2010年9月23日木曜日

067 陸奥宗光


【幕末から学ぶ現在(いま)】(67)東大教授・山内昌之 陸奥宗光 (1/3ページ)

2010.6.24 07:09
下獄体験から荻生徂徠とベンサムの思想をつないだ陸奥宗光(国立国会図書館蔵)下獄体験から荻生徂徠とベンサムの思想をつないだ陸奥宗光(国立国会図書館蔵)
 ■幕末維新の「最小不幸社会」
 菅直人首相によれば、「政治の目標は人々の不幸を最小化すること」にあるようだ。何故に「最大多数の最大幸福」でなく、「最小不幸社会」を唱えるのだろうか。
 おそらく菅首相は、イギリスの功利主義哲学者、ジェレミー・ベンサムによる「最大多数の最大幸福」を少数派つまり弱者の利益無視の考えと理解しているのだろう。恵まれない人々の利益を最大化する「正義」として、最小不幸社会を構想したいのかもしれない。確かに、功利主義にはベンサムの「貧民管理」や刑務所民営化の論のように、個人の権利を尊重しない面があるのも事実である。
  

ベンサム学んだ侍

 ところで、幕末維新期に活躍した政治家にもベンサムを学んだ人物がいた。それは坂本龍馬の弟子だった陸奥宗光である。紀州藩出身の陸奥は、明治10(1877)年に西南戦争が起きると、土佐立志社の一部と政府転覆計画にかかわって逮捕された。
 そして、その下獄経験を「此一事は余が半生の一大厄難にして、自家の歴史上磨滅(まめつ)すべからざるの汚点なり」と記した。しかし陸奥は、無為に獄中生活を送ったわけではない。むしろ獄中での猛烈な勉強で知ったベンサムの仕事こそ、後代の陸奥を大きく成長させる基盤となったのだ。
 陸奥がベンサムの思想を理解できたのは、すでに荻生徂徠(おぎゅうそらい)を学んでいたからである。山路愛山(やまじ・あいざん)は、徂徠学とイギリス功利主義に共通する実利性に言及した。徂徠において日本は初めて「実利派的」な頭脳を見いだし、アングロサクソンのように事実を尊び、常識を重んじる人を発見したというのだ。愛山が徂徠を自由な世界に生き、自由に行動した人物と評価したとすれば、陸奥は徂徠のどこに惹(ひ)かれたのだろうか。
 陸奥は、しかるべき能力の人材登用の必要を唱えた徂徠が「賢者は何(いつ)も上に有て、愚者はいつも下に有る」(『政談』巻之三)と強調したことを評価していた。徂徠の思考になじんだ陸奥にとって、ベンサム思想の吸収は容易であった。
  

藩閥批判も再び出仕

 獄中でベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)を訳了した陸奥は、先験的な規範や命題を斥(しりぞ)け、「人之常情」(普通の人情)という経験を優先させることで、徂徠学の教養とベンサムの功利主義をつないだのであった。陸奥は、自由なくして人智の進歩がありえず、人智の進歩なくして人間の幸福がありえないというベンサムの主張に共感したのである。
 幸福と知識との間に密接な関係があるという自由論の要に立って、陸奥は人智の進歩を妨げる存在として、「頑陋(がんろう)なる宗教家」「僻古(へきこ)の道学者」に加えて「偏見なる政治家」も挙げていた。彼が意識したのは、反動的な藩閥政治家たちにほかならない。
 同時に陸奥は、現実に歴史や政治を動かす「権力」から遠ざかるなら、決して自らの経綸(けいりん)や抱負を実現する術は与えられず、政治関与の機会も逸することを下獄体験から学んだ。陸奥は、ベンサムに依拠して「自由民権」という普遍的な「理念」のもつ力と意義を評価し、欧米の大勢が目指すデモクラシーの意義を認めながらも、日本では少数の「真個の貴族」「才力ある平民」が運動を適切に指導せねば堕落すると考えた。陸奥は、挫折経験から「藩閥は外より攻むべからず、内より改むべきのみ」と信じるようになり、再び藩閥政府に出仕したのである。
 このあたりの現実感覚は、政権交代のためなら小沢一郎氏とも手を組んだ菅首相の徹底した実利主義とも似ている。政党政治や官僚統治の主流から離れていた菅氏が、権力の内懐(うちぶところ)に接近していく手法や迫力も、陸奥に似たところがあるのではないか。
 「最小不幸社会論」を唱える菅首相は、消費税値上げのタブーに挑戦しながらベンサムの提起を前向きに生かすのか。あるいは参院選挙だけを意識して陸奥のいう「偏見なる政治家」の仲間入りをするのか。その真価がまもなく問われようとしている。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】陸奥宗光
 むつ・むねみつ 弘化元(1844)年、紀州(和歌山県)生まれ。脱藩し坂本龍馬海援隊に参加。新政府に入るが、挙兵を企てた土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄する。出獄後、欧米を歴訪。帰国後外務省に入省、駐米公使となる。第1回衆院選で当選し、第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。明治27年、日英条約改正を成功させ、領事裁判権の回復に尽力。対清強硬路線をとって日清戦争開戦へと導き、講和や三国干渉に対処した。明治30(1897)年、死去。享年54。

068 大楽源太郎


【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎 (1/3ページ)

2010.7.1 07:17
山口県防府市台道にある大楽源太郎の墓(防府市教育委員会提供)山口県防府市台道にある大楽源太郎の墓(防府市教育委員会提供)
 ■「奇兵隊内閣」の矛盾
 菅直人首相は自らの大臣たちを「奇兵隊内閣」と呼んでいる。市民運動出身の総理はじめ各種の職業的背景や庶民感覚をもつ多彩な人材がいるという自負なのだろう。しかし、このネーミングにしっくりこない人もいるはずだ。
 なぜなら、藩の公式兵力たる「正兵」への異端としての「奇兵」であり、権力を掌握すれば「奇兵」であることはできないからだ。「奇道」で勝を制するゲリラ兵力の意味をもつ部隊は、幕末から維新へという激動の変革期にはふさわしくても、治国の支えには不似合いなのである。
  

権力掌握すれば無用

 実際、戊辰戦争で働いた奇兵隊などの諸隊は、明治2(1869)年に版籍奉還を実現した山口藩知事の毛利元徳(もとのり)にとってもはや無用の存在であった。
 正兵隊(藩の正規軍)を残し、奇兵隊などの解散が命じられたのも当然だろう。
 戦争が終われば、兵士は除隊して復員するか、部隊を縮小し平時体制に戻るかのいずれかしかないのに、防長2州では武装した奇兵隊はじめ諸隊はこの解散命令を受け入れなかった。数千名の武装集団が山口を脱走して三田尻(山口県防府市)へ集結、やがて藩庁を取り囲む「脱隊暴動」あるいは「脱隊騒動」に発展したのだ。
 諸隊反乱は、戦後の明治維新史研究でも活発に論争が交わされたテーマであった。菅首相の「奇兵隊内閣」なる自己定義から思い立って、直木賞作家の中村彰彦氏から借用した『奇兵隊反乱史料・脱隊暴動一件紀事材料』(石川卓美・田中彰編、マツノ書店)を読むと懐かしい名前に再会したのである。
 学生時代に「大楽源太郎一派の不平士族」「攘夷(じょうい)反動士族」が奇兵隊暴動を利用し煽動(せんどう)したという説を聞いて以来、このやや変わった姓の人物が気になって仕方なかった。大楽源太郎は、もとはといえば毛利家の陪臣にすぎなかったとはいえ、友垣の久坂玄瑞(げんずい)とともに禁門の変に敗れて帰郷後、高杉晋作による下関・功山寺での挙兵に呼応決起するなど、俗論派を倒して幕長戦争に勝利する道筋に地味ながら貢献した人物である。
 この間、大楽は三田尻近くに「西山書屋」という私塾を開設するが、門人に神代直人、大田瑞太郎、団伸二郎ら大村益次郎暗殺にかかわる人物が現れたことも大楽の運命を変えることになった。
 長州を倒幕に導いた大村は、新政府の兵部大輔(ひょうぶだゆう)に任命され西洋式の軍制改革に着手したために守旧派武士の反感を買い、明治2年に神代らの刺客に襲われたのである。大楽こそテロの首謀者だという嫌疑をかけられたのも当然かもしれない。神代は師が嫌疑をかけられたことを知って自害した。
 大村襲撃事件と同年に起きた奇兵隊脱隊騒動で藩庁を包囲した不穏分子にも大楽の弟子が多数含まれていた。大楽も日頃(ひごろ)から諸隊解散に反対していたので、脱隊暴動の首謀者だと睨(にら)まれたのは当然であろう。そこで、藩の追及を逃れて九州に難を避け、鶴崎経由で久留米までやってきた。まさに奇兵隊に似た応変隊に頼って再起を期そうとしたのだ。
  

最期は仲間に斬殺され

 いまだに尊皇攘夷を奉じる応変隊は源太郎を受け入れるが、新政府の開国と欧化の強い方針は揺るがず、大楽の庇護(ひご)を続ければ藩の存続も危ぶまれるほどだった。大義と忠義との間で板挟みになった応変隊の有志らは、「回天軍」を起こす用意が整ったと大楽を誘い出して斬殺し、藩が大事に至らないように処置したというから無残極まりない。
 また、奇兵隊など諸隊の掃討は無慈悲を極めた。その死者は空堀の中に放りこまれ上から土をかけられたという酷(むご)いものである(『観樹将軍回顧録』)。大楽源太郎らは時勢の変化を読みきれなかっただけでない。レーニンや毛沢東のように、反体制や批判勢力が権力の側に回った時の無慈悲さを知らなかったのである。
 新政府の権力を握った長州藩のエリートは奇兵隊を無造作に切り捨てられるリアリストばかりであった。してみれば、「奇兵隊内閣」とはかなり矛盾をはらんだ表現だと分かるだろう。
 もっとも山口県出身の菅首相がいずれ政府民主党から大楽のような人間、即(すなわ)ち離党や脱党の徒が出ることを予知しながら、「奇兵隊内閣」を凝(こ)った暗喩(あんゆ)として用いたとすれば、相当なマキャベリストということになる。そうした資質や知識が菅首相の内面にあるなら、脆弱(ぜいじゃく)な政治家が多い日本では国際的にもライバルと切り結べる異能の人材として面白いのだが…。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】大楽源太
 だいらく・げんたろう 天保3(1832)年、長州(山口県)萩生まれ。幼少のころ、周防国吉敷郡に移住。京都で梅田雲浜(うんびん)らと尊攘運動を行う。高杉晋作の下関挙兵に応じて忠憤隊を組織。私塾を開き、子弟の教育に当たる。明治2年、奇兵隊を含む諸隊解散に端を発する脱隊騒動や大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉されるが、脱走。久留米に逃れるが、明治4(1871)年、政府の探索にかくまいきれなくなった同藩士に暗殺された。享年40。

069 栗本鋤雲


【幕末から学ぶ現在(いま)】(69)東大教授・山内昌之 栗本鋤雲 (1/3ページ)

2010.7.8 08:15
栗本鋤雲(国立国会図書館蔵)栗本鋤雲(国立国会図書館蔵)
 ■出廬を請われた政治家
 維新政府から出廬を請われながらも、徳川幕府への義に殉じた栗本鋤雲(国立国会図書館蔵)
 「出廬(しゅつろ)」という言葉がある。引退して現実政治から離れていた有能の士が請われて再び表舞台に立つことである。『三国志』で劉備が諸葛孔明に三顧の礼を尽くしたところ、孔明も草廬(そうろ)(草葺(ぶ)きの粗末な家)を出て劉備に仕えた故事はあまりにも有名である。孔明とは言わずとも、あたら驥足(きそく)を展(の)ばせず野にいる人を放置しておくほど、日本の政界は人材に恵まれているわけでない。
 政権交代に続いて菅直人政権が成立したとあれば、民主党にとって出廬を期待されるのは、田中秀征(しゅうせい)氏かもしれない。氏らが自民党を離脱して創(つく)った新党さきがけは、細川護煕政権発足の原動力となったが、氏はその時からそれなりに存在感のある政治家として菅氏とともに目立っていた。
 第1次橋本龍太郎内閣経済企画庁長官も務めたのに、選挙には滅法(めっぽう)弱かったらしい。有権者の意識レベルが高いとされる長野県でも、氏の理想的な政治哲学はなかなか受け入れられなかったのだろうか。
 ◆犬養毅尾崎行雄育てる
 幕末明治初期に権力から離れた幕臣のなかにも、しきりに出廬を請われた人物が多い。もともと奥医師の家に生まれた栗本鋤雲(じょうん)もその一人である。奥儒者あがりの成島柳北(なるしま・りゅうほく)のように、やがて行政官僚に転じフランス語を習得して外国奉行になったというのだから、幕府には異能の士がたくさんいたのだ。
 明治6(1873)年に『郵便報知新聞』の主筆に就いた鋤雲は、犬養毅尾崎行雄を育てるとともに、出仕を終生断り続け、藩閥政権の非を鳴らし徳川幕府への義に殉じた。
 鋤雲は先輩医師の不興を買って箱館に左遷されるなど辛酸も嘗(な)めた。任地にあっても南千島や樺太の探検に精を出すなど現場感覚を身につけている。外国奉行となった鋤雲は、勘定奉行小栗忠順(ただまさ)とも親交を結び、幕府開明派官僚の代表格として、横須賀製鉄所の建設や軍事顧問の招聘(しょうへい)にも尽くした。
 ◆パリ滞在記で健筆
 彼は将軍慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)が慶応3(1867)年にパリ万国博覧会に参加したときに補佐を命じられた。この時のパリ滞在記が『暁窓追録』(井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』岩波文庫所収)である。そこには、ナポレオン3世さえ恐れる「ビスマルクの賢」、プロイセンとの戦争も辞さない「豪邁(ごうまい)の人」ドルアン・ド・リュイス(フランス外相)、イタリアの「狂妄」の「奇男子」ことガリバルディなど、欧州政治家の人物月旦も含まれており、面白い読み物になっている。
 さて、史家の森銑三(せんぞう)は鋤雲を勝海舟と反りの合わぬ一人としている(『新編明治人物夜話』)。鋤雲は礼節を重んじ人に対して慇懃(いんぎん)だったが、ただ酒を嗜(たしな)み、酔えば人物が一変して放言もした。それでも人柄は陽性にできていたという。
 森は、海舟が酒を好まず、酔わずして人を冷評罵倒(ばとう)した陰性の性格であると辛口の評価をする。海舟が痩(や)せて干からびていたのに、鋤雲は●幹(くかん)も偉大で容貌(ようぼう)も魁偉(かいい)だったというのだ。これは、額も広く鼻も厚く、耳や口も大きいことから「お化け栗本」と異名をとったと形容する島崎藤村の指摘とも符合する。
 ◆容貌魁偉、異能の人物
 要は鋤雲こそ異能の人物というにふさわしい。自分を恃(たの)むところが大きい菅首相に田中氏のような独特の政治観の持ち主を起用する太っ腹なところがあるかどうか。2人と面識もなく、そのケミストリー(反り)の如何(いかん)を私はつまびらかにしない。
 そういえば、鳩山由紀夫氏といい菅氏といい、バッジをもたない民間人を閣僚に起用することがない。田中氏くらいの才幹であれば、参院選後と囁(ささや)かれる政界再編成に出番を見据えているのかもしれない。田中氏に出廬を促す政治家が果たして現れるのだろうか。(やまうち まさゆき)
                   ◇ 
 本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
                   ◇
【プロフィル】栗本鋤雲
 くりもと・じょうん 文政5(1822)年、江戸生まれ。父は幕府医官。家業を継ぎ、奥医師となる。箱館移住を命じられ、山野の開拓や病院建設などに力を注ぎ、箱館奉行組頭に。文久3(1863)年に江戸に戻り、軍艦奉行外国奉行などを歴任。親仏派として外交交渉に尽力。フランスに派遣され、対幕借款の促進などにあたった。維新後は新政府に仕えず、郵便報知新聞に入社し、主筆として随筆などを寄稿した。明治30(1897)年、76歳で死去。没後、著述は『匏庵(ほうあん)遺稿』としてまとめられた。
●=躯のメが品

070 佐久間象山


【幕末から学ぶ現在(いま)】(70)東大教授・山内昌之 佐久間象山 (1/3ページ)

2010.7.15 08:06
幕末の「タレント」として存在感を発揮した佐久間象山(国立国会図書館蔵)幕末の「タレント」として存在感を発揮した佐久間象山(国立国会図書館蔵)

本物の「タレント」

 今回の参院選にはスポーツ選手や各種のタレントの立候補が目立った。その25人のうち、当選したのは、女子柔道の金メダリストや元野球選手など5人にとどまった。この候補者らの政治意識や関心のほどがよく分からない。
 そもそも立候補前に、かれらの口から政治外交や金融経済に関する抱負を聞いた人がいるだろうか。多数の落選で、テレビタレントやスポーツ選手として多少の名を売った人が比例で当選できるという思い込みや幻想が崩れたとすれば、今回の参院選は将来の日本政治のレベルアップにかなり貢献したことになる。
 まだしも本人がタレントなり才人であればともかく、有名スポーツ選手の父であるというだけの理由で議員に当選した人もいる。また、週刊誌で芳(かんば)しくない話題を提供する以外に、さしたる動向を聞かない人もいる。政党も問題であるが、こうした人物に投票する有権者の気構えも問題であろう。
 国や国民を舐(な)めきった政党や一部芸能人の態度に良質な有権者たちが、ようやく鉄槌(てっつい)を下したというのであれば、日本の未来も救われるというものだ。本来「タレント」とは才能や才幹を意味し、そこから「才能のある人たち」に転じ、さらに「芸能人」を指すことになった。芸能人がその芸で才能に恵まれたとしても、政策や構想力を鍛える才能を兼備した例をついぞ知らない。
 ◆兵学、種痘導入…万能
 ところで幕末最大の「タレント」といえば、何といっても佐久間象山しょうざん)であろう。信州(長野県松代藩士の象山は、若い時分に経学と数学をともに習得し、主君の真田幸貫(ゆきつら)(松平定信(さだのぶ)の実子)が老中となり海防掛に任ぜられて以降洋学を研究するようになった。
 彼の知識は、大砲の鋳造など実学としての兵学から、ガラスの製造、地震予知器の開発、牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)の導入などにも成功し、「タレント」である以上に「ユニバーサルマン」(万能人)ともいうべき存在になった。その分だけ彼は自分を恃(たの)むところが強く、韮山(静岡県)で反射炉をつくった江川太郎左衛門や、義兄となる勝海舟など幕府の洋学者とソリが合わなかった。
 開国論や西洋事情の摂取を説いた『省●録(せいけんろく)』とはあやまちを省みる記録の書という意味だが、とても謙虚に自らの不足を反省するといった段ではないのだ。象山は、「私は長いこと海防に意を用いてきた。思うに、私が発明したものは前人が及ばないものであった」と自分の「タレント」ぶりを自画自賛する。
 そのうえ象山は、言わずもがなの自信を堂々と披瀝(ひれき)する。現代語に訳するとこうだ。「およそ学問は必ず積み重ねを必要とするものだ。一朝一夕でたやすく詳細に知ることはできない。海防論も簡単に通暁(つうぎょう)できない一つの大きな学問なのだ」
 吉田松陰の密航事件に連座して捕らえられたとき、獄中で書いた『省●録』は、弁解の書というよりも気迫の書ともいうべき活気にあふれた記録である。黒船襲来という国難に対応できる才人は自分しかいないという口ぶりなのだ。むかしから洋学を修め提言や警告もしてきたのに、幕府がそれを無視してきた高いツケが今日の危機をもたらしたと言いたげなのである。
 ◆門下から多くの人材
 勝海舟の妹の順が嘉永5(1852)年に象山に嫁いだが、勝は傲岸(ごうがん)な象山を評価していない。『氷川清話』では、象山は「軽はずみ」にして「ちょこちょこした男」で「あれだけの男」だったと酷評している。しかし、象山門下からは、小林虎三郎勝海舟河井継之助坂本龍馬橋本左内加藤弘之らも出ており、彼の「タレント」ぶりを疑う人間はまずいない。
 比べるのも愚かにせよ、当節のタレントたちには、政治家に転身することで、自分の新たな職業的覚悟を永久に問われることがよく分かっていないのではないか。有権者の前で得意の技や芸を披露することをタレントの資質やアピール力と錯覚した芸能人やスポーツ選手らには、本物の「タレント」が命さえ犠牲にして自分の才能と理念を訴え続けた歴史の厳しさを改めて理解してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
●=侃の下に言
                   ◇
 本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
                   ◇
【プロフィル】佐久間象山
 さくま・しょうざん 文化8(1811)年、信州(長野県)松代生まれ。幼少から経学や和算に秀で、江戸で儒学者佐藤一斎に師事した後、神田に塾を開く。老中となった松代藩主、真田幸貫から海外事情の研究を命じられ、「海防八策」を提出。江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、勝海舟らに教えた。安政元(1854)年、吉田松陰の密航事件に連座し松代に蟄居(ちっきょ)するが、のちに赦免。元治元(1864)年、幕府の命を受けて上洛し、公武合体や開国を主張したが、京都で尊攘派に暗殺された。享年54。

071 津田出


【幕末から学ぶ現在(いま)】(71)東大教授・山内昌之 津田出 (1/3ページ)

2010.7.22 08:07
近代陸軍の基礎をつくった津田出。写真は和歌山城(和歌山県提供)近代陸軍の基礎をつくった津田出。写真は和歌山城(和歌山県提供)

権力から離れる勇気

 自民党から分かれた新党の党首たちは錚々(そうそう)たる顔ぶれである。「たちあがれ日本」「新党改革」「みんなの党」の代表たちは、いずれも自民党の総裁になってもおかしくない人材であった。しかし、「みんなの党」を除いて参院選の結果は芳しくなく、小泉純一郎元内閣の郵政解散で自民党から離れた「国民新党」の亀井静香氏の存在感もやや弱くなった。
 新党をつくっても政治は一人でやるものではない。幕末維新でも藩のリーダーが1人だけ優れていても、それを輔翼(ほよく)する人材がいないと天下をとることはできなかった。そうした一例は、紀州藩と津田出との関係に見いだすことができる。
 ◆新政府のモデル構築
 蘭学を修めた津田出は、幕末と明治初期に2度ほど藩政改革にあたり、家禄の大削減や無役藩士の農工商への従事を許した。津田の業績は、明治2(1869)年に和歌山藩大参事として、他藩が驚く「交代兵取立之制」なる志願兵に似た制度を採用した点から始まる。
 また、その直後に、プロイセン王国から下士官カール・ケッペンを招聘(しょうへい)し、ドイツ式軍制改革を遂行した大胆さにも驚く。さらに翌年には、交代兵要領を廃して、「兵制改革兵賦」の編成を目指し「兵賦略則」を布告したが、これは四民平等の国民皆兵による徴兵制にほかならない。
 この藩政改革こそ近代国家をめざす明治新政府のモデルとなり、明治4(1871)年に実施された廃藩置県の先例となり、明治6(1873)年の新政府の徴兵令の先駆ともいうべきものだった。
 津田は、藩独自の徴兵検査を実行し、矢継ぎ早に徴兵制や郡県制度を整備したことになる。
 ◆出身藩の人材難で孤立
 参議の西郷隆盛に評価された津田は、廃藩置県後に中央政府の大蔵少輔に抜擢(ばってき)された。しかし、これほどの才幹だったにもかかわらず、津田の不幸は藩徴兵軍の都督職を譲った陸奥宗光(むつむねみつ)以外にこれといった偉才を欠いた紀州藩の人材難にあった。
 新政府が津田を中央に呼んだのも、彼ほどの麒麟(きりん)が地方にくすぶることを惜しむと同時に、奔馬(ほんば)になって威令(威光と命令)が行われないことを恐れたからだ。しかも、陸奥が西南戦争や土佐立志社の陰謀事件に連座して失脚したせいもあり、津田は頼るべき同輩や朋友をもたずに薩長政権の内部で孤立してしまった。
 大蔵省や会計監督局といった財政官庁から天才ぶりを発揮できる陸軍に移り、少将となった。しかし、陸軍省第一局長や第五局長などのデスクワークを務めただけで、鎮台や師団の司令官に任じられることはなかった。明治軍事史で本格的な兵制改革や徴兵制度を実現し近代陸軍の基礎をつくった人物にしては、失意のキャリアを重ねたのである。
 ◆偉才に似合わぬ閑職
 元老院議官などは、偉才津田には似合わぬ閑職にすぎなかった。鎮台兵や近衛兵の近代的な装備や編制を整えるために紀州藩兵を提供し、西郷隆盛山県有朋に匹敵する業績を挙げたのに、才能を開花させる重要官職に恵まれなかったのは不幸であった。
 予備役に入る前から、千葉や茨城にまたがる地帯でアメリカ式大農法を試み、国内で最初の乳牛ホルスタイン種を導入したのも、政界や官界では志を得られないことを知ったからだ。偉材を腐らせる罪というものもある。藩閥外の有能な人間を国政に引き立てた西郷はやはり偉いのだ。
 さて、参院選で新党のリーダーの面々は、政治を動かす十分な数を得られなかったいま、同じ紀州藩でも陸奥宗光の道と、津田出の道のいずれを選ぶのであろうか。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、藩閥政権の内懐に入って権力への道を歩むのか、政治経綸(けいりん)への自信と自己への矜持(きょうじ)にかけて孤高の道に留まるのか。むずかしい選択を迫られている。(やまうち まさゆき)

 本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
【プロフィル】津田出
 つだ・いずる 天保3(1832)年、紀州(和歌山県)生まれ。江戸で蘭学を学ぶ。藩の御用掛取次・国政改革制度取調総裁に任命され、藩政改革に着手するが、保守派の抵抗にあい蟄居(ちっきょ)を命じられる。維新後再登用され、和歌山藩大参事となる。俸禄を削減し、徴兵制を施行。プロシア式軍事教練を導入し、近代的な軍隊を整備した。新政府に採用され、陸軍少将元老院議官などを歴任し、貴族院議員に勅選。晩年は千葉県などで開墾事業に従事した。明治38(1905)年、74歳で死去。