http://www.youtube.com/watch?v=twiubnxk63Y
http://www.youtube.com/watch?v=ujV2LqYr_CA
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012069395
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432946839
→
May I come in ? → Here is my card.→Please have a seat.→my name is・・→Are you in the third / pre second grade of STEP, ok? →OK.→How are you?
Here is your card → Thank you → Read silently→ O.K.
Read aloud,please→O.K.
I ask some question,O.K.?→O.K.
「Pardon, please?」 「I’m sorry, I don’t know.」
Return your card → Here you are → Thank you Good bye.
Please look at the passage,
Please look at the picture
Where, What, What time,How many~?
Please look at the picture
What is he going to do?
Please tell me more
According to the passage
Tell me as much as you can about what they are doing
A girl is playing the guitar
「That’s all」
Please describe the situation
The boy can’t run because he is tired.
Please, turn your card over
Do you think~?
Yes/No
Why/Why not?
What is (are)~doing (The girl/She is)reading a book
What is ~going to do
What will~do
how many
Where
What
who
2013年10月22日火曜日
東大より上!? 人事部の評価が抜群に高い大学8
旧来の学歴ブランドが崩れている。ソフトバンク、三菱重工、日本HPの採用責任者は、学生に何を求めているか。
■なぜ、偏差値50台のAPUの評価が高いか
「(立命館アジア太平洋大学から)2012年は6人の内定者を出しました。事務系の採用数は毎年100人弱ですが、6人というのは大学別の採用数ではもちろん(東大などを抜き)トップです」
三菱重工業の原田庸一郎人事部次長はこう語る。
大分空港からリムジンバスで30分。別府市内に着くと再び乗り換えたバスに揺られながら山道を登っていく。日光のいろは坂のように険しい坂道を蛇行しながら進むこと15分。別府湾と市街を見下ろす頂上付近に立命館アジア太平洋大学(APU)のキャンパスがあった。
2000年に開学。地上と隔絶されたこの辺境の地で約5800人の学生が学ぶ。しかも約半数を世界83カ国・地域の外国人留学生が占めるという文字通り日本屈指の国際大学である。しかし、それだけではない。開学10年余にして卒業生の多くが超難関企業に就職。旧来の伝統校や偏差値上位校に有利な就職戦線地図を大きく塗り替えようとしている。
冒頭の三菱重工もその1社である。三菱重工といえば1990年代から2000年代初頭にかけて東大、京大をはじめとする旧帝大や早慶の学生(技術系含む)を2桁単位で採用し、文系大学では一橋大学出身者を最も多く採用していた(大学通信調査)。その同社の事務系採用でA PUがトップに立ったということは一橋大学を抜いたことを意味する。
三菱重工だけではない。11年度の就職先には、新日本製鉄、神戸製鋼、旭化成、小松製作所、住友化学、ソニー、東芝、野村証券、三井住友銀行、三菱商事、丸紅、武田薬品工業、電通、博報堂といった一流企業がずらりと並ぶ。APUの就職率は95.1%であるが、難関の一部上場企業への就職率は約36%を誇る。ちなみに一部上場企業への就職率を開示している大学は少ないが、慶應義塾大学が約43%だ。慶應の入学偏差値は65~70であるのに対し、APUは50~55。偏差値を超えたAPUの人気ぶりが際立つ。
APUの村田陽一事務局次長(学生支援・就職支援担当)は「超難関企業の内定者を見ると、たとえばパナソニックや東芝など製造業では理系学生の採用数が多く、文系はせいぜい40人、50人ぐらいですが、旧帝大や早慶しかいないところにAPUがポツンと入っている。あるいは三菱重工さんのように多く採用してくれるところもある。富士通さんも毎年4~5人採用してくれています」と語る。留学生は学内選考で8割が決まるというが、13年3月卒業生は、12年7月時点で「ほぼ完売状態。就職希望の留学生の内定がほぼ出揃った」(村田事務局次長)という。
なぜ、APUの人気が高いのか。言うまでもなく日本企業が渇望するグローバル人材の資質に優れているからだ。三菱重工の原田人事部次長はAPUの魅力をこう語る。
「1つは中国や韓国に限らず、アジアやヨーロッパを含めて幅広い国や地域の学生が集まり、特定の国に偏らない多様な人材が豊富であることです。2番目は日本語教育にも力を入れ、外国人の日本語レベルが非常に高い。3番目は市街から離れた修学環境に適した立地にあり、実際に非常に勉強しておられる。4番目はキャリア支援の事務局と学生との連携が非常に密であり、日本企業への就職に力を入れていることです」
グローバル人材の資質が異文化リテラシーにあるとすれば、APUは「日本人と留学生が授業や課外活動を含めて交わり合うような仕組みや仕掛けを長年つくり続けてきた」(村田事務局次長)。その1つが留学生と日本人学生が共同生活をおくる学生寮だ。個室と2人部屋があるが日本人は外国人との同居が必須であり、互いの文化を理解し合えなければ一緒に暮らすことはできない。
「国際交流という言葉は美しいのですが、現場では全然美しくない。時には対立も起こります。たとえば『時間にルーズだし、自己主張だけはしやがって』というのが日本人が抱く最初の感覚です。しかし、留学生は国によって悪気がないのに時間の感覚がルーズで約束を守らない人もおり、そこにコンフリクトが起こる。あるいは授業で4人のチームでプレゼンするとなると、日本人2人に細かい準備だけをさせて、留学生の2人がプレゼンのいいところだけを持っていこうとする。『なんだ、このやろう』と思うんですが、それを乗り越えて互いにどうすれば一緒に協力できるのか、相手を巻き込むにはどうすればいいのかを考えないと前に進まない。そうした人種や国境のカベを乗り越える経験をたくさんすることで日本人も一皮むけていく。企業の担当者もそういう点を非常に重視しています」(村田事務局次長)
異文化受容力に加えて積極的な海外志向も企業の評価が高い。APUには交換留学生制度があるが、TOEFL550点以上とハードルが高く留学できるのは1学年の2割程度。しかしそれでも海外渡航の夢がやみがたく1年間休学してワーキングホリデーを利用して海外体験する学生が約4割もいる。現地で揉まれて培うコミュニケーション力も企業の魅力の1つだ。
「旧帝大の学生など最近はTOEICが800点というのは珍しくありませんが、APUの学生は700点だったりする。でも皆、海外経験を持っている。採用面接で、海外で働けますかと聞かれて、途上国は勘弁してほしいという学生もいるそうですが、自ら手を挙げて『どこでもいいから行かせてほしい』というのがうちの学生の特徴です。企業の側もうちの学生にはどれだけ英語ができるのか、はっきり言ってあまり求めていない。それよりも、いろいろな人とどんな環境であってもきちんとコミュニケーションできる能力を買われていると思います」(村田事務局次長)
高い異文化受容力、海外志向、国境を越えたコミュニケーション力。これが企業が求めるグローバル人材のポテンシャルであるとすれば、APUは明らかに企業のニーズを踏まえた教育を実践している。
日本の大学は、旧来型のマスプロ教育を漫然と実施するばかりで、企業が求める人材ニーズに応える教育を怠ってきた。企業もそのことをよく知っているために、大学の入試偏差値に過度に依存し、入学後の成績は採用選考の参考にしないという日本独特の風潮が長らく続いてきた。しかし、本当に欲しい人材を育成すれば、偏差値は低くても企業が採用することをAPUは実証した。
APUに限らない。04年に開学した秋田県の公立大学である国際教養大学も100%の就職率を誇る。1学年の定員は150人と少ないが、グローバル人材の養成という明確な育成ビジョンを掲げ、英語のみで授業を行うほか、1年間の海外留学を義務づけるなど従来の日本の大学にない特色を持つ。
1クラス15人以下を基準とする授業は、ディスカッションやディベート、プレゼンテーションへの参加を通じて自ら考え、主張できる能力を養う。さらに教員1人あたりの学生数は約10人と小学校の分校並み。教員の半数を外国人が占めるが、3年間の任期制であり、教員は専門の研究分野ではなく「教育力」で評価されるという徹底した教育重視の大学だ。
国際教養大学を訪問し、2人の学生を採用した大手石油会社の人事担当者は「全員が海外の大学に留学し、現地の学生と机を並べ、正規科目を30単位取得するらしい。留学前はTOEICが800点でも帰国後は全員が900点を超えるという。それだけ海外で揉まれてきた証拠であり、自分も若ければぜひこういう大学に行きたかった」と絶賛する。
■人事部が注目する大学・学部
1.立命館アジア太平洋大学(2000年開学)
中国・韓国だけではなく、世界80カ国以上の優秀な留学生が学び、日本語教育に注力し、日本語のレベルが非常に高い。学生の半数を占める日本人学生は講義と大学寮での外国人との生活に揉まれ、グローバル人材の素養を身につけている。
2.国際教養大学(2004年開学)
教員の半数を外国人が占め、すべての授業を英語で実施。1年間の海外留学を義務づけ、留学先大学で約30単位を取得。帰国後のTOEICは900点以上。少人数授業とグローバル人材に必要なリベラルアーツ教育に注力。
3.早稲田大学 国際教養学部(2004年開設)
英語による徹底した授業に加え、約3割の外国人留学生との交流、2年次後半からの1年間の海外留学を通じてグローバル素養を修得している。大規模講義のイメージの強い早稲田大学にあって1クラス約25人と少人数形式の授業。
4.国際大学 国際経営学研究科(1988年開設)
日本初の100%英語によるMBAプログラムを導入した大学院。全寮制を原則に50カ国以上から集まる学生と教員が多文化・多国籍の環境下で学ぶ。グローバル・リーダーの養成を目的とした実践形式の授業に注力。
5.慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス・SFC(1990年開設)
総合政策学部・環境情報学部の分離融合で、両学部の授業を学生自ら自由に組んで受講できる。カリキュラムの中核となる100近くの多様な研究プロジェクトに所属し、自主性・創造性を磨いている。
6.立教大学経営学部(2006年開設)
産学協同の少人数プロジェクトによるビジネス課題解決の実践的学習を1年次から3年次まで繰り返す。そこで培われるプレゼンテーション力やコミュニケーションスキル、チームワーク力は即戦力として魅力的。
7.金沢工業大学(1965年開学)
1週間単位で知識や技術の達成度を評価しながら能力の向上を図るポートフォリオシステムを採用。修学アドバイザー(クラス担任)による個人別指導の評価は高い。卒業後のキャリア像を考えさせるための職業指導を徹底する。
8.豊田工業大学(1981年開学)
1年次全寮制教育と徹底した少人数形式による授業で工学系の基礎的能力への評価が高い。産業界と連携した「産学就業力向上委員会」を設置。アカデミックアドバイザー(教員)と事務局が一体となって第一志望企業への就職を目指している。
■なぜ、偏差値50台のAPUの評価が高いか
「(立命館アジア太平洋大学から)2012年は6人の内定者を出しました。事務系の採用数は毎年100人弱ですが、6人というのは大学別の採用数ではもちろん(東大などを抜き)トップです」
三菱重工業の原田庸一郎人事部次長はこう語る。
大分空港からリムジンバスで30分。別府市内に着くと再び乗り換えたバスに揺られながら山道を登っていく。日光のいろは坂のように険しい坂道を蛇行しながら進むこと15分。別府湾と市街を見下ろす頂上付近に立命館アジア太平洋大学(APU)のキャンパスがあった。
2000年に開学。地上と隔絶されたこの辺境の地で約5800人の学生が学ぶ。しかも約半数を世界83カ国・地域の外国人留学生が占めるという文字通り日本屈指の国際大学である。しかし、それだけではない。開学10年余にして卒業生の多くが超難関企業に就職。旧来の伝統校や偏差値上位校に有利な就職戦線地図を大きく塗り替えようとしている。
冒頭の三菱重工もその1社である。三菱重工といえば1990年代から2000年代初頭にかけて東大、京大をはじめとする旧帝大や早慶の学生(技術系含む)を2桁単位で採用し、文系大学では一橋大学出身者を最も多く採用していた(大学通信調査)。その同社の事務系採用でA PUがトップに立ったということは一橋大学を抜いたことを意味する。
三菱重工だけではない。11年度の就職先には、新日本製鉄、神戸製鋼、旭化成、小松製作所、住友化学、ソニー、東芝、野村証券、三井住友銀行、三菱商事、丸紅、武田薬品工業、電通、博報堂といった一流企業がずらりと並ぶ。APUの就職率は95.1%であるが、難関の一部上場企業への就職率は約36%を誇る。ちなみに一部上場企業への就職率を開示している大学は少ないが、慶應義塾大学が約43%だ。慶應の入学偏差値は65~70であるのに対し、APUは50~55。偏差値を超えたAPUの人気ぶりが際立つ。
APUの村田陽一事務局次長(学生支援・就職支援担当)は「超難関企業の内定者を見ると、たとえばパナソニックや東芝など製造業では理系学生の採用数が多く、文系はせいぜい40人、50人ぐらいですが、旧帝大や早慶しかいないところにAPUがポツンと入っている。あるいは三菱重工さんのように多く採用してくれるところもある。富士通さんも毎年4~5人採用してくれています」と語る。留学生は学内選考で8割が決まるというが、13年3月卒業生は、12年7月時点で「ほぼ完売状態。就職希望の留学生の内定がほぼ出揃った」(村田事務局次長)という。
なぜ、APUの人気が高いのか。言うまでもなく日本企業が渇望するグローバル人材の資質に優れているからだ。三菱重工の原田人事部次長はAPUの魅力をこう語る。
「1つは中国や韓国に限らず、アジアやヨーロッパを含めて幅広い国や地域の学生が集まり、特定の国に偏らない多様な人材が豊富であることです。2番目は日本語教育にも力を入れ、外国人の日本語レベルが非常に高い。3番目は市街から離れた修学環境に適した立地にあり、実際に非常に勉強しておられる。4番目はキャリア支援の事務局と学生との連携が非常に密であり、日本企業への就職に力を入れていることです」
グローバル人材の資質が異文化リテラシーにあるとすれば、APUは「日本人と留学生が授業や課外活動を含めて交わり合うような仕組みや仕掛けを長年つくり続けてきた」(村田事務局次長)。その1つが留学生と日本人学生が共同生活をおくる学生寮だ。個室と2人部屋があるが日本人は外国人との同居が必須であり、互いの文化を理解し合えなければ一緒に暮らすことはできない。
「国際交流という言葉は美しいのですが、現場では全然美しくない。時には対立も起こります。たとえば『時間にルーズだし、自己主張だけはしやがって』というのが日本人が抱く最初の感覚です。しかし、留学生は国によって悪気がないのに時間の感覚がルーズで約束を守らない人もおり、そこにコンフリクトが起こる。あるいは授業で4人のチームでプレゼンするとなると、日本人2人に細かい準備だけをさせて、留学生の2人がプレゼンのいいところだけを持っていこうとする。『なんだ、このやろう』と思うんですが、それを乗り越えて互いにどうすれば一緒に協力できるのか、相手を巻き込むにはどうすればいいのかを考えないと前に進まない。そうした人種や国境のカベを乗り越える経験をたくさんすることで日本人も一皮むけていく。企業の担当者もそういう点を非常に重視しています」(村田事務局次長)
異文化受容力に加えて積極的な海外志向も企業の評価が高い。APUには交換留学生制度があるが、TOEFL550点以上とハードルが高く留学できるのは1学年の2割程度。しかしそれでも海外渡航の夢がやみがたく1年間休学してワーキングホリデーを利用して海外体験する学生が約4割もいる。現地で揉まれて培うコミュニケーション力も企業の魅力の1つだ。
「旧帝大の学生など最近はTOEICが800点というのは珍しくありませんが、APUの学生は700点だったりする。でも皆、海外経験を持っている。採用面接で、海外で働けますかと聞かれて、途上国は勘弁してほしいという学生もいるそうですが、自ら手を挙げて『どこでもいいから行かせてほしい』というのがうちの学生の特徴です。企業の側もうちの学生にはどれだけ英語ができるのか、はっきり言ってあまり求めていない。それよりも、いろいろな人とどんな環境であってもきちんとコミュニケーションできる能力を買われていると思います」(村田事務局次長)
高い異文化受容力、海外志向、国境を越えたコミュニケーション力。これが企業が求めるグローバル人材のポテンシャルであるとすれば、APUは明らかに企業のニーズを踏まえた教育を実践している。
日本の大学は、旧来型のマスプロ教育を漫然と実施するばかりで、企業が求める人材ニーズに応える教育を怠ってきた。企業もそのことをよく知っているために、大学の入試偏差値に過度に依存し、入学後の成績は採用選考の参考にしないという日本独特の風潮が長らく続いてきた。しかし、本当に欲しい人材を育成すれば、偏差値は低くても企業が採用することをAPUは実証した。
APUに限らない。04年に開学した秋田県の公立大学である国際教養大学も100%の就職率を誇る。1学年の定員は150人と少ないが、グローバル人材の養成という明確な育成ビジョンを掲げ、英語のみで授業を行うほか、1年間の海外留学を義務づけるなど従来の日本の大学にない特色を持つ。
1クラス15人以下を基準とする授業は、ディスカッションやディベート、プレゼンテーションへの参加を通じて自ら考え、主張できる能力を養う。さらに教員1人あたりの学生数は約10人と小学校の分校並み。教員の半数を外国人が占めるが、3年間の任期制であり、教員は専門の研究分野ではなく「教育力」で評価されるという徹底した教育重視の大学だ。
国際教養大学を訪問し、2人の学生を採用した大手石油会社の人事担当者は「全員が海外の大学に留学し、現地の学生と机を並べ、正規科目を30単位取得するらしい。留学前はTOEICが800点でも帰国後は全員が900点を超えるという。それだけ海外で揉まれてきた証拠であり、自分も若ければぜひこういう大学に行きたかった」と絶賛する。
■人事部が注目する大学・学部
1.立命館アジア太平洋大学(2000年開学)
中国・韓国だけではなく、世界80カ国以上の優秀な留学生が学び、日本語教育に注力し、日本語のレベルが非常に高い。学生の半数を占める日本人学生は講義と大学寮での外国人との生活に揉まれ、グローバル人材の素養を身につけている。
2.国際教養大学(2004年開学)
教員の半数を外国人が占め、すべての授業を英語で実施。1年間の海外留学を義務づけ、留学先大学で約30単位を取得。帰国後のTOEICは900点以上。少人数授業とグローバル人材に必要なリベラルアーツ教育に注力。
3.早稲田大学 国際教養学部(2004年開設)
英語による徹底した授業に加え、約3割の外国人留学生との交流、2年次後半からの1年間の海外留学を通じてグローバル素養を修得している。大規模講義のイメージの強い早稲田大学にあって1クラス約25人と少人数形式の授業。
4.国際大学 国際経営学研究科(1988年開設)
日本初の100%英語によるMBAプログラムを導入した大学院。全寮制を原則に50カ国以上から集まる学生と教員が多文化・多国籍の環境下で学ぶ。グローバル・リーダーの養成を目的とした実践形式の授業に注力。
5.慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス・SFC(1990年開設)
総合政策学部・環境情報学部の分離融合で、両学部の授業を学生自ら自由に組んで受講できる。カリキュラムの中核となる100近くの多様な研究プロジェクトに所属し、自主性・創造性を磨いている。
6.立教大学経営学部(2006年開設)
産学協同の少人数プロジェクトによるビジネス課題解決の実践的学習を1年次から3年次まで繰り返す。そこで培われるプレゼンテーション力やコミュニケーションスキル、チームワーク力は即戦力として魅力的。
7.金沢工業大学(1965年開学)
1週間単位で知識や技術の達成度を評価しながら能力の向上を図るポートフォリオシステムを採用。修学アドバイザー(クラス担任)による個人別指導の評価は高い。卒業後のキャリア像を考えさせるための職業指導を徹底する。
8.豊田工業大学(1981年開学)
1年次全寮制教育と徹底した少人数形式による授業で工学系の基礎的能力への評価が高い。産業界と連携した「産学就業力向上委員会」を設置。アカデミックアドバイザー(教員)と事務局が一体となって第一志望企業への就職を目指している。
2013年9月16日月曜日
流刑地シベリアをめぐる壮大な悲劇
シベリアが地図上の名称としてはじめて記録されたのは1407年で、シベリア征服の遠征軍が組織されたのは1578年。モスクワ公国のイヴァン4世(イヴァン雷帝)が、“タタールのくびき”と呼ばれたモンゴルの支配を打ち破ってロシアを統一した直後だった。それから15年後の1593年には、早くも受刑者の強制移住が行なわれたという。
当時はコロンブスがアメリカ大陸を“発見”してからおよそ1世紀で、西ヨーロッパ各国からの移民が本格化した時期だった。“新大陸”は当初、新天地を求めた移住というより、犯罪者の流刑地として使われていた。イギリスによるオーストラリア開発が本格化するのは18世紀後半だが、これはアメリカの独立により流刑地がなくなり、国内の監獄が満員になったためだ。監獄が近代的な更正施設になる前は、どの国でも犯罪者はもっとも安価な労働力だった。ロシアにとっての“新大陸”は豊富な地下資源の眠るシベリアで、そこに強制労働収容所がつくられ犯罪者が送り込まれたのは必然だった。
● 19世紀以降、急増したシベリア流刑
それでも18世紀までは、シベリアに送られる犯罪者の数は年間2000人程度だった。だが19世紀になると、ナポレオンのロシア遠征によって西ヨーロッパの自由主義(近代主義)に触れた知識人を中心に、旧態依然とした農奴制や帝政への批判が起こるようになる。その結果、大量の政治犯がシベリアに流されるようになり、その数は年間2万人、累計で200万人を超えるまでに膨らんだ。
ドストエフスキーの『罪と罰』では、金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフはシベリア流刑となり、そのあとを娼婦のソーニャが追う。そのドストエフスキー自身も社会主義者として逮捕、死刑判決を受け、皇帝の特赦によってシベリアに流され、その体験をもとに『死の家の記録』を書いている。
トルイストイの『復活』では、無実の罪でシベリアに送られた女囚カチューシャを追うネフリュードフ公爵の贖罪の旅が描かれている。劇作家とした成功し文壇の寵児となったチェーホフは、30歳のときに周囲の反対を押し切って長期のシベリア取材を敢行し、最果ての流刑地であったサハリン(樺太)を訪れ、『サハリン島』というノンフィクションを書いた。このようにシベリアは、一貫して19世紀ロシア文学の重要な背景だった。
20世紀に入るとロシアの帝政はますます混迷し、社会変革への期待が盛り上がってくる。その先導者となったレーニンもトロツキーもスターリンも、革命の指導者たちの多くがシベリア流刑を経験している。
1917年の10月革命で世界初の社会主義国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立すると、2年後には「強制労働収容所に関する法令」が発布され、帝政時代の貴族や政府の高官、反革命軍参加者、各宗派の修道僧、ネップ(新経済政策)時代の個人企業家、旧インテリ階級などが大量にシベリアに送られた。
1924年にレーニンが死ぬと、権力を掌握したスターリンは最大のライバルであるトロツキーをソ連から追放するとともに、徹底した粛清に乗り出した。とりわけ1934年のキーロフ(レニングラード・ソビエト議長)の暗殺を契機に共産党の古参幹部を軒並み逮捕・処刑した大粛清では2年間に135万人が即決裁判で有罪にされ、その半数が死刑判決を受け、残りの半数が強制収容所に送られた(キーロフ暗殺は現在ではスターリンの謀略とされている)。
● 強制収容所は人種の博覧会状態
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連は東からポーランドに攻め入り、独ソ不可侵条約によってポーランドの東半分を占領するとともに、ポーランドの軍人や旧指導層の多くをシベリアに連行した。
さらにソ連は11月、フィンランドに相互援助条約の締結を拒否されると宣戦布告もなくフィンランドに侵攻し(冬戦争)、国土の11%をソ連に割譲させた。この戦争で捕らえられたフィンランド軍の捕虜もシベリアに送られた。
1940年6月、ソ連はバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した。これらの国の住民も片っ端から逮捕され、強制移住を加えるとソ連に連行された数は10万人を超えるとされる。また同年、ルーマニアに侵攻したソ連はベッサラビアと北ブコビナを獲得したが、この地域の反共産主義者、民族主義者もシベリア送りとなった。
1941年にドイツがソ連に侵攻すると、ソ連領内に居住するドイツ移民はすべて強制労働収容所に送られた。さらにユダヤ人も「敵性国民」としてほとんどがシベリアに連行された。
次いで、ドイツに奪われた領土を奪還していく過程で、ウクライナなど一時的にドイツの占領下にあった地域の住民が続々と逮捕された。積極的にドイツ軍に協力した者はもちろん、ドイツ人とすこしでも接触した者は「消極的反逆」あるいは「ドイツ軍との協力」として軍法会議にかけられ、生活のためにやむなくドイツ兵のために洗濯をしたり、炊事場で働いた婦女子も犯罪者として重労働を宣告されたという。
戦争が終わると、ポーランド、東ドイツ、ルーマニア、ハンガリーなどソ連軍の占領した東ヨーロッパ諸国から「反ソ行為」などを理由に大量の逮捕者がシベリアに連れ去られた。また1956年のハンガリー動乱でも、1万6000人以上のハンガリー人がソ連に連行されたといわれている。
ソ連領内に侵攻して捕虜になったドイツ兵も、当然のことながら全員がシベリアに送られた。抑留されたドイツ兵は350万人を超えるといわれるが、懲罰の対象とされた彼らの置かれた環境は劣悪そのもので、収容者の9割が死亡したところもあった。日本兵のシベリア抑留は、スターリンにとってはこうした軍事捕虜の一類型でしかなかった。
シベリアの強制労働収容所はまるで人種の博覧会だった。ドイツ、中・東欧の国民やユダヤ人を中心に、英、米、仏、伊、さらにはヨーロッパの西端のスペイン人までいたという。彼らは1936~39年のスペイン内戦の生き残りで、民主化を求めた人民戦線の兵士だった。フランコ軍に破れ、希望を胸に新生活を求めてソ連に亡命したとたんにシベリアに送られてしまったのだ。
● ロシア人も大量にシベリア送りに
もちろんロシア人自身も、スターリンの魔の手から逃れることはできなかった。
ロシア革命後、海外に亡命していた白系ロシア人は、ソ連が占領した地域では全員が本国に移送され、強制労働収容所に送られた。満州には10万人あまりの白系ロシア人が住んでいたとされるが、彼らもまた日本兵と同じくシベリア行きの列車に乗せられたのだ。
さらに悲惨なのはドイツ軍の捕虜となっていたソ連兵で、彼らは戦争が終わると軍楽隊に迎えられて祖国の土を踏んだものの、ただちに逮捕されてシベリア送りとなった。「資本主義の生活環境に毒された人間の思想を改造すること」がその目的だったという。スターリンは、西側と接触した人間のすべてを潜在的な敵と見なしたのだ。
日常生活が戻っても、恐怖はずっとつきまとった。それぞれの企業には「反ソ行為」を取り締まるためのノルマが課せられており、工場に遅刻するとサボタージュと見なされ、3回の遅刻でシベリア送りにされることもあったという。このようにして、「ソ連は三つの民族に分かれている。現在監獄にいる者、過去において監獄生活をした者、そして将来監獄に入れられであろう者」という自虐的な小噺が生まれた。
抑留者たちの手記によると、シベリア最大の都市であったハバロフスクでは夕方ほぼ同じ時間に仕事が終わるので、工場から収容所に帰る男や女の囚人たちの列で大通りが埋まるほどだったという。これはシベリアの他の都市も同じで、どこも捕虜と囚人が溢れていた。
もちろん街には一般人も暮らしていたが、彼らもその多くが元流刑者かその家族だった。
政治犯の場合、刑期が終わっても居住制限がつけられ、モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)に戻ることが許されなかった。これがひとつの理由だが、さらに多いのは、自由の身となった流刑者自身が帰郷を断念したケースだ。
第2世界大戦後、ドイツとの戦場になった地域では深刻な食糧難と飢饉が発生した。それに比べれば石炭などを産出するシベリアの流刑都市の方がはるかに生活に余裕があった。そのため故郷から家族を呼び寄せ、自由民として囚人とともに炭鉱で働いたり、技能を活かして食堂や洋服店を開くなどした元流刑者がたくさんいたのだ。
シベリア流刑の規模がどの程度かは諸説あるが、多くの研究者は1500万~2500万人と推定している。これは当時のソ連の人口の20%ちかいすさまじい数だ。
ハバロフクスやウラジオストクなどシベリアの町を訪れた旅行者は、ヨーロッパのような街並みとともに、その人種の多様さに驚くだろう。その背景には、このような歴史が隠されているのだ。
*シベリア流刑の歴史については若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(サイマル出版会)を参考にした。
当時はコロンブスがアメリカ大陸を“発見”してからおよそ1世紀で、西ヨーロッパ各国からの移民が本格化した時期だった。“新大陸”は当初、新天地を求めた移住というより、犯罪者の流刑地として使われていた。イギリスによるオーストラリア開発が本格化するのは18世紀後半だが、これはアメリカの独立により流刑地がなくなり、国内の監獄が満員になったためだ。監獄が近代的な更正施設になる前は、どの国でも犯罪者はもっとも安価な労働力だった。ロシアにとっての“新大陸”は豊富な地下資源の眠るシベリアで、そこに強制労働収容所がつくられ犯罪者が送り込まれたのは必然だった。
● 19世紀以降、急増したシベリア流刑
それでも18世紀までは、シベリアに送られる犯罪者の数は年間2000人程度だった。だが19世紀になると、ナポレオンのロシア遠征によって西ヨーロッパの自由主義(近代主義)に触れた知識人を中心に、旧態依然とした農奴制や帝政への批判が起こるようになる。その結果、大量の政治犯がシベリアに流されるようになり、その数は年間2万人、累計で200万人を超えるまでに膨らんだ。
ドストエフスキーの『罪と罰』では、金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフはシベリア流刑となり、そのあとを娼婦のソーニャが追う。そのドストエフスキー自身も社会主義者として逮捕、死刑判決を受け、皇帝の特赦によってシベリアに流され、その体験をもとに『死の家の記録』を書いている。
トルイストイの『復活』では、無実の罪でシベリアに送られた女囚カチューシャを追うネフリュードフ公爵の贖罪の旅が描かれている。劇作家とした成功し文壇の寵児となったチェーホフは、30歳のときに周囲の反対を押し切って長期のシベリア取材を敢行し、最果ての流刑地であったサハリン(樺太)を訪れ、『サハリン島』というノンフィクションを書いた。このようにシベリアは、一貫して19世紀ロシア文学の重要な背景だった。
20世紀に入るとロシアの帝政はますます混迷し、社会変革への期待が盛り上がってくる。その先導者となったレーニンもトロツキーもスターリンも、革命の指導者たちの多くがシベリア流刑を経験している。
1917年の10月革命で世界初の社会主義国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立すると、2年後には「強制労働収容所に関する法令」が発布され、帝政時代の貴族や政府の高官、反革命軍参加者、各宗派の修道僧、ネップ(新経済政策)時代の個人企業家、旧インテリ階級などが大量にシベリアに送られた。
1924年にレーニンが死ぬと、権力を掌握したスターリンは最大のライバルであるトロツキーをソ連から追放するとともに、徹底した粛清に乗り出した。とりわけ1934年のキーロフ(レニングラード・ソビエト議長)の暗殺を契機に共産党の古参幹部を軒並み逮捕・処刑した大粛清では2年間に135万人が即決裁判で有罪にされ、その半数が死刑判決を受け、残りの半数が強制収容所に送られた(キーロフ暗殺は現在ではスターリンの謀略とされている)。
● 強制収容所は人種の博覧会状態
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連は東からポーランドに攻め入り、独ソ不可侵条約によってポーランドの東半分を占領するとともに、ポーランドの軍人や旧指導層の多くをシベリアに連行した。
さらにソ連は11月、フィンランドに相互援助条約の締結を拒否されると宣戦布告もなくフィンランドに侵攻し(冬戦争)、国土の11%をソ連に割譲させた。この戦争で捕らえられたフィンランド軍の捕虜もシベリアに送られた。
1940年6月、ソ連はバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した。これらの国の住民も片っ端から逮捕され、強制移住を加えるとソ連に連行された数は10万人を超えるとされる。また同年、ルーマニアに侵攻したソ連はベッサラビアと北ブコビナを獲得したが、この地域の反共産主義者、民族主義者もシベリア送りとなった。
1941年にドイツがソ連に侵攻すると、ソ連領内に居住するドイツ移民はすべて強制労働収容所に送られた。さらにユダヤ人も「敵性国民」としてほとんどがシベリアに連行された。
次いで、ドイツに奪われた領土を奪還していく過程で、ウクライナなど一時的にドイツの占領下にあった地域の住民が続々と逮捕された。積極的にドイツ軍に協力した者はもちろん、ドイツ人とすこしでも接触した者は「消極的反逆」あるいは「ドイツ軍との協力」として軍法会議にかけられ、生活のためにやむなくドイツ兵のために洗濯をしたり、炊事場で働いた婦女子も犯罪者として重労働を宣告されたという。
戦争が終わると、ポーランド、東ドイツ、ルーマニア、ハンガリーなどソ連軍の占領した東ヨーロッパ諸国から「反ソ行為」などを理由に大量の逮捕者がシベリアに連れ去られた。また1956年のハンガリー動乱でも、1万6000人以上のハンガリー人がソ連に連行されたといわれている。
ソ連領内に侵攻して捕虜になったドイツ兵も、当然のことながら全員がシベリアに送られた。抑留されたドイツ兵は350万人を超えるといわれるが、懲罰の対象とされた彼らの置かれた環境は劣悪そのもので、収容者の9割が死亡したところもあった。日本兵のシベリア抑留は、スターリンにとってはこうした軍事捕虜の一類型でしかなかった。
シベリアの強制労働収容所はまるで人種の博覧会だった。ドイツ、中・東欧の国民やユダヤ人を中心に、英、米、仏、伊、さらにはヨーロッパの西端のスペイン人までいたという。彼らは1936~39年のスペイン内戦の生き残りで、民主化を求めた人民戦線の兵士だった。フランコ軍に破れ、希望を胸に新生活を求めてソ連に亡命したとたんにシベリアに送られてしまったのだ。
● ロシア人も大量にシベリア送りに
もちろんロシア人自身も、スターリンの魔の手から逃れることはできなかった。
ロシア革命後、海外に亡命していた白系ロシア人は、ソ連が占領した地域では全員が本国に移送され、強制労働収容所に送られた。満州には10万人あまりの白系ロシア人が住んでいたとされるが、彼らもまた日本兵と同じくシベリア行きの列車に乗せられたのだ。
さらに悲惨なのはドイツ軍の捕虜となっていたソ連兵で、彼らは戦争が終わると軍楽隊に迎えられて祖国の土を踏んだものの、ただちに逮捕されてシベリア送りとなった。「資本主義の生活環境に毒された人間の思想を改造すること」がその目的だったという。スターリンは、西側と接触した人間のすべてを潜在的な敵と見なしたのだ。
日常生活が戻っても、恐怖はずっとつきまとった。それぞれの企業には「反ソ行為」を取り締まるためのノルマが課せられており、工場に遅刻するとサボタージュと見なされ、3回の遅刻でシベリア送りにされることもあったという。このようにして、「ソ連は三つの民族に分かれている。現在監獄にいる者、過去において監獄生活をした者、そして将来監獄に入れられであろう者」という自虐的な小噺が生まれた。
抑留者たちの手記によると、シベリア最大の都市であったハバロフスクでは夕方ほぼ同じ時間に仕事が終わるので、工場から収容所に帰る男や女の囚人たちの列で大通りが埋まるほどだったという。これはシベリアの他の都市も同じで、どこも捕虜と囚人が溢れていた。
もちろん街には一般人も暮らしていたが、彼らもその多くが元流刑者かその家族だった。
政治犯の場合、刑期が終わっても居住制限がつけられ、モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)に戻ることが許されなかった。これがひとつの理由だが、さらに多いのは、自由の身となった流刑者自身が帰郷を断念したケースだ。
第2世界大戦後、ドイツとの戦場になった地域では深刻な食糧難と飢饉が発生した。それに比べれば石炭などを産出するシベリアの流刑都市の方がはるかに生活に余裕があった。そのため故郷から家族を呼び寄せ、自由民として囚人とともに炭鉱で働いたり、技能を活かして食堂や洋服店を開くなどした元流刑者がたくさんいたのだ。
シベリア流刑の規模がどの程度かは諸説あるが、多くの研究者は1500万~2500万人と推定している。これは当時のソ連の人口の20%ちかいすさまじい数だ。
ハバロフクスやウラジオストクなどシベリアの町を訪れた旅行者は、ヨーロッパのような街並みとともに、その人種の多様さに驚くだろう。その背景には、このような歴史が隠されているのだ。
*シベリア流刑の歴史については若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(サイマル出版会)を参考にした。
2013年9月2日月曜日
2013年8月23日金曜日
自由研究2013 参考資料、参考web
流れのふしぎ 遊んでわかる流体力学のABC、日本機械学会、石綿良三、根本光正
絵とき 「流体力学」 基礎のきそ、久保田浪之介
図解入門 よくわかる航空力学の基本―飛行機が飛ぶ原理と仕組み、飯野明
基礎科学研究所、松田卓也ブログ、「翼の揚力を巡る誤概念と都市伝説」
http://jein.jp/jifs.html
「紙ブーメランを飛ばそう! 」、大阪経済大学教授 西山 豊
http://www.kbn3.com/bip/data/Japanese.pdf
日本ブーメラン協会
http://www.jba-hp.jp/jba.html
おもしろ理科実験 「ブーメラン」
http://homepage2.nifty.com/pascal/jtool05.html
宇宙・地球・人類
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/nanimono-hyoushi.htm
絵とき 「流体力学」 基礎のきそ、久保田浪之介
図解入門 よくわかる航空力学の基本―飛行機が飛ぶ原理と仕組み、飯野明
基礎科学研究所、松田卓也ブログ、「翼の揚力を巡る誤概念と都市伝説」
http://jein.jp/jifs.html
「紙ブーメランを飛ばそう! 」、大阪経済大学教授 西山 豊
http://www.kbn3.com/bip/data/Japanese.pdf
日本ブーメラン協会
http://www.jba-hp.jp/jba.html
おもしろ理科実験 「ブーメラン」
http://homepage2.nifty.com/pascal/jtool05.html
宇宙・地球・人類
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/nanimono-hyoushi.htm
2013年8月7日水曜日
ジブラルタル帰属問題
1713年のユトレヒト条約以降イギリスが統治を続けているジブラルタルだが、スペインは今も返還を求めている。ジブラルタルはヨーロッパに残る最後の「植民地」であり[6]、また係争当事国がいずれもEU加盟国である点、係争が300年もの長きにわたっている点で、世界の領土問題のなかでも異色の存在と言える[6]。
スペインの基本的見解は、ユトレヒト条約第10条はジブラルタルの町、城、それに付随する港、要塞の所有と軍事利用をイギリスに認めたに過ぎず、主権はスペインに残っているというものである[1]。スペインにとってジブラルタルは長らく「スペインの靴の中に入ったペニョン(岩山)」となっている[6]。しかし返還を求めるスペインの主張は、モロッコのセウタなど自らの植民地所有と矛盾するものでもある[9]。一方、現在のイギリス統治が住民から圧倒的支持を受けていることは1967年9月の住民投票から明らかであるが[2][5]、同年12月に国連の非植民地化委員会(英語版)はイギリスのジブラルタル領有を植民地主義的だとして返還を促す決議を採択している[2][9]。
1704年のイギリスによるジブラルタル占領以降、スペインはジブラルタルを武力で奪回すべく1705年、1727年、1783年に包囲戦をしかけたが、いずれも失敗した[1]。またその後の外交による交渉も全て不首尾に終わった[1]。19世紀後半以降、スペインの国力が衰えている時期にイギリスは国境を北へ押し上げる行動に出た[6]。最終的にこれはスペイン本土との間に非武装中立地帯を設けることで落ち着いたが、ここの境界線の画定は今も棚上げされた状態である[6]。
2013年7月16日火曜日
職業について、国語作文、下書き
私たちは日本に住んでいるため、義務教育がちゃんと守られていて当たり前のように学校に行けます。
私の義務教育もあと1年です。もうすぐ終わってしまいます。
この1段落を書いているときに頭の中を廻っていたものは、
「そういえば義務教育が終わった後ってどうすればいいんだ? やりたい職業など考えていないから、
どうしたらいいのか分らない・・・」という懸念でした。
実はこの一節にかいたとおり、私は、自分の職業について、あまり考えたことはありません。
考えたことがないのです。社会に出るということは、自分の仕事を決めるということです。私は今まで
に自分の未来を真剣に考えたことがありません。
しかし、義務教育で社会に出るための土台を築いたのですからあとは自分の希望に沿って自由に進路を
選べばよいのです。そこで今回はある3つの職業について、どういう進路をたどっていけばいい
のか、調べてみることにしました。勉強することがこんなふうに将来とつながっていくだなんて、
思ってもみませんでした。私の未来の職業にはまだまだいろいろな可能性があります。
職業は、
「自分はこれが得意だからこれに関係した職業はないかな。」
というふうに探すのではなく、自分の未来は限りない可能性を秘めているのだからと思って興味の
ある仕事に向かって、それに必要なものを勉強していくことが大切ではないかと思います。
「進路図」おもしろデータファイルより
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