンのミイラは太ももが異常に細い。3ミリしか大腿部の肉がない。ひょっとしたら歩行困難な障害があったのかもしれない。自由に歩けないツタンカーメンのうしろに近づいて頭を剣のつかでゴンと打った者がいるとしたら。

 少ない状況証拠の中で犯人を特定するとしたら、ツタンカーメンの死によって最も得をした者。それは大臣アイでしょう。
 ツタンカーメンの死後ファラオとなったのはかれだったのです。アンケセナーメンの3人目の夫として。

 ツタンカーメンの棺の部屋の隣の部屋からは6ヶ月と7ヶ月位の胎児のミイラ2体が見つかっています。かれの子どもだとしたら、母親は…アンケセナーメンでしょう。早産だったのか、中絶だったのか。ひょっとして次の王位をねらう実力者に中絶を強制されたのか。想像はふくらみます。
 夫ツタンカーメンを殺し、自分の子どもを中絶させた男と結婚をしなければならないとは。アイが犯人でないにしても何十歳も年上の老人の妻にならなければいけなかったアンケセナーメンはどんな気持ちだったでしょうね。

 実はカーターがツタンカーメンの石棺の蓋を開けたとき、金箔張りの人形棺の額の上に小さな花輪が置いてありました。すっかりドライフラワーになってるんだけどね。カーターは、ツタンカーメンの遺物のなかで、黄金や宝石でできた多くの副葬品よりもこの花輪が一番胸を打ったと言っています。
 愛する夫を失ったアンケセナーメンが最後の蓋を閉める前にそっと置いたのかも知れませんね。
(*付記 2005年におこなわれたツタンカーメンのミイラのCTスキャン調査では、死の直前に足にひどい骨折をしていることがわかりましたが、頭部には異常は発見されませんでした。結局、死因については不明です。上記のロマンチックな物語は今や妄想になってしまいました。)
 さて、その後も新王国は対外活動に積極的でシリア方面で外交活動を続けています。
 覚えておいて欲しいのが前1285年、カデシュの戦い。新王国とヒッタイトとの戦です。これがなぜ大事かというと、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国です。エジプトは青銅器です。だから、鉄器対青銅器の大合戦、というわけです。結果はヒッタイトの勝利に終わったらしい。
 この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトのあった小アジアでも出土しているという点でも有名です。

 これ以後、エジプトは「海の民」というよくわからん人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、前671年にはアッシリアという国に占領されます。

 その後、一時復活する時期もあるのですが、とりあえずここまでで一段落です。
 有名なクレオパトラが登場するのはもっとあとの話。

2013年7月16日火曜日

職業について、国語作文、下書き


私たちは日本に住んでいるため、義務教育がちゃんと守られていて当たり前のように学校に行けます。
私の義務教育もあと1年です。もうすぐ終わってしまいます。
この1段落を書いているときに頭の中を廻っていたものは、
「そういえば義務教育が終わった後ってどうすればいいんだ? やりたい職業など考えていないから、
どうしたらいいのか分らない・・・」という懸念でした。
実はこの一節にかいたとおり、私は、自分の職業について、あまり考えたことはありません。
考えたことがないのです。社会に出るということは、自分の仕事を決めるということです。私は今まで
に自分の未来を真剣に考えたことがありません。
しかし、義務教育で社会に出るための土台を築いたのですからあとは自分の希望に沿って自由に進路を
選べばよいのです。そこで今回はある3つの職業について、どういう進路をたどっていけばいい
のか、調べてみることにしました。勉強することがこんなふうに将来とつながっていくだなんて、
思ってもみませんでした。私の未来の職業にはまだまだいろいろな可能性があります。
職業は、
「自分はこれが得意だからこれに関係した職業はないかな。」
というふうに探すのではなく、自分の未来は限りない可能性を秘めているのだからと思って興味の
ある仕事に向かって、それに必要なものを勉強していくことが大切ではないかと思います。



「進路図」おもしろデータファイルより

2013年5月8日水曜日

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい


『まおゆう』を読めば、著者・橙乃ままれさんの広範な知識に驚かされる。中世~近代のヨーロッパ経済史、技術史、文化史、思想史、軍略……これらすべてに精通していなければ、この作品は書けなかった。一朝一夕で身につくものではない。知識は、息するように吸収し、血液のように絶えず自分の中を循環させておかなければいけない。

いわゆる「ビジネスパーソン」と呼ばれる人々は、知識を軽視しがちだ。問題を効率的に解決する方法や、アイディアの出し方……マニュアル化された「頭の使い方」をマスターすることに夢中で、知識の蓄積を後回しにしがちなようである。頭の使い方さえ身につけていれば、知識は必要になったときにキャッチアップすればいい、キャッチアップできると信じて疑わない。ビジネスの世界で求められる知識とは、つまり、その程度の浅いもので充分なのかもしれない。

ところが、文章を書くとなれば話は別だ。

人は頭で理解しただけでは行動を変えない。人が行動を変えるのは、心が動いたときだけだ。読んだ人を行動させることができなくて、なにが文章屋だ。誰かの人生を変えることができない文章に価値はない。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんのひきだしから多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。

すぐには役立たない知識を、毎日1ページずつ蓄積していったとする。1年で単行本一冊分になり、10年で辞書一冊分になる。三島由紀夫の愛読書は国語辞典だったというが、彼は非凡な天才だ。さて、凡人たる私たちは辞書を頭から読んでいって、内容を丸暗記できるだろうか?

知識を身につけるとは、本来、そういうことだ。数十年後に百科事典一式に匹敵する情報を身につけるために、毎日少しずつ知識を蓄積していかなければいけないのだ。そうやって体に刻み込んだ知識は、一週間やそこらでキャッチアップできるような種類のものではなくなる。



自分のなかにある情報だけで文章を書こうとすれば、経験に基づいた私小説的なものしか書けない。そして、経験はすぐに枯渇する。インプットがない状態では、恒常的に文章を書き続けるのは不可能だ。ゼロを1にするスタイルでは、すぐに終わりがくる。本当に必要なのは、100を1にまとめる能力だ。



たとえば藤子・F・不二雄は、次のような言葉を残しているという:


よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。

人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。

それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか? 近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・どの家の冷蔵庫も然して変わりません。

多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。

しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。

人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。全てはそこから始まる。

その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。ここから可能性は無限に広がるのです。

私はそういう人が描いた漫画を支持したい。卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。


(※ソース不明)



人の感情に触れることができなくて、なんのための文章だろう。すべての単語、すべての文に論理性と情緒性の二面がある。論理面だけで文章を評価するのは、燃費だけで自動車を評価するようなもの。ドライブの楽しさをわかってない無粋な評価法だ。

言葉の持つ情緒面に注目し、細心の注意を払って配列を決めていく。この言葉を、この順番で読めば、読者はきっとこんな感情を抱くはずだ……と、予想しながらキーボードを叩く。文章を書くのは、読者の脳をプログラミングする作業だ。他人の書いたコードを研究しないプログラマはいない。他人の書いた文章を学ばずして、文章を書くのは不可能だ。



文章屋が仕事をしてるのは、キーボードを叩いてる時だけではない。

まず情報を集める段階がある。つぎに、集めた情報を組み合わせたり取捨選択したり……知識と格闘する段階がある。それから、情報をどのような順序で見せるか、文章の配列を決める段階があって、さらに文章の枝葉まである程度固めて……そこでようやく、キーボードに向かうことができる。文章屋がペンを握ったときには、もう作業の8割がたは終わっている。実際にキーボードを叩くのは、「文章を書く」という工程全体の5%ほどだ。

では、残りの15%は?:推敲と校正だ。

文章屋の仕事は、たぶん、そうでない人からすれば魔法のように見えるのだろう。キーボードをよどみなく叩いて、真っ白なページのうえに言葉を紡いでいく。「ゼロを1にする作業」だと思われて当然だ。しかし実際には、文章を書くのは「100を1にする作業」なのだ。




     ◆




だからと言って、キーボードを叩いてないときの文章屋が「なにもしてないように見えるけどインプットしてるの!がんばってるの!」と訴えるのは、ちょっと違うような気がする。寿司屋は寿司を握ってる瞬間しか仕事してないように見えるけど、「仕入れや鮮度管理もがんばってるの!」とは訴えない。

寿司屋は、寿司の味でしか評価されない。

文章屋は、書きあげた文章でしか評価されない。

そういうもんだよ。

2011年3月23日水曜日

東北大地震で卒業式を中止した学校の感動のメッセージ

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)

2011.03.17
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司

2010年7月30日金曜日

司馬遼太郎2

◆『洪庵のたいまつ』

 世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
 ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
 緒方洪庵のことである。
 この人は、江戸末期に生まれた。
 医者であった。
 かれは、名を求めず、利を求めなかった。
 あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
 といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
 病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
 かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。
 そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
 変人でこそなかったが、蘭方などをやっているということで、近所の人たちから、
「変わったお人やな。」
 と思われていたかも知れない。ついでながら、洪庵は大坂(今の大阪市)に住んでいた。
 なにしろ洪庵は、日常、人々にとって見慣れない横文字(オランダ語)の本を読んでいるのである。
 いっぱんの人から見れば、常人のようには思われなかったかもしれない。


 洪庵は、備中(今の岡山県)の人である。
 現在の岡山市の西北方に足守という町があるが、江戸時代、ここに足守藩という小さな藩があって、緒方家は代々そこの藩士だった。
 父が、藩の仕事で大坂に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
 少年のころ、一人前のさむらいになるために、漢学の塾やけん術の同情に通ったのだが、生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだ。
 少年の洪庵にとって、病弱である自分が歯がゆかった。この体、なんとかならないものだろうかと思った。


 人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
 少年時代の洪庵も、そうだった。かれは、人間について考えた。
 人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするということは、いったい何に原因するのか。
 さらには、人体というのはどういう仕組みになっているのだろう、というようなことを考え込んだ。
 この少年は、ものごとを理づめで考えるたちだった。
 今の言葉でいえば、科学的に考えることが好きだったといっていい。
 少年は、蘭学特に蘭方医学を学びたいと思った。 
 幸い、この当時、中天遊(1783~1835)という学者が、大坂で蘭方医学の塾を開いていて、
 あわせて初歩的な物理学や化学につても教えていた。
 少年はここに入門した。主として医学を学んだのである。
 中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。二十二才のときであった。
 江戸では、働きながら学んだ。あんまをしてわずかな金をもらったり、他家のげんかん番をしたりした。
 そのころ、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1848)という人だった。
 ついでながら、江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつうその自たくを塾にして、自分の学問を年わかい人々に伝えるのである。
 それが、社会に対する恩返しとされていた。
 洪庵は、坪井信道の塾で四年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。
 そのあと、長崎へ行った。
 長崎。
 この町についてあらかじめ知っておかねばならないことは、江戸時代が鎖国だったことである。
 幕府は、長崎港一カ所を外国に対して開いていた。
 その外国も限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。
 そういうわけで、長崎にはオランダ人がごく少数ながら住んでいたのである。

 もう少し鎖国について話したい。
 鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
 長崎は、箱の中の日本としては、はりでついたように小さなあなだったといえる。
 その小あなからかすかに世界の光が差しこんできていたのである。
 当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。
 人々にとって、志さえあれば、暗いはこの中でも世界を知ることができる。
 例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学のいくぶんかでも自分のものにすることができたのである。
 洪庵もそういう青年の一人だった。洪庵は長崎の町で二年学んだ。


 二十九才の時、洪庵は大坂にもどった。
 ここでしんりょうをする一方、塾を開いた。
 ほぼ同時に結こんもした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。
 考え深くもあった。八重は終生、かれを助け、塾の書生たちからも母親のようにしたわれた。

 洪庵は自分の塾の名を適塾と名付けた。
 日本のきんだいが大きなげき場とすれば、明治はそのはなやかなまく開けだった。
 その前の江戸末期は、はいゆうたちのけいこの期間だったといえる。適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。

 すばらしい学校だった。 入学試験などはない。
 どのわか者も、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。
 江戸時代は身分差別の社会だった。しかしこの学校は、いっさい平等だった。
 さむらいの子もいれば町医者の子もおり、また農民の子もいた。
 ここでは、「学問をする」というただ一つの目的と心で結ばれていた。
 適塾においては、最初の数年は、オランダ語を学ぶことについやされる。
 先生は、洪庵しかいない。
 その洪庵先生も、病人たちをしんりょうしながら教える。
 体が二つあっても足りないほどいそがしかったが、それでも塾の教育はうまくいった。
 塾生のうちで、よくできる者ができない者を教えたからである。
 八つの級に分かれていて、適塾に入って早々の者は八級とよばれる。
 一級の人は、最も古いし、オランダ語もよくできる。各級に、学級委員のように「会頭」という者がいる。
 塾生全部の代表として、塾頭という者がいた。
 ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、
 また別の時期の塾頭として、後に慶應義塾大学のそう立者になる福沢諭吉もいた。

 適塾の建物は、今でも残っている。場所は、大阪市中央区北浜三丁目である。
 当時、そのあたりは商家がのきをならべていて、適塾の建物はその間にはさまれていた。
 造りも商家風で、今日の学校という感じのものではない。門もなければ運動場もなく、あるのは二階建てのただの民家だった。
 その二階が塾生のね起き場所であった。そして教室でもあった。
 塾生たちは、そこでひしめくようにしてくらしていた。夏は暑かったらしい。
 先に述べた福沢諭吉は、明治以後、当時を思い出して、
 「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。
 目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。
 という意味のことを述べている。

 洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。
 その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
 医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。
 そういう洪庵に対し、幕府は、
 「江戸へ来て、将軍様の侍医(奥医師)になれ。」 ということを言ってきた。
 目もくらむほどにめいよなことだった。奥医師というのは、日本最高の医師というだけでなく、その身分は小さな大名よりも高かったのである。
 つまり、洪庵の自分へのいましめに反することだった。 洪庵は断り続けた。
 しかし幕府は聞かず、ついに、いやいやながらそれにしたがった。

 洪庵は五十三才のときに江戸へ行き、そのよく年、あっけなくなくなってしまった。
 もともと病弱であったから、わかいころから体をいたわり続け、心もできるだけのどかにするよう心がけてきた。
 ところが、江戸でのはなやかな生活は、洪庵の性に合わず、心ののどかさも失われてしまった。
 それに新しい生活が、かれに無理を強いた。
 それらが、かれの健康をむしばみ、江戸へ行ったよく年、火が消えるようにしてなくなったのである。

 振り返ってみると、洪庵の一生で、最も楽しかったのは、かれが塾生たちを教育していた時代だったろう。
 洪庵は、自分の恩師たちから引き継いだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。
 かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。
 弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。
 やがてはその火の群が、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。
 後生のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。

司馬遼太郎1

◆『21世紀に生きる君たちへ』

 

 私は歴史小説を書いてきた。
 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
 歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
 と、答えることにしている。
 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
 この楽しさは、・・・・もし君たちさえそう望むなら・・・・おすそ分けしてあげたいほどである。


 ただ、さびしく思うことがある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
 君たちは、ちがう。
 21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。


 もし「未来」という町角で、私が君たちをよびとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
 もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
 ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。


 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
 そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。


 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
 人間は・・・・繰り返すようだが・・・・自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
 このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。 ・・・・
 人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思い上がった考えが頭をもたげた。
 20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。


 同時に、人間は決しておろかではない。
 思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
 ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。


 「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
 と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
 このかんがえは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
 そういう素直さを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
 そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
 そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。


 さて、君たち自身のことである。
 君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。 ・・・・
 自分に厳しく、相手にはやさしく。 という自己を。
 そして、すなおでかしこい自己を。
 21世紀においては、特にそのことが重要である。
 21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
 科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。
 川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。


 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。
 人間は、助け合って生きているのである。
 私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。 
 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
 それがしだいに大きな社会になり。今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。
 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
 このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
 他人の痛みを感じることと言ってもいい。
 やさしさと言いかえてもいい。
 「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」


 みな似たようなことばである。
 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
 根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
 その訓練とは、簡単なことである。
 例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。


 鎌倉時代の武士たちは、
 「たのもしさ」
 ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。
 人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。


 もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。
 それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。
 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。


 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない
 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
 私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。