2010年9月23日木曜日

072 天璋院


【幕末から学ぶ現在(いま)】(72)東大教授・山内昌之 天璋院 (1/3ページ)

2010.7.29 08:19
自己改革に努めて時代の試練に立ち向かった天璋院(尚古集成館蔵)自己改革に努めて時代の試練に立ち向かった天璋院(尚古集成館蔵)
 

御台所の自己改革

 幕末維新のような変革期は、古めかしくなった政治や経済だけでなく、人間と慣習のあり方まで抜本的に変えてしまう。ことに、「内室」とか「奥方」と呼ばれ、「奥」に閉居させられ「表」の社会や政治から隔離されていた武家方の女性は、身分が高いほど変革の荒波にもまれることになった。
 それでも、彼女たちが自分なりの努力と才覚で新時代の生活に適応することを迫られたのは、まさに時の勢いというものであった。平成20年のNHK大河ドラマ「篤姫」で宮崎あおいさんの演じた天璋院も、時代の試練に立ち向かった健気(けなげ)な女性と言えなくもない。
 ◆下情に通じ鋭い観察力
 天璋院は、薩摩藩島津家の一門に生まれた後に本家島津斉彬(なりあきら)の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所(みだいどころ)となった。篤姫が夫家定の死後落飾(らくしょく)して天璋院と名乗ったのである。
 もともと島津の分家で育った分だけ下情(かじょう)に通じており、聡明(そうめい)でもあったから“女はとても何も分かりやしない”といって侮蔑(ぶべつ)する徳川慶喜(よしのぶ)を嫌ったらしい。勝海舟は、「天璋院は、仕舞迄(しまいまで)、慶喜が嫌いサ」と語り、「ウソ斗(ばか)り言つて、善いかげんに言つてあるから、少しも信じやしないのサ」と天璋院の鋭い観察力を褒めている(巌本善治編『増補海舟座談』岩波文庫)。
 幕府が瓦解しても薩摩に戻らず、江戸改め東京の千駄ケ谷に邸宅を構え「徳川の女」として人生をまっとうした芯の強さは、万事につけて娘の溶姫とその嫁ぎ先加賀前田家に寄生した、第11代将軍家斉(いえなり)の愛妾(あいしょう)専行院(美代)とは違うところだ。勝海舟は、八百善(やおぜん)や向島(むこうじま)の柳屋といった料亭などに何度も連れ出しただけでなく、色町の吉原や芸者屋にも「私の姉」と称して案内したのだ。
 ◆助言や示唆に素直に従う
 「女だから、立小便も出来ないから、所々に知つて知らぬふりをしてくれる家が無いと困るからノ」と下品な調子で勝は述べているが、天璋院の偉いのは「段々と自分で考へて、アーコーと直きに自分で改革さしたよ」という勝の助言や示唆に素直に従ったあたりであろう。
 ある船宿で便所を借りて出ると、火鉢に鉄瓶が掛かって湯が沸いておりお茶を一つといって出されると、大層うまいと言って「之はいゝものだ」といって邸宅でも鉄瓶を使うようになった。さすがに勝は「之は下司(げす)のすることです」とたしなめ、銀瓶がたくさんあるのでお使いなさいといっても、「イヤ、之が善い」といってきかなかった。
 また、柳屋で風呂に入って、浴衣の単物(ひとえもの)を出すと万事に気持ちがよいといって直にこの習慣になった。それまでは大奥の習慣を受け継いで、風呂の湯を別に沸かして羽二重(はぶたえ)で体を濾(こ)すので着物もべたべたするし、浴衣のほうがいいということになった。シャツも使うと便利で手放せない。勝の家に来たときも、蝙蝠傘(こうもりがさ)を杖(つえ)がわりにして「どうも、日傘よりも好い」と屈託がないのだ。
 ◆大奥関係者の面倒も
 こうして天璋院は、「万事自分で改革をした。こツちは、少しも関係しない」「ズーツと事が改(あらたま)つて来たよ」と勝にますます褒められるようになる。そのうち裁縫にも達者になり、随分うまくなったから縫ってきたと勝にも手製の羽織を1枚下賜(かし)したというから驚く。
 世が世なら第13代将軍の正室なのである。第14代将軍家茂の未亡人の和宮(静寛院宮(せいかんいんのみや))と相談して大奥関係者の女性の身過ぎ世過ぎを心配し、第16代宗家の家達(いえさと)(亀之助)の扶育にもあたったのだから、これは見事な生き様(ざま)というほかない。
 幕府瓦解後の天璋院は、平和な時代に生まれ国会議員にも選ばれながら、一向に勉強しない「ガールズ」「チルドレン」の一部には決して真似(まね)もできない真剣な生き方を貫いたのである。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】天璋院
 てんしょういん 天保6(1835)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。通称、篤姫。島津家の一門に生まれ、はじめ島津斉彬、次いで近衛忠煕(ただひろ)の養女となる。安政3(1856)年、徳川家に嫁ぎ、第13代家定の御台所(妻)となる。5(1858)年に家定が病没すると、落飾(出家)して天璋院と号した。幕府瓦解の際、和宮と協力して徳川家救済に尽力。維新後は、徳川宗家を継いだ家達の養育に専念した。明治16(1883)年、死去。享年49。

073 姉小路公知


【幕末から学ぶ現在(いま)】(73)辻元清美と「黒豆」の政策転換 (1/4ページ)

2010.8.5 07:27
幕末政治を大きく動かした姉小路公知幕末政治を大きく動かした姉小路公知

東大教授・山内昌之 姉小路公知

 辻元清美氏が社民党離党を表明した。辻元氏といえば、政策通でも知られた社民党の顔だっただけに、離党劇は残された社民党議員らにとってショックであろう。米軍普天間飛行場の移設問題をめぐる福島瑞穂党首との確執もささやかれている。
 社民党には、民主党や国民新党と連立政権を組んで政治のリアリズムに鍛えられた政治家ばかりいるわけではない。自己の信念を抱きながら柔軟に権力の責任に対応して成長を遂げた政治家、個人の信念だけで政治が動くと勘違いし政策を少しも動かせない(あるいは動かす気のない)政治家など、社会民主党の指導者群像には興味深いものがある。
 少なくとも、辻元氏は国土交通副大臣として前原誠司大臣の信頼も厚く、現実政治で何事かを進めようとする心構えや気迫が見えた。かつて議員給与の流用問題などで失職した体験を「半生の一大厄難」(陸奥宗光(むつむねみつ))として活(い)かしているのかもしれない。政治を現実に動かす与党の立場になれば、野党気質の無責任なイデオロギーを封印するか、清算し転換するか、いずれかの立場を強いられるのは当然である。
 幕末政治における最大の政策転換は、攘夷(じょうい)から開国への国是の変化である。そこには大きな犠牲も伴う。代表例は、姉小路公知であろう。
 「白豆」と仇名(あだな)された三条実美(さねとみ)とともに、色黒のために「黒豆」と揶揄(やゆ)された姉小路は、文久2(1862)年9月、コンビを組んで江戸に向かい幕府に攘夷の早期決行を迫った。「皇国の武威」を奮い「攘夷の成功」を遂ぐべしという勇ましい勅旨(ちょくし)を伝えたのである。
 正使の三条と一緒に、勝海舟の案内で江戸湾岸を視察した。帰洛後、「黒豆」は国事参政になっても「白豆」とともに幕府を困らせる攘夷派の先鋒(せんぽう)であった。しかし翌年5月に深夜の朝議を終え帰邸する途中、朔平(さくべい)門外の猿ケ辻で刺客に襲われ、まもなく自宅で卒去したのである。
 これは幕末の暗殺テロでも謎の多い事件である。残されていた刀などの物証から、薩摩藩田中新兵衛下手人と目されたが、取り調べ中に田中が自刃したために真相は闇に沈んでいる。
勝海舟の説得で開国に?
 通説では、姉小路勝海舟の説得にあって攘夷の不可なることを痛感したからだともいう。確かにテロは、文久3年に国事参政となってまもなく4月に摂海防備巡察の職を兼摂(けんせつ)した直後に起きた。
 姉小路公知は、4月23日から摂海巡視で初めて海に出たとき、勝海舟と論議を重ねて開国論を理解するようになったらしい。馬場文英の著した『元治夢物語』(岩波文庫)によれば、「公知朝臣(あそん)、天保山近海、御廻見有(あり)て、追日(ひをおって)御帰京」とある。姉小路の帰洛後すぐに、朝廷は幕府に「摂海防備三か条」の沙汰(さた)を下している。これは勝と姉小路との出会いの成果ではなかろうか。
 勝自身は、自分の意見を吸収した姉小路が朝議を動かした結果だと語っており、姉小路の盟友だった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)も、摂海巡視の時に勝から「無謀の攘夷は出来ぬ」と説かれたことで帰洛後に「鋭鋒(えいほう)が挫(くじ)けた」と述べていた。姉小路の転向は武市半平太(たけちはんぺいた)などには癪(しゃく)の種であり、幕府にとっては心強い味方になる矢先の凶変である。孝明天皇の死とともに幕末政治の転回を決定づける事変だったことは間違いない。
 ◆強固な意志力と勇猛心
 姉小路公知の偉いのは、襲われた時に、太刀をもった侍臣の1人が卑怯(ひきょう)にも逃げたのに、肩に深手を負っても笏(しゃく)などで凶漢に立ち向かい、自邸に戻って絶息したことである。武士も及ばぬほどの勇気と闘争心ではなかろうか。攘夷運動の先駆となった天誅(てんちゅう)組の中山忠光といい、姉小路公知といい、公家にも強固な意志力と勇猛心をもつ者もいたのである。
 さて辻元氏には、姉小路のような決心をもって、日本政治を大転回させる機会として離党を活用してほしいものだ。だとすれば、有権者たちは「嘆くべきでない人々について嘆く」必要はないのだ。賢者は死者についても賢者についても嘆かぬ者だというインドの古典『バガヴァッド・ギーター』(上村勝彦訳)の一節は正しいのである。
 辻元氏の前途は姉小路のように多難かもしれない。しかし、そもそも政治の中核に入っても何一つ変わらず変わろうともしなかった福島瑞穂氏については、嘆くべきなのか、嘆かざるべきなのか、『バガヴァッド・ギーター』さえ答えてくれない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】姉小路公知
 あねがこうじ・きんとも 天保10(1839)年、京都生まれ。三条実美と親交を結び、尊攘派公家の中心人物として活躍。日米修好通商条約調印の勅許に反対した。和宮(かずのみや)降嫁に絡み、岩倉具視(ともみ)らを弾劾。勅使、三条実美のもと副使として江戸に赴き、幕府に攘夷を督促。国事参政となり、摂海(大阪湾)を巡視した。文久3(1863)年、御所からの帰途、暗殺された。享年25。

074 志賀重昂


【幕末から学ぶ現在(いま)】(74)東大教授・山内昌之 志賀重昂  (1/4ページ)

2010.8.12 07:52
このニュースのトピックス竹島問題
愛知県岡崎市東公園にある志賀重昂の像(同市提供)愛知県岡崎市東公園にある志賀重昂の像(同市提供)
 

アラブの王様に会った武士 

 9日からアラビア半島の東南にあるオマーンに滞在中である。ホルムズ海峡を挟んでイランと向かい合っているアラブの国にほかならない。カーブース・イブン・サイードをスルターン(君侯(くんこう))とするイバード派(イスラームでいちばん早く成立した分派)の国であるが、人材開発を軸に近代化を短期のうちに達成したことで知られる。
 また、香水と花を愛する治安のよい平和国家でもある。2010年の世界平和度指数では、149カ国中オマーンは23位であり、中東・アジアでは日本の3位、カタールの15位、マレーシアの22位に次ぐ。世界最高級の香水「アムアージュ」や乳香(にゅうこう)はもとより、山々に咲く多彩なバラでローズウオーターも作られていることは、旅行案内にも詳しい。
 この国を最初に訪れた日本人は17世紀初頭、ローマで司祭になりながら日本に戻り殉教者となったペトロ岐部(きべ)との説もある。明治13(1880)年には伊東祐享(すけゆき)海軍中佐らも訪問したというが、一番有名なのは、志賀重昂である。徳川譜代の岡崎藩の出身だったために、官に志を得なかった志賀は札幌農学校を卒業後、英露関係の緊張激化を見て対馬の重要性を指摘、南太平洋への探検によって『南洋時事』を著し一躍地理学者として名をあげた。さらに、『日本風景論』で地理評論家、雑誌『日本人』で日本精神を鼓舞し経世家としての地位を確立した。
堂々とオマーン王宮へ
 彼は大正12(1923)年12月にインド、イラン、イラク、アラビア半島パレスチナ、欧米などに向かった際に、13年2月にオマーンに入った。わざわざ熱暑の中東各地に踏み入った彼の事績は『志賀重昂全集』に所収された「知られざる国々」から知ることができる。現オマーン大使の森元誠二氏が大使館ホームページに載せた好エッセーもこの記事に依拠しているようだ。
 志賀によれば、当時の人口は50万人、首都マスカットは奇観(きかん)たる断崖(だんがい)を隔てた土地を合わせても2万人ほどで、輸出品ナツメヤシの実、干し魚、フカひれ、塩、ザクロ、レモンにすぎなかった。今なら日本で冬場のスーパーに並ぶオマーン産の「いんげんまめ」も逸してはならない。いずれにせよ、産油国として活況を呈する今日とは隔世の感がある。
 1人当たりのGDPは2008年時に約1万9千ドルである。日本の約3万8千ドルや韓国の約1万9千ドルと比べると同国の豊かさがうかがえる。しかし志賀の時代には、銅貨以外に金銀貨はなく、英領インドの銀貨や白銅貨が流通していただけだ。インドの紙幣も割引せずに受け取ってくれたと志賀は語るが、ここにオマーンとインドとの経済的紐帯(ちゅうたい)が見られるという森元大使の指摘は正しいのである。
 幕末維新から明治を生き抜いた志賀の豪胆さは、海岸沿いの王宮を不意に訪れスルターンへの拝謁(はいえつ)を申し入れたことだ。寸毫(すんごう)も卑屈な点がないのは、武士のリアリズムや誇りがあったからである。志賀が「セイード・チムル・ビン・ファイサル」と呼んでいるスルターンは、サイード・タイムール・イブン・ファイサルのことだろう。不惑がらみの絵画の諸葛孔明のような「好丈夫」であり、頭上より「純白雪の如(ごと)きカシゥミル絹」をまとい、素足のまま悠然と西洋輸入のソファに腰かけていたと描写する。この印象的光景は森元大使も引用しているところだ。
 スルターンは志賀に向かって、日本がこの地で商売や産業を振興させ、相互の親睦(しんぼく)を図ればアラブの復興にもつながり、たがいに利益をあげられると懇篤(こんとく)に説いた。「何故に日本人は疾(と)くアラビスタンに来らざるや」と。
 ◆虚心坦懐に話し合う
 感激した志賀はスルターンに拝謁するまで、アラブ人を「獰猛(どうもう)」かつ「殺人的」だと思いこんでいたが、この君主が「殊に都雅(とが)なる」を知って外国人の陥りがちな偏見や誤解を反省している。
 幕末維新をくぐりぬけた武士が世界を旅行し虚心坦懐(きょしんたんかい)に王侯と平民を問わずアラブ人とも懇(ねんご)ろに付き合えたのは、統一国家日本への誇りと健全な愛国心があったればこそだ。小笠原諸島の南方マーカス島の領有問題が1898年に起こった時、その地を南鳥島と改称し東京府の管轄たらしめた功労者は志賀重昂である。竹島や尖閣諸島など領土問題でいつも毅然(きぜん)としたところのない戦後日本の政府や政党などは、冷静な学問的知見と愛国的使命感をバランスよく兼備した志賀に学ぶべき点が多い。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】志賀重昂
 しが・しげたか 文久3(1863)年、三河国(愛知県)岡崎生まれ。札幌農学校卒業後、教員生活をへて南洋諸国を歴訪して『南洋時事』を発表。三宅雪嶺(せつれい)らと雑誌『日本人』を創刊、国粋主義を訴えた。明治27(1894)年に刊行した『日本風景論』はベストセラーとなり、国会議員も務めた。昭和2(1927)年、63歳で死去。

075 武田耕雲斎


【幕末から学ぶ現在】(75)東大教授・山内昌之 武田耕雲斎    (1/3ページ)

2010.8.19 07:39
悲惨な最期を遂げた武田耕雲斎 (茨城県立歴史館蔵)悲惨な最期を遂げた武田耕雲斎 (茨城県立歴史館蔵)
 ■派閥抗争の悲劇とは
 9月の代表選挙を控えて民主党の内訌(ないこう)(内輪もめ)がはなはだしい。ひたすら権力を目指した派閥間の古典的な争いだった自民党の事例とも異なり、イデオロギーや路線をめぐる理論闘争の感もあった旧社会党の派閥争いとも違う独特な対立構造が民主党にはあるようだ。
 それは、自民党や社会党の議員だったベテラン政治家から市民運動や新左翼運動の活動家にいたる雑多な分子から成っているために、民主党には政治の筋や主義主張だけで結合しない“人間臭さ”や“いい加減さ”があることだ。分かりやすくいうと、あれこれの人間の好き嫌いで動く単純な面も民主党にあるのではないか。
 政治には人の好き嫌いがつきものである。しかし、他人への好悪の感情が強烈なイデオロギーと結びつくと、そこには政治のリアリズムが要求する妥協の芸術を排除する結果にもなりかねない。この面での幕末最大の悲劇は、水戸藩の内訌であり天狗(てんぐ)党をめぐる人間ドラマであろう。
  

理想主義テロリズム

 天狗党は、水戸を攘夷の魁(さきがけ)にせんとする理想主義と、目的のために手段を選ばぬテロリズムの両面をもっていた。この二面性は、藩執政でもあった武田耕雲斎にも表れている。
 水戸藩は貧しかったために、300石の食禄の耕雲斎でも若党(武士の従者)1人、下男1人、下女1人しか雇えず、来客があれば座卓の脚が1本折れて危ないために碁盤を入れて支えにしたという。人間は貧しいとどうしても観念的になりがちである。観念だけの世界から脱出するには、藩や志士も物心両面で豊かでないとダメなのだ。
 幕末の長州や薩摩にあって水戸に無かったのは、この豊かさなのである。水戸人も俗に認めるという「水戸の3ぽい」なる特性も貧しさと無縁でないだろう。「怒りっぽい、理屈っぽい、ひがみっぽい」という個性は、どちらかといえば余裕のある金持ちには遠い個性である。
 こういう“難治(なんじ)の地”で武田耕雲斎は精いっぱい努力したのではないか。主君の徳川斉昭(なりあき)が死ぬと派閥抗争の混乱の調整に当たった耕雲斎は、こと志に反して元治元(1864)年に藤田小四郎儒学者藤田東湖(とうこ)の四男)が起こした天狗党の乱を戒めながら、領袖に推されると断りきれなかった。
 作家、島崎藤村が『夜明け前』に馬籠(まごめ)の宿(岐阜県)を通る天狗党一行を描いたように、耕雲斎は800人の士を率いて中山道を進軍した。ついに敦賀(越前国新保)で力が尽き、幕府の追討軍に屈した。その悲劇は何重にもむごいものだ。天狗党は京都の徳川慶喜を頼って進んだのに、当の慶喜は反逆者として耕雲斎らの追討の先頭に立ったのである。
 徳川幕府の扱いは武士の情けと無縁の苛酷(かこく)きわまるものであり、鰊(にしん)倉に押し込められた天狗党の悲惨さは慶喜の卑劣さとともに永久に記憶されるだろう。斬首された耕雲斎は、妻と2人の子と3人の孫の斬殺とともに、処刑された天狗党352人の悲劇の象徴となった。
 首級を水戸にさらされた天狗党の怨念(おんねん)は、耕雲斎の孫、金次郎に受け継がれる。維新の結果、晴れて故郷に戻った金次郎は、仇敵(きゅうてき)の諸生党(水戸の保守派)に白昼堂々と天誅(てんちゅう)や朝敵と称し復讐(ふくしゅう)を繰り返す。尊攘運動の穏健派さえ容赦せずに暗殺しまくり、藩内を恐怖状態に陥れた。もはやそこにあるのは政治の信念ではなく、一途(いちず)な復讐の精神といったテロリストの本性でしかない。

大官からの零落

 天誅テロは明治2、3年になって一段落するが、血に汚れた金次郎らに新時代を担う資格があるはずもない。版籍奉還後に水戸藩の権大参事を務めながら、廃藩置県後に経済的に窮迫し、一説には伊香保温泉で晩年風呂番をしたと伝えられる零落ぶりであった。明治28(1895)年に48歳で病死したとき、その瞼(まぶた)には祖父、耕雲斎の雄姿が浮かんでいたのだろうか。それとも内訌で自壊した水戸人への愛惜と反省の念も湧(わ)いてもいたのだろうか。
 いずれにせよ、深刻な対立や分裂の危機を克服してこそ、大きな政治目的が達せられる点は現代でも変わりがない。水戸藩のように分裂で人材を枯渇させた事例がすぐに当てはまらないにせよ、政権を奪取した民主党の政治家に必要なのは、大局観に立ち大同団結する懐の深さを共有することであろう。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】武田耕雲斎
 たけだ・こううんさい 享和3(1803)年、水戸生まれ。9代藩主、徳川斉昭に仕えて家老職に上った。元治元(1864)年、筑波山で挙兵した藤田小四郎らに推され天狗党首領に。京都に向かって中山道を進軍するが、幕府軍の追討を受け、加賀藩に降伏。元治2(1865)年、越前敦賀で処刑された。享年63。

076 椋梨藤太

【幕末から学ぶ現在】(76)東大教授・山内昌之 椋梨藤太
2010.8.26 08:05
 ■政治の正義派と俗論派
 政治とは面白いものだ。小沢一郎氏と鳩山由紀夫氏は「政治とカネ」にまつわる疑惑でひとまず辞職したが、参院選挙後いくばくもなくして軽井沢に集まり気勢を上げた。民主党内では小沢氏を代表選挙に担ぎ出そうとする動きが高まる一方だというのだ。検察審査会に審議が付託された政治家を首相にする構図に、疑問を感じない一部民主党議員も相当に神経がずぶといのではないか。
 他方、国民世論は圧倒的に小沢氏の再登場に反対している。もし小沢氏が選挙に出るなら、菅直人首相や仙谷由人官房長官らの現体制執行部は、世論をバックに徹底抗戦を辞さないだろう。権力を握る側がむざむざと敵に城を明け渡す法は滅多(めった)にない。民主党内の権力闘争は相当に熾烈(しれつ)になるはずだ。さしずめ仙谷氏や閣僚の多数派らは、高杉晋作の命名法を借りて、自らを「正義派」、小沢氏支持者らを「俗論派」とでも定義したい気分であろう。
 ◆処分後に復帰、政敵粛清
 幕府との戦争という長州藩存亡の危機に際して、実際に政務座(藩庁)の権力を握ったのは高杉に俗論派と名付けられた椋梨藤太である。藤太は、鎌倉時代に家系が遡(さかのぼ)り小早川隆景(たかかげ)にも仕えた名家の出身であり、長井雅楽(うた)や中川宇右衛門(うえもん)らの流れを汲(く)む保守派の逸材として右筆(ゆうひつ)(政務役)を務めた。文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われた長州藩の失地回復を目指し俗論派を糾合したが、正義派の反発に遭(あ)って隠居処分を受けた。しかし幕府軍が長州国境に迫ると、政務役に復帰して禁門の変に関与した政敵を粛清したのである。
 もともと長州藩には村田清風(せいふう)に始まる改革急進派のラインと長井雅楽につながる保守穏健派の流れの対立抗争があった。藤太も周布政之助(すふ・まさのすけ)を終生のライバルとして争い、しまいには彼を自刃に追い込んだ。右筆となった藤太は、黒船来航の嘉永6(1853)年に罷免され、周布が政務役筆頭となる。翌年に吉田松陰の密航が未遂に終わり野山獄に収監されると、安政2(1855)年に周布は政務役を免ぜられ、代わって藤太が右筆に再任された。安政5(1858)年には周布が再び政務役に就くなど、長州藩の政権交代はめまぐるしい。それでも血の粛清はなかった。藤太に言わせるなら、粛清をもちこんだ責任は正義派にあるのだ。実際に、「航海遠略策」を唱えた長井雅楽や佐幕派の坪井九右衛門(くえもん)らは文久3年の馬関(ばかん)戦争の前後に処刑され、藤太も失脚の憂き目を見るからだ。
 しかし藤太らのカムバックを機に、長州藩では君命の形をとった処刑が相次いだ。禁門の変から幕長戦争の責任をとって3家老が切腹、4参謀が斬首されたのは陰惨であるが、これをすべて藤太の責任に帰するのは「正義派史観」の偏向というべきだろう。もし藤太らの俗論派が指導する藩政府軍が高杉晋作の率いる諸隊に長州最大の内戦、太田絵堂の戦いで勝利していたなら、歴史は「俗論派史観」で書き換えられていた可能性も高いのである。すると、奇兵隊などは浮浪の反秩序集団にすぎず、高杉や桂小五郎なども君命に背いた不義の士として青史から抹殺されていたのは確実なのだ。
 ◆すべての責めを負い斬首
 正義派との戦いに敗れた藤太は、桂小五郎の帰国によって藩論が再び倒幕に統一された結果、政治生命を失った。領外に脱走した彼は、津和野藩領内で捕まり萩にて斬首された。救いは、処刑された俗論派が藤太だけだったことだ。桂たちは血の粛清を繰り返せば水戸藩のようなアナーキーに陥ることを直感したのかもしれない。それにもまして、藤太がすべての責めを自分が負うと潔く罪をかぶったことも大きい。いずれにせよ、勝者の歴史観は、過去の事実を作り替え、史実を伝説や神話に化けさせる歪(ゆが)みをもつ。この危険性は幕末史の幕府や会津藩の役割を不当に否定する薩長史観に限るものではない。
 民主党の未来を大きく左右する今回の代表選に、起訴の可能性もある小沢氏が出るとすれば、それは日本の政党史で記憶される事象になるかもしれない。政治集団は自ら必ず正義と大義名分があると自讃(じさん)するものだ。しかし現代政治で「正義派」と「俗論派」を決めるのは世論である。その判定がいかに不条理に思えても、小沢氏ほどの政治家なら仮に「俗論派」のレッテルを貼(は)られても、藤太のようにすべてを肚(はら)に収めて責任だけをとる大道を歩んでほしいと願う有権者も多いのではないか。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】椋梨藤太
 むくなし・とうた 文化2(1805)年、長門(ながと)国(山口県)の萩生まれ。長州藩で、要職ともいうべき政務役の右筆を務めた。失脚、復権…を繰り返し、藩の内戦に敗れて脱走。慶応元(1865)年、萩の野山獄で処刑された。

077 松平春嶽

【幕末から学ぶ現在】(77)東大教授・山内昌之 松平春嶽  (1/3ページ)
2010.9.2 08:00

国立国会図書館蔵国立国会図書館蔵
 
地位に追いつかぬ能力
 民主党代表選をめぐる動きはすこぶる不可解だった。「政治とカネ」をめぐる問題で引責辞任した両首脳の1人が代表選出馬を表明したのも訝(いぶか)しいが、首相を辞めた政治家は次回総選挙に出るべきでないと高言した前首相が須臾(しゅゆ)のうちに変心し、調停者あるいは「正直な仲介者」を自負した姿を見ては唖然(あぜん)たらざるをえない。いかな民主党支持者であっても呆然(ぼうぜん)とすることだろう。
 政治や外交の世界では主観的な善意は傍(はた)迷惑になるだけでなく、国益を大いに毀損(きそん)することを示したのが鳩山由紀夫氏ではなかったのか。この教訓を学ばない民主党の議員たちは、まさか政治的不感症(アパシー)に陥っているわけでもあるまい。民主党代表選をめぐる混沌(こんとん)のなかで、氏の感性や振る舞いにうんざりした市民有権者の間に、政治への不信感や絶望が瀰漫(びまん)しないように願うのみである。
 ◆欠点は世論に媚びる傾向
 ピーターの法則というのがある。藩主や議員くらいであれば何とか務まる人物でも、分不相応に老中や大臣になると馬脚を現し挫折や破局に導かれるように、能力の限界を超える場合に使われる術語だ。幕末でいえば、ピーターの法則にあてはまる代表例は、松平春嶽(しゅんがく)であろう。
 『幕末政治家』を書いた福地桜痴(ふくち・おうち)は春嶽を指して、藩主であれば「良主」か「英主」かもしれないが、一国を動かす政治家としては格別に称賛できる価値を見いだせないと言い切っている。春嶽の欠点は、あまりにも世論に媚(こ)びる傾向があったことだ。老中として外交上の功績の高かった安藤信正を罰して封を削減したのは、井伊直弼(なおすけ)の息がかかった者たちを処分して大向こうを唸(うな)らせたかったからだ。
 また春嶽は、徳島藩主の蜂須賀斉裕(はちすか・なりひろ)を陸軍総裁、佐賀藩の鍋島閑叟(なべしま・かんそう)を将軍文武修業の相談役に当てるなど意外な人事を試みたが、いずれも人気取りで、実なく泡のように消えてしまった。「畢竟(ひっきょう)世間の風潮に漂えるまでの処置にて、一としてその実に適せるものを見ざるなり」という旧幕臣の桜痴の言は、テレビ受けばかりを狙ういまの政治家にも戒めとなるだろう。
 春嶽のもう一つの欠点は、優柔不断であり政敵との正面対決を嫌ったことである。生麦事件が起きたとき、島津家に下手人を出させ武士の名誉をもって処分すればよかったのに、薩摩藩を恐れたせいか島津久光の行列を譴責(けんせき)もせずに出発させた。これは政事総裁職だった春嶽の責任である。この傍観こそ幕威を下げ、薩英戦争を引き起こす原因となり、賠償金支払いという重い負担を徳川幕府に強いたのである。
 幕府にとって最悪だったのは、春嶽が参勤交代の制を緩め、大名妻子の帰国を許した点である。幕府の力が強い時ならいざしらず、その命脈が弱まっているのに、むざむざと反幕諸侯の機嫌をとる政策を英断とはいわない。この措置は、もともと外国の脅威に対する国防強化の見地から判断されたが、外様大名を中心にますます幕威を軽んじる風潮をつくった点で春嶽の責任は軽くない。
 ◆貴種ゆえの臆病さ
 そのうえ春嶽にも、徳川慶喜(よしのぶ)のように、他人に大きな仕事を委ねながら不利と見るや一目散に逃げる貴種の臆病さもあった。会津藩主、松平容保(かたもり)に京都守護職の重責を負わせながら、最後には彼を見捨ててしまう。一越前藩主なら大目に見られる振る舞いでも、幕府の中心や朝廷の周辺で活躍する政治家として許されない所業もある。
 桜痴も語るように、春嶽の改革は所詮(しょせん)、「幕府の実権実力なきを天下に示したるに終(おわ)りたり」という成果しかなかったのではないか。それにしても、幕末の徳川宗家はまことに不幸なことに、一門一族の力で滅亡への道を加速させられたといえなくもない。ことに徳川斉昭(なりあき)・慶喜父子とともに、松平春嶽もその責めの一端を負わなくてはならない。
 それでも春嶽に幸いだったのは、橋本左内(さない)や横井小楠(しょうなん)といった謀臣がいた分、彼の改革や周旋に虚実取り混ぜ幻想も付加され、ピーターの法則も減殺されたことだ。他方、橋本や横井もおらずに“周旋”に熱を上げた鳩山氏の振る舞いは、永田町でなら格別に不思議でないのだろうか。このあたりも民主党の政治体質に興味の尽きない所以(ゆえん)なのである。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】松平春嶽 
 まつだいら・しゅんがく 文政11(1828)年生まれ。名は慶永(よしなが)。父は徳川三卿田安家3代、斉匡(なりまさ)。越前福井藩主、松平斉善(なりさわ)の養子となり、第16代藩主に。横井小楠、橋本左内らを登用し藩政改革を推進。安政の大獄での謹慎処分をへて政事総裁職に就任し、幕政改革にあたる。維新後、民部卿、大蔵卿などを歴任。明治23(1890)年、61歳で死去。

078 小沢氏と西郷隆盛の違い

【幕末から学ぶ現在(いま)】(78)小沢氏と西郷隆盛の違い 東大教授・山内昌之 (1/3ページ)
2010.9.9 07:39
このニュースのトピックス:小沢一郎

明治維新の原動力となった西郷隆盛(国立国会図書館蔵)イタリア人版画家、エドアルド・キヨソーネが描いた西郷隆盛肖像画(鹿児島県立図書館提供)
 ■敬天愛人の政治
 民主党内には代表選を西南戦争に擬(なぞら)える雰囲気があるらしい。実際に9月1日夜、菅直人首相は支持者の会合で「明治維新に西郷隆盛の力は必要だったが、西南戦争があって本格的な明治政府ができた」(産経新聞9月2日朝刊)と語っている。代表選は明治10年の西南戦争に相当し、小沢一郎氏の政治生命を絶ついくさになるというわけだ。
 それにしても、「菅軍」なる音を官軍にかけるのは上品なたとえとはいえない。しかし小沢氏の政敵たちは、維新つまり政権交代の功労者、小沢氏の行く末を西郷の運命に重ねたかったのだろう。
 確かに小沢氏自身も、5日のテレビ番組で「情的に好きな」人物として西郷を挙げ、その理由として「いかにも日本人的だから」(読売新聞9月6日朝刊)と答えている。
  
すべてを始動させる原動力
 西郷隆盛は、無教会派キリスト者の内村鑑三でさえ日本史でいちばん偉大な人物と讃(たた)えたほどの人物である。維新後の西郷は経済改革について無能だったかもしれず、内政についても木戸孝允(たかよし)や大久保利通(としみち)の方が精通していたに相違ない。また、国家の平和的安定をはかる点では、公家の三条実美(さねとみ)や岩倉具視(ともみ)でさえ西郷よりも有能だったかもしれない。
 内村も語るように、新たな明治国家はこの人びとの全員がいなくては、実現できなかったともいえる。
 しかし、西郷がいなければ、“明治革命”そのものが不可能だったであろう。木戸や三条を欠いたとしても、革命は上首尾ではないにせよ、たぶん実現を見ていたという内村の見方は正しい。
 「必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、『天』の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました」(内村鑑三著『代表的日本人』)。この内村の指摘をまつまでもなく、一度動き始め進路さえ決まれば、あとは比較的簡単に処理できるのも政治運動のメカニズムなのである。その多くは、西郷より器量が劣る人間でも自動的にできる仕事だという指摘も基本的に正しい。
  
犠牲最小、効果大の革命
 江戸城の無血開城をクライマックスとする明治維新は、犠牲者の少ない歴史上いちばん「安価な革命」であったが、これを効果的に実現したのが西郷にほかならない。実際に、西郷の偉大さは、犠牲者を最小にしながら効果の大きい革命を実現した点にあるといってもよい。
 現代の政治家たちが西郷を尊敬し好きだと公言するのはまだよいだろう。それは格別に自分を美化し顕示するわけでもないからだ。また、自らの経綸(けいりん)を西郷に重ねてアナロジー(類推)にするほどの自信家がいるとも思われない。他方、たとえ政敵批判のためであっても、小沢氏を西郷に擬えるアナロジーにも慎重でなくてはならない。
 何よりも西郷には「敬天愛人」のような聖者や哲人めいた政治思想があった。天はすべての人を同一に愛するがゆえに、われわれも自分を愛するように人を愛さなければならない。こうした敬天愛人の思想、あるいはそれに匹敵する政治理念をもつ哲学的政治家が果たして現在いるのだろうか。
  
命もいらず、名もいらず
 西郷には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」(『西郷南洲遺訓』)という有名な言葉がある。こういう人物でないと、悩みや苦しみを共にしながら国家の大業を果たすことはできないというのだ。
 ひょっとして、小沢氏の周辺に集(つど)う議員のなかには、苟安(こうあん)(目先の安楽をむさぼること)を謀らない人がいるのかもしれない。しかし、当の小沢氏は果たして「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」といえるのだろうか。異論のある有権者も多いに違いない。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】西郷隆盛
 さいごう・たかもり 文政10(1828)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)に取り立てられる。斉彬の死後、島津久光と折り合わず流罪に。禁門の変の後、大久保利通らとともに討幕運動の中心となり、薩長連合や王政復古を成し遂げ、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた。新政府で陸軍大将・参議を務めるが、征韓論政変で下野。明治10(1877)年、私学校生徒に擁され挙兵する(西南戦争)が、政府軍に敗北し、城山(鹿児島市)で自刃した。49歳だった。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(79)東大教授・山内昌之 西郷隆盛(中) (1/3ページ)
2010.9.16 08:07

東京・上野公園に建てられている西郷隆盛像(高村光雲作)
手段よりも人物こそが宝
 民主党代表選は、円高株安や尖閣諸島海域への中国漁船の不法侵入など内外情勢多難な折に行われたが、菅直人首相の選出でひとまず決着した。ともかく、この選挙は菅首相と小沢一郎氏にとり、それぞれの思惑で奇貨(きか)居(お)くべしと、つかみとった「機会」への挑戦であった。
 菅首相は当初から追求してきたクリーンな政治確立につながる好機と考え、小沢氏は自民党幹事長を経験して以来掲げた官僚統治構造の改変を実現する「天命」の到来と理解したのである。2人の建前は美麗すぎるにしても、両者ともに今回を遇機(機会にあう)逸すべからずと鎬(しのぎ)を削った点は事実であろう。
 その意味では、政治家らしい緊迫した対決であり、天与の機会を避けずに争っただけに、今後の民主党は分裂含みの対立がますますあらわになるはずだ。
 ◆2種類の機会
 ところで、「天命」といえば、「天」と、その理と、その機会を信じた西郷隆盛をすぐに思いだす。西郷は政治家として機会をとらえる重要性を強調していた。
 「事の上にて、機会といふべきもの二つあり。僥倖(ぎょうこう)の機会あり、又(また)設け起す機会あり。大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨(のぞん)では是非機会は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、気を付くべき所なり」(岩波文庫『西郷南洲遺訓』所収「南洲答」六)
 西郷の言いたかったのは、機会に2種類あるということである。求めずに偶然に幸運が訪れる機会。或(あ)る目的のために人為的に作り出す機会。立派な男子たる者は、偶然の幸運を頼んではならないのだ。大事なときには、何としても機会を作り出さなければならない。歴史上の英雄が果たした事績を見なくてはならない。人為的に作り出した機会は、後世から見ると偶然の幸運のようにも見えるが、そうでないことに注意を払うべきだと西郷はいうのだ。
 ◆制度の論議は第一ではない
 今回の民主党代表選は、偶然の機会でなく、時勢に応じ理にかなった人びとが行動することで訪れた真の機会と符合したといえるのかもしれない。しかし西郷のような見方からすれば、代表選の勝敗そのものが目的であるはずもない。
 政治家は、制度をいくら変えいじくっても政治を動かすことにはならない。官僚統治構造の打破を謳(うた)い政治主導を賛美するなら、政治家は官僚に勝る知恵と政策力を身につけなくてはならない。これはすでに西郷が強調していた点でもあった。
 「何程制度方法を論ずる共、其人に非(あら)ざれば行はれ難し。人有て後方法の行はるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其人に成るの心懸(こころが)け肝要なり」(同『西郷南洲遺訓』所収「遺訓」二〇)
 どれほど政治の制度や手法のことを論じようとも、それを動かす能力をもつ人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段手法のはたらきという順番になるので、人物こそ第一番目の宝物であり、我々(われわれ)はみな人物になるよう心がけることが重要である、と。
 こうした観点から今回の民主党代表選を眺めると、ほとんど別個の政党に属するかのように主張も見紛(みまが)う2人の間で戦われた印象が強い。代表選が終わっても、曖昧(あいまい)な妥協や馴(な)れ合いで形式だけの挙党一致をはかるのがよいのか、それとも将来の福祉社会の安定化を睨(にら)んだ消費税問題や外交安全保障政策を基準とした政界再編成がよいのか。今回の代表選の余燼(よじん)はまだくすぶるだろう。
 ◆互いに探り合う妙手
 〈敵を苦しめ 味方を愛することこそ人たるものの生き方である〉
 14世紀のイスラームの統治論、イブン・アッティクタカーの『アルファフリー』(平凡社東洋文庫)に見える詩である。西郷は大義の前に友人の大久保利通(としみち)と訣別(けつべつ)し、高杉晋作は寡勢(かぜい)をものともせず決起し俗論派の椋梨藤太(むくなし・とうた)らを失脚に追いこんだ。
 この2人を尊敬する小沢氏と菅首相が打つ次の一手は何であろう。或(ある)いは何事もなかったかのように、挙党一致を演出する可能性もなくはない。確かにイブン・アッティクタカーも「罪を許し、過失をよく許すのも王者に望まれる性質のひとつである」と述べたものだ。碁敵(ごがたき)でもあった2人に妙手はあるのだろうか。興味の尽きないところである。(やまうち まさゆき)


【幕末から学ぶ現在(いま)】(80)東大教授・山内昌之 西郷隆盛(下)  (1/3ページ)
2010.9.23 08:46

イタリア人版画家、エドアルド・キヨソーネが描いた西郷隆盛肖像画(鹿児島県立図書館提供)
「正義」「正道」信じ生きた
  
 菅直人首相を支える新たな顔ぶれはまことに味わい深い。留任した仙谷由人官房長官に加え、新任の岡田克也民主党幹事長と前原誠司外相は、“小沢一郎何するものぞ”という気概に溢(あふ)れた政治家たちである。この3人が時に揺れ動いた菅首相を叱咤(しった)激励しなければ、小沢陣営の気迫に菅陣営はたじろぎ苦杯を嘗(な)めていたかもしれなかった。
 このトリオで、民主党代表選のさなかに尖閣諸島沖を侵犯した中国漁船による海上保安庁巡視船への不法行為を原理と原則に基づいて処理してもらいたい。もし鳩山由紀夫前首相と小沢一郎元幹事長のコンビであれば、法律に照らして正当な中国人船長の逮捕や起訴に踏み切るか否か、疑問も残ったのである。
 ◆主権や国威を忘れず
 「友愛の海」で中国の勝手な跳梁(ちょうりょう)を許し抗議もしなかった鳩山氏や、多数の民主党議員を嬉々(きき)と胡錦濤国家主席との記念写真に応じさせた小沢氏と異なり、菅新政権の核の3人には、どの国が相手であろうと日本の主権と国民の安全を犯す行為に厳しく対処することを内外に闡明(せんめい)してもらいたいものだ。ここでも西郷隆盛の言葉を思い出さざるをえない。
 「正道を踏み国を以(もっ)て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全(まった)かる可(べ)からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却(かえっ)て破れ、終に彼の制を受るに至らん」(岩波文庫『西郷南洲遺訓』一七)
 西郷隆盛の遺(のこ)した文章のなかでも、この言葉ほど日本の外交環境を憂える者に勇気を与える表現はない。西郷の言葉は、国土交通相だった前原氏も高く評価した海上保安官たちの毅然(きぜん)とした対応や司法当局の自律性とさながら重なるかのようであり、日本人の耳朶(じだ)を打ってやまない。現代語に訳しても、西郷発言の格調の高さは変わらない。
 正義のために正道を歩み、国家と一緒に倒れてもよい精神がなければ、外国との交際は満足にできない。その強大さに畏(かしこ)まって小さくなり、揉(も)めずに形だけすらすらと進めばよいと考えるあまり、主権や国威を忘れてみじめにも外国の意に従うならば、ただちに外国からあなどりを招く。その結果、かえって友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国による命令を受けることになる。
 小沢氏が好きな人物として西郷を挙げるのは心強い限りだが、西郷からは外国に対する毅然とした精神と姿勢も学んでほしいものだ。鳩山・小沢コンビにはアメリカにはことさら厳しく、中国には訳もなく甘いところがあった。ことに鳩山前首相は、その在任中に中国海軍が沖縄近辺海域を何度も示威航行し、日本の排他的経済水域で挑発行為を繰り返しても、抗議もせず不快感を表明するでもなかった。今度の事案でも自分の首相在任中には日中関係が良くなっていたと呑気(のんき)なことを語っている。
 鳩山氏の姿勢は、「彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する」典型と言われても仕方がない。氏に「正道を踏み国を以て斃るるの精神」がないのを今更あげつらうつもりもない。しかし、アメリカから自立するポーズをどれほど取ろうとも、国益を毀損(きそん)し中国の「制を受るに至らん」危険を生むなら、何のための自主自立外交なのかという疑念が湧(わ)かないのだろうか。
 対米外交で失敗した氏は対露外交で復権を狙っているという観測もある。しかし首相を退いた氏の最優先事項は、米軍普天間問題解決の下支えのために粘り強く働き、県民の素意と日米同盟の重要性を両立させる方策を探り名誉挽回(ばんかい)に努めることではないのか。氏の姿勢ではアメリカや中国に加えて、ロシアからも「軽侮」を招くことは必至であろう。
 西郷は、「正義」や「正道」を人間の守るべき大事な価値と信じて生き抜いた。彼は、この2つを国際関係でも実現されるべき要素と確信していたからだ。この信念のためなら、自分の命も天にささげる覚悟をもっていたがために、その発言に気迫がみなぎっていたのである。ここにこそ現代の政治家と国民が西郷に学ぶべき点があるといえよう。(やまうち まさゆき)