2010年9月23日木曜日

054 河井継之助


【幕末から学ぶ現在(いま)】(54)東大教授・山内昌之 河井継之助 (1/3ページ)

2010.3.18 07:37
このニュースのトピックス歴史・考古学
類まれな戦略家だった河井継之助(新潟県長岡市立中央図書館蔵)類まれな戦略家だった河井継之助(新潟県長岡市立中央図書館蔵)

政治家の器、組織の器

 鳩山邦夫氏が自民党からの離党を表明した。新党結成の話題がかまびすしいが、いつも話題の中心にいるのは、舛添要一氏である。その行動力に加え、周辺に放つ独特な発信力は確かに自民党内でも目立っている。
 しかし、政治の難しいところは、いかに個人として精彩を放ったとしても、同志や部下がいないと政治意志を実現できない点にある。政治は集団の営みであることが多いからだ。この意味で舛添氏にとって自民党という枠は、驥足(きそく)を展(の)ばす上でしがらみになっているのかもしれない。
 ≪藩と河井の双方に不幸≫
 しかし、小さな組織なら才能を発揮できるわけでもない。幕末でいえば、表高7万4千石の長岡藩の政治を河井継之助が仕切ったことは、藩と河井の双方にとって不幸な面もあった。河井は小藩を仕切るには気宇広大にすぎ、傑物を受け入れるには藩の器が小さすぎたからである。
 内戦の勃発(ぼっぱつ)を見切っていた河井は、藩士の俸禄(ほうろく)や藩の出費を整理して新鋭銃2千挺はじめ近代兵器の購入をはかり、奥羽越随一の近代軍事力を完備した。
 たとえば、手回し式の機関銃ガトリング砲2挺はいざ戦の火蓋(ひぶた)が切られるとすぐに威力を発揮した。7年前の南北戦争(1861~65年)に登場したばかりの最新兵器を自ら横浜へ買い付けにいき、3挺しかない現物のうち2挺を購入する手際の良さであった。軍と政の事実上の最高指導者の河井みずから、前線でハンドルを握って撃ちまくるわけだから凄(すご)い。しかし、防御板がなかった欠陥のせいで敵に狙撃されて死にいたる。
 ≪小藩の水準越えた発想≫
 政治外交でも河井の発想は、小藩重役の水準を越えていた。彼は、藩論を武装中立に統一して新政府軍との談判を図り、旧幕府軍と新政府軍との調停によって紛争の平和解決をめざそうとした。あわよくば両者の間で漁夫の利を得ようとするか、戦後処理で長岡藩を実力以上に高く売りつけようとしたか、このいずれかであろう。
 しかし、壮大な意図を隠して無血の解決を策した相手が若輩の土佐藩士、岩村高俊だったのは河井にとって不幸であった。せめて長州の山県有朋か、薩摩の黒田清隆であれば、河井とうまく折り合いをつけた可能性もあり、そもそも厄介な衝突を起こす危険のある河井を黙って帰す愚は犯さなかったであろう。実際、山県はじきに始まる北越戦争で盟友の時山直八(なおはち)を失う打撃を受ける。
 戦略家、河井の冴(さ)えは、新政府軍の占拠した長岡城を裏手の沼地・八丁沖から深夜に奇襲した作戦にも発揮された。源義経の鵯越(ひよどりごえ)のように常識的にはあり得ない戦術を敢行したわけである。大参謀だった若き日の西園寺公望は寝巻きのまま逃げ出したらしい。
 ≪指揮官の重傷で士気低下≫
 長岡城奪還作戦は日本戦史に残る快挙ではあったが、指揮官の河井がやがて重傷を負い、長岡藩兵の指揮能力や士気は低下してしまった。この小さな藩は河井がいなければ政治外交も軍事も思うにまかせない組織になっていたのだ。
 スケールの大きな外交戦略が破綻(はたん)しても、もし長岡藩に西洋の最新鋭兵器で武装された兵力がなかったなら、他の中小藩と同じくひたすら恭順の低姿勢に徹して新政府の鋭鋒(えいほう)が過ぎるのを待てたかもしれない。器に不釣合いのリーダーをもったことが、長岡の士民を不幸にしたと言えなくもない。
 さて、舛添氏にとって依然として大政党の自民党は格好の器であり、新党は小さすぎるのだろうか。あるいは、舛添氏の器にとり、自民党は大きすぎて手にあまり、小ぶりの新党で間に合うくらいなのだろうか。政党と政治家の器の比較較量(こうりょう)で見逃せない政治決断の時期が近づいている。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】河井継之助
 かわい・つぐのすけ 文政10(1827)年、越後(新潟県)長岡生まれ。名は秋義。江戸で儒学者の斎藤拙堂や山田方谷(ほうこく)、佐久間象山らに学ぶ。長岡藩に戻り、家老などを務め藩政改革を断行。藩財政再建に取り組んだほか、洋式の銃砲を購入してフランス式の練兵を行った。王政復古で誕生した新政府に対し、徳川への大政再委任を建言、戊辰戦争では中立の立場をとろうとしたが、認められず、奥羽越列藩同盟に加わる。長岡城に籠城(ろうじょう)して政府軍を苦しめたが、負傷し、慶応4(1868)年、落城後に死亡した。享年42。

055 中山中左衛門


【幕末から学ぶ現在(いま)】(55)東大教授・山内昌之 中山中左衛門 (1/3ページ)

2010.3.25 07:30
幕末の寺田屋幕末の寺田屋
 ■主君の意を忖度する
 民主党の生方(うぶかた)幸夫副幹事長の更迭問題が話題になっている。小沢一郎幹事長の辞任要求の責任をとらされそうになったのは、幹事長周辺が小沢氏の心情を「忖度(そんたく)」したからだという説も根強い。立場が違えば、善意の配慮とも評価されるし、反対にゆきすぎた追従(ついしょう)と批判することも簡単だ。
 歴史には古来、「君側(くんそく)の奸(かん)」とか「佞臣(ねいしん)」とか「姦佞(かんねい)」といった人びとが出没する。対立する当人同士はさほどでなくても、別の人物が悪意をもてば、2人の関係はますますこじれるだけでなく、決別にまで至ることも珍しくない。
 ◆久光と西郷関係悪化誘因
 幕末でいえば、島津久光西郷隆盛との関係に複雑なねじれをもちこんだ中山中左衛門こと尚之介の例が思いだされる。中山は、小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵(利通)や堀次郎と並んで「久光四天王」ともいうべき側近中の側近である。島津斉彬(なりあきら)の死後、藩主となった茂久(忠義)の実父として国権を掌握した久光は、下級藩士中心の勤王派の志士集団たる誠忠組から忠誠を取り付けた。
 これにも中山は功労があり、小納戸頭取に就いた中山は、側役の小松と並んで藩政に参与できる身分となった。中山は、小納戸に抜擢(ばってき)された大久保の願いをいれて奄美大島から西郷を呼び戻すことを久光に説いた。
 しかし、人間にはウマの合う関係とそうでない関係がある。釈放された西郷は、文久2(1862)年2月に中山と会うなり、久光の率兵入京策に異論を唱えた。策を説明した中山に、大綱が杜撰(ずさん)かつ疎漏(そろう)にすぎるとにべもなく斥(しりぞ)けたのだ。
 久光は、朝廷から勅を受け、薩摩藩の兵力を背景にし、幕府に改革を迫るという斉彬の計画を継承しようとしたのだ。西郷によれは、この壮大な計画は英邁(えいまい)な斉彬だからこそ成就できるのであり、久光には到底無理だと断定したのである。
 この時に西郷から発せられた有名な言葉こそ、「地五郎」という表現なのである。殿は田舎者だから雄大な戦略は実行できないというのだ。これは事前に中山らと西郷が会ったときに述べたという説もある。いずれにしても、自分の周旋で流刑地から帰れたのに感謝もせず、恩人を「地五郎」と断じたのでは、中山の面目も丸つぶれだったに違いない。心中に憎悪さえ宿ったはずだ。
 中山は爾来(じらい)ことあるごとに、久光に西郷の挙動をそしるようになったらしい。この時期の中山は小松さえ凌(しの)ぐ藩の実力者に成長していたので、傲慢(ごうまん)さが外に滲(にじ)み出る有様に反感を抱く者も少なくなかった。西郷もある手紙で、「中山と申すもの我意強く、只無暗(むやみ)のものに御座候」と述べているから、本当に嫌い抜いたのだろう。
 西郷は、久光の上洛に先行して下関で待つように沙汰(さた)を受けたのに、命を無視して上方に先発した。これが久光の逆鱗に触れ、中山の意見を徴した結果、再び遠島処分とされた。
 これを機に久光と西郷の関係は決定的に悪化するが、その誘因となったのは主君の西郷嫌いを知りぬいた中山の謗(そし)りである。薩摩藩士が斬り合う寺田屋事件は西郷失脚直後に起きた。志士たちは中山を「姦物(かんぶつ)」呼ばわりしたが、これは久光を直接に非難できないからである。
 ◆維新後の晩年は悲惨
 それでも中山は久光に忠義一途(いちず)であり、琉球通宝の鋳造など経済政策にも貢献し、薩英戦争の戦略指導にあたった。しかし、西郷の遠島処分は中山が久光に讒言(ざんげん)したからだという声が高まり、免職にされた。維新後に久光の側近に返り咲いた中山の晩年は悲惨である。彼は、明治9(1876)年に大久保利通らの暗殺を企てた激徒に連座し、懲役10年の刑を科された。その2年後に獄中で国事犯として死ぬとは思いもよらなかっただろう。小松を凌(しの)ぐ実権を誇り大久保の盟友だった重臣がここまで没落するとは言葉を失う。
 小松のさわやかさ、大久保の冷静緻密(ちみつ)さ、いずれも欠いた中山を讒言や姦佞の資質だけで語るのは酷であろう。中山には、維新後、不遇で寂しい久光への忠誠心では際立っていたからだ。現代でも権勢を極めている政治家に近づく者は多い。
 しかし、その人が栄職から離れても同志や側近として寄り添うなら、それは姦佞やおべっかということにはならない。まさに棺を蓋(おお)いて事定まるというのは、現代の政治家にもあてはまるのかもしれない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】中山中左衛門
 なかやま・ちゅうざえもん 天保4(1833)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。島津久光の信任を得て、薩摩藩有志派のリーダーシップを握った。久光が国事周旋の決意をして以後、大久保利通とともに手足となる。首席家老、喜入(きいれ)摂津のもと、小松帯刀とともに島津家近衛家の間を奔走した。文久2年、久光の上京に随行し、諸卿の間を周旋。その後、側役を務めたが、久光勢力の退潮とともにその存在も薄れた。明治11(1878)年、46歳で死去。

056 阿部正弘


【幕末から学ぶ現在(いま)】(56)東大教授・山内昌之 阿部正弘 (1/3ページ)

2010.4.1 07:34
  ■瓢箪鯰と宇宙人
 鳩山由紀夫首相の日本語表現は格別に晦渋(かいじゅう)というわけではない。それでいて、聞いていると時々何を言いたいのか分からないことが多い。過剰な丁寧語謙譲語の対象が時として人間だけでないことにも辟易(へきえき)する。いちばん厄介なのは、一つの流れのなかで前段と後段で語る内容が間々違うことだ。
 また、日がたつと全然違うことを平気で言い出すこともある。かつては普天間飛行場の県外国外移転を強く主張し、前政権の辺野古(へのこ)沖移転案を拒否したのに、3月23日には普天間飛行場の全面返還について「ゼロベース」で考えているとまで言い出した。
 住民の危険除去を根本の出発点にする肝心の移転作業をなおざりにして、「危険性除去と騒音対策」を条件に普天間飛行場の一部存続さえ示唆するのだ。危険な普天間の継続使用を何とかして止めようというのが超党派の基本的立脚点だったのに、いつのまにか「ゼロベース」という便利な言葉で問題の本質をそらしている。
 3月29日夕になると、普天間移設の政府案を一つにまとめる時期について「今月中と決まっているわけではない」と妙なことを言い始めた。首相は26日の会見で普天間移設案を「3月いっぱいをめどにまとめる」と強調していたのではなかったか。
  

優柔不断の八方美人

 鳩山首相には「言語の浮遊」ともいうべき特徴が見られて仕方がない。良く言えば関係者全員を満足させたい善意、悪く言えば近衛文麿あたりにも共通する責任を無意識に回避する性向。この2つを考えると、どうしても「八方美人」という言葉がすぐ浮かぶ。
 幕末維新の歴史を語った徳富蘇峰は、『近世日本国民史』のなかで、嘉永6(1853)年のペリー来航時の老中、阿部正弘を優柔不断や八方美人と批判した。また、幕臣だった福地桜痴(おうち)も著作『幕末政治家』において阿部を「始終巧(たくみ)に八方美人の策」を施すのに得意であり、「果敢の断行をなすの人」でないと揶揄(やゆ)する。
 阿部は徳川譜代(ふだい)の閣老として祖法の鎖国にこだわる立場でありながら、列強の力と世界情勢を判断して開国に舵(かじ)を切らざるをえないジレンマに置かれた。それでいて、前水戸藩主の徳川斉昭のように極論を繰り返す攘夷(じょうい)派と妥協を図るために、八方美人になった面には幾分かの同情を禁じ得ない。
 阿部はペリー来航を機に、「国家の一大事」を挙国一致体制で乗り切ろうとした。外様と譜代を問わず大名や、身分の尊貴を超えて幕臣らに良策を諮問したのである。しかし、徳川斉昭を海防参与(最高顧問)に任命して攘夷の不可なることを悟らしめようとする逆転の発想は失敗に帰した。これが高等な政治戦術なのか、水戸の老公への阿諛追従(あゆついしょう)なのかは議論の分かれるところだ。
 確実なのは、斉昭が政策の現実性を無視し、攘夷の理念性を振りかざしながら、幕府の機密情報や政策議論の内容を平気で外に漏らし、いたずらに阿部を困らせ混乱を引き起こしたことである。海防や軍艦製造や大砲鋳造を斉昭にまかせれば、不平不満を「慰謝」できるという見込みは、幕府の基本政策と反対の斉昭を増長させる機会をつくったにすぎない。
  

したたかな交渉術

 現に斉昭の圧力で開国派の老中たちを罷免すると門閥の井伊直弼らは激高し、「八方美人」の限界をあえなく露呈する始末となった。孤立を恐れた阿部は開国派の堀田正睦(まさよし)を老中首座に起用し、攘夷派と開国派との融和を図ろうとしたが、これも責任を巧みに避けて禍を堀田に転嫁する術だとして福地桜痴は厳しく批評する。
 それでも、阿部正弘は急死しなければ、幕府中心の雄藩連合体に近い国家として幕末日本を再編していたかもしれない。しかし、開明派の外様雄藩や非門閥官僚を幕政に参加させたあたりは、八方美人ぶりと並んで弱気な政治姿勢とみられがちであり、政敵から「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」と仇名(あだな)された。
 しかし、この瓢箪鯰にはしたたかな所も多々あり、交渉術に冴(さ)えを発揮し、人心収攬(しゅうらん)にもたけていたことは否定できない。
 「調整の名人」という異名は政治家として決して悪い評価ではない。瓢箪鯰ならぬ「宇宙人」にも、せめてリーダーとして調整の名人になるように阿部から学ぶことを切に望みたいものである。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】阿部正弘
 あべ・まさひろ 文政2(1819)年生まれ。備後福山藩広島県)藩主。奏者番、寺社奉行をへて天保14年、25歳で老中に抜擢(ばってき)された。徳川斉昭島津斉彬ら有力大名と連携し、海防政策に対応。ペリー来航の際は日米和親条約を締結させ、開国へ導く。勝海舟ら優秀な人材を登用し、品川台場の構築や軍艦発注をはじめ、講武所や蕃所調所、長崎海軍伝習所洋学所を設立するなど洋式軍制改革を進めた。安政4(1857)年、病没した。享年39。

057 来島又兵衛


【幕末から学ぶ現在(いま)】(57)東大教授・山内昌之 来島又兵衛 (1/3ページ)

2010.4.8 07:28
このニュースのトピックス歴史・考古学
来島又兵衛(山口県立山口博物館蔵)来島又兵衛(山口県立山口博物館蔵)
 ■高齢政治家の情熱と使命
 人は見かけによらぬもの、という言葉がある。与謝野馨元財務相が自民党を離党して新党をつくるという報に接したとき、多くの人びとは政策通の理知的政治家らしからぬ印象をもったことだろう。
 しかし、内剛外柔と目された与謝野氏は見かけも剛直なところを見せるようになっている。先ごろの衆院予算委員会鳩山由紀夫首相を「平成の脱税王」と追及した迫力は見事だった。氏の内面に潜む熱さを与謝野鉄幹・晶子の血に求める人もいるが、それは政治家与謝野氏を低く見すぎているだろう。今回の新党結成にも見せた思い切りの良さは、氏がいつもドブ板選挙を経験し、落選の修羅場をくぐった点と無縁ではない。
 激戦区で3回も落選し、浪人の試練を味わい、比例での復活も経験した自民党総裁・首相候補者は他に例を見ない。新党結成については、与謝野氏が71歳の高齢であり、展望が見えないと批判する声も大きい。
 しかし、自民党が頑迷固陋(ころう)で、変わる見込みもないというのは一つの判断である。ここが保守政治家として勝負時と大きな賭けに出たのだろう。
 ≪猛将と能吏の二面≫
 幕末でいちばん情熱と使命感をあらわにした老境の武士といえば、まず来島又兵衛が屈指であろう。禁門の変で散った来島については、「豪胆にして武技に長じ、慨世(がいせい)憂国の念、最も熾烈(しれつ)」(『大人名事典』第2巻、平凡社)という評価が一般である。剣術は新陰流の免許皆伝、馬術も驚くほど巧みで、戦国武士を思わせる剛毅(ごうき)な男であった。
 来島は藩の役職でも順調に昇進しながら、尊攘(そんじょう)運動が長州藩をおおう文久年間には40代半ばでも血気盛んな男であり、高杉晋作らから「来翁」と親しまれていた。当時の40代後半とは、すでに老境と目された年格好なのである。
 来島の不思議さは、萩、京都、江戸の勤務を大過なく重ね、金銭の出納を手際よく管理した能吏の側面があることだ。来島といえば老将や猛将のイメージも強いが、算勘(さんかん)の道にもたけていたのだ。江戸では出費をまめにメモしながら、収支を国許(くにもと)の妻に知らせていたというから、ほほえましい。吉田松陰は、来島の特性を早くから見抜き、彼の胆力が人よりも優れていると同時に、計算に際して正確に数え、思慮深く考えると評価したこともあった。
 ≪目標実現へ命賭ける≫
 しかし、能吏たる来島の運命は、文久3(1863)年5月、馬関の外国艦砲撃戦で総督国司信濃(くにししなの)の参謀となって奮戦して以来、大きく変わる。長州藩兵が御門警固を解かれた8月18日の政変、ついで池田屋事件で失墜した藩の名誉を回復し、尊攘運動に再び火をつけたのは来島であった。
 京への進発に反対した高杉晋作を面罵(めんば)し、慎重だった久坂玄瑞をひきずるように武装上洛した先頭にはいつも来島の姿があった。京都でも御所を攻撃する不敬に恐れを抱いた久坂に、「臆病(おくびょう)者は東寺の塔か天王山で見物しておれ」と怒鳴ったというから迫力は凄(すご)い。
 49歳の来島や53歳の真木和泉が20代の若者を叱咤(しった)して政治目標実現のために命を賭ける執念は、その精神において現代の政治家も見習うべきではないだろうか。
 天龍寺に結集した来島の遊撃隊は、会津藩兵が守る蛤御門で激戦を交わした。禁門の変は一名蛤御門の変と呼ばれるほどだ。来島らは朝方早く蛤御門に突入、あわや御所を占拠する勢いであった。
 ≪勝利目前で撃たれ自刃≫
 もし、乾門から薩摩兵が加勢して横やりを入れなければ、来島らの勝利は目前であった。そのとき、葦毛(あしげ)の馬にまたがり颯爽(さっそう)と指揮していた来島は、薩摩の川路利良に胸部を狙撃され、落馬した。川路は後の警視庁大警視(警視総監)である。
 いまも蛤御門から御所に少し向かった所に樹齢300年ほどの「清水谷家の椋(むく)」という木が残る。来島が被弾し、自刃したのは、この椋の木のあたりであった。
 来島で驚嘆するのは、年を経ても政治への情熱が少しも衰えず、しかも先頭で若者をぐんぐん引っ張ったことだ。さて、普通なら安定と自足を望むはずの高齢者が情熱を注ぐ新党の使命感とは何か。
 高齢者問題は選挙の争点であり、有権者の相当な部分を高齢者が占める。さながら来島のように、算勘だけでなく、情熱もほとばしる与謝野氏が語る政治理念や抱負にまずは耳を傾けたいものである。(やまうち まさゆき)
                   ◇ 
【プロフィル】来島又兵衛
 きじま・またべえ 文化14(1817)年、長州(山口県)生まれ。江戸で剣術を学んだ後、大検使役などを歴任。文久3年、藩命で猟師を集めた狙撃隊を率いて尊攘運動のために上京。高杉晋作が奇兵隊を組織すると、遊撃隊を編成して総督となり、高杉と連携。元治元(1864)年、禁門の変に出陣し、蛤御門で戦死した。享年49。

058 岡田以蔵


【幕末から学ぶ現在(いま)】(58)東大教授・山内昌之 岡田以蔵 (1/3ページ)

2010.4.15 08:03
このニュースのトピックス歴史・考古学
高知市にある岡田以蔵の墓高知市にある岡田以蔵の墓
 ■暗殺と政治の間
 フランス革命でマラーを殺害したシャルロット・コルデー、ロシア皇帝アレクサンドル2世を暗殺したポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキなど、革命の歴史とテロリズムの活動は不可分である。幕末にも要人を暗殺した「人斬り」は多い。
 肥後の河上彦斎(げんさい)、薩摩の田中新兵衛はそれぞれ、佐久間象山姉小路公知(あねがこうじきんとも)を暗殺した一件で知られる。
 ≪暗殺繰り返す日々≫
 革命期には、政治目的を実現する手段として限定されたテロと、やみくもに政敵とおぼしき人物を暗殺する行為との間に確たる違いを見いだすことはむずかしい。前者はやむにやまれず歴史を動かすために仕掛ける行動であり、後者はときに自分も理由を分からぬままに人の教唆で殺害する陰鬱(いんうつ)な仕業である。
 前者の例が薩摩の中村半次郎だとすれば、後者の典型は土佐の岡田以蔵ではなかろうか。陽性の南国人気質を十分にもつ以蔵が世界史でも屈指のテロリストに変貌(へんぼう)する様は、維新史を見ていてもやりきれない思いがする。
 足軽身分の以蔵を引き立てたのは、武市(たけち)半平太(瑞山)にほかならない。武市は万延元(1860)年に以蔵を連れて中国と九州を回るが、やがて武市の結成した土佐勤王党に加盟した。私は直接に確認していないが、その後連判から以蔵の名が削られたという指摘もある。
 だとすれば、以蔵がしばしば武市の指示で暗殺を繰り返した点を考えると、勤王党の連帯責任を避けるための方便だったのかもしれない。以蔵は武市を尊敬していたにせよ、武市のほうは無教養のテロリスト以蔵に利用価値を見いだしていたのだろう。
 NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、以蔵に扮する佐藤健君のすがるような眼差(まなざ)しが印象的である。実際の以蔵の心中でも、恩師への信頼と懐疑がいつも交差していたことだろう。
 ≪地獄から救われる機会≫
政治には多少の犠牲者が出ることは避けられない。それにしても、武市の暗いニヒリズムは以蔵をますます狷介(けんかい)な性格に育てたのではなかろうか。以蔵に殺人の無間地獄から救われる機会があったとすれば、坂本龍馬の紹介で勝海舟の家に住みこみ、京都でも身辺警固に当たった時期であろう。
 小説だが、子母沢寛の『勝海舟』は以蔵が海舟の薫陶で少しずつ明るさを取り戻し、平穏な人生や学問修業にも目覚めるあたりを温かい筆致で描いている。
 しかし、以蔵は武市と土佐のしがらみから逃れられず京都で捕縛され、政変の起きた土佐へ送られた。これを知った武市は、ある手紙に「あのような安方(あほう)」は早々と死ねばよいと書いたように、自分が指図した暗殺の真相が露顕することを恐れた。
 武市は、以蔵の自供で勤王党による暗殺テロの真相が漏れるのを恐れ、自分に信服した牢(ろう)役人を使って以蔵に毒飼いをさせたという説も根強い。毒を盛られた以蔵は師の冷酷さに憤って万事を自白し、武市をも死出の道連れにしたという暗い説もあながち否定できない。
 武市は吉田東洋暗殺で火ぶたを切った土佐テロリズムの元凶であるから、その政治責任は免れなかった。巨大な変革期にはどの国でも、政治とテロ、陰謀と暗殺、交渉と衝突などは入り組んで進行する。それでも、以蔵のように暗殺テロの専門家としてだけ、政治運動に関与した例は少ない。
≪偶然に翻弄された人生≫
 薩摩の中村半次郎などは確かに政敵を暗殺した事実も一回ほど確認されるが、全体としては各藩にも知られた談判や周旋の士としても成長していった。2人の差は、西郷吉之助(隆盛)と武市半平太の個性の違いでもあろうか。
 以蔵にも幕府の神戸海軍修練所や長崎の海援隊勝海舟や龍馬の下で飛躍する可能性もあったのだ。人の出会いや歴史の偶然が人を不幸にする酷(むご)さを思わざるをえない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】岡田以蔵
 おかだ・いぞう 天保9(1838)年、土佐(高知県)の郷士の家に生まれる。江戸の桃井春蔵に剣術を学ぶ。武市半平太に従って九州などを回遊し、のち土佐勤王党に加わる。京都で薩摩の田中新兵衛らとともに天誅(てんちゅう)行動の急先鋒(せんぽう)となり、多くの暗殺事件に関与、「人斬り以蔵」と呼ばれた。藩吏に捕らえられて土佐に送られ、慶応元(1865)年、処刑された。享年28。

059 大隈重信


【幕末から学ぶ現在(いま)】(59)東大教授・山内昌之 大隈重信 (1/3ページ)

2010.4.22 07:57
このニュースのトピックス歴史・考古学
堂々と論陣を張った大隈重信(国立国会図書館蔵)堂々と論陣を張った大隈重信(国立国会図書館蔵)
 □威圧と大衆人気
 鳩山内閣の特徴は、昔なら閣内不一致で総辞職しかねない局面でも、政治家の個性がぶつかる侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が外にも聞こえてくることだ。亀井静香金融相や前原誠司国土交通相だけでなく、最近では仙谷由人国家戦略担当相の発言も目立っている。
 ようやく成立した予算を酷評し、財政規律論者めいた姿勢を見せたかと思えば、消費税率の見直しにも積極的な発言をするなど筋とメリハリが目立つのだ。なかでも、普天間問題と連動して鳩山首相が辞職する際には衆参同時選挙を、という発言には驚いた人も多いだろう。
 仙谷氏のように、弁護士出身の大臣には、自前の論理を構築できる自信があるのかもしれない。自民党でも弁護士経験をもつ大臣には説得力に富む議論をする人が多かった。こうしたタイプの政治家は、どの時代であっても、群れずに一人で論を構えるほうが得意なのだろう。

一人で堂々と論陣張る

 一人でも堂々と論陣を張った幕末明治の政治家といえば、すぐに大隈重信を思いだす。大隈は代言人や弁護士を生業にしなかったにせよ、独特の雄弁術と辺りを睥睨(へいげい)する押しの強さに、とうてい人の下に立つのを潔しとしない自信が満ちあふれていた。演説会場に行けば、口を「へ」の字に結んで、まず最初に聴衆を威圧するように睨(にら)みつけドギモを抜いてしまう。
 それから、「したんである」「なんである」果ては「であるんであるのである」という弁舌を聞くと、これはファンにはたまらなく愉快な半面、政敵には鼻持ちならぬショーと映ったに違いない。
 坪内逍遥は大隈の座談に晩年まで「威圧的な覇気」や「恫喝(どうかつ)的な衒気(げんき)」が抜けなかったと述べたことがある。
 また、陸奥宗光も大隈が自分の「伎倆(ぎりょう)品格」を相手に認めさせようとするあまり「虚飾大言」に陥りがちだったと指摘する。

ウケた「場当たり主義」

 大隈は佐賀藩300石取りの堂々たる上士身分の家に生まれながら、よく言えば融通無碍(むげ)、悪く言えば成金趣味めいた俗っぽい個性を生涯失わなかった。謡曲や能より浪花節や講談を好んだというから、相当に庶民受けもした。
 政治学者、岡義武の名著『近代日本の政治家』の表現を借りるなら、その「臨機応変主義」や「場当たり主義」は、何よりもこむずかしい理論やイデオロギーよりも分かりやすかった。
 民衆政治家を自任した大隈の個性は、生得の面もあったに違いないが、薩長閥から排除された佐賀人特有の一個の自分をたのむという覇気の強さや闘志の表れと無縁でなかった。
 明治6(1873)年に参議兼大蔵卿となった大隈のあけっぴろげな性格は、長州の伊藤博文井上馨も引き付けたが、近代国家の早期建設を図った大久保利通木戸孝允の緻密(ちみつ)な術策に及ぶところでなかった。脇の甘さをつかれ、北海道開拓使官有物払下げ事件をめぐって、盟友だった伊藤はじめ薩長勢と対立し、明治14年の政変で参議を免官になってしまう。

薩長から最初の政権交代

 しかし、大隈の凄(すご)いのはその後の歩みである。大隈はめげずに立憲改進党や東京専門学校(現早稲田大学)をつくり、孜々(しし)として政権奪取を目指したのだから根性がどこまでも据わっている。
 伊藤に大隈の外交手腕を再認識させ、外相の地位に返り咲いただけでなく、明治31(1898)年には薩長藩閥以外から最初となる首相の地位を射止めた。
 これこそまごうかたなく最初の政権交代というべきであろう。4カ月後、星亨に離反されて総辞職したのは不本意であった。しかし、彼の粘りは驚異的である。
 15年余の時を経て、第1次護憲運動の波に乗じ、2度目の首相になったからだ。改造内閣を経て退任した時、彼は満78歳6カ月であった。これは日本の憲政史上最高齢の記録にほかならない。
 現代の政治家に限らず、人はどうも群れに入らないと、安心できないところがある。鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉もある。時には党内や閣内に波風を立てても、必要な時には信念や主張を曲げないのも、宰相の座を射止める必要条件の一つであろう。(やまうち まさゆき)
【プロフィル】大隈重信
 おおくま・しげのぶ 天保9(1838)年、佐賀生まれ。長崎で米国人宣教師に英学を学ぶ。維新政府の要職を歴任し、主に財政をつかさどり、地租改正を推進。明治14年の政変で下野すると、立憲改進党を結成し、東京専門学校(早大)を創立した。のち外相となり条約改正交渉に当たるが、反対派に爆弾を投げつけられ負傷。明治31年、板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣を組織。大正3年には第2次内閣を組織し、第一次大戦に参戦した。大正11(1922)年、死去。享年85。